王允と貂蝉による「連環の計」が『三国志演義』の創作であることは有名ですが、では、正史『三国志』では、董卓はどのような最期を迎えたのでしょうか。
スポンサーリンク
目次
董卓暗殺計画
画像引用元:WINKING DIGITAL ENTERTAINMENT LIMITED「大三国志」
暴君化した董卓
長安に入った董卓は、司隷・右扶風・郿県(郿塢)を要塞化して防備を固めると、親族を要職に就け、自らが天子であるかのような振る舞いをするようになります。
また、刑罰を厳罰化し、少しでも過失があった者はすぐに処刑されたので、人々は日々恐怖におののいていました。
関連記事
董卓暗殺計画
192年春、長雨が続き、60日以上経っても雨が降り止みませんでした。
これを機に司徒・王允は、「晴天を願うため」と称して僕射・士孫瑞、尚書・楊瓚と「董卓誅殺」の密談をします。
そこで、士孫瑞は言いました。
「昨年末から長雨が続いているのは、我々の計画が成功するという兆しです。今後このような機会は二度と訪れないでしょう。今こそ董卓誅殺を決行する時です」
王允は「その通りだ」とうなずきました。
豆知識
実はこれ以前にも、董卓の誅殺が計画されたことがありました。
『後漢書』王允伝
190年、董卓に簒奪の兆しありと見た王允は、司隸校尉・黄琬、尚書の鄭泰らと共謀して、董卓誅殺を計画します。
その内容は、護羌校尉の楊瓚を行左将軍事、執金吾の士孫瑞を南陽太守とし、「袁術を討伐する」と称して武関から南陽郡に入り、当時洛陽郊外の畢圭苑にいた董卓を討つというものです。
ですが、董卓が楊瓚と士孫瑞を疑ってこれを認めなかったため計画は未遂に終わり、王允は2人を招いてそれぞれ尚書と僕射に任命しました。
『魏書』荀攸伝
董卓が長安に遷都を強行すると、黄門侍郎であった荀攸は、議郎・鄭泰、何顒、侍中・种輯、越騎校尉・伍瓊らと董卓誅殺の計画を立てました。
ですが、計画実行の直前になって事が露見したため、何顒と荀攸は投獄されてしまいます。
何顒は恐怖のあまり自害しましたが、荀攸は一切動じることはなく、その後董卓が殺害されると釈放され、官職を捨てて郷里に帰りました。
スポンサーリンク
董卓と呂布
呂布は弓馬に優れ、抜群の腕力を有していました。董卓はそんな呂布を信頼し、父子の契りを結んで中郎将に抜擢します。
また、董卓は自分が他人から恨まれており、命を狙われていることを自覚していたため、常に呂布を護衛として従えていました。
呂布が董卓の侍女と密通する
董卓は呂布に奥御殿の警備をさせていましたが、あろうことか呂布は董卓の侍女と密通していました。
呂布はこのことが董卓に露見することを恐れて、日々気が気ではありませんでした。
董卓が手戟を投げつける
ある時、董卓はちょっとしたことで機嫌を損ね、手戟を抜いて呂布に投げつけました。
呂布は素早く身をかわし、すぐさま董卓に謝罪します。董卓は機嫌を直しましたが、この時から呂布は、秘かに董卓を恨むようになりました。
スポンサーリンク
董卓の最期
画像引用元:コーエーテクモゲームス『三國志12』
王允と呂布
王允と呂布は同郷であったため、王允は呂布に対して丁重に接していました。
ある時呂布は信頼する王允を訪ね、「あやうく董卓に殺されかけた」ことを相談します。
これに王允は、内心ほくそ笑みました。
王允は「このままではあなたの命が危ない」と同情して見せると、呂布に「董卓誅殺」の計画を打ち明けて協力を求めました。
ですが呂布は、「私と董卓は父と子の間柄です。子が親を討つことなどできましょうか」と返答を渋っています。
すると王允は、さらにたたみかけます。
「将軍の姓は呂ではありませんか。元々血縁関係ではありません。将軍は今、董卓によってご自身の命が危険に晒されているというのに、まだ董卓を父だなどと言っておられるのですかっ!」
この言葉を聞いた呂布は、ついに「董卓誅殺」の計画に荷担する決意をしました。
董卓の最期
暗殺準備
192年4月、献帝の病気が治ったことを祝うため、未央殿に多数の臣下を招いて宴会が行われることになりました。当然、董卓もこれに参加します。
王允は計画を実行するのはこの時と、士孫瑞が自ら書いた詔書を呂布に授けました。
また、呂布と同郷の騎都尉・李粛に命じて、秦誼、陳衛、李黒ら10数人を宮門衛士に変装させて長戟を持たせ、掖門(大門の左右にある小門)を固めて董卓が来るのを待ちます。
不吉な兆し
董卓が宴会に参加するため、朝服を身につけて馬車に乗り込もうとしたところ、馬があばれて朝服を汚してしまいました。
董卓が着替えに戻ると、董卓の(若い)妻は「不吉だから」と参内をやめるように言いました。ですが、董卓は気にすることなく出発します。
皇宮までの道は、左に歩兵、右に騎兵が立ち並び、守衛の兵が董卓の馬車を囲んで、呂布らが前後を護衛して進みました。
また、途中馬がつまずいて前に進まなくなったので、さすがに不安を感じた董卓は引き返そうとしましたが、呂布が説得して進ませました。
董卓の最期
董卓の馬車が掖門に差しかかった時、李黒らは一斉に馬車の車輪や馬に長戟を突き立てて馬車を止め、李粛が董卓に向けて戟を振るいました。
ですが董卓は朝服の下に鎧を身につけていたので、肘を傷つけただけで致命傷には至りません。
馬車から転げ落ちた董卓は、「呂布はどこだっ!」と大声で呂布を探します。
すると呂布は、董卓の前に進み出て言いました。
「詔により賊臣を討つっ!」
「飼い犬め、血迷ったかっ!」と罵る董卓への返事の代わりに、呂布は深々と矛を突き刺し、ついに董卓は絶命しました。
呂布は董卓の死体に駆け寄って来た主簿の田儀と董卓の召使いも殺すと、懐から詔書を取り出してこう宣言します。
「私は天子の詔に従って董卓を討ったまでだ。他の者は一切の罪に問わないっ!」
百官は万歳を連呼し、長安中の道は歌い踊る民衆であふれ、みな珠玉や衣装を売り、酒や肉を買って喜び合いました。
『三国志演義』では、王允の養女・貂蝉をめぐる行き違いから董卓殺害を決意した呂布。
ですが、正史『三国志』では、むしろ董卓に手戟を投げつけられたことが直接的な原因となっているようです。
羅貫中は、呂布が密通していた侍女を「絶世の美女・貂蝉」として描くことで、呂布が董卓を殺害するに至る経緯を『三国志演義』の名場面の1つにまで昇華させたのでした。
董卓一族の末路
郿塢の惨劇
董卓の死が伝わると、董卓の弟・董旻、甥の董璜ら、郿塢にいた董卓の一族はすべて、彼らの部下によって殺されてしまいます。
また、董卓の90歳になる老母は、郿塢の門まで走ってきて、「どうか私を助けて下さい」と取りすがりましたが、即刻首を切り落とされました。
その後、袁氏の食客やもとの官吏たちは、董卓によって殺された袁氏の埋葬をやり直し、董卓の一族の屍をその横に集めて焼き、その灰を路に撒きました。
また、郿塢には黄金2〜3万斤、銀8〜9万斤があり、真珠や玉、錦や綾絹をはじめ、その他めずらしい品物が山のように積まれていました。
董卓のヘソに火を灯す
董卓の死体は市に晒され、その時はちょうど暑くなり始めた頃だったので、元々肥満体だった董卓の死体からは脂が流れ出て地面にしみ込み、草が赤く変色していました。
死体を監視していた役人がいたずら心を出して、董卓のヘソに灯心を置いて火を灯したところ、その炎は数日間に渡って燃え続けました。
後に元董卓配下の兵が死体を焼いた灰を集めて棺におさめ、郿塢に葬りました。
豆知識
道士の警告
ある時、道士が布の上に「呂」という文字を書いて董卓に示したことがありました。
「布」に「呂」、つまり「呂布に気をつけろ」という意味です。
ですが、董卓がそのことに気づくことはありませんでした。
流行り歌
董卓が呂布に殺害される以前、巷では次のような歌が流行っていました。
千里草、何青青、十日卜、犹不生
千里の草 何ぞ青青たる
十日卜するも 猶お生ぜず
「千里の草」は、(縦に)草冠・千・里と書くと「董」の字になり、「十日卜する」は、(上下を逆にして)卜・日・十と書くと「卓」の字になります。
つまりこの歌からは、「董卓が青々と茂る草のように勢いが盛んであっても、そう長い命ではない」という意味を暗に読み取ることができます。
董逃行(董逃歌)
承楽世董逃 遊四郭董逃 蒙天恩董逃
帯金紫董逃 行謝恩董逃 整車騎董逃
垂欲発董逃 与中辞董逃 出西門董逃
瞻宮殿董逃 望京城董逃 日夜絶董逃
心摧傷董逃
楽世を承け董逃 四郭に遊び董逃
天恩を蒙り董逃 金紫を帯び董逃
行きて恩に謝す董逃 車騎を整え董逃
発せんと欲するに垂として董逃
与に中辞し董逃 西門を出で董逃
宮殿を瞻上げ董逃 京城を望み董逃
日夜絶え董逃 心摧け痛む董逃
「董逃行」とは楽府*1の題目の1つで、董卓はこの歌の節が「董(卓)が逃げる」と聞こえるために、この歌を歌うことを禁止していました。
「董逃」の本来の意味は明らかになっていませんが、本来不老長生を主題とした歌で、「董桃」が変化したのではないかという説があります。
参考文献
脚注
*1 漢代に巷間から採集し、保存した歌謡およびそれを模して作られた詩の一体。長句・短句の交錯する自由な詩形により、祭儀から日常生活に至る広範囲な題材を扱い、多くは楽器に合わせて歌われた。
192年4月、司徒・王允は巧みに呂布を仲間に引き入れ、董卓とその一族を殺害することに成功します。
ですが、長安の周囲には、董卓の娘婿・牛輔や、董卓の旧臣・李傕、郭汜らが軍勢を有したまま存在していました。
政権を完全に手中に収めたい王允にとっては、ただ董卓を殺害しただけでは安心はできず、まさにこれからが正念場となります。