建安(けんあん)2年(197年)夏、朝廷(曹操(そうそう))が呂布(りょふ)・陳瑀(ちんう)・孫策(そんさく)らに降(くだ)した袁術(えんじゅつ)討伐の詔勅(しょうちょく)に端を発した、陳瑀(ちんう)と孫策(そんさく)の・・・
「呉」の記事一覧
孫策の揚州・会稽郡侵攻。孫策が王朗を降伏させ、会稽太守となる
建安(けんあん)元年(196年)8月、揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)を平定して諸県を安定させた孫策(そんさく)は、次の目標を揚州(ようしゅう)・会稽郡(かいけいぐん)に定めました。この「孫策(そんさく)の会稽郡(かい・・・
孫策の江東進出。袁術の下を離れた孫策が劉繇を破って呉郡に入る
孫策(そんさく)の江東(こうとう)平定の前半戦。袁術(えんじゅつ)の下を離れた孫策(そんさく)が劉繇(りゅうよう)を破り、呉郡太守(ごぐんたいしゅ)・許貢(きょこう)を逃亡させるまでについてまとめています。
袁術の誤算。孫策に命じた陸康攻撃と揚州刺史・劉繇との衝突
孫堅(そんけん)死後の孫策(そんさく)の動向と、徐州(じょしゅう)の攻略を目指す袁術(えんじゅつ)と揚州刺史(ようしゅうしし)・劉繇(りゅうよう)が戦うことになった経緯についてまとめています。
孫堅が劉表に敗れた「襄陽の戦い」と朱儁の挙兵
袁術(えんじゅつ)と公孫瓚(こうそんさん)が手を組んで袁紹(えんしょう)と争うようになると、袁術(えんじゅつ)を敵視していた劉表(りゅうひょう)は共通の敵を持つ袁紹(えんしょう)と手を組みました。 袁術(えんじゅつ)は後・・・
反董卓連合の崩壊。袁紹が孫堅を攻め、公孫瓚は河北に覇を唱える
袁術(えんじゅつ)が献帝(けんてい)の保護に動き出すと、袁紹(えんしょう)は袁術(えんじゅつ)派の孫堅(そんけん)が治める豫州(よしゅう)に侵攻を開始。袁氏(えんし)同士の確執はついに軍事衝突へと発展し、反董卓(とうたく・・・