191年4月、長安ちょうあん遷都せんとした後も洛陽らくよう郊外の畢圭苑ひつけいえんに駐屯していた董卓とうたくは、ついに長安ちょうあんに入りました。

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董卓、長安に入る

董卓、長安に入る

191年2月、豫州刺史よしゅうしし孫堅そんけん洛陽らくようを目指して北上を開始すると、1度は徐栄じょえいが撃退したものの、次に迎撃に出た胡軫こしん陽人聚ようじんしゅうで敗北。その後、董卓とうたく大谷関たいこくかんみずか孫堅そんけんを迎え撃ちます。

そして、この大谷関たいこくかんの戦いに敗れた董卓とうたくは、澠池県べんちけん陝県せんけん長安ちょうあんに入りました。


董卓と孫堅の行軍経路

董卓とうたく孫堅そんけんの行軍経路

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董卓と皇甫嵩

董卓とうたくは以前、左将軍さしょうぐん皇甫嵩こうほすうに従って「辺章へんしょう韓遂かんすいの乱」の討伐に従軍したことがありますが、その時皇甫嵩こうほすうが自分の献策をもちいなかったことを、いまだにうらみに思っていました。

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ある時董卓とうたくの馬車が通りかかると、御史中丞ぎょしちゅうじょうとなっていた皇甫嵩こうほすうは馬車の下で拝礼はいれいします。

これを見た董卓とうたくは「どうだ、参ったかね?」と皇甫嵩こうほすうに声を掛けました。

皇甫嵩こうほすうが、

「まさか殿とのがこれほどまでになられるとは、思いもよりませんでした」

と答えると、

燕雀えんじゃくいずくんぞ鴻鵠こうこくこころざしを知らんや。

けい*1がもっと早く頭を下げていたら、今そのように拝礼はいれいなどせずとも良かったものを」

と、董卓とうたくは満足げに笑って言いました。


皇甫嵩こうほすうを前に得意げに話す董卓とうたくですが、この時の董卓とうたくは、大谷関たいこくかんの戦いで孫堅そんけんに敗れて長安ちょうあんに逃げ込んだようなものでした。

皇甫嵩こうほすうは内心、以前蓋勲こうくんに持ちかけられた「董卓とうたく討伐の兵を起こして反董卓とうたく連合とはさみ撃ちにする計画」を断ったことを、後悔していたかもしれません。

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脚注

*1 天子が臣下を呼ぶ呼び名。または一般的に相手を尊んで呼ぶ呼び名。


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董卓、栄耀栄華を極める

董卓と献帝

画像引用元:『Total War: THREE KINGDOMS』

尚父(しょうほ)を名乗る

董卓とうたく長安ちょうあんに到着すると、三公さんこうより上位とされる太師たいしに就任し、みずか尚父しょうほと号します。

尚父しょうほとは、しゅう文王ぶんおう武王ぶおうに仕えた謀臣・呂尚りょしょう太公望たいこうぼう)の尊号で、呂尚りょしょう太師たいしの位に登っていました。


ですがこの時蔡邕さいようが、

「公(董卓とうたく)の功績と徳行はまことに高いものですが、尚父しょうほを号することは関東(反董卓とうたく連合)を平定され、天子を洛陽らくようにお返しになってからお考えになったほうがよろしいでしょう」

と進言したので、董卓とうたく尚父しょうほを名乗ることをあきらめました。

金華青蓋車に乗る

また董卓とうたくは、金のはなかざりがついた青いおおいの馬車(天子が乗る馬車)に乗って移動するようになります。

董卓とうたくが乗る馬車に出会うと、たとえ公卿こうけいであっても馬車の下で拝礼はいれいしましたが、董卓とうたくはあいさつを返すことさえしませんでした。


長安ちょうあんに地震があった時、董卓とうたく蔡邕さいようにその理由をたずねました。

蔡邕さいようは、

「地が動き陰の気が盛んになるのは、大臣が臣下の道に外れていることが原因です。公(董卓とうたく)は青いおおいの馬車に乗っておられますが、これは不適当と言わざるを得ません」

と答えたので、董卓とうたく蔡邕さいようの意見に従って、金のはなかざりがついた黒いおおいの馬車に乗るようになりました。

親族を重用する

長安ちょうあんに入った董卓とうたくは、弟の董旻とうびん左将軍さしょうぐん鄠侯ここうに、兄・董擢とうてきの子・董璜とうこう侍中じちゅう中軍校尉ちゅうぐんこういに任命するなど、自分の一族を朝廷の高官に任命しました。

これは成人した親族に限らず、15歳にも満たない孫娘・董白とうはく渭陽君いようくんに封ぜられて領地が与えられたほか、側室の赤子までもがこうに封ぜられ、金印紫綬きんいんしじゅをおもちゃにしていたと言われています。


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董卓、暴君と化す

郿県を要塞化する

董卓とうたく連合を恐れた董卓とうたくは、司隷しれい右扶風ゆうふふう郿県びけん郿塢びう)の城壁を高くし、30年分の穀物こくもつと、洛陽らくようの富豪や陵墓りょうぼから没収した金、銀、布帛ふはくを山のように備蓄して、

「事がなればここから天下を支配する!ならざれば、ここを守って一生を終えることができるだろう」

と言いました。

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降伏者を虐殺する

董卓とうたく郿県びけん郿塢びう)の巡察に出ることになった時、公卿こうけい以下そろって送別の宴が開かれました。

酒宴が始まると董卓とうたくは、席上に涼州りょうしゅう北地郡ほくちぐんで反乱を起こした降伏者数百人を中に引き入れ、その目をくり抜いて舌を切り、手足を切って大鍋でて見せます。

宴席は、まだ死にきれない者がさかずきや食台の間を転げ回る阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄絵図に変わり、参加者はみな恐怖におののく中、董卓とうたくは平然と飲み食いを続けていました。

官吏・民衆を調査する

また董卓とうたくは、司隸校尉しれいこうい劉囂りゅうごうに官吏・民衆を調査させ、


  • 親不孝な子
  • 不忠な臣下
  • 清廉せいれんでない官吏
  • 従順でない弟

のいずれかに当てはまる者を捕らえて処刑し、財産を没収しました。

この時、人々がお互いに誣告ぶこく(故意に事実をいつわって告げること)し合ったので、1,000人を超える人々が冤罪えんざいで処刑されることになりました。


董卓とうたく連合が決起したことによって地方からの税収を断たれた董卓とうたくは、深刻な財政難におちいっていたものと思われます。

その董卓とうたくが新たな収入源として思いついたのが、儒教じゅきょうの教えに反した者から財産を没収することでした。

ですがその結果、1,000人を超える冤罪えんざいを出したことは、董卓とうたくが意図したものかどうかは分かりません。

張温を殺害する

191年10月、太史たいしが天空の雲気を見てうらなったところ「大臣の中に死刑になる者がいるはずです」と報告します。

董卓とうたくはこの報告を利用して、昔から反りが合わない衛尉えいい張温ちょうおんに「袁術えんじゅつと内通した」という罪を着せ、むちで打ち殺しました。

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洛陽らくようで権力を握った当初、董卓とうたくは広く名士を集めて要職に任命しました。

ですがその後、彼らの多くが反旗をひるがえしたことから董卓とうたくは他人を信用しなくなり、親族のみを重用するようになります。

つまり、董卓とうたくははじめから自分の一族の栄達のみを追い求めているわけではなかったのです。

そして、名士を中心とした徳による統治に失敗した董卓とうたくは、反董卓とうたく連合の攻撃を恐れて郿県びけん郿塢びう)を要塞化して保身をはかると、苛酷かこくな法令と刑罰による統治で人々を従わせるようになりました。

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