正史『三国志』『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内しています。

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  • 関羽かんう雲長うんちょう
  • 韓忠かんちゅう
  • 韓馥かんふく文節ぶんせつ

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関羽かんう雲長うんちょう


関羽(かんう)

生没年 ?〜220年
出身地 司隷しれい河東郡かとうぐん解県かいけん
所属勢力 劉備りゅうび

解県かいけんで暴利を貪る塩商人を殺して幽州ゆうしゅうに逃げてきたところで劉備りゅうび張飛ちょうひと出会い、劉備りゅうびに仕えて挙兵した。

曹操そうそうに捕らえられた際は、厚遇されても劉備りゅうびへの忠誠を忘れず、曹操そうそうの敵であった袁紹えんしょう配下の猛将、顔良がんりょうを討って恩を返してから曹操そうそうのもとを去った。

劉備りゅうびが蜀の地を得ると荊州けいしゅうを任されるが、傲慢で敵をあなどる性格が災いし、魏を攻めている最中、呉に背後を突かれて敗死した。


韓忠かんちゅう


荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんで蜂起した黄巾賊・張曼成ちょうまんせいの将。

張曼成ちょうまんせいとその後をいだ趙弘ちょうこうが相次いで討たれると後をいで抵抗を続けたが、朱儁しゅしゅんの攻撃に耐えきれず宛県城えんけんじょうを放棄して小城にもる。

その後、朱儁しゅしゅんに降伏を断られ死兵となって戦うが、城から逃げ出したところを捕らえられ南陽太守なんようたいしゅ秦頡しんけつに殺害された。



韓馥かんふく文節ぶんせつ


韓馥(かんふく)

生没年 ?〜?(191年7月以降)
出身地 豫州よしゅう潁川郡えいせんぐん
所属勢力 霊帝れいてい少帝しょうてい

朝廷の実権を握った董卓とうたくにより冀州牧きしゅうぼくに任命されるが、その後反董卓とうたく連合に参加する。

董卓とうたくが即位させた献帝けんていを認めず、袁紹えんしょうと共に幽州牧ゆうしゅうぼく劉虞りゅうぐを天子に擁立ようりつしようとしたが、劉虞りゅうぐ本人の反対により失敗した。

公孫瓚こうそんさん冀州きしゅうにに侵攻すると、保身のために袁紹えんしょう冀州きしゅうゆずるが、すべての権力を剥奪はくだつされてしまう。その後、陳留太守ちんりゅうたいしゅ張邈ちょうばくの元に身を寄せるが、袁紹えんしょうに命を狙われていると思い込み、自害してしまった。


襲景きょうけい


三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物。青州太守せいしゅうたいしゅ

黄巾賊に城を包囲されて落城寸前となった襲景きょうけい幽州太守ゆうしゅうたいしゅ劉焉りゅうえんに救援を求め、援軍としてけつけた鄒靖すうせい劉備りゅうびひきいる義勇軍と共に戦って黄巾賊を撤退させた。



橋玄きょうげん公祖こうそ


豫州よしゅう梁国りょうこく睢陽県すいようけんの人。

霊帝れいてい期に司空しくう司徒しと太尉たいい三公さんこうすべてを歴任した。人物評価を得意としており、まだ若く無名であった曹操そうそうを高く評価したことで有名。



厳政げんせい


三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物。黄巾賊・張宝ちょうほうの将。

劉備りゅうびの義勇軍の活躍で豫州よしゅう潁川郡えいせんぐん陽城県ようじょうけんもった張宝ちょうほうを刺し殺し、朱儁しゅしゅんに降伏した。



献帝けんてい


献帝(けんてい)

生没年 181年〜234年
出身地 司隷しれい河南尹かなんいん洛陽県らくようけん
所属勢力 後漢ごかん

いみな劉協りゅうきょう霊帝れいていの次子で少帝しょうてい異母弟いぼていにあたる。母の王美人おうびじんは、劉協りゅうきょうを生むと何皇后かこうごうの嫉妬により毒殺された。

霊帝れいていの死後、朝廷で権力を握った董卓とうたく擁立ようりつされて天子に即位する。

その後、董卓とうたく長安ちょうあんへの遷都せんとを強行し、長安ちょうあんを脱出した献帝けんていは、曹操そうそうに保護されて都を豫州よしゅう潁川郡えいせんぐん許県きょけんに移した。

220年、曹操そうそうの跡を継いだ曹丕そうひに帝位を禅譲ぜんじょうし、400年に渡る漢王朝はその幕を閉じた。


黄瓊こうけい世英せいえい


荊州けいしゅう江夏郡こうかぐん安陸県あんりくけんの人。魏郡太守ぎぐんたいしゅ黄香こうこうの子、黄琬こうえんの祖父。

順帝じゅんてい公車徴こうしゃちょう(お召し)によって議郎ぎろうとなり、桓帝かんていが即位すると三公さんこうを歴任して梁冀りょうきと対立した。



高昇こうしょう


三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物。黄巾賊の将。

地公将軍ちこうしょうぐん張宝ちょうほうの副将。朱儁しゅしゅん劉備りゅうびの義勇軍を差し向けると先手さきてとしていどむが、張飛ちょうひに数合で討ち取られた。



皇甫規こうほき威明いめい


涼州りょうしゅう安定郡あんていぐん朝那県ちょうなけんの人。

祖父は度遼将軍とりょうしょうぐん、父は扶風都尉ふふうといを務めた名門の出身で、自身も異民族との戦いで数々の功績をあげた。宦官かんがんと対立し、党錮とうこの禁の際にはみずか党人とうじんであると名乗り出たが、罷免ひめんされることはなくそのままもちいられる。

皇甫規こうほきが亡くなると、若く美しい皇甫規こうほきの妻をめかけにしようと董卓とうたくせまったが、毅然きぜんとして断ったため殴り殺された。



皇甫嵩こうほすう義真ぎしん


皇甫嵩(こうほすう)

生没年 ?〜195年
出身地 涼州りょうしゅう安定郡あんていぐん朝那県ちょうなけん
所属勢力 霊帝れいてい少帝しょうてい献帝けんてい

若い頃から真面目で慈悲深く、詩書を好んで弓馬術の習得に励んでいた。

黄巾の乱が勃発すると、党錮とうこの禁の解禁と霊帝れいていの私財の放出を提案。左中郎将さちゅうろうしょうに任命され、朱儁しゅしゅんと共に潁川えいせん方面の黄巾討伐を担当する。

黄巾の乱が終結した後も各地の反乱鎮圧に活躍した。
その後、朝廷の実権を握った董卓とうたくと反目して冷遇されたが、董卓とうたくの死後は再び栄達し、その最期は病死だった。


侯覧こうらん


兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん防東県ぼうとうけんの人。外戚がいせき梁冀りょうき誅殺ちゅうさつに協力した功績によって桓帝かんていの信任を得た宦官かんがん

親族を刺史しし太守たいしゅに任命して栄耀栄華えいようえいがを極め、これに反発する儒家官僚(党人とうじん)を弾圧して党錮とうこの禁を引き起こしたが、専権驕奢せんけんきょうしゃの罪により罷免ひめんされて自害した。



胡広ここう伯始はくし


荊州けいしゅう南郡なんぐん華容国かようこくの人。外戚がいせき梁冀りょうきの専横を止めず、中常侍ちゅうじょうじ丁粛ていしゅくと婚姻関係を結ぶなど、外戚がいせき宦官かんがんと共存する老獪ろうかいな生き方を貫き、安帝あんてい順帝じゅんてい沖帝ちゅうてい質帝しつてい桓帝かんてい霊帝れいていの6代に仕えて重職を担った。

また、かんの制度をまとめた漢制度かんせいどを遺し、蔡邕さいように大きな影響を与えた。



蔡邕さいよう伯喈はくかい


蔡邕(さいよう)

生没年 132 or 133〜192年
出身地 兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん圉県ぎょけん
所属勢力 桓帝かんてい霊帝れいてい少帝しょうてい董卓とうたく

若い頃から博学で、書物や算術、天文を好み、音楽にも精通していた。

霊帝れいていの求めに応じて内密に高官の悪行を報告するが、秘密が漏洩ろうえいして逆に罪を着せられ失脚する。のち董卓とうたくに召し出され、その後は董卓とうたくに仕えた。

董卓とうたく誅殺ちゅうさつされた際、なげくような素振りを見せたことから、怒った王允おういんによって罪に問われる。その後、王允おういんが悔いて容疑を取り下げようとしたが間に合わず、獄中で没した。


笮融さくゆう


笮融(さくゆう)

生没年 不明〜195年
出身地 揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん
所属勢力 陶謙とうけん劉繇りゅうよう→独立勢力

はじめ陶謙とうけんに身を寄せるも、職務上の輸送物資を横領し、その資金を使って大々的に仏教寺院を建立して領内に仏教を布教した。

その後、曹操そうそう徐州じょしゅうに侵攻すると、広陵太守こうりょうたいしゅ趙昱ちょういくを殺害して略奪を行い、揚州刺史ようしゅうしし劉繇りゅうようを頼る。

その劉繇りゅうよう孫策そんさくの攻撃を受けると前線で孫策そんさくの攻撃をしのぐが、最後は劉繇りゅうようそむき、劉繇りゅうようの討伐軍に敗れたところを付近の住民に殺害された。


左豊さほう


本籍不明。小黄門しょうこうもん宦官かんがん)。

黄巾の乱の時、霊帝れいていによって冀州きしゅう鉅鹿郡きょろくぐん広宗県こうそうけん張角ちょうかくを包囲する盧植ろしょくの陣に派遣された軍の視察官。

自分に賄賂わいろおくらなかったことに腹を立てた左豊さほう讒言ざんげんによって盧植ろしょく罷免ひめんされた。



周瑜しゅうゆ公瑾こうきん


周瑜・公瑾(しゅうゆ・こうきん)

生没年 175年〜210年
出身地 揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐん舒県じょけん
所属勢力 孫策そんさく孫権そんけん

父の周異しゅうい洛陽令らくようれい、父の従兄弟いとこ周景しゅうけいとその子・周忠しゅうちゅうは共に太尉たいいつとめた名門の出身。

孫堅そんけんが反董卓とうたく連合に参加した際、舒県じょけんに移住してきた孫策そんさくと親交を結んだ。

孫策そんさく孫権そんけんの2代に仕え、曹操そうそうの南下に際しては魯粛ろしゅくと共に徹底交戦を主張して「赤壁の戦い」を勝利に導く。

孫権そんけん益州えきしゅうを得て曹操そうそうと対抗することを進言し、出陣の準備に向かう途上、やまいにより36歳の若さでくなった。


朱暉しゅき文季ぶんき


荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん宛県えんけんの人。父・朱岑しゅしんの友であった光武帝こうぶていに探し出されてろうとなる。明帝めいていの時、東平王とうへいおう劉蒼りゅうそう辟召へきしょうされ、後に臨淮太守りんわいたいしゅとなった。気高い節操と堅い信念を持つ人物を多く抜擢ばってきした。



朱儁しゅしゅん公偉こうい


朱儁(しゅしゅん)

生没年 ?〜195年
出身地 揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん上虞県じょうぐけん
所属勢力 霊帝れいてい少帝しょうてい献帝けんてい

黄巾の乱が起こると右中郎将ゆうちゅうろうしょうに任命され、皇甫嵩こうほすうらと各地を転戦してその鎮圧に貢献した。

黄巾の乱後に実権を握った董卓とうたく李傕りかく郭汜かくしらにも高く評価されて表面上は従ったが、最期まで献帝けんていの復権を願っていた。

吉川英治よしかわえいじの小説『三国志』や、これを原作とした横山光輝よこやまみつてるの漫画『三国志』では、傲慢ごうまん凡庸ぼんような将軍として描かれているため、無能なイメージがついてしまった可哀想な人。


朱穆しゅぼく公叔こうしゅく


荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん宛県えんけんの人。朱暉しゅきの孫。大将軍だいしょうぐん梁冀りょうき故吏こりで、たびたび梁冀りょうきの横暴をいさめた。

冀州刺史きしゅうししに就任すると宦官かんがんの不正を厳しく取り締まったが、その苛烈かれつさが桓帝かんていの怒りに触れて罷免ひめんされる。その後尚書令しょうしょれいに任命されたが、宦官かんがんに対する厳しさは変わらなかった。

死後、蔡邕さいようによって「文忠ぶんちゅう先生」とおくりなされる。



荀爽じゅんそう慈明じめい


豫州よしゅう潁川郡えいせんぐん潁陰県えいいんけんの人。荀淑じゅんしゅくの子、荀彧じゅんいく叔父おじ

杜喬ときょうに「じゅん氏八龍(みな優秀と言われた荀淑じゅんしゅくの8人の子)の中で慈明じめいに並ぶ者はいない」と評される。

董卓とうたくに厚遇され、わずか95日間で平原相へいげんしょうから司空しくうに昇進する異例の大出世を遂げた。



鍾皓しょうこう秀明しゅうめい


豫州よしゅう潁川郡えいせんぐん長社県ちょうしゃけんの人。鍾繇しょうようの祖父。

若い頃から篤行とっこう(人情にあつい誠実な行為)をたたえられる。法律に通じ、密山みつさん隠棲いんせいしてして門弟千余人に詩経しきょうや法律を講義した。



諸葛亮しょかつりょう孔明こうめい


諸葛亮・孔明(しょかつりょう・こうめい)

生没年 181年〜234年
出身地 徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく陽都県ようとけん
所属勢力 劉備りゅうび劉禅りゅうぜん

幼い頃に父をくすと従父おじ諸葛玄しょかつげんと共に劉表りゅうひょうを頼って荊州けいしゅうに移住し、崔州平さいしゅうへい徐庶じょしょらと親交を持って農耕生活を送っていた。

三顧さんこの礼」をもって劉備りゅうび軍師ぐんしむかえられると、蜀漢しょくかんの建国に多大な貢献をする。

劉備りゅうび崩御ほうぎょすると丞相じょうしょうとして劉禅りゅうぜんをよく補佐し、国是こくぜである北伐を行うが、5度目の出陣中にやまいに倒れて陣中でぼっした。



鄒靖すうせい


鄒靖(すうせい)

生没年 不明
出身地 不明
所属勢力 霊帝れいてい(→少帝しょうてい献帝けんてい

黄巾の乱が起こると、挙兵した劉備りゅうびを従えてその討伐にあたった。

翌年の185年、皇甫嵩こうほすうと共に「韓遂かんすい辺章へんしょうの乱」の鎮圧に向かった際、烏桓うがん兵3,000人の増援の案に対し「烏桓うがん兵は弱いので鮮卑せんぴ兵を採用すべきだ」と提案したものの「鮮卑せんぴ兵は野蛮で戦地で略奪を働くから」と反対されて却下された。

鄒靖すうせいは辺境近くで暮らしていた経験があり、異民族たちの実態をよく知っていたらしい。


単超ぜんちょう


司隷しれい河南尹かなんいんの人。宦官かんがん梁冀りょうきの専横を危惧きぐする桓帝かんていに協力した。

梁冀りょうき誅殺ちゅうさつに成功すると、功績第一として新豊侯しんほうこう司隷しれい京兆尹けいちょういん新豊県しんほうけん)2万戸にほうぜられるが、その数ヶ月後に病死する。



臧洪ぞうこう子源しげん


臧洪(ぞうこう)

生没年 ?〜196年
出身地 徐州じょしゅう広陵郡こうりょうぐん射陽県しゃようけん
所属勢力 献帝けんてい張超ちょうちょう袁紹えんしょう

広陵太守こうりょうたいしゅ張超ちょうちょうまねかれて功曹こうそうとなると「董卓とうたく討伐」を提案し、諸将を代表して誓いを立てた。

その後、幽州牧ゆうしゅうぼく劉虞りゅうぐへの使者となった際に袁紹えんしょうによってとどめられる。

旧主・張超ちょうちょう曹操そうそうに包囲されると、袁紹えんしょう張超ちょうちょうの救援を願うも聞き入れらず、袁紹えんしょうと関係をって城に立てもったが、袁紹えんしょうの攻撃に敗れて処刑された。



曹嵩そうすう巨高きょこう


豫州よしゅう沛国はいこく譙県しょうけんの人。曹操そうそうの父。

宦官かんがん曹騰そうとうの養子となって司隷校尉しれいこうい大鴻臚だいこうろ大司農だいしのうを歴任し、実に1億銭を霊帝れいていに献上して太尉たいいに就任する。

晩年は戦乱をけて徐州じょしゅう琅邪国ろうやこくに避難していたが、兗州えんしゅうに地盤を得た曹操そうそうの元に向かう途中、陶謙とうけんの兵に襲われて殺害された。



曹節そうせつ漢豊かんほう


荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん新野県しんやけんの人。宦官かんがん

順帝じゅんていの時に西園騎せいえんきから小黄門しょうこうもんとなり、桓帝かんていが崩御すると中黄門ちゅうこうもん虎賁こほん羽林うりん1,000人をひきいて劉宏りゅうこう霊帝れいてい)を迎える。

竇武とうぶ陳蕃ちんはんらの宦官かんがん一掃計画を察知すると逆に彼らを誅殺ちゅうさつし、政治の実権を握って権勢をほこった。



曹操そうそう孟徳もうとく


曹操(そうそう)

生没年 155年〜220年
出身地 豫州よしゅう沛国はいこく譙県しょうけん
所属勢力 霊帝れいてい少帝しょうてい献帝けんてい

父・曹嵩そうすう中常侍ちゅうじょうじ曹騰そうとうの養子となったためそう氏を継ぐ。

董卓とうたくが朝廷を支配すると洛陽らくようを脱出し、私財を投じて挙兵した。
董卓とうたくの死後、長安ちょうあんを脱出した献帝けんていを迎えると着々と中原の支配を固め、官渡の戦いで袁紹えんしょうを破ると、華北一帯に及ぶ一大勢力を築く。

216年に魏王ぎおうに封じられるが、最後まで帝位にはつかず、後漢ごかん丞相じょうしょうとしてその生涯を閉じる。


曹騰そうとう季興ききょう


豫州よしゅう沛国はいこく譙県しょうけんの人。安帝あんてい順帝じゅんてい冲帝ちゅうてい質帝しつていの4代に仕えた宦官かんがん曹操そうそうの養祖父。

桓帝かんてい擁立ようりつに貢献したことにより費亭侯ひていこうに封ぜられ、大長秋だいちょうしゅうに昇進して特進とくしんを加えられる。政治闘争の激しい宮中にあって30年あまりも大過たいかなくつとめた。



孫夏そんか


荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんで蜂起した黄巾賊・張曼成ちょうまんせいの将。三国志演義さんごくしえんぎでは孫仲そんちゅうとして登場する。

張曼成ちょうまんせい趙弘ちょうこうの後をいだ韓忠かんちゅうは城を捨てて撤退。朱儁しゅしゅんの攻撃を受けて降伏するが、南陽太守なんようたいしゅ秦頡しんけつが降伏した韓忠かんちゅうを殺害したため、孫夏そんかは兵をまとめて再度宛県城えんけんじょうもった。

その後、孫堅そんけんの攻撃に耐えきれず城を捨てて逃亡するが、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん西鄂県せいがくけん精山せいざんで討ち取られる。



孫堅そんけん文台ぶんだい


孫堅(そんけん)

生没年 155年〜191年
出身地 揚州ようしゅう呉郡ごぐん富春県ふしゅんけん
所属勢力 霊帝れいてい少帝しょうてい献帝けんてい

17歳の時に銭唐県せんとうけんで海賊退治をしたことで名を挙げ、その後は会稽郡かいけいぐんで起こった許昌きょしょうの乱をはじめとする各地の反乱の鎮圧で活躍した。

また、袁紹えんしょうを盟主とする反董卓とうたく連合に応じて挙兵し、袁術えんじゅつの下で積極的に戦って華雄かゆうを討ち取った。

袁紹えんしょう袁術えんじゅつの対立が深まると、袁術えんじゅつの命によって袁紹えんしょう派の劉表りゅうひょうを攻めるが、黄祖こうその部下が放った矢によって命を落とした。


段熲だんけい紀明きめい


涼州りょうしゅう武威郡ぶいぐん姑臧県こそうけんの人。皇甫規こうほき張奐ちょうかんらが羌族きょうぞくに慎重な姿勢をとる中、強硬策を主張して討伐を押し進め、東西羌ひがしせいきょうを平定する。

司隷校尉しれいこういに任じられると宦官かんがん王甫おうほらにくみして太学生たいがくせいを弾圧するが、のち王甫おうほらとの関係を弾劾だんがいされ服毒自殺した。



檀石槐たんせきかい


鮮卑せんぴ族の大人たいじん。父・投鹿侯とうろくこうが3年間南匈奴みなみきょうどに従軍している間に生まれる。

不義の子として殺されかけるが、母の「口に入ったひょうを飲み込んだところ身籠みごもったので、きっと非凡な人物になるでしょう」という助命嘆願によって、母は離縁され檀石槐たんせきかいの命は助けられた。

その後、勇健で知略に富んだ檀石槐たんせきかいは部族内でされて大人たいじんとなる。初めて鮮卑せんぴ族を統一し、扶余ふよ丁零ていれい烏孫うそんって内外モンゴル一帯を支配すると、たびたび後漢ごかん領内に侵入・略奪をくり返し、討伐軍を退しりぞけた。



种暠ちゅうこう景伯けいはく


司隷しれい河南尹かなんいん洛陽県らくようけんの人。

益州刺史えきしゅうししを務めていた時、蜀郡太守しょくぐんたいしゅ曹騰そうとうに私的に送った書簡を手に入れ蜀郡太守しょくぐんたいしゅ曹騰そうとう弾劾だんがいしたが、逆に曹騰そうとうはこの行為をたたえ、その後も种暠ちゅうこうを厚く遇した。

のち司徒しととなった种暠ちゅうこうは「今の自分があるのは曹常侍そうじょうじ曹騰そうとう)のお陰だ」と語った。



趙雲ちょううん子龍しりょう


趙雲(ちょううん)

生没年 ?〜229年
出身地 冀州きしゅう常山郡じょうざんぐん真定県しんていけん
所属勢力 公孫瓚こうそんさん劉備りゅうび劉禅りゅうぜん

はじめ公孫瓚こうそんさんに仕えたが、のち劉備りゅうびに仕える。

長坂ちょうはんの戦いでは、曹操そうそう軍の激しい追撃の中劉備りゅうびの妻子を守りきった。

また、定軍山ていぐんざんの戦いではみごとな空城くうじょうの計によって敵を退却させ、劉備りゅうびに「子龍しりょうは一身すべてこれ肝なり」と称賛しょうさんされる。

劉備りゅうびき後も冷静な判断と実直な人柄で劉禅りゅうぜんを支え、死後に順平侯じゅんぺいこう諡号しごうを贈られた。


張温ちょうおん伯慎はくしん


荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん穣県じょうけんの人。中常侍ちゅうじょうじ曹騰そうとうの推挙によって取り立てられ、大司農だいしのうから司空しくうに昇進した。

皇甫嵩こうほすうの後任として「辺章へんしょう韓遂かんすいの乱」の鎮圧にあたるが、配下にいた董卓とうたくうらみを買う事となり、その後朝廷で権力をにぎった董卓とうたくに処刑された。



趙戒ちょうかい志伯しはく


益州えきしゅう蜀郡しょくぐん成都県せいとけんの人。

不正を働いた者はどのような身分でも厳しく取り締まったことで名をあげる。その後三公さんこうを歴任するが、梁冀りょうきの専横には対抗することができなかった。



張角ちょうかく


張角(ちょうかく)

生没年 ?〜184年
出身地 冀州きしゅう鉅鹿郡きょろくぐん
所属勢力 独立勢力

道教の一派である太平道たいへいどうの開祖。自ら大賢良師たいけんりょうしと称し、8つの州にまたがり40〜50万人の信者を抱えていた。

表面的には善道を説いていたが、信者を36の「ほう」に分け、それぞれに将軍を配置してまとめさせると、信者による一斉蜂起をうながして後漢ごかん転覆てんぷくを企てた。

宗教家としての太平道人たいへいどうじん大賢良師たいけんりょうしに続いて、黄巾の乱を引き起こした際は、天公将軍てんこうしょうぐんと称するなど、肩書きが大好きな人。黄巾の乱の最中に病死する。


張奐ちょうかん然明ぜんめい


涼州りょうしゅう敦煌郡とんこうぐん淵泉県えんせんけんの人。使匈奴中郎将しきょうどちゅうろうしょう度遼将軍とりょうしょうぐんを歴任し、異民族の平定で大功をあげる。

第二次党錮とうこの禁に際し、宦官かんがんに命じられるまま竇武とうぶを包囲して自害に追い込んだことを恥じ、以後宦官かんがんと対立した。



趙弘ちょうこう


荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんで蜂起した黄巾賊・張曼成ちょうまんせいの将。

張曼成ちょうまんせい南陽太守なんようたいしゅ秦頡しんけつに討たれると、その後をいで宛県城えんけんじょうもり続けたが、朱儁しゅしゅんの総攻撃を受けて敗死した。



張譲ちょうじょう


豫州よしゅう潁川郡えいせんぐんの人。宦官かんがん霊帝れいてい期の中常侍ちゅうじょうじの中心人物で、霊帝れいていから絶大な信頼を受けて栄華を極めた。

霊帝れいていの死後、袁紹えんしょうの攻撃を受けた張譲ちょうじょう少帝しょうてい陳留王ちんりゅうおうを連れて洛陽らくようを脱出するが、追いめられ、川に身を投げて自害した。



張邈ちょうばく孟卓もうたく


張邈(ちょうばく)

生没年 ?〜195年
出身地 兗州えんしゅう東平国とうへいこく寿張県じゅちょうけん
所属勢力 献帝けんてい曹操そうそう呂布りょふ

若い頃から袁紹えんしょうと「奔走ほんそうの友」のまじわりを結び、董卓とうたくが朝廷の実権を握ると陳留太守ちんりゅうたいしゅに任命されるが、弟の張超ちょうちょうと共に反董卓とうたく連合に加わった。

その後は兗州牧えんしゅうぼくとなった曹操そうそうに従っていたが、曹操そうそう徐州じょしゅう侵攻のすきを突いて呂布りょふ陳宮ちんきゅうらと反乱を起こす。

急ぎ徐州じょしゅうから帰還した曹操そうそう呂布りょふが敗れると劉備りゅうびを頼って徐州じょしゅうに落ちびるが、兗州えんしゅうに残した弟・張超ちょうちょうのため袁術えんじゅつに救援要請に行く途上、部下に殺害された。



張飛ちょうひ益徳えきとく


張飛(ちょうひ)

生没年 ?〜221年
出身地 幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん
所属勢力 劉備りゅうび

劉備りゅうびの挙兵以来、関羽かんうと共に兄弟のように仕えた万夫不当ばんぷふとうの豪傑。

長坂ちょうはんの戦いでは、曹操そうそう軍から逃げる劉備りゅうびを守るために殿軍しんがりつとめ、一喝して曹操そうそう軍を退けるなど、その勇名は敵味方にとどろいていた。

目上の者はうやまうが、部下に対する苛烈な刑罰を改めることができず、関羽かんうとむらい合戦の前に恨みを抱いていた部下の范彊はんきょう張達ちょうたつに殺害された。『三国志演義』でのあざな翼徳よくとく


張宝ちょうほう


張宝(ちょうほう)

生没年 ?〜184年
出身地 冀州きしゅう鉅鹿郡きょろくぐん
所属勢力 張角ちょうかく

太平道たいへいどうの開祖・張角ちょうかくの弟。張梁ちょうりょうの兄。張角ちょうかくが黄巾の乱を起こすと地公将軍ちこうしょうぐんと称してこれに従った。

朝廷より討伐軍が派遣されると、病床の張角ちょうかくの代わりに指揮をとった。兄の張角ちょうかくが病死し弟の張梁ちょうりょうが戦死する中、冀州きしゅう鉅鹿郡きょろくぐん下曲陽かきょくように籠城して最後まで抵抗したが、皇甫嵩こうほすう率いる討伐軍に敗れて討たれた。

『三国志演義』では妖術を使って官軍を苦しめた。


張曼成ちょうまんせい


荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんで蜂起した黄巾賊の将。

184年3月、太平道たいへいどう張角ちょうかくが蜂起すると「神上使しんじょうし」を称して南陽太守なんようたいしゅ褚貢ちょこうを殺害し、宛県城えんけんじょうを拠点とするが、新たに任命された南陽太守なんようたいしゅ秦頡しんけつの攻撃を受けて討ち死にする。



張梁ちょうりょう


張梁(ちょうりょう)

生没年 ?〜184年
出身地 冀州きしゅう鉅鹿郡きょろくぐん
所属勢力 張角ちょうかく

太平道たいへいどうの開祖・張角ちょうかくの末弟。張角ちょうかくが黄巾の乱を起こすと兄の張宝ちょうほうとともに人公将軍じんこうしょうぐんと称してこれに従った。

朝廷より討伐軍が派遣されると冀州きしゅう鉅鹿郡きょろくぐん広宗県こうそうけんで迎え撃ち、緒戦しょせんを勝利するなど官軍を苦しめるが、最後は皇甫嵩こうほすう軍の奇襲を受け、敗れて斬り殺された。






褚貢ちょこう


荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんで蜂起した黄巾賊・張曼成ちょうまんせいに殺害された南陽太守なんようたいしゅ



陳温ちんおん元悌げんてい


豫州よしゅう汝南郡じょなんぐんの人。初平しょへい元年(190年)当時の揚州刺史ようしゅうしし

董卓とうたくが支配する洛陽らくよう雒陽らくよう)から逃亡してきた許靖きょせいかくまった他、曹洪そうこうと親しく、董卓とうたくに敗れた曹操そうそう廬江郡ろこうぐんの精鋭武装兵・2,000人を援助した。

その死については、「初平しょへい3年(192年)冬に病死」とする記録と、「初平しょへい4年(193年)3月に袁術えんじゅつによって殺害された」とする記録がある。



陳寔ちんしょく仲弓ちゅうきゅう


豫州よしゅう潁川郡えいせんぐん許県きょけんの人。子に陳紀ちんき。孫に陳羣ちんぐんがいる。

貧しい家に生まれたが、太学たいがくに学び郡の西門亭長せいもんていちょう功曹従事こうそうじゅうじとなった。党錮とうこの禁に連座したが、宦官かんがん張譲ちょうじょうの父の葬儀に出席していたために許された。



陳蕃ちんはん仲挙ちゅうきょ


豫州よしゅう汝南郡じょなんぐん平輿県へいよけんの人。党人とうじんの指導者で「三君」の1人。

霊帝れいていが即位すると太傅たいふ録尚書事ろくしょうしょじに任命される。竇武とうぶと共に宦官かんがん誅殺ちゅうさつを計画するが、事前に察知され、捕らえられて獄死した。



程遠志ていえんし


三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物。黄巾賊の将。

5万の兵をひきいて幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん涿県たくけんに攻め寄せるが、大興山たいこうざんのふもとで鄒靖すうせい劉備りゅうびひきいる500の義勇軍に遭遇そうぐうし、関羽かんうに一刀両断にされた。



典韋てんい


典韋(てんい)

生没年 ?〜197年
出身地 兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん己吾県きごけん
所属勢力 張邈ちょうばく趙寵ちょうちょう)→曹操そうそう

董卓とうたくの義兵をげた張邈ちょうばく配下の趙寵ちょうちょうに所属したが、曹操そうそう兗州牧えんしゅうぼくに迎えられると夏侯惇かこうとんに所属して戦功を立て、司馬しばに任命された。

その後、曹操そうそうの身辺警護に当たるようになると「帳下ちょうかの壮士に典君てんくんあり」とうたわれたが、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん宛県えんけん張繡ちょうしゅう曹操そうそう謀叛むほんした際、門の前に立ちはだかって曹操そうそうの逃走を助け、壮絶な最期をげた。



陶謙とうけん恭祖きょうそ


陶謙(とうけん)

生没年 132年〜194年
出身地 揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん
所属勢力 桓帝かんてい霊帝れいてい少帝しょうてい献帝けんてい

車騎将軍しゃきしょうぐん張温ちょうおんの下で「辺章へんしょう韓遂かんすいの乱」討伐に参加し、後に徐州刺史じょしゅうししに任命されて徐州じょしゅうの黄巾賊を撃ち破った。

李傕りかく郭汜かくしらが朝廷の実権を握ると、朱儁しゅしゅん太師たいし推戴すいたいして討伐とうばつを計画するが、失敗。朝廷に帰順して徐州牧じょしゅうぼくに任命される。

曹操そうそうの2度に渡る徐州じょしゅう侵攻をしのいだが、その後やまいわずらい、「劉備りゅうび徐州じょしゅうゆずる」ことを遺言ゆいごんして亡くなった。



董卓とうたく仲穎ちゅうえい


董卓(とうたく)

生没年 ?〜192年
出身地 涼州りょうしゅう隴西郡ろうせいぐん臨洮県りんとうけん
所属勢力 桓帝かんてい霊帝れいてい少帝しょうてい献帝けんてい

若い頃から武芸に秀で、羌族きょうぞくなどの異民族と交流を持った。

黄巾の乱では盧植ろしょくの後任として討伐に当たるも敗退して職を解かれる。

何進かしんの宦官一掃に協力して洛陽らくように入ると反対勢力を駆逐して実権を掌握。少帝しょうていを廃して献帝けんていを擁立すると、みずか相国しょうこくとなって暴虐の限りを尽くした。

打倒董卓とうたくを掲げる「反董卓とうたく連合」を退けるが、配下の呂布りょふに殺された。



竇武とうぶ游平ゆうへい


司隷しれい右扶風ゆうふふう平陵県へいりょうけんの人。桓帝かんてい皇后こうごう竇妙とうみょうの父。「三君」の筆頭。

陳蕃ちんはんと共に党人とうじん庇護ひごして宦官かんがんと対立。宦官かんがん誅殺ちゅうさつを計画するが、逆に「霊帝れいてい廃位を目論もくろんだ逆賊」として包囲され自害した。



鄧茂とうも


三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物。5万の兵をひきいて幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん涿県たくけんに攻め寄せた程遠志ていえんしの副将。

大興山たいこうざんのふもとで鄒靖すうせい劉備りゅうびひきいる500の義勇軍に遭遇そうぐうし、先手さきてとして戦いをいどむが、張飛ちょうひに一突きで殺された。



杜喬ときょう叔栄しゅくえい


司隷しれい河内郡かだいぐん林慮県りんりょけんの人。順帝じゅんてい泰山太守たいざんたいしゅ李固りこを推挙し、外戚がいせき梁冀りょうきと関係のある地方官を次々に弾劾だんがいした。

質帝しつてい梁冀りょうきに毒殺されると李固りこと共に清河王せいがおう劉蒜りゅうさん擁立ようりつしようとするが、蠡吾侯れいごこう劉志りゅうし(後の桓帝かんてい)を擁立ようりつしようとする梁冀りょうきに敗れて殺害された。



南華老仙なんかろうせん


南華老仙(なんかろうせん)

生没年 不明
出身地 不明
所属勢力 なし

『三国志演義』のみに登場する仙人。張角ちょうかく太平要術たいへいようじゅつしょさずける。

「これを使って民を助けよ。ただし、悪しきことに使えば天罰が下る」と忠告するも、張角ちょうかく太平要術たいへいようじゅつしょで習得した妖術を頼りに太平道たいへいどうを開き、黄巾の乱を引き起こした。

南華老仙なんかろうせんは、戦国時代の思想家である荘周そうしゅう荘子そうし)が仙人になった姿と考えられており、青い目を持つ子供のような顔をした老人として描かれている。


馬元義ばげんぎ


黄巾賊の将。184年、朝廷の宦官かんがんに内応工作を行うために洛陽らくように潜伏していたが、部下の唐周とうしゅうの密告によって計画が露見ろけんし、捕縛されて処刑された。



馬融ばゆう季長きちょう


司隷しれい右扶風ゆうふふう茂陵県もりょうけんの人。馬援ばえんの兄の子。

外戚がいせき鄧氏とうしに逆らって左遷させんされるが、桓帝かんていの代になって南郡太守なんぐんたいしゅとなり、中央に召されて議郎ぎろうに任命される。経籍けいせきに精通し、盧植ろしょく鄭玄ていげんなどの弟子を世に出した。



鮑信ほうしん


鮑信(ほうしん)

生没年 152年〜192年
出身地 兗州えんしゅう泰山郡たいざんぐん
所属勢力 霊帝れいてい少帝しょうてい献帝けんてい

董卓とうたく洛陽らくようを支配すると、袁紹えんしょう董卓とうたくを討つように勧めるが受け入れられず、曹操そうそうの挙兵に呼応して反董卓とうたく連合に加わる。

董卓とうたくとの戦いでは、盟主の袁紹えんしょうよりもまだ力なき曹操そうそうを高く評価し、行動を共にした。

その後済北相せいほくしょうとなると、兗州牧えんしゅうぼくとなった曹操そうそうと共に侵攻してきた青州せいしゅう黄巾こうきんと戦うが、激戦の中戦死した。





李傕りかく稚然ちぜん


李傕(りかく)

生没年 ?〜198年
出身地 涼州りょうしゅう北地郡ほくちぐん
所属勢力 董卓とうたく少帝しょうてい献帝けんてい

董卓とうたく配下の校尉こうい董卓とうたく誅殺ちゅうさつの報が入ると、郭汜かくしらと長安ちょうあんを包囲して陥落させ、王允おういんを斬った。

その後、郭汜かくし樊稠はんちゅうらと朝廷で権力を握ったが、やがて郭汜かくしと対立する。

献帝けんてい洛陽らくよう雒陽らくよう)に向かうと、郭汜かくし和睦わぼくして献帝けんていを追ったが捕らえることはできず、その後は権勢を失って、朝廷が派遣した裴茂はいぼうに討伐された。



陸康りくこう季寧きねい


陸康(りくこう)

生没年 126年〜195年
出身地 揚州ようしゅう呉郡ごぐん呉県ごけん
所属勢力 桓帝かんてい霊帝れいてい少帝しょうてい献帝けんてい

若い頃から孝行と義烈(正義の心がきわめて強いこと)をもって知られ、陸康りくこうが赴任すると百姓たちは大いに喜び、盗賊もいなくなったので、州郡にその功績をたたえられた。

のちに復帰して廬江太守ろこうたいしゅに任命されるが、袁術えんじゅつの物資援助要請を断ったことでうらみを買い、袁術えんじゅつの命を受けた孫策そんさくの攻撃を受けて城は陥落。その1ヶ月余りのちやまいで亡くなった。




李固りこ子堅しけん


益州えきしゅう漢中郡かんちゅうぐん南鄭県なんていけんの人。大将軍たいしょうぐん梁商りょうしょう辟召へきしょうされるが、梁商りょうしょうの子・梁冀りょうきと対立した。後に太尉たいいに昇進する。

質帝しつてい梁冀りょうきに毒殺されると、蠡吾侯れいごこう劉志りゅうし(後の桓帝かんてい)を擁立ようりつしようとする梁冀りょうきに対抗して杜喬ときょうと共に清河王せいがおう劉蒜りゅうさん擁立ようりつするが、冤罪えんざいによって投獄・殺害された。



劉焉りゅうえん君郎くんろう


劉焉(りゅうえん)

生没年 ?〜194年
出身地 荊州けいしゅう江夏郡こうかぐん竟陵県きょうりょうけん
所属勢力 霊帝れいてい少帝しょうてい献帝けんてい

前漢の魯恭王ろきょうおうであった劉余りゅうよ景帝けいていの第4子)の末裔まつえいに当たる。

霊帝れいていの時代、政治の腐敗や黄巾の乱の影響によって刺史しし太守たいしゅの支配力が弱体化していることを理由に、軍権と民政権を兼ねた「州牧しゅうぼく」の復活を提案し、みずから益州えきしゅうぼくとなる。劉璋りゅうしょうの父。

『三国志演義』では、黄巾の乱の時に幽州太守ゆうしゅうたいしゅとして登場するが、正史にその記録はなく、後に益州えきしゅうを治めることになる劉備りゅうびとの因果関係を強める演出である。


劉悝りゅうかい


桓帝かんていの弟。勃海王ぼっかいおう。165年に反乱を計画した罪で廮陶王えいとうおうに格下げされる。

中常侍ちゅうじょうじ王甫おうほ勃海王ぼっかいおうへの復帰工作を依頼していたが、桓帝かんてい遺詔ゆいしょうによって復帰がかなうと(王甫おうほのお陰ではないからと)王甫おうほに礼金を支払わなかった。

これをうらみに思った王甫おうほは「劉悝りゅうかいに帝位簒奪さんだつたくらみあり」と誣告ぶこくし、追いめられた劉悝りゅうかいは自害に追い込まれる。



劉虞りゅうぐ伯安はくあん


劉虞(りゅうぐ)

生没年 ?〜193年
出身地 徐州じょしゅう東海郡とうかいぐん郯県たんけん
所属勢力 霊帝れいてい少帝しょうてい献帝けんてい

東海恭王とうかいきょうおう劉彊りゅうきょう後漢ごかんの初代皇帝・光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)の長子]の末裔まつえいに当たる。

清貧で知られ、幽州牧ゆうしゅうぼくに任命されて「張純ちょうじゅんの乱」を平定。反董卓とうたく連合が決起すると、袁紹えんしょうらに天子てんし推戴すいたいされるが、これを拒絶した。

その後、暴走する公孫瓚こうそんさん討伐の軍を起こすが、敗れて捕らえられ、帝号を僭称せんしょうしようとした罪で処刑された。



劉陶りゅうとう子奇しき


豫州よしゅう潁川郡えいせんぐん潁陰県えいいんけんの人。かんの宗族。

太平道たいへいどうが蜂起する前から張角ちょうかくの危険性を進言していた功により、中陵郷侯ちゅうりょうきょうこうに封ぜられるが、その後宦官かんがんを弾劾する上奏を行ったため、宦官かんがんによって「先の進言は張角ちょうかくと結んでいたから知ることができた」と讒言ざんげんされ、獄中で自害した。



劉表りゅうひょう景升けいしょう


劉表(りゅうひょう)

生没年 142年〜208年
出身地 兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん高平県こうへいけん
所属勢力 霊帝れいてい少帝しょうてい献帝けんてい

前漢の景帝けいていの第4子・魯恭王ろきょうおう劉余りゅうよの第6子、郁桹侯いくろうこう劉驕りゅうきょうの子孫。若い頃から清流派の党人として名声を得る。

孫堅そんけんによって荊州刺史けいしゅうしし王叡おうえいが殺害されると、その後任に任命される。また、劉表りゅうひょうは学問を奨励しょうれいしたため、戦乱を逃れた名士や学者の多くが荊州けいしゅうに移住した。

河北かほくを平定した曹操そうそうが南下の姿勢を見せると、領土を失った劉備りゅうびを受け入れて最前線の新野県しんやけんを守らせるが、間もなく亡くなった。


劉備りゅうび玄徳げんとく


劉備(りゅうび)

生没年 161年〜223年
出身地 幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん涿県たくけん
所属勢力 霊帝れいてい少帝しょうてい献帝けんてい
蜀漢しょくかん建国

前漢ぜんかん景帝けいていの第9子、中山靖王ちゅうざんせいおう劉勝りゅうしょうの庶子、劉貞りゅうていの末裔というが、定かではない。

黄巾の乱の時に挙兵。以来各地を転戦するも確たる地盤を持てずにいたが、軍師ぐんし諸葛亮しょかつりょうを迎えると「天下三分の計」に従って益州えきしゅうの地に地盤を築いた。

献帝けんてい曹魏そうぎ禅譲ぜんじょうすると、皇帝に即位して「蜀漢しょくかん」を建国する。配下の関羽かんう仇討かたきうちにに攻め込むが、陸遜りくそんの火計に敗退し、病を患って白帝城はくていじょう諸葛亮しょかつりょうに後事を託して没する。


劉繇りゅうよう正礼せいれい


劉繇(りゅうよう)

生没年 157年〜198年
出身地 青州せいしゅう東萊郡とうらいぐん牟平県ぼうへいけん
所属勢力 霊帝れいてい少帝しょうてい献帝けんてい

前漢ぜんかん孝王こうおうの末裔。青州せいしゅう済南国せいなんこくの行政監察にあたった時には、賄賂わいろむさぼ中常侍ちゅうじょうじの息子を罷免ひめんするなどしたが、その後は官職につがず、戦乱を避けて淮水わいすい流域に避難した。

後に揚州刺史ようしゅうししに任命されると、勝手に郡県を攻撃する袁術えんじゅつと敵対する。

その後は、袁術えんじゅつが派遣した孫策そんさくに敗北を重ね、豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)に移るが、まもなく病死した。



李膺りよう元礼げんれい


豫州よしゅう潁川郡えいせんぐん襄城県じょうじょうけんの人。党人とうじんの中心人物。太守たいしゅを歴任して多くの宦官かんがんの不正を摘発する。第二次党錮とうこの禁が起こると投獄されて殺された。



梁冀りょうき伯卓はくたく


涼州りょうしゅう安定郡あんていぐん烏枝県うしけんの人。 後漢ごかん第8代皇帝・順帝じゅんてい皇后こうごう梁妠りょうどうの兄。外戚がいせきとして権力を握り、順帝じゅんてい冲帝ちゅうてい質帝しつてい桓帝かんていの4代に渡って国政を私物化した。

成人した桓帝かんてい宦官かんがん単超ぜんちょうらの助力を得て梁冀りょうきの排斥に成功したことから、一層宦官かんがんへの権力集中が進んだ。



呂布りょふ奉先ほうせん


呂布(りょふ)

生没年 ?年〜199年
出身地 幷州へいしゅう五原郡ごげんぐん
所属勢力 丁原ていげん董卓とうたく→独立

丁原ていげんに仕えていたが、董卓とうたく洛陽らくように入ると丁原ていげんを殺して董卓とうたくに従い、父子のちぎりを結ぶ。「人中に呂布りょふあり、馬中に赤兎せきとあり」と賞された万夫不当の豪傑。

その後、司徒しと王允おういんらと結んで董卓とうたくを殺害するが、李傕りかく郭汜かくしに敗れて各地を放浪、自分を受け入れてくれた劉備りゅうびが治める徐州じょしゅうを奪う。

その後劉備りゅうびと結んだ曹操そうそうに包囲されると配下の裏切りを受けて降伏するが、命いもむなしく劉備りゅうびの進言によって処刑された。


霊帝れいてい劉宏りゅうこう


霊帝(れいてい)

生没年 156〜189年
出身地 冀州きしゅう河間国かかんこく
所属勢力 後漢ごかん

後漢ごかん第12代皇帝。先帝の桓帝かんていには男子がなく、第3代皇帝・章帝しょうていの玄孫にあたる劉宏りゅうこうがわずか12歳で即位した。

即位してすぐに「第二次党錮とうこの禁」が起こり、十常侍じゅうじょうじを筆頭とする宦官が権力を握ると、その傀儡かいらいとなって良将賢臣を遠ざける。

また、皇帝自らが「売官」を行い賄賂を横行させたため、民衆は重い賦役に一層苦しむようになり、「黄巾の乱」の一因となった。


盧植ろしょく子幹しかん


盧植(ろしょく)

生没年 ?〜192年
出身地 幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん涿県たくけん
所属勢力 霊帝れいてい少帝しょうてい袁紹えんしょう

鄭玄じょうげんとともに馬融ばゆうに師事して儒学を学び、故郷幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん涿県たくけんで近隣の子弟に学問を教えていた。門下には劉備りゅうび公孫瓚こうそんさんがいる。

黄巾の乱が起こると北中郎将ほくちゅうろうしょうに任命されて討伐軍の一翼を担ったが、軍の監察に来た左豊さほうに賄賂を求められ、これを断ったために罪を着せられて免官された。

黄巾の乱が終結すると、皇甫嵩こうほすう冤罪えんざいを証明したために復職したが、董卓とうたく献帝けんてい擁立ようりつに反対したために再び免官された。
晩年は袁紹えんしょう軍師ぐんしとなって病死した。