正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内しています。
索引
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- 韓忠
- 韓馥・文節
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か
韓忠
荊州・南陽郡で蜂起した黄巾賊・張曼成の将。
張曼成とその後を継いだ趙弘が相次いで討たれると後を継いで抵抗を続けたが、朱儁の攻撃に耐えきれず宛県城を放棄して小城に籠もる。
その後、朱儁に降伏を断られ死兵となって戦うが、城から逃げ出したところを捕らえられ南陽太守・秦頡に殺害された。
韓馥・文節
生没年 | ?〜?(191年7月以降) |
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出身地 | 豫州・潁川郡 |
所属勢力 | 霊帝→少帝 |
朝廷の実権を握った董卓により冀州牧に任命されるが、その後反董卓連合に参加する。
董卓が即位させた献帝を認めず、袁紹と共に幽州牧・劉虞を天子に擁立しようとしたが、劉虞本人の反対により失敗した。
公孫瓚が冀州にに侵攻すると、保身のために袁紹に冀州を譲るが、すべての権力を剥奪されてしまう。その後、陳留太守・張邈の元に身を寄せるが、袁紹に命を狙われていると思い込み、自害してしまった。
き
襲景
『三国志演義』にのみ登場する架空の人物。青州太守。
黄巾賊に城を包囲されて落城寸前となった襲景は幽州太守・劉焉に救援を求め、援軍として駆けつけた鄒靖・劉備率いる義勇軍と共に戦って黄巾賊を撤退させた。
橋玄・公祖
豫州・梁国・睢陽県の人。
霊帝期に司空・司徒・太尉と三公すべてを歴任した。人物評価を得意としており、まだ若く無名であった曹操を高く評価したことで有名。
く
け
厳政
『三国志演義』にのみ登場する架空の人物。黄巾賊・張宝の将。
劉備の義勇軍の活躍で豫州・潁川郡・陽城県に籠もった張宝を刺し殺し、朱儁に降伏した。
献帝
生没年 | 181年〜234年 |
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出身地 | 司隷・河南尹・洛陽県 |
所属勢力 | 後漢 |
諱は劉協。霊帝の次子で少帝の異母弟にあたる。母の王美人は、劉協を生むと何皇后の嫉妬により毒殺された。
霊帝の死後、朝廷で権力を握った董卓に擁立されて天子に即位する。
その後、董卓は長安への遷都を強行し、長安を脱出した献帝は、曹操に保護されて都を豫州・潁川郡・許県に移した。
220年、曹操の跡を継いだ曹丕に帝位を禅譲し、400年に渡る漢王朝はその幕を閉じた。
こ
黄瓊・世英
荊州・江夏郡・安陸県の人。魏郡太守・黄香の子、黄琬の祖父。
順帝の公車徴(お召し)によって議郎となり、桓帝が即位すると三公を歴任して梁冀と対立した。
高昇
『三国志演義』にのみ登場する架空の人物。黄巾賊の将。
地公将軍・張宝の副将。朱儁が劉備の義勇軍を差し向けると先手として挑むが、張飛に数合で討ち取られた。
皇甫規・威明
涼州・安定郡・朝那県の人。
祖父は度遼将軍、父は扶風都尉を務めた名門の出身で、自身も異民族との戦いで数々の功績をあげた。宦官と対立し、党錮の禁の際には自ら党人であると名乗り出たが、罷免されることはなくそのまま用いられる。
皇甫規が亡くなると、若く美しい皇甫規の妻を妾にしようと董卓が迫ったが、毅然として断ったため殴り殺された。
皇甫嵩・義真
生没年 | ?〜195年 |
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出身地 | 涼州・安定郡・朝那県 |
所属勢力 | 霊帝→少帝→献帝 |
若い頃から真面目で慈悲深く、詩書を好んで弓馬術の習得に励んでいた。
黄巾の乱が勃発すると、党錮の禁の解禁と霊帝の私財の放出を提案。左中郎将に任命され、朱儁と共に潁川方面の黄巾討伐を担当する。
黄巾の乱が終結した後も各地の反乱鎮圧に活躍した。
その後、朝廷の実権を握った董卓と反目して冷遇されたが、董卓の死後は再び栄達し、その最期は病死だった。
侯覧
兗州・山陽郡・防東県の人。外戚・梁冀の誅殺に協力した功績によって桓帝の信任を得た宦官。
親族を刺史・太守に任命して栄耀栄華を極め、これに反発する儒家官僚(党人)を弾圧して党錮の禁を引き起こしたが、専権驕奢の罪により罷免されて自害した。
胡広・伯始
荊州・南郡・華容国の人。外戚・梁冀の専横を止めず、中常侍の丁粛と婚姻関係を結ぶなど、外戚や宦官と共存する老獪な生き方を貫き、安帝、順帝、沖帝、質帝、桓帝、霊帝の6代に仕えて重職を担った。
また、漢の制度をまとめた『漢制度』を遺し、蔡邕に大きな影響を与えた。
さ
蔡邕・伯喈
生没年 | 132 or 133〜192年 |
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出身地 | 兗州・陳留郡・圉県 |
所属勢力 | 桓帝→霊帝→少帝→董卓 |
若い頃から博学で、書物や算術、天文を好み、音楽にも精通していた。
霊帝の求めに応じて内密に高官の悪行を報告するが、秘密が漏洩して逆に罪を着せられ失脚する。後に董卓に召し出され、その後は董卓に仕えた。
董卓が誅殺された際、嘆くような素振りを見せたことから、怒った王允によって罪に問われる。その後、王允が悔いて容疑を取り下げようとしたが間に合わず、獄中で没した。
笮融
生没年 | 不明〜195年 |
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出身地 | 揚州・丹楊郡(丹陽郡) |
所属勢力 | 陶謙→劉繇→独立勢力 |
はじめ陶謙に身を寄せるも、職務上の輸送物資を横領し、その資金を使って大々的に仏教寺院を建立して領内に仏教を布教した。
その後、曹操が徐州に侵攻すると、広陵太守の趙昱を殺害して略奪を行い、揚州刺史の劉繇を頼る。
その劉繇が孫策の攻撃を受けると前線で孫策の攻撃を凌ぐが、最後は劉繇に背き、劉繇の討伐軍に敗れたところを付近の住民に殺害された。
左豊
本籍不明。小黄門(宦官)。
黄巾の乱の時、霊帝によって冀州・鉅鹿郡・広宗県で張角を包囲する盧植の陣に派遣された軍の視察官。
自分に賄賂を贈らなかったことに腹を立てた左豊の讒言によって盧植は罷免された。
し
周瑜・公瑾
生没年 | 175年〜210年 |
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出身地 | 揚州・廬江郡・舒県 |
所属勢力 | 孫策→孫権 |
父の周異は洛陽令、父の従兄弟・周景とその子・周忠は共に太尉を務めた名門の出身。
孫堅が反董卓連合に参加した際、舒県に移住してきた孫策と親交を結んだ。
孫策・孫権の2代に仕え、曹操の南下に際しては魯粛と共に徹底交戦を主張して「赤壁の戦い」を勝利に導く。
孫権に益州を得て曹操と対抗することを進言し、出陣の準備に向かう途上、病により36歳の若さで亡くなった。
朱暉・文季
荊州・南陽郡・宛県の人。父・朱岑の友であった光武帝に探し出されて郎となる。明帝の時、東平王・劉蒼に辟召され、後に臨淮太守となった。気高い節操と堅い信念を持つ人物を多く抜擢した。
朱儁・公偉
生没年 | ?〜195年 |
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出身地 | 揚州・会稽郡・上虞県 |
所属勢力 | 霊帝→少帝→献帝 |
黄巾の乱が起こると右中郎将に任命され、皇甫嵩らと各地を転戦してその鎮圧に貢献した。
黄巾の乱後に実権を握った董卓や李傕・郭汜らにも高く評価されて表面上は従ったが、最期まで献帝の復権を願っていた。
吉川英治の小説『三国志』や、これを原作とした横山光輝の漫画『三国志』では、傲慢で凡庸な将軍として描かれているため、無能なイメージがついてしまった可哀想な人。
朱穆・公叔
荊州・南陽郡・宛県の人。朱暉の孫。大将軍・梁冀の故吏で、たびたび梁冀の横暴を諫めた。
冀州刺史に就任すると宦官の不正を厳しく取り締まったが、その苛烈さが桓帝の怒りに触れて罷免される。その後尚書令に任命されたが、宦官に対する厳しさは変わらなかった。
死後、蔡邕によって「文忠先生」と諡される。
荀爽・慈明
豫州・潁川郡・潁陰県の人。荀淑の子、荀彧の叔父。
杜喬に「荀氏八龍(みな優秀と言われた荀淑の8人の子)の中で慈明に並ぶ者はいない」と評される。
董卓に厚遇され、わずか95日間で平原相から司空に昇進する異例の大出世を遂げた。
鍾皓・秀明
豫州・潁川郡・長社県の人。鍾繇の祖父。
若い頃から篤行(人情に篤い誠実な行為)を称えられる。法律に通じ、密山に隠棲して門弟千余人に『詩経』や法律を講義した。
諸葛亮・孔明
生没年 | 181年〜234年 |
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出身地 | 徐州・琅邪国・陽都県 |
所属勢力 | 劉備→劉禅 |
幼い頃に父を亡くすと従父の諸葛玄と共に劉表を頼って荊州に移住し、崔州平や徐庶らと親交を持って農耕生活を送っていた。
「三顧の礼」をもって劉備の軍師に迎えられると、蜀漢の建国に多大な貢献をする。
劉備が崩御すると丞相として劉禅をよく補佐し、国是である北伐を行うが、5度目の出陣中に病に倒れて陣中で没した。
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す
鄒靖
生没年 | 不明 |
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出身地 | 不明 |
所属勢力 | 霊帝(→少帝→献帝) |
黄巾の乱が起こると、挙兵した劉備を従えてその討伐にあたった。
翌年の185年、皇甫嵩と共に「韓遂・辺章の乱」の鎮圧に向かった際、烏桓兵3,000人の増援の案に対し「烏桓兵は弱いので鮮卑兵を採用すべきだ」と提案したものの「鮮卑兵は野蛮で戦地で略奪を働くから」と反対されて却下された。
鄒靖は辺境近くで暮らしていた経験があり、異民族たちの実態をよく知っていたらしい。
せ
単超
司隷・河南尹の人。宦官。梁冀の専横を危惧する桓帝に協力した。
梁冀の誅殺に成功すると、功績第一として新豊侯(司隷・京兆尹・新豊県)2万戸に封ぜられるが、その数ヶ月後に病死する。
そ
臧洪・子源
生没年 | ?〜196年 |
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出身地 | 徐州・広陵郡・射陽県 |
所属勢力 | 献帝→張超→袁紹 |
広陵太守・張超に招かれて功曹となると「董卓討伐」を提案し、諸将を代表して誓いを立てた。
その後、幽州牧・劉虞への使者となった際に袁紹によって留められる。
旧主・張超が曹操に包囲されると、袁紹に張超の救援を願うも聞き入れらず、袁紹と関係を絶って城に立て籠もったが、袁紹の攻撃に敗れて処刑された。
曹嵩・巨高
豫州・沛国・譙県の人。曹操の父。
宦官・曹騰の養子となって司隷校尉、大鴻臚、大司農を歴任し、実に1億銭を霊帝に献上して太尉に就任する。
晩年は戦乱を避けて徐州・琅邪国に避難していたが、兗州に地盤を得た曹操の元に向かう途中、陶謙の兵に襲われて殺害された。
曹節・漢豊
荊州・南陽郡・新野県の人。宦官。
順帝の時に西園騎から小黄門となり、桓帝が崩御すると中黄門、虎賁、羽林1,000人を率いて劉宏(霊帝)を迎える。
竇武・陳蕃らの宦官一掃計画を察知すると逆に彼らを誅殺し、政治の実権を握って権勢を誇った。
曹操・孟徳
生没年 | 155年〜220年 |
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出身地 | 豫州・沛国・譙県 |
所属勢力 | 霊帝→少帝→献帝 |
父・曹嵩が中常侍・曹騰の養子となったため曹氏を継ぐ。
董卓が朝廷を支配すると洛陽を脱出し、私財を投じて挙兵した。
董卓の死後、長安を脱出した献帝を迎えると着々と中原の支配を固め、官渡の戦いで袁紹を破ると、華北一帯に及ぶ一大勢力を築く。
216年に魏王に封じられるが、最後まで帝位にはつかず、後漢の丞相としてその生涯を閉じる。
曹騰・季興
豫州・沛国・譙県の人。安帝、順帝、冲帝、質帝の4代に仕えた宦官。曹操の養祖父。
桓帝の擁立に貢献したことにより費亭侯に封ぜられ、大長秋に昇進して特進を加えられる。政治闘争の激しい宮中にあって30年あまりも大過なく勤めた。
孫夏
荊州・南陽郡で蜂起した黄巾賊・張曼成の将。『三国志演義』では孫仲として登場する。
張曼成、趙弘の後を継いだ韓忠は城を捨てて撤退。朱儁の攻撃を受けて降伏するが、南陽太守・秦頡が降伏した韓忠を殺害したため、孫夏は兵をまとめて再度宛県城に籠もった。
その後、孫堅の攻撃に耐えきれず城を捨てて逃亡するが、荊州・南陽郡・西鄂県の精山で討ち取られる。
孫堅・文台
生没年 | 155年〜191年 |
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出身地 | 揚州・呉郡・富春県 |
所属勢力 | 霊帝→少帝→献帝 |
17歳の時に銭唐県で海賊退治をしたことで名を挙げ、その後は会稽郡で起こった許昌の乱をはじめとする各地の反乱の鎮圧で活躍した。
また、袁紹を盟主とする反董卓連合に応じて挙兵し、袁術の下で積極的に戦って華雄を討ち取った。
袁紹と袁術の対立が深まると、袁術の命によって袁紹派の劉表を攻めるが、黄祖の部下が放った矢によって命を落とした。
た
段熲・紀明
涼州・武威郡・姑臧県の人。皇甫規や張奐らが羌族に慎重な姿勢をとる中、強硬策を主張して討伐を押し進め、東西羌を平定する。
司隷校尉に任じられると宦官の王甫らに与して太学生を弾圧するが、後に王甫らとの関係を弾劾され服毒自殺した。
檀石槐
鮮卑族の大人。父・投鹿侯が3年間南匈奴に従軍している間に生まれる。
不義の子として殺されかけるが、母の「口に入った雹を飲み込んだところ身籠もったので、きっと非凡な人物になるでしょう」という助命嘆願によって、母は離縁され檀石槐の命は助けられた。
その後、勇健で知略に富んだ檀石槐は部族内で推されて大人となる。初めて鮮卑族を統一し、扶余・丁零・烏孫を討って内外モンゴル一帯を支配すると、たびたび後漢領内に侵入・略奪をくり返し、討伐軍を退けた。
ち
种暠・景伯
司隷・河南尹・洛陽県の人。
益州刺史を務めていた時、蜀郡太守が曹騰に私的に送った書簡を手に入れ蜀郡太守と曹騰を弾劾したが、逆に曹騰はこの行為を褒め称え、その後も种暠を厚く遇した。
後に司徒となった种暠は「今の自分があるのは曹常侍(曹騰)のお陰だ」と語った。
趙雲・子龍
生没年 | ?〜229年 |
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出身地 | 冀州・常山郡・真定県 |
所属勢力 | 公孫瓚 → 劉備 → 劉禅 |
はじめ公孫瓚に仕えたが、後に劉備に仕える。
長坂の戦いでは、曹操軍の激しい追撃の中劉備の妻子を守りきった。
また、定軍山の戦いではみごとな空城の計によって敵を退却させ、劉備に「子龍は一身すべてこれ肝なり」と称賛される。
劉備亡き後も冷静な判断と実直な人柄で劉禅を支え、死後に順平侯の諡号を贈られた。
張温・伯慎
荊州・南陽郡・穣県の人。中常侍・曹騰の推挙によって取り立てられ、大司農から司空に昇進した。
皇甫嵩の後任として「辺章・韓遂の乱」の鎮圧にあたるが、配下にいた董卓の恨みを買う事となり、その後朝廷で権力を握った董卓に処刑された。
趙戒・志伯
益州・蜀郡・成都県の人。
不正を働いた者はどのような身分でも厳しく取り締まったことで名をあげる。その後三公を歴任するが、梁冀の専横には対抗することができなかった。
張角
生没年 | ?〜184年 |
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出身地 | 冀州・鉅鹿郡 |
所属勢力 | 独立勢力 |
道教の一派である太平道の開祖。自ら大賢良師と称し、8つの州にまたがり40〜50万人の信者を抱えていた。
表面的には善道を説いていたが、信者を36の「方」に分け、それぞれに将軍を配置してまとめさせると、信者による一斉蜂起をうながして後漢の転覆を企てた。
宗教家としての太平道人、大賢良師に続いて、黄巾の乱を引き起こした際は、天公将軍と称するなど、肩書きが大好きな人。黄巾の乱の最中に病死する。
張奐・然明
涼州・敦煌郡・淵泉県の人。使匈奴中郎将、度遼将軍を歴任し、異民族の平定で大功をあげる。
第二次党錮の禁に際し、宦官に命じられるまま竇武を包囲して自害に追い込んだことを恥じ、以後宦官と対立した。
趙弘
荊州・南陽郡で蜂起した黄巾賊・張曼成の将。
張曼成が南陽太守・秦頡に討たれると、その後を継いで宛県城に籠もり続けたが、朱儁の総攻撃を受けて敗死した。
張譲
豫州・潁川郡の人。宦官。霊帝期の中常侍の中心人物で、霊帝から絶大な信頼を受けて栄華を極めた。
霊帝の死後、袁紹の攻撃を受けた張譲は少帝と陳留王を連れて洛陽を脱出するが、追い詰められ、川に身を投げて自害した。
張邈・孟卓
生没年 | ?〜195年 |
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出身地 | 兗州・東平国・寿張県 |
所属勢力 | 献帝→曹操→呂布 |
若い頃から袁紹と「奔走の友」の交わりを結び、董卓が朝廷の実権を握ると陳留太守に任命されるが、弟の張超と共に反董卓連合に加わった。
その後は兗州牧となった曹操に従っていたが、曹操の徐州侵攻の隙を突いて呂布、陳宮らと反乱を起こす。
急ぎ徐州から帰還した曹操に呂布が敗れると劉備を頼って徐州に落ち延びるが、兗州に残した弟・張超のため袁術に救援要請に行く途上、部下に殺害された。
張飛・益徳
生没年 | ?〜221年 |
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出身地 | 幽州・涿郡 |
所属勢力 | 劉備 |
劉備の挙兵以来、関羽と共に兄弟のように仕えた万夫不当の豪傑。
長坂の戦いでは、曹操軍から逃げる劉備を守るために殿軍を務め、一喝して曹操軍を退けるなど、その勇名は敵味方に轟いていた。
目上の者は敬うが、部下に対する苛烈な刑罰を改めることができず、関羽の弔い合戦の前に恨みを抱いていた部下の范彊・張達に殺害された。『三国志演義』での字は翼徳。
張宝
生没年 | ?〜184年 |
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出身地 | 冀州・鉅鹿郡 |
所属勢力 | 張角 |
太平道の開祖・張角の弟。張梁の兄。張角が黄巾の乱を起こすと地公将軍と称してこれに従った。
朝廷より討伐軍が派遣されると、病床の張角の代わりに指揮をとった。兄の張角が病死し弟の張梁が戦死する中、冀州・鉅鹿郡の下曲陽に籠城して最後まで抵抗したが、皇甫嵩率いる討伐軍に敗れて討たれた。
『三国志演義』では妖術を使って官軍を苦しめた。
張曼成
荊州・南陽郡で蜂起した黄巾賊の将。
184年3月、太平道の張角が蜂起すると「神上使」を称して南陽太守・褚貢を殺害し、宛県城を拠点とするが、新たに任命された南陽太守・秦頡の攻撃を受けて討ち死にする。
張梁
生没年 | ?〜184年 |
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出身地 | 冀州・鉅鹿郡 |
所属勢力 | 張角 |
太平道の開祖・張角の末弟。張角が黄巾の乱を起こすと兄の張宝とともに人公将軍と称してこれに従った。
朝廷より討伐軍が派遣されると冀州・鉅鹿郡・広宗県で迎え撃ち、緒戦を勝利するなど官軍を苦しめるが、最後は皇甫嵩軍の奇襲を受け、敗れて斬り殺された。
褚貢
荊州・南陽郡で蜂起した黄巾賊・張曼成に殺害された南陽太守。
陳温・元悌
豫州・汝南郡の人。初平元年(190年)当時の揚州刺史。
董卓が支配する洛陽(雒陽)から逃亡してきた許靖を匿った他、曹洪と親しく、董卓に敗れた曹操に廬江郡の精鋭武装兵・2,000人を援助した。
その死については、「初平3年(192年)冬に病死」とする記録と、「初平4年(193年)3月に袁術によって殺害された」とする記録がある。
陳寔・仲弓
豫州・潁川郡・許県の人。子に陳紀。孫に陳羣がいる。
貧しい家に生まれたが、太学に学び郡の西門亭長・功曹従事となった。党錮の禁に連座したが、宦官・張譲の父の葬儀に出席していたために許された。
陳蕃・仲挙
豫州・汝南郡・平輿県の人。党人の指導者で「三君」の1人。
霊帝が即位すると太傅・録尚書事に任命される。竇武と共に宦官誅殺を計画するが、事前に察知され、捕らえられて獄死した。
て
程遠志
『三国志演義』にのみ登場する架空の人物。黄巾賊の将。
5万の兵を率いて幽州・涿郡・涿県に攻め寄せるが、大興山のふもとで鄒靖・劉備率いる500の義勇軍に遭遇し、関羽に一刀両断にされた。
典韋
生没年 | ?〜197年 |
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出身地 | 兗州・陳留郡・己吾県 |
所属勢力 | 張邈(趙寵)→曹操 |
反董卓の義兵を挙げた張邈配下の趙寵に所属したが、曹操が兗州牧に迎えられると夏侯惇に所属して戦功を立て、司馬に任命された。
その後、曹操の身辺警護に当たるようになると「帳下の壮士に典君あり」と謳われたが、荊州・南陽郡・宛県で張繡が曹操に謀叛した際、門の前に立ちはだかって曹操の逃走を助け、壮絶な最期を遂げた。
と
陶謙・恭祖
生没年 | 132年〜194年 |
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出身地 | 揚州・丹楊郡(丹陽郡) |
所属勢力 | 桓帝→霊帝→少帝→献帝 |
車騎将軍・張温の下で「辺章・韓遂の乱」討伐に参加し、後に徐州刺史に任命されて徐州の黄巾賊を撃ち破った。
李傕・郭汜らが朝廷の実権を握ると、朱儁を太師に推戴して討伐を計画するが、失敗。朝廷に帰順して徐州牧に任命される。
曹操の2度に渡る徐州侵攻を凌いだが、その後病を患い、「劉備に徐州を譲る」ことを遺言して亡くなった。
董卓・仲穎
生没年 | ?〜192年 |
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出身地 | 涼州・隴西郡・臨洮県 |
所属勢力 | 桓帝→霊帝→少帝→献帝 |
若い頃から武芸に秀で、羌族などの異民族と交流を持った。
黄巾の乱では盧植の後任として討伐に当たるも敗退して職を解かれる。
何進の宦官一掃に協力して洛陽に入ると反対勢力を駆逐して実権を掌握。少帝を廃して献帝を擁立すると、自ら相国となって暴虐の限りを尽くした。
打倒董卓を掲げる「反董卓連合」を退けるが、配下の呂布に殺された。
竇武・游平
司隷・右扶風・平陵県の人。桓帝の皇后・竇妙の父。「三君」の筆頭。
陳蕃と共に党人を庇護して宦官と対立。宦官の誅殺を計画するが、逆に「霊帝廃位を目論んだ逆賊」として包囲され自害した。
鄧茂
『三国志演義』にのみ登場する架空の人物。5万の兵を率いて幽州・涿郡・涿県に攻め寄せた程遠志の副将。
大興山のふもとで鄒靖・劉備率いる500の義勇軍に遭遇し、先手として戦いを挑むが、張飛に一突きで殺された。
杜喬・叔栄
司隷・河内郡・林慮県の人。順帝に泰山太守の李固を推挙し、外戚・梁冀と関係のある地方官を次々に弾劾した。
質帝が梁冀に毒殺されると李固と共に清河王・劉蒜を擁立しようとするが、蠡吾侯・劉志(後の桓帝)を擁立しようとする梁冀に敗れて殺害された。
な
南華老仙
生没年 | 不明 |
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出身地 | 不明 |
所属勢力 | なし |
『三国志演義』のみに登場する仙人。張角に『太平要術の書』を授ける。
「これを使って民を助けよ。ただし、悪しきことに使えば天罰が下る」と忠告するも、張角は『太平要術の書』で習得した妖術を頼りに太平道を開き、黄巾の乱を引き起こした。
南華老仙は、戦国時代の思想家である荘周(荘子)が仙人になった姿と考えられており、青い目を持つ子供のような顔をした老人として描かれている。
ね
の
は
馬元義
黄巾賊の将。184年、朝廷の宦官に内応工作を行うために洛陽に潜伏していたが、部下の唐周の密告によって計画が露見し、捕縛されて処刑された。
馬融・季長
司隷・右扶風・茂陵県の人。馬援の兄の子。
外戚の鄧氏に逆らって左遷されるが、桓帝の代になって南郡太守となり、中央に召されて議郎に任命される。経籍に精通し、盧植、鄭玄などの弟子を世に出した。
ひ
ふ
へ
ほ
鮑信
生没年 | 152年〜192年 |
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出身地 | 兗州・泰山郡 |
所属勢力 | 霊帝→少帝→献帝 |
董卓が洛陽を支配すると、袁紹に董卓を討つように勧めるが受け入れられず、曹操の挙兵に呼応して反董卓連合に加わる。
董卓との戦いでは、盟主の袁紹よりもまだ力なき曹操を高く評価し、行動を共にした。
その後済北相となると、兗州牧となった曹操と共に侵攻してきた青州黄巾と戦うが、激戦の中戦死した。
ま
む
め
も
や
ゆ
よ
ら
り
李傕・稚然
生没年 | ?〜198年 |
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出身地 | 涼州・北地郡 |
所属勢力 | 董卓→少帝→献帝 |
董卓配下の校尉。董卓誅殺の報が入ると、郭汜らと長安を包囲して陥落させ、王允を斬った。
その後、郭汜、樊稠らと朝廷で権力を握ったが、やがて郭汜と対立する。
献帝が洛陽(雒陽)に向かうと、郭汜と和睦して献帝を追ったが捕らえることはできず、その後は権勢を失って、朝廷が派遣した裴茂に討伐された。
陸康・季寧
生没年 | 126年〜195年 |
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出身地 | 揚州・呉郡・呉県 |
所属勢力 | 桓帝→霊帝→少帝→献帝 |
若い頃から孝行と義烈(正義の心がきわめて強いこと)をもって知られ、陸康が赴任すると百姓たちは大いに喜び、盗賊もいなくなったので、州郡にその功績を称えられた。
後に復帰して廬江太守に任命されるが、袁術の物資援助要請を断ったことで怨みを買い、袁術の命を受けた孫策の攻撃を受けて城は陥落。その1ヶ月余り後に病で亡くなった。
李固・子堅
益州・漢中郡・南鄭県の人。大将軍・梁商に辟召されるが、梁商の子・梁冀と対立した。後に太尉に昇進する。
質帝が梁冀に毒殺されると、蠡吾侯・劉志(後の桓帝)を擁立しようとする梁冀に対抗して杜喬と共に清河王・劉蒜を擁立するが、冤罪によって投獄・殺害された。
劉焉・君郎
生没年 | ?〜194年 |
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出身地 | 荊州・江夏郡・竟陵県 |
所属勢力 | 霊帝→少帝→献帝 |
前漢の魯恭王であった劉余(景帝の第4子)の末裔に当たる。
霊帝の時代、政治の腐敗や黄巾の乱の影響によって刺史や太守の支配力が弱体化していることを理由に、軍権と民政権を兼ねた「州牧」の復活を提案し、みずから益州の牧となる。劉璋の父。
『三国志演義』では、黄巾の乱の時に幽州太守として登場するが、正史にその記録はなく、後に益州を治めることになる劉備との因果関係を強める演出である。
劉悝
桓帝の弟。勃海王。165年に反乱を計画した罪で廮陶王に格下げされる。
中常侍の王甫に勃海王への復帰工作を依頼していたが、桓帝の遺詔によって復帰が叶うと(王甫のお陰ではないからと)王甫に礼金を支払わなかった。
これを恨みに思った王甫は「劉悝に帝位簒奪の企みあり」と誣告し、追い詰められた劉悝は自害に追い込まれる。
劉虞・伯安
生没年 | ?〜193年 |
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出身地 | 徐州・東海郡・郯県 |
所属勢力 | 霊帝→少帝→献帝 |
東海恭王・劉彊[後漢の初代皇帝・光武帝 (劉秀)の長子]の末裔に当たる。
清貧で知られ、幽州牧に任命されて「張純の乱」を平定。反董卓連合が決起すると、袁紹らに天子に推戴されるが、これを拒絶した。
その後、暴走する公孫瓚討伐の軍を起こすが、敗れて捕らえられ、帝号を僭称しようとした罪で処刑された。
劉陶・子奇
豫州・潁川郡・潁陰県の人。漢の宗族。
太平道が蜂起する前から張角の危険性を進言していた功により、中陵郷侯に封ぜられるが、その後宦官を弾劾する上奏を行ったため、宦官によって「先の進言は張角と結んでいたから知ることができた」と讒言され、獄中で自害した。
劉表・景升
生没年 | 142年〜208年 |
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出身地 | 兗州・山陽郡・高平県 |
所属勢力 | 霊帝→少帝→献帝 |
前漢の景帝の第4子・魯恭王・劉余の第6子、郁桹侯・劉驕の子孫。若い頃から清流派の党人として名声を得る。
孫堅によって荊州刺史・王叡が殺害されると、その後任に任命される。また、劉表は学問を奨励したため、戦乱を逃れた名士や学者の多くが荊州に移住した。
河北を平定した曹操が南下の姿勢を見せると、領土を失った劉備を受け入れて最前線の新野県を守らせるが、間もなく亡くなった。
劉備・玄徳
生没年 | 161年〜223年 |
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出身地 | 幽州・涿郡・涿県 |
所属勢力 | 霊帝→少帝→献帝 →蜀漢建国 |
前漢の景帝の第9子、中山靖王・劉勝の庶子、劉貞の末裔というが、定かではない。
黄巾の乱の時に挙兵。以来各地を転戦するも確たる地盤を持てずにいたが、軍師・諸葛亮を迎えると「天下三分の計」に従って益州の地に地盤を築いた。
献帝が曹魏に禅譲すると、皇帝に即位して「蜀漢」を建国する。配下の関羽の仇討ちに呉に攻め込むが、陸遜の火計に敗退し、病を患って白帝城で諸葛亮に後事を託して没する。
劉繇・正礼
生没年 | 157年〜198年 |
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出身地 | 青州・東萊郡・牟平県 |
所属勢力 | 霊帝→少帝→献帝 |
前漢の孝王の末裔。青州・済南国の行政監察にあたった時には、賄賂を貪る中常侍の息子を罷免するなどしたが、その後は官職につがず、戦乱を避けて淮水流域に避難した。
後に揚州刺史に任命されると、勝手に郡県を攻撃する袁術と敵対する。
その後は、袁術が派遣した孫策に敗北を重ね、豫章郡(予章郡)に移るが、まもなく病死した。
李膺・元礼
豫州・潁川郡・襄城県の人。党人の中心人物。太守を歴任して多くの宦官の不正を摘発する。第二次党錮の禁が起こると投獄されて殺された。
梁冀・伯卓
涼州・安定郡・烏枝県の人。 後漢第8代皇帝・順帝の皇后・梁妠の兄。外戚として権力を握り、順帝、冲帝、質帝、桓帝の4代に渡って国政を私物化した。
成人した桓帝が宦官・単超らの助力を得て梁冀の排斥に成功したことから、一層宦官への権力集中が進んだ。
呂布・奉先
生没年 | ?年〜199年 |
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出身地 | 幷州・五原郡 |
所属勢力 | 丁原→董卓→独立 |
丁原に仕えていたが、董卓が洛陽に入ると丁原を殺して董卓に従い、父子の契りを結ぶ。「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞された万夫不当の豪傑。
その後、司徒・王允らと結んで董卓を殺害するが、李傕・郭汜に敗れて各地を放浪、自分を受け入れてくれた劉備が治める徐州を奪う。
その後劉備と結んだ曹操に包囲されると配下の裏切りを受けて降伏するが、命乞いも空しく劉備の進言によって処刑された。
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れ
霊帝(劉宏)
生没年 | 156〜189年 |
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出身地 | 冀州・河間国 |
所属勢力 | 後漢 |
後漢第12代皇帝。先帝の桓帝には男子がなく、第3代皇帝・章帝の玄孫にあたる劉宏がわずか12歳で即位した。
即位してすぐに「第二次党錮の禁」が起こり、十常侍を筆頭とする宦官が権力を握ると、その傀儡となって良将賢臣を遠ざける。
また、皇帝自らが「売官」を行い賄賂を横行させたため、民衆は重い賦役に一層苦しむようになり、「黄巾の乱」の一因となった。
ろ
盧植・子幹
生没年 | ?〜192年 |
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出身地 | 幽州・涿郡・涿県 |
所属勢力 | 霊帝→少帝→袁紹 |
鄭玄とともに馬融に師事して儒学を学び、故郷幽州・涿郡・涿県で近隣の子弟に学問を教えていた。門下には劉備や公孫瓚がいる。
黄巾の乱が起こると北中郎将に任命されて討伐軍の一翼を担ったが、軍の監察に来た左豊に賄賂を求められ、これを断ったために罪を着せられて免官された。
黄巾の乱が終結すると、皇甫嵩が冤罪を証明したために復職したが、董卓の献帝擁立に反対したために再び免官された。
晩年は袁紹の軍師となって病死した。