董卓誅殺後の新政権発足と、董卓が信任した蔡邕の死についてまとめています。
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目次
王允・呂布政権の誕生
董卓の死
初平3年(192年)4月、司徒・王允、尚書僕射・士孫瑞、董卓の将・呂布らの共謀によって、董卓が誅殺されました。
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王允・呂布政権の誕生
その後、録尚書事を加えられた司徒・王允は、山東(反董卓連合)に張种を派遣して人心の安定を図ります。
そして、董卓を直接殺害した呂布を奮威将軍に任命して節を与え、三公と同じ儀礼を許し、温侯に封じて共に朝政を取り仕切りました。
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蔡邕の死
画像出典:六图吧
(引用元が常時SSL化されていないためリンクを張っていません。ご了承下さい)
蔡邕の失態
ある時、左中郎将の蔡邕は、王允の席に列していながら董卓の誅殺を話題にし、ため息をついて表情を曇らせました。
これを見咎めた王允は声を荒げ、
「董卓は国家の大賊、危うく漢室を滅ぼすところであった。君は王家の臣として怒りを共にすべきなのに、私的に厚遇されたことを懐かしみ、節操なく董卓を哀悼するとはっ!それでは董卓と共に反逆をしたことと同じではないかっ!」
と叱責して蔡邕を捕え、廷尉に身柄を引き渡して罪状を取り調べさせます。
すると蔡邕は、
「この身は不忠とは言え、やはり大義はわきまえております。また、歴史における存亡安危の実例については、耳にたこができるほど聞いており、口がすっぱくなるほど申してもおります。どうして国家に背いて董卓に荷担するはずがありましょうか。誤って無知な言葉が口をついて出てしまい、お耳を穢してしまったのです」
と言葉を尽くして謝罪し、
「どうか首に黥刑*1を施し、足に刖刑*2を施してでも、漢の歴史を編纂することをお許しいただきたい」
と、『漢書』の後を引き継いで後漢の歴史の編纂を続けるため、死罪だけは免れるよう請願します。
この時、士大夫たちの多くが蔡邕を憐れんで救おうとしましたが、王允は彼らの意見を聞き入れようとしませんでした。
脚注
*1 額に刺青をする刑罰のこと。黥首(げいしゅ)とも。
*2 足を切断する刑罰のこと。
馬日磾の説得
蔡邕の投獄を聞きつけた太尉の馬日磾は、王允の元に駆けつけて言いました。
「蔡邕は当世に並ぶ者のない逸材であり、漢の事跡を数多く知っているので、『漢書』の後の歴史の編纂を続けさせ、比類なき大典とするべきです。しかも蔡邕は、平素から忠と孝を明らかにしており、罪状には大義名分がありません。もし蔡邕を誅殺したならば、人望を失うことになるのではないでしょうか」
すると王允は、
「昔、(前漢の)武帝は司馬遷を殺さなかったため、司馬遷は漢を誹謗する書(『史記』)を作らせて後世に残すことになった。今、国家は衰退して帝位は堅固ではない。佞臣に筆を執らせることは、天子の徳にとって利益はなく、必ずや我が一党に非難を浴びせるであろう」
と言い、馬日磾の進言を退けました。
王允の元を退出した馬日磾は、
「王公(王允)の時代は長くは続かないだろう。善人は国家の模範であり、著作は国家の典範である。模範を除き典範を破棄したならば、どうして久しく繁栄できるだろうか」
と人に漏らしました。
蔡邕の死
多くの人の助命嘆願を退けた王允ですが、やはり後悔して考え直し、蔡邕の取り調べを取りやめようとしましたが、時すでに遅く、その時にはもう蔡邕は獄死した後でした。
蔡邕・享年61歳。
紳士と儒者の中に涙を流さない者はなく、蔡邕の死を聞いた北海国の鄭玄は「漢の世の事は誰と共に正せば良いのか」と嘆き悲しみました。
また、蔡邕の本籍である兗州・陳留郡の辺りでは、みな肖像画を描いて蔡邕の功績を偲び合ったと言われています。
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蔡邕の死について
『魏書』董卓伝
ここまでの内容は、『魏書』董卓伝の注に引かれている謝承の『後漢書』と、范曄の『後漢書』蔡邕伝の記述を基に構成していますが、『魏書』董卓伝の本文には、
「長安の士人や庶民はみな互いに慶賀しあい、董卓に迎合していた者はすべて獄に下され処刑された」
とあるだけで、蔡邕の死については直接言及されていません。
謝承の『後漢書』と、范曄の『後漢書』蔡邕伝の記述はほぼ同じですが、范曄の『後漢書』蔡邕伝では蔡邕の謝罪の言葉が省略され、馬日磾の進言が追記されています。
裴松之の所感
裴松之は『魏書』董卓伝の注に謝承の『後漢書』を引いた上で、次のように言っています。
- 蔡邕は董卓に信任されていたが、心情においてはは、決してその一味ではなかった。
- 蔡邕が董卓の凶悪ぶりを知らないはずはなく、董卓の死を聞いて哀惜の念を抱く道理がない。
- 例えそうであったとしても、王允の目の前でわざわざそんな発言をするはずがない。
- 王允の忠義公正にはやましいところがなく、まったく誹謗を恐れる必要などない。
以上のことから、王允が自分が誹謗されることを恐れて蔡邕を処刑したというのは、謝承のデタラメな作り話で、つじつまが合わぬことはなはだしい。
ですが、董卓が誅殺された後、蔡邕が「董卓の一党」として処刑されたことは間違いないようです。
裴松之は「蔡邕の死」に関する一連のエピソードを否定していますが、ではどのような罪状で処刑されたのかについては言及していません。
洛陽で権力を握った董卓は天子の廃立を行った後、広く天下の名士を招いて信任した蔡邕の意見をよく聞き、朝廷の腐敗を正す政策を行おうとしていました。
董卓が親族や直属の部下を高位に就け、暴虐非道な行いが目立つようになるのは、反董卓連合の決起を受けて長安に遷都した後のことです。
蔡邕が、董卓が誅殺されたことそれ自体は仕方のないことだが、遷都の後に変わってしまったことを嘆いたのであれば、あり得ないことではないと思います。