『三国志演義』では漢の忠臣として登場する馬騰とその義兄弟・韓遂ですが、正史ではたびたび反乱を起こしています。
黄巾の乱の影に隠れて語られることが少ない「辺章・韓遂の乱」をご紹介します。
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目次
涼州の反乱
羌族の反乱
184年冬、黄巾の乱が終息に向かおうとしている頃、涼州・北地郡の先零羌(羌族の1部族)と湟中義従胡*1の北宮伯玉と李文侯が、枹罕県・河関県の盗賊・宋建と王国と共に反乱を起こし、護羌校尉*2の伶徴を殺してしまいます。
反乱鎮圧にあたるべき涼州刺史・左昌は、徴発した軍費を着服してまともに動かず、これを諫めた漢陽郡長史・蓋勲を最前線の阿陽県に派遣して反乱軍を迎え撃たせました。
これは、煩わしい蓋勲が戦いで死ぬも良し、敗北して罰するも良しと言う左昌の思惑によるものですが、蓋勲は善戦します。
一方、宋建と王国は金城郡へと駒を進めます。蓋勲は金城郡を救援するように進言しますが、左昌は聞き入れません。
反乱軍はそのまま金城県に向かうと、涼州で名声が高い辺允と韓約を人質に取って金城太守の陳懿を誘い出し、殺してしまいました。
反乱軍の進行経路
脚注
*1 漢に従っていた湟中(こうちゅう)の胡(こ)、月氏(げっし)。羌族(きょうぞく)とはまた別の民族。
*2 この頃、涼州(りょうしゅう)には羌族(きょうぞく)や氐族(ていぞく)といった異民族が漢民族と共存し、度々反乱を起こしていました。そのため羌族(きょうぞく)を警戒するために護羌校尉(ごきょうこうい)という官職が置かれていました。
辺允・韓約、賞金首となる
金城県を落とした反乱軍は人質にしていた辺允と韓約を開放すると、なんと2人を大将として推戴し、そのまま軍政を任せました。
家族を人質に取られて脅されたのか、民衆を略奪から守るために引き受けたのか、はたまた喜んで反乱に加わったのか、この時の2人の気持ちは分かりません。
ですが、隣の隴西郡では辺允と韓約が反乱軍に加わったとみなされ、2人にそれぞれ千戸侯の懸賞がかけられました。ちなみに千戸侯には、1,000戸(家数)から徴収される租税を得る権利が与えられます。
これを受けて、辺允は辺章、韓約は韓遂と名を改め、本格的に朝廷に反旗を翻すことになります。
涼州の迷走
蓋勲、左昌を救う
辺章たちは周辺の郡県を焼き払い、さらに涼州刺史・左昌のいる冀県に侵攻します。これに驚いた左昌は阿陽県の蓋勲に救援を命じました。
左昌に不満を募らせていた従事の辛曾・孔常らはこの救援に反対しますが、蓋勲は彼らを一喝して左昌の救援に駆けつけると、反乱軍を叱責しました。
蓋勲の叱責に対し辺章たちは、
「左昌がはじめからあなたの言うことを聞いていたら、我々も悔い改めていたかもしれません。ですが、我々の犯した罪は重く、今となっては降服することはできません」
と言い、包囲を解いて引き上げていきました。
涼州刺史の人材難
命拾いをした左昌ですが、軍費を着服していたことが発覚して涼州刺史を罷免されてしまいます。
左昌の後任として涼州刺史となった宋梟は、
「涼州で反乱が多いのは学問が浸透していないからである」
として『孝経』の写本を普及させ、民衆に忠義の心を学ばせようとしました。
これに対して蓋勲は、
「歴史を見れば、学問が盛んだった斉でも魯でも反乱は起こっています。反乱の鎮圧を優先させるべき今、そのようなことをするのは意味がないだけでなく、朝廷からも何をしているのだと笑われてしまうでしょう」
と諫めました。
よほど名案だと思っていたのか、蓋勲の諫言を聞き入れずにこの政策を実施したところ、朝廷から「無能怠慢である」として宋梟は罷免されてしまいました。
また、次に涼州刺史に任命された楊雍は、蓋勲を漢陽太守としたことが記されているのみで、涼州刺史の職は耿鄙に引き継がれます。
短期間に人事が迷走する中で、涼州の反乱はますます激化していくことになりました。
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辺章・韓遂の乱
朝廷が鎮圧に乗り出す
185年3月、辺章と韓遂は反乱軍をまとめあげ、「宦官誅殺」を大義に掲げて三輔地方(右扶風・左馮翊・京兆尹の3郡)に侵攻します。
これに対し朝廷は、左車騎将軍・皇甫嵩を長安に駐屯させ、黄巾の乱で失態を演じた董卓を中郎将に再任して鎮圧にあたりました。
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ですが皇甫嵩は7月になっても戦果をあげることができず、これより前に趙忠の不正を批判し、張譲の賄賂の要求を拒んでいたこともあり、戦果がないことを理由に罷免されてしまいます。
皇甫嵩が抜けた影響は大きく、辺章・韓遂たち反乱軍はますます勢いづいてしまいました。
韓遂(当時韓約)は、洛陽で大将軍・何進に謁見した際、「宦官を誅殺すべし」と進言したことがあります。
討伐軍の再編
同年8月、朝廷は皇甫嵩に代えて司空の張温を車騎将軍に任命し、執金吾の袁滂を副将として討伐にあたらせました。董卓は張温の指揮下に入ることになります。
また、この時に張温が抜擢した人物には、後に群雄の1人となる孫堅や陶謙、公孫瓚たちがいました。(公孫瓚は「張純の乱」の討伐に任命されたため不参加)
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張温は董卓を破虜将軍に任じ、盪寇将軍・周慎と共に歩騎10万余りの軍勢を率いて美陽県に駐屯させ、歴代皇帝のお墓である園陵を守らせます。
これに対し、辺章・韓遂も美陽県に駒を進め、官軍を打ち破りました。
美陽県周辺地図
この反乱軍による三輔地方侵攻には、北宮伯玉を大将としている史料もあります。
どちらにせよ、辺章・韓遂・北宮伯玉・李文侯・宋建・王国たちが行動を共にしていたことは間違いなさそうです。
流星が落ちる
同年11月、大きな火の玉のような流星が落ちて辺章・韓遂の陣営を明るく照らしたので、これを不吉に感じた反乱軍は金城郡に撤退を開始します。
これを見て取った董卓、鮑鴻の軍は追撃して数千人を討ち取りました。
この後、張温は軍を2つに分け、周慎に3万の軍勢を預けて金城郡に向かわせ、董卓にも同じく3万の軍勢を預けて隴西郡の先零羌を討たせました。
金城郡方面
金城郡に向かった反乱軍は楡中県(美陽県周辺地図参照)に籠城します。
周慎の麾下で行動を共にしていた孫堅は、楡中県の兵糧が少ないことを指摘した上で、自分が1万の別働隊を率いて糧道*3を断ち、周慎の2万の兵で包囲して兵糧攻めにする作戦を提案しました。
ですが、周慎は孫堅の提案を退けて楡中県を包囲すると、力攻めを開始します。
城攻めを有利に進めていた周慎ですが、反乱軍の別働隊に逆に糧道を断たれてしまい、包囲を続けることができなくなって撤退を余儀なくされました。
脚注
*3 兵糧を運ぶ道筋
隴西郡方面
一方、隴西郡方面に向かった董卓は、途中の望垣県の北(美陽県周辺地図参照)で数万の先零羌に包囲されて身動きが取れず、兵糧が乏しくなってきました。
撤退をするにも背後の川を渡らねばならず、大きな損害を覚悟しなくてはなりません。
董卓は一計を案じ、兵に魚を捕るフリをさせて川をせき止めると、自軍が渡りきってから堰を切りました。
これに気づいた先零羌が追って来た頃には、川が増水してとても渡ることができず、董卓の軍勢は兵を損ねることなく撤退することができたのです。
この時、隴西郡に向けて6方面から軍勢が攻め上がっていましたが、兵を損なわずに撤退することができたのは、董卓ただ1人でした。
張温、洛陽に帰る
翌年の186年、涼州の反乱は何一つ片付いていませんが、張温が洛陽に召し返されます。
またこの年、韓遂はこれまで行動を共にしてきた辺章、北宮伯玉、李文侯を殺してしまいます。彼らが何か罪を犯したのか、単なる権力欲か、理由は分かりません。
張温による討伐軍は、涼州の反乱の鎮圧というよりも、三輔地方の防衛が目的であったようで、韓遂、王国、宋建たち涼州の反乱軍は以前として勢力を保ったままでした。
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馬騰、世に出る
反乱の再発
187年、涼州刺史・耿鄙が信任した治中従事史・程球が、その特権を悪用して私腹を肥やしていたため、堪りかねた羌賊が反乱を起こしました。
これを機に韓遂と王国も隴西郡に向けて兵を起こしたので、涼州はまた戦禍に見舞われることになります。
隴西郡・狄道県に10万余りの韓遂軍が攻め寄せると、隴西太守・李相如は戦わずに降伏してしまいました。
漢陽郡の陥落
この時の涼州刺史・耿鄙はこれまでの刺史と違って、反乱鎮圧のために郡内で屈強な者を募集します。
これに応じた人たちの中に、後に群雄の1人となる馬騰がいました。馬騰の風貌があまりにも立派だったので、すぐに部隊を率いる軍司馬に任じられました。
耿鄙が反乱軍を討つべく狄道県への出兵を命じると、漢陽太守の傅燮は、耿鄙が赴任して日が浅いことから、
- 官軍の統率が取れていないこと
- 内乱が起きては取り返しがつかなくなること
を説いて反対します。
ですが、耿鄙は傅燮の進言を退けて強引に出兵を敢行します。
耿鄙軍の進軍経路
耿鄙は6郡の兵を率いて狄道県に進軍します。ですが、韓遂軍と対峙したその時、配下の州別駕が内応して、程球と耿鄙は殺されてしまいました。
まさに、傅燮が懸念した通りになってしまったのです。
韓遂軍はそのまま冀県に迫ります。
冀県に残っていた傅燮は少ない兵でも侵入を許さず、固く守っていましたが、兵糧もつき果てて最後の決断を迫られます。
この時、韓遂に従う異民族の中にも傅燮に恩を受けた者が多く、命を助けたいという声が多く上がりました。
王国は使者を送って降伏を勧めましたが、傅燮は承知せず、最後の戦いを挑んで戦死しました。
この後、耿鄙の軍司馬であった馬騰は、軍勢を率いて反乱軍に寝返ってしまいます。
再び三輔に侵攻する
傅燮が玉砕し、冀県が陥落すると、韓遂と馬騰は王国を大将として再び三輔地方に侵攻を開始し、陳倉県(耿鄙軍の進軍経路参照)を包囲しました。
188年11月のことです。
これに対し朝廷は、皇甫嵩を左将軍、董卓を前将軍に任じて、それぞれ2万の兵を与えて討伐にあたらせました。
ですが、ここで2人の方針が対立します。
「速やかに援軍に駆けつけて賊を殲滅すべし」
と主張する董卓に対し皇甫嵩は、
「陳倉県は小城ではあるが城の守りは固い。敵の疲弊を待って攻撃を仕掛けるべきだ」
と答えて董卓の意見を退けました。
年は明け、包囲は80日を超えても陳倉県は固く守っていたため、反乱軍の疲労もピークに達し、包囲を解いて退却を始めました。
これを見て取った皇甫嵩は即座に攻撃準備に取りかかります。
これに董卓は、
「逃げる敵を追うのは兵法に反します。敵は大軍、追い込まれた敵に返り討ちに遭いますぞ」
と反対します。
これに対し皇甫嵩は「私はこの時を待っていたのだ!」と董卓に後方を守らせ、単独で賊を追撃し、大いに打ち破りました。
この戦いで自分の意見にことごとく反対された董卓は、皇甫嵩に恨みを抱くようになりました。
反乱軍の瓦解
この敗戦を受けて、韓遂と馬騰は王国を追放し、漢陽の閻忠を脅して反乱軍を率いさせました。ですが、閻忠は賊に脅されて大将に祭り上げられたことを恥じ、病を発して亡くなってしまいます。
この後、韓遂と馬騰は互いに権利を主張し合って争うようになりました。
異民族の侵入や反乱が多発する涼州は、朝廷でもたびたび放棄を唱える者が出るような扱いでした。
朝廷は三輔地方に害が及ぶ心配がなければ無理をして討伐することはせず、韓遂・馬騰のような涼州の豪族たちに適当な官職を与えて懐柔する方針を取りました。
最後に
この記事は、184年〜189年にかけての涼州の反乱について、複数の史料にまたがって記述されている情報をまとめたものです。
史料によって人物や時期が異なっていたり、時期が特定できない事柄については、推測を交えて構成しています。