董卓の波瀾万丈の生涯を、時系列に沿って年表形式で簡潔にまとめています。最終章の関連リンクから、詳細を確認することもできます。
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はじめに
参考文献
この「董卓関連年表」は、主に次の史料を元に作成しています。
- 『後漢書』董卓伝
- 『魏書』董卓伝
- 『後漢書』袁紹伝
- 『魏書』袁紹伝
- 『資治通鑑』
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ルール
先頭についているマーク
- 「・」:董卓が主体となって行った出来事。(主語を省略しています)
- 「●」:董卓と関係が深い出来事。
- 「★」:時期は明記されていないが、推測で時期を特定した出来事。
時系列の表記
たとえば、史料に2月の出来事としていくつかの記述があり、次に4月の記述が続く場合、2月の記述の中に3月の出来事が含まれている可能性がありますが、すべて2月の出来事に含めます。
また、明確な時期が記述されていない場合でも、前後の出来事から時期が推測できる場合は、「★」マークをつけて推測で時期を当てはめています。
その他明確な時期が不明の場合は、その年の最期にまとめて記述します。
史料によって時期が異なる場合
史料によって出来事の時期が異なる場合は、より合理性が高いと思われる時系列に記述し、出典をつけます。
例:【『魏書』董卓伝 注『霊帝紀』】(『後漢書』董卓伝では189年2月)
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董卓関連年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
不明 |
・董卓、豫州・潁川郡・綸氏県で生まれる。(本籍は涼州・隴西郡・臨洮県) ・羌族の顔役たちと親交を結ぶ。 ・隴西郡で農耕生活を送る。 ・耕牛を殺して羌族の顔役たちをもてなす。 ・羌族の顔役たちから1,000頭あまりの家畜を送られる。 ・郡に召し出されて役人となり、盗賊を取り締まる。 ・涼州刺史・成就に従事として従軍し、胡を討伐する。 ・幷州刺史・段熲の推薦を受け、司徒の掾(属官)に取り立てられる。 |
166年 |
■ 延熹9年 ・羽林郎に選ばれる。 ・使匈奴中郎将・張奐の幷州討伐に軍司馬として従軍し、手柄を立てる。 ・郎中に任命される。 ・褒美の絹9,000匹を部下に分け与える。 |
不明 |
・幷州・雁門郡・広武県の県令に任命される。 ・蜀郡北部都尉に任命される。 ・西域戊己校尉に任命される。 ・事に坐して罷免される。 ・幷州刺史に任命される。 ・河東太守に任命される。 |
184年 |
■ 光和7年3月 ● 太平道が蜂起する。(黄巾の乱) ・宦官を弾劾する上奏文を奉る。 ■ 6月 ・東中郎将に任命され、盧植の後任として下曲陽で張角と戦う。 ・張角に敗れた罪を問われて罷免される。 ■ 11月 ● 黄巾の乱が鎮圧される。 ■ 冬 ● 涼州で先零羌と湟中義従胡が反乱を起こす。 ■ 中平元年 |
185年 |
■ 中平2年3月 ● 辺章と韓遂が「宦官誅殺」を掲げて三輔地方に侵攻する。(辺章・韓遂の乱) ・中郎将に任命され、左車騎将軍・皇甫嵩の副将として討伐にあたる。 ■ 7月 ● 張譲、趙忠らの讒言によって皇甫嵩が罷免される。 ■ 8月 ● 司空の張温が車騎将軍に任命され、執金吾の袁滂を副将として討伐にあたる。 ・破虜将軍に任命され、盪寇将軍・周慎と共に張温の指揮下に入る。 ・張温の前で無礼な態度を取り、孫堅が張温に董卓の処刑を耳打ちする。 ● 張温は10万の兵を司隷・右扶風・美陽県に駐屯させて戦うも戦況は不利となる。 ■ 11月 ● 火のような流星を不吉と考えた辺章・韓遂らが涼州・金城郡・金城県に撤退する。 ・右扶風の鮑鴻らと共に敵を追撃して勝利を得る。 ● 辺章・韓遂らが涼州・金城郡・楡中県に逃亡する。 ● 辺章・韓遂らが籠もる楡中県を攻撃した周慎が、孫堅の進言に従わず敗れる。 ・張温の命令により3万の兵で先零羌を攻めるが、涼州・漢陽郡・望垣県(望恒県)の北で敵軍に包囲される。 ・機略によって損害を出さずに右扶風に撤退し、斄郷侯に封ぜられる。 |
186年 |
■ 中平3年春 ● 張温が太尉に任命される。 ■ 冬 ● 張温が洛陽に呼び戻される。 |
188年 |
■ 中平5年11月 ● 王国が合衆將軍を自称して、辺章、韓遂、馬騰らと司隷・右扶風・陳倉県を包囲する。 ・前将軍に任命され、左将軍・皇甫嵩と共に陳倉県の救援に向かう。 ・皇甫嵩と意見が対立する。 ・少府に任命され、軍官と兵士を皇甫嵩に預けて洛陽に出頭するように命令を受けるが、これを断る。 |
189年 |
■ 中平6年2月 ・またも皇甫嵩と意見が対立し、皇甫嵩が単独で敵を撃破する。皇甫嵩を恨む。 ● 霊帝が病に臥せる。 ・幷州牧に任命され、再度皇甫嵩に兵を預けて任官するように命令を受けるが、軍勢を率いたまま河東郡に駐屯し、事態を見守る。 ■ 4月 ● 霊帝が崩御する。 ■ 光熹元年5月 ● 少帝が即位する。 ・大将軍・何進から召集を受ける。 ■ 8月 ● 何進が殺害され、司隸校尉・袁紹、虎賁中郎将・袁術らが宮中に突入し、宦官を誅殺する。 ● 何苗が殺害される。 ● 中常侍・段珪らが、少帝と陳留王を連れて小平津に逃亡する。 ・北芒山で少帝と陳留王を保護し、洛陽に入る。 ・何進と何苗の兵を取り込む。 ■ 昭寧元年8月 ・呂布を調略し、丁原を殺害させてその兵を取り込む。 ・呂布と父子の契りを結ぶ。 ・司空の劉弘を罷免して、自ら司空に就任する。 ・蔡邕を無理矢理招聘して信任する。 ■ 9月 ・袁紹に天子の廃立を相談する。 ・洛陽から逃亡した袁紹を勃海太守に任命する。 ・百官を集めて天子を廃立することを提案する。 ・天子の廃立に反対した盧植を罷免する。 ・少帝を廃位して弘農王に封じ、陳留王(献帝)を天子に即位させる。 ■ 永漢元年9月 ・何太后に鴆毒を勧めて殺害する。 ・曹操を驍騎校尉に任命する。 ● 曹操が洛陽から逃亡する。 ・太尉に就任し、兵権の証しである鈇鉞(斧鉞)と虎賁兵を得る。 ・元太傅の陳蕃、元大将軍の竇武らを祀る。 ・互いに張り合って財物を貯め込んでいた洛陽の貴族の邸宅を襲い、財宝や婦女を略奪・姦淫させる。 ★ 名士として名高い尚書の周毖、城門校尉の伍瓊、議郎の何顒、尚書の鄭泰らを信任し、彼らが薦める韓馥、劉岱、孔伷、張邈、張咨を地方官に任命する。 ★ 能力がなかったり不正を働いている人物を糾弾する。 ★「党錮の禁」を受けた荀爽、陳紀、韓融、申屠蟠らを招聘する。 ・楊彪を司空に、黄琬を司徒に任命する。 ■ 10月 ・何太后の葬儀を行う。 ★ 何苗の棺をあばいて亡骸を解体し、道ばたに投げ棄てる。 ★ 何苗の母・舞陽君を殺害し、死体を御苑の生垣の中に投げ棄てる。 ・白波賊が河東郡に侵攻したため、牛輔を派遣して鎮圧する。 ■ 11月 ・自ら相国に就任して郿侯に封ぜられる。 ・剣履上殿、入朝不趨、謁讚不名の特権を許される。 ・母を池陽君に封じる。 ■ 12月 ・黄琬を太尉に、楊彪を司徒に、荀爽を司空に任命する。 ・扶風都尉を廃止して、漢安都護を設置する。 ・光熹、昭寧、永漢の年号を廃止・統一して、この年を中平6年とする。 ● 曹操が兗州・陳留郡・己吾県で旗揚げする。 ■ 不明 ・賓客に対し、「わしの人相はこの上なく尊貴なものだ」と言う。 ・董卓の前で剣を帯びたままだった侍御史・擾龍宗を撲殺する。 ● 伍孚が董卓の暗殺に失敗する。 ● 袁術が洛陽を脱出する。 |
190年 |
■ 初平元年1月 ● 山東の州郡が袁紹を盟主として反董卓連合を結成し、董卓討伐の兵を起こす。 ・弘農王(少帝)を殺害する。 ■ 2月 ・春祭りに参加していた豫州・潁川郡・陽城県の領民を襲い、賊を討ったと宣伝する。 ・百官を集めて長安に遷都することを提案する。 ・城門校尉・伍瓊、督軍校尉・周毖を殺害する。 ・趙謙を太尉に、王允を司徒に任命する。 ・洛陽の宮殿、祖廟、民家をことごとく焼き払う。 ・呂布に命じて歴代皇帝の陵墓を暴いて宝物を奪う。 ・長安に遷都する。 ・自らは洛陽郊外の畢圭苑に駐屯する。 ■ 3月 ・太傅・袁隗、太僕・袁基を殺害し、その一族を処刑する。 ・皇甫嵩を洛陽に呼び寄せて殺害しようとするが、命乞いを受けて中止する。 ・徐栄を派遣して汴水に侵攻した曹操を撃ち破る。 ■ 6月 ・董卓が反董卓連合の諸侯への和睦の使者を派遣する。 ・五銖銭をつぶし、洛陽と長安の銅像類を溶かして粗悪な貨幣を鋳造する。 ■ 冬 ・偵察隊が荊州・南陽郡・魯陽県の東で宴会を開いていた孫堅と遭遇するが、戦わずに兵を引く。 ・河陽津に駐屯した河内太守・王匡を陽動作戦によって撃ち破る。 |
191年 |
■ 初平2年2月 ・自ら太師に就任する。 ・徐栄を派遣して司隷・河南尹・梁県に侵攻した孫堅を破る。 ・生け捕りにした李旻と張安を鼎で煮殺す。 ・梁県・陽人聚に逃走した孫堅に胡軫を派遣する。 ・呂布の偽報により胡軫が敗北し、華雄が討たれる。 ・李傕を使者として孫堅に和睦を申し入れるが、断られる。 ・自ら軍を率いて大谷関に侵攻した孫堅と戦い敗れる。 ・洛陽を守る呂布が孫堅に敗れる。 ■ 4月 ・長安に入る。 ・自ら尚父を号し、天子が乗る馬車で移動するが、蔡邕の進言によって改める。 ・弟・董旻、兄の子・董璜をはじめ、一族の男子はみな封侯し、女子はみな邑君に封じる。 ・皇甫嵩と和解する。 ・司隷・右扶風・郿県(郿塢)の城壁を高くし、30年分の穀物と没収した金、銀、布帛を山のように備蓄する。 ・宴会の席で北地郡の謀反人数百人に拷問を加え処刑する。 ■ 10月 ・張温を笞で打ち殺す。 ・司隸校尉・劉囂に官吏・民衆を調査させ、違反した者を処刑し、財産を没収する。 ● 愛憎による刑罰が氾濫し、冤罪で死ぬ者が千人を数える。 ● 朱儁が(董卓が任命した)河内尹・楊懿を攻め、司隷・河内尹・中牟県で挙兵して「董卓討伐」を呼びかける。 |
192年 |
■ 初平3年1月 ・牛輔・李傕・郭汜・張済を派遣して朱儁を撃ち破る。 ・李傕らが兗州・陳留郡、豫州・潁川郡の諸県に侵出して略奪暴行を行う。 ■ 春 ● 司徒・王允が僕射・士孫瑞、尚書・楊瓚と「董卓誅殺」の密談をする。 ・王允が呂布を仲間に引き入れる。 ■ 4月 ● 未央殿で献帝の病気平癒を祝う宴会が開かれる。 ・宴会に参加した董卓が呂布に殺害される。 |
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