『三国志演義』における黄巾の乱は、後に頭角を現す群雄たちのデビュー戦としてその活躍が華々しく描かれています。
では、正史における黄巾の乱はどうだったのかを時系列で確認してみました。
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目次
黄巾の乱に至る経緯
新興宗教の乱立
『典略』には、熹平年間(172〜178年)に妖賊が盛んに興り、三輔では駱曜という人物が緬匿法という教えを広め、光和年間(178〜184年)には東方(鉅鹿)で張角が「太平道」を、漢中で張脩が「五斗米道」を称したとあり、いずれも妖賊(宗教的な反乱者)とされています。
三輔とは、かつて関中と呼ばれた長安周辺の地域のことで、京兆尹・右扶風・左馮翊の3郡を指します。
参考記事
【三国志地図】三国志の地名を覚えよう!後漢時代の州郡県マップ
また、172年に会稽で陽明皇帝を僭称して反乱を起こした許昌も同時期に勢力を拡大した宗教集団と言えるでしょう。
このように後漢末期には、太平道だけでなく多くの新興宗教が興り、後漢王朝への反乱が警戒されていました。
太平道の広まり
太平道の開宗
太平道の教祖・張角は冀州・鉅鹿郡の人で、建寧年間(168~171年)に黄老道(原始道教)を起源とする太平道を興しました。
張角は、自分の行いを反省させ、まじないを施して病気を治すことで人心を集め、まじないを受けても病気が治らない者は信心が足りないとしたため、疑う者はいませんでした。
太平道の教えは物事の吉凶禍福は日々の行いに起因するとし、善行を積み重ねることで災いを回避することができるというもので、相次ぐ天災と圧政に苦しむ多くの民衆に受け入れられました。
反乱計画
張角は自らを「大賢良師」と称し、各地に弟子を派遣して積極的に教えを広め、その信者は青州・幽州・徐州・冀州・荊州・揚州・兗州・豫州の8州にまで広がりました。
太平道の信者が増えた州
太平道の教えは、霊帝の先代の天子・桓帝が信奉した黄老道を元にした善道を説くものであり、太平道の広まりは問題視されるものではないはずでした。
ですが、罪を犯した太平道の信者が張角の力を借りて罪を逃れようとするなど、官憲との間で問題が起こり始めると、朝廷は太平道を弾圧する方針に切り替えたのです。
このことは太平道の信者の態度を硬化させました。
張角は信徒を36の方に分け、それぞれを渠帥と呼ばれる将軍にまとめさせて軍事訓練を施すようになります。
184年、自分たち太平道が後漢王朝に取って代わることを暗示する「蒼天已死 黃天當立 歲在甲子 天下大吉」というスローガンを流布し、役所や家の門に「甲子」の2文字を書かせました。
甲子とは干支の組み合わせの1番目の年で、60年に1度の「変革が起こる年」とされています。家々の門に「甲子」の文字を書くことも、スローガンと同様に後漢王朝の終焉を暗示していたのです。
参考記事
張角は弟子の馬元義を派遣して、中常侍の封諝、徐奉らを内応させる約束を取りつけると、反乱の蜂起を3月5日に定めて準備に取りかかりました。
スローガンだけでなく、朝廷の宦官に内応を取りつけていることから、張角の目的は「太平道による1地方の自治」にとどまらず、洛陽を攻め落とし、後漢王朝に取って代わることにあることが推測できます。
反乱の決起
朝廷の要人に内応を取りつけ、洛陽の内側と外側から同時に反乱を起こし、漢王朝を転覆する計画は着々と進行していました。
ですが、馬元義の部下の唐周が皇帝直属の宦官に密告したため、反乱計画が露見してしまったのです。
霊帝は激怒し、洛陽に潜伏していた馬元義は直ちに捕縛されて処刑され、反乱への荷担が疑われる宮中の衛兵や民衆1,000人余りを誅殺すると、張角捕縛の命を下しました。
計画が露見してしまった以上、時間が経つほど不利になります。
張角は予定よりも早く反乱を決起せざるを得ず、自らを天公将軍と称し、弟の張宝、張梁をそれぞれ地公将軍、人公将軍として、冀州、豫州を中心に一斉に蜂起しました。
太平道の信者は、全員黄色い頭巾を身につけていたことから黄巾賊と呼ばれ、冀州の安平国や甘陵県(清河国)では王を捕らえて黄巾賊に応じたほか、多くの長吏は逃亡してしまう状態でした。
「太平道」と同じ黄老道を起源とする「五斗米道」は、入信時に5斗(日本の500升、約10ℓ)の米を寄進すること以外、その教義や救済方法に大きな違いはありません。
ですが、「太平道」は広く信者を求めて国家に反乱を起こして消滅し、地方自治に徹した「五斗米道」は現代まで続く道教の一派である正一教の祖となりました。
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黄巾賊の討伐
184年3月
討伐軍の編成
張角を首領とする黄巾賊の蜂起を受けて霊帝は、河南尹の何進を大将軍として、洛陽盆地を取り囲む8つの関(洛陽八関*1)に都尉(守備隊)を配置しました。
また北地太守の皇甫嵩は党錮の禁*2の解除と、霊帝の蓄財、良馬を軍に提供することを提案し、霊帝はこれを了承します。
そして、盧植を北中郎将に、皇甫嵩を左中郎将に、朱儁を右中郎将に任じて、軍を2つに分けて黄巾賊討伐の命を下しました。
- 盧植:冀州・鉅鹿郡(張角)
- 皇甫嵩、朱儁:豫州・穎川郡
黄巾賊討伐軍の進軍経路
脚注
*1 函谷関(かんこくかん)、大谷関(たいこくかん)、廣成関(こうせいかん)、伊闕関(いけつかん)、轘轅関(かんえんかん)、旋門関(せんもんかん)、孟津関(もうしんかん)、小平津関(しょうへいしんかん)の8関。
*2 党人(とうじん)と呼ばれた儒家官僚(清流派)と宦官(濁流派)との政権争いに敗れた党人約200人が任官を解かれ、一生仕官することができない「終身禁錮の刑」とされた事件。
党錮の禁で朝廷を追放された人物が黄巾賊と結びつくことを警戒し、党錮の禁を解くことで彼らを味方につけようとした。
南陽で張曼成が蜂起
盧植が冀州へ、皇甫嵩・朱儁が豫州へ向けて軍を進めたころ、荊州・南陽郡で張曼成率いる黄巾賊が蜂起します。
張曼成は宛県城を攻め、南陽太守褚貢を殺して拠点としました。
宛県城の場所
184年4月
豫州・穎川、朱儁の敗北
皇甫嵩・朱儁は、合わせて40,000の軍勢で豫州・穎川郡に進軍しました。
『三国志演義』では後の宛県城での戦いで初登場する孫堅ですが、この時から朱儁の麾下で戦いに参加しています。
朱儁は波才率いる黄巾賊と激突して敗走し、皇甫嵩は長社県に籠城しました。
豫州・汝南、幽州・広陽の敗北
穎川郡に隣接する汝南郡では、汝南太守の趙謙が黄巾賊に攻められて敗北し、幽州・広陽郡では、蜂起した黄巾賊によって幽州刺吏の郭勳と、広陽太守の劉衛が殺されました。
184年5月
黄巾賊の波才は10万を超える兵で長社県に籠城した皇甫嵩を包囲します。皇甫嵩の兵は少なく、兵は敗北を予感していました。
ですが、波才が草原に布陣したのを見て取った皇甫嵩は、折からの強風に乗せて火を放ち、城から打って出て、援軍に駆けつけた曹操と共に混乱した黄巾賊を敗走させました。
その後、皇甫嵩と曹操は朱儁と合流し、波才軍を完全に打ち破りました。
穎川郡と広陽郡の黄巾賊
この長社県での勝利がターニングポイントとなり、劣勢であった官軍は攻勢に転じます。
『三国志演義』では連戦連勝に見える官軍ですが、郡県はいくつも陥落し、中央の討伐軍も緒戦で敗北するなど、劣勢を強いられていました。
もし計画が露見していなければ、黄巾賊は冀州、豫州、荊州(南陽郡)の3ヶ所で同時に蜂起していたはずで、そうなれば討伐軍を3方面に分けなければなりません。
その場合、討伐軍は敗れて洛陽は包囲され、馬元義・封諝らの内応によって陥落した可能性も十分あるのではないでしょうか。
184年6月
宛県城の討伐
朝廷より新たに南陽太守に任命された秦頡は、宛県城を攻めて張曼成を斬りました。
張曼成が討たれた後も、部下の趙弘が10万の黄巾賊を集めて宛県城に籠もり続けます。
豫州の平定
皇甫嵩と朱儁は、長社県での勝利に乗じて汝南郡、陳国に駒を進めます。
穎川郡の陽翟県で波才を破り、汝南郡の西華県で彭脱を破ると、渠帥を失った黄巾賊は降伏し、豫州は平定されました。
注目!
孫堅は西華県での戦いで勝ちに乗じて敵を深追いし、単騎で突出した孫堅は負傷して落馬しています。
また、後の司徒・王允は、黄巾の乱が起こると豫州刺史に任命され、荀爽・孔融らを従えて黄巾賊を大いに破り、皇甫嵩・朱儁と共に数十万の降伏者を受け入れています。
豫州の平定後、皇甫嵩は兗州・東郡へ、朱儁は荊州・南陽の討伐に向かいました。
穎川郡・汝南郡の平定経路
盧植の罷免
冀州・鉅鹿郡に向かった盧植は張角を相手に勝利を重ねていました。
ですが、張角が広宗県に籠もってからは抵抗が激しく攻城戦が長期に渡っていたため、霊帝は小黄門(宦官)の左豊を派遣して軍を視察させました。
視察中、左豊は賄賂を求めましたが盧植が応じなかったため、怒った左豊は「広宗の賊は弱いのに盧植は守りを固めて戦おうとしない」と霊帝に報告したのです。
これによって盧植は罪人として洛陽に送られ、代わりに東中郎将の董卓を派遣しました。
184年7月
五斗米道の反乱
五斗米道の張脩が巴郡で反乱を起こします。
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184年8月
東郡の平定
兗州・東郡に向かった皇甫嵩は、倉亭で黄巾賊の帥・卜己を捕らえ、兗州を平定しました。
盧植の後任の董卓は、張角と戦って功績がないため、霊帝は皇甫嵩に張角を討つように命じました。
東郡の平定と巴郡の反乱
宛県城を包囲する
荊州・南陽郡に向かった朱儁は、張曼成を討った秦頡と荊州刺史・徐璆と合流して、18,000の兵で趙弘が籠もる宛県城を包囲していました。
この時、朝廷では「戦況が好転しないため朱儁を罷免するべき」という意見が出ます。
ですが霊帝は、穎川郡での勝利と戦闘の途中で将軍を変えることを嫌ってその意見を退けました。
朝廷のこの動きを知った朱儁は包囲による持久戦を諦め、力攻めによる短期決戦に作戦を切り替えることになります。
力攻めによる短期決戦に作戦を切り替えた朱儁は、戦いを挑んで趙弘を討ち取りました。ですが、黄巾賊は新たに韓忠を将軍に立てて、宛県城に籠もって抵抗を続けます。
朱儁は間髪を入れず、孫堅に軍の主力を預けて城の西南を攻撃させると、韓忠は城の西南に兵を集めて応戦しました。
案の定、城の東北が手薄になっているのを見て取った朱儁は、自ら精鋭5,000を率いて城の東北に襲いかかって城内に突入すると、韓忠は宛県城を放棄して小城に籠もり、降伏を願い出てきます。
韓忠の降伏の申し出を受けて、朱儁に従軍していた司馬の張超、荊州刺史・徐璆、南陽太守・秦頡は「降伏を受け入れるべき」と進言しましたが、朱儁は、
「ここで賊を許しては、今後賊徒どもは有利な時は進んで戦い、不利になれば降服を申し出ようとするだろう。降服を受け入れることは善を勧めることにならず、これを討伐してこそ悪を懲らしめることになる」
と言い、降伏の申し出を断りました。
この時朱儁は18,000の兵で10万を超える敵軍を宛県城に閉じ込め、補給線を遮断して持久戦に持ち込んでいました。決して悪い戦況ではありません。
黄巾賊の討伐を命じられた盧植・皇甫嵩・朱儁は清流派の人物であり、朝廷で権力を握っている宦官をはじめとする濁流派の官僚にとっては「反乱は平定したいが、彼らが手柄を立て過ぎるのは良くない」という思いがあったのではないでしょうか。
184年10月
皇甫嵩、張梁を討つ
広宗県に向かった皇甫嵩は張角の弟・張梁に戦いを挑みますが、勢いが強く一度引いて軍を立て直します。
そして翌早朝、前日の勝利で油断している張梁軍に奇襲をかけ、張梁を捕らえて斬首しました。
これに勢いを得た皇甫嵩は、黄巾賊を散々に打ち破り広宗県を奪い返しましたが、張角はすでに病死していたため、墓をあばいてその首を洛陽に送りました。
184年11月
皇甫嵩、張宝を討つ
皇甫嵩は下曲陽で張角3兄弟の最後の1人・張宝を討ち、冀州は平定されました。
鉅鹿郡の平定
南陽郡の平定
韓忠の降伏を断った朱儁は、城を包囲して何度も攻撃をしかけましたが、攻め落とすことができずにいました。
賊軍は降伏も許されず、完全に包囲されているため逃げることもできません。その結果、賊軍は死兵となって戦い、なかなか打ち破ることができなかったのです。
そこで朱儁は包囲を解き、賊軍が城を出て逃げ出したところを討つ作戦に変更します。
作戦は見事に当たり、城を出て逃げ出した賊軍数万を討ち取り、韓忠は捕らえられ賊軍はついに降伏しました。
ですが南陽太守・秦頡が捕らえた韓忠を殺したので、降伏した黄巾賊は恐れ、孫夏を大将として宛県城に逃げ込みました。(一度は陥落させた宛県城ですが、官軍には十分な守備隊を配置する余裕がなかったのだと思われます)
孫堅は真っ先に城壁を乗り越えて突入し、朱儁は逃げ出した孫夏を追って西鄂県の精山で討ち取りました。
これによって、184年2月に蜂起した太平道の教祖・張角による黄巾の乱は一応の終息をむかえました。
184年11月、南陽郡の平定によって、太平道による組織だった反乱としての黄巾の乱は平定されました。
ですが、黄巾賊の残党たちは、黄巾の乱に便乗して暴れ回った黒山賊や白波賊などと共に流賊として各地で反乱を起こすことになります。
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劉備の黄巾の乱討伐の動き
『三国志演義』では鄒靖、盧植、皇甫嵩、朱儁の間を行ったり来たりして活躍していた劉備ですが、今回確認した中に登場していません。
黄巾の乱の時の劉備の行動は「義勇兵を率いて校尉・鄒靖の下で黄巾賊を討伐、武功を立てて安熹県の県尉に任命された」と『蜀書』先主伝に記されています。
ですが、実は黄巾の乱当時の鄒靖についても、どこで誰と戦っていたのか分かりません。
当然その下で戦っていた劉備の行動も分からないのですが、義勇軍を率いて黄巾賊の討伐に加わったことは確かなようです。
黄巾の乱での劉備の活躍は永遠の謎となりそうですが、『三国志演義』では主人公・劉備の目を通して、曹操や孫堅、董卓たちの登場がドラマチックに描かれています。