正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内しています。

索引

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    


情報量が多く、ページが重くなるため移行中です。

「あ〜き」から始まる人物については、上記索引ボタンからご利用ください。

  • 「あ」からはじまる人物(全13人)完成
  • 「い」からはじまる人物(全69人)完成
  • 「う」からはじまる人物(全17人)完成
  • 「え」からはじまる人物(全119人)完成
  • 「お」からはじまる人物(全306人)完成
  • 「か」からはじまる人物(全622人)完成
  • 「き」からはじまる人物(38人)随時追加中

正史『三国志』、『三国志演義』に名前が登場する人物の血縁者など、名前が登場しない人物も含まれていますので、正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物より多くなっています。

この「三国志人物伝」に収録されている人数 = 正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人数ではありません。

き


襲景(きょうけい)


『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物。青州太守(せいしゅうたいしゅ)。

黄巾賊に城を包囲されて落城寸前となった襲景(きょうけい)は幽州太守(ゆうしゅうたいしゅ)・劉焉(りゅうえん)に救援を求め、援軍として駆(か)けつけた鄒靖(すうせい)・劉備(りゅうび)率(ひき)いる義勇軍と共に戦って黄巾賊を撤退させた。



橋玄(きょうげん)・公祖(こうそ)


豫州(よしゅう)・梁国(りょうこく)・睢陽県(すいようけん)の人。

霊帝(れいてい)期に司空(しくう)・司徒(しと)・太尉(たいい)と三公(さんこう)すべてを歴任した。人物評価を得意としており、まだ若く無名であった曹操(そうそう)を高く評価したことで有名。


く

け


厳政(げんせい)


『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物。黄巾賊・張宝(ちょうほう)の将。

劉備(りゅうび)の義勇軍の活躍で豫州(よしゅう)・潁川郡(えいせんぐん)・陽城県(ようじょうけん)に籠(こ)もった張宝(ちょうほう)を刺し殺し、朱儁(しゅしゅん)に降伏した。



献帝(けんてい)


献帝(けんてい)

生没年 181年〜234年
出身地 司隷(しれい)・河南尹(かなんいん)・洛陽県(らくようけん)
所属勢力 後漢(ごかん)

諱(いみな)は劉協(りゅうきょう)。霊帝(れいてい)の次子で少帝(しょうてい)の異母弟(いぼてい)にあたる。母の王美人(おうびじん)は、劉協(りゅうきょう)を生むと何皇后(かこうごう)の嫉妬により毒殺された。

霊帝(れいてい)の死後、朝廷で権力を握った董卓(とうたく)に擁立(ようりつ)されて天子に即位する。

その後、董卓(とうたく)は長安(ちょうあん)への遷都(せんと)を強行し、長安(ちょうあん)を脱出した献帝(けんてい)は、曹操(そうそう)に保護されて都を豫州(よしゅう)・潁川郡(えいせんぐん)・許県(きょけん)に移した。

220年、曹操(そうそう)の跡を継いだ曹丕(そうひ)に帝位を禅譲(ぜんじょう)し、400年に渡る漢王朝はその幕を閉じた。

こ


黄瓊(こうけい)・世英(せいえい)


荊州(けいしゅう)・江夏郡(こうかぐん)・安陸県(あんりくけん)の人。魏郡太守(ぎぐんたいしゅ)・黄香(こうこう)の子、黄琬(こうえん)の祖父。

順帝(じゅんてい)の公車徴(こうしゃちょう)(お召し)によって議郎(ぎろう)となり、桓帝(かんてい)が即位すると三公(さんこう)を歴任して梁冀(りょうき)と対立した。



高昇(こうしょう)


『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物。黄巾賊の将。

地公将軍(ちこうしょうぐん)・張宝(ちょうほう)の副将。朱儁(しゅしゅん)が劉備(りゅうび)の義勇軍を差し向けると先手(さきて)として挑(いど)むが、張飛(ちょうひ)に数合で討ち取られた。



皇甫規(こうほき)・威明(いめい)


涼州(りょうしゅう)・安定郡(あんていぐん)・朝那県(ちょうなけん)の人。

祖父は度遼将軍(とりょうしょうぐん)、父は扶風都尉(ふふうとい)を務めた名門の出身で、自身も異民族との戦いで数々の功績をあげた。宦官(かんがん)と対立し、党錮(とうこ)の禁の際には自(みずか)ら党人(とうじん)であると名乗り出たが、罷免(ひめん)されることはなくそのまま用(もち)いられる。

皇甫規(こうほき)が亡くなると、若く美しい皇甫規(こうほき)の妻を妾(めかけ)にしようと董卓(とうたく)が迫(せま)ったが、毅然(きぜん)として断ったため殴り殺された。



皇甫嵩(こうほすう)・義真(ぎしん)


皇甫嵩(こうほすう)

生没年 ?〜195年
出身地 涼州(りょうしゅう)・安定郡(あんていぐん)・朝那県(ちょうなけん)
所属勢力 霊帝(れいてい)→少帝(しょうてい)→献帝(けんてい)

若い頃から真面目で慈悲深く、詩書を好んで弓馬術の習得に励んでいた。

黄巾の乱が勃発すると、党錮(とうこ)の禁の解禁と霊帝(れいてい)の私財の放出を提案。左中郎将(さちゅうろうしょう)に任命され、朱儁(しゅしゅん)と共に潁川(えいせん)方面の黄巾討伐を担当する。

黄巾の乱が終結した後も各地の反乱鎮圧に活躍した。
その後、朝廷の実権を握った董卓(とうたく)と反目して冷遇されたが、董卓(とうたく)の死後は再び栄達し、その最期は病死だった。


侯覧(こうらん)


兗州(えんしゅう)・山陽郡(さんようぐん)・防東県(ぼうとうけん)の人。外戚(がいせき)・梁冀(りょうき)の誅殺(ちゅうさつ)に協力した功績によって桓帝(かんてい)の信任を得た宦官(かんがん)。

親族を刺史(しし)・太守(たいしゅ)に任命して栄耀栄華(えいようえいが)を極め、これに反発する儒家官僚(党人(とうじん))を弾圧して党錮(とうこ)の禁を引き起こしたが、専権驕奢(せんけんきょうしゃ)の罪により罷免(ひめん)されて自害した。



胡広(ここう)・伯始(はくし)


荊州(けいしゅう)・南郡(なんぐん)・華容国(かようこく)の人。外戚(がいせき)・梁冀(りょうき)の専横を止めず、中常侍(ちゅうじょうじ)の丁粛(ていしゅく)と婚姻関係を結ぶなど、外戚(がいせき)や宦官(かんがん)と共存する老獪(ろうかい)な生き方を貫き、安帝(あんてい)、順帝(じゅんてい)、沖帝(ちゅうてい)、質帝(しつてい)、桓帝(かんてい)、霊帝(れいてい)の6代に仕えて重職を担った。

また、漢(かん)の制度をまとめた『漢制度(かんせいど)』を遺し、蔡邕(さいよう)に大きな影響を与えた。


さ


蔡邕(さいよう)・伯喈(はくかい)


蔡邕(さいよう)

生没年 132 or 133〜192年
出身地 兗州(えんしゅう)・陳留郡(ちんりゅうぐん)・圉県(ぎょけん)
所属勢力 桓帝(かんてい)→霊帝(れいてい)→少帝(しょうてい)→董卓(とうたく)

若い頃から博学で、書物や算術、天文を好み、音楽にも精通していた。

霊帝(れいてい)の求めに応じて内密に高官の悪行を報告するが、秘密が漏洩(ろうえい)して逆に罪を着せられ失脚する。後(のち)に董卓(とうたく)に召し出され、その後は董卓(とうたく)に仕えた。

董卓(とうたく)が誅殺(ちゅうさつ)された際、嘆(なげ)くような素振りを見せたことから、怒った王允(おういん)によって罪に問われる。その後、王允(おういん)が悔いて容疑を取り下げようとしたが間に合わず、獄中で没した。


笮融(さくゆう)


笮融(さくゆう)

生没年 不明〜195年
出身地 揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))
所属勢力 陶謙(とうけん)→劉繇(りゅうよう)→独立勢力

はじめ陶謙(とうけん)に身を寄せるも、職務上の輸送物資を横領し、その資金を使って大々的に仏教寺院を建立して領内に仏教を布教した。

その後、曹操(そうそう)が徐州(じょしゅう)に侵攻すると、広陵太守(こうりょうたいしゅ)の趙昱(ちょういく)を殺害して略奪を行い、揚州刺史(ようしゅうしし)の劉繇(りゅうよう)を頼る。

その劉繇(りゅうよう)が孫策(そんさく)の攻撃を受けると前線で孫策(そんさく)の攻撃を凌(しの)ぐが、最後は劉繇(りゅうよう)に背(そむ)き、劉繇(りゅうよう)の討伐軍に敗れたところを付近の住民に殺害された。


左豊(さほう)


本籍不明。小黄門(しょうこうもん)(宦官(かんがん))。

黄巾の乱の時、霊帝(れいてい)によって冀州(きしゅう)・鉅鹿郡(きょろくぐん)・広宗県(こうそうけん)で張角(ちょうかく)を包囲する盧植(ろしょく)の陣に派遣された軍の視察官。

自分に賄賂(わいろ)を贈(おく)らなかったことに腹を立てた左豊(さほう)の讒言(ざんげん)によって盧植(ろしょく)は罷免(ひめん)された。


し


周瑜(しゅうゆ)・公瑾(こうきん)


周瑜・公瑾(しゅうゆ・こうきん)

生没年 175年〜210年
出身地 揚州(ようしゅう)・廬江郡(ろこうぐん)・舒県(じょけん)
所属勢力 孫策(そんさく)→孫権(そんけん)

父の周異(しゅうい)は洛陽令(らくようれい)、父の従兄弟(いとこ)・周景(しゅうけい)とその子・周忠(しゅうちゅう)は共に太尉(たいい)を務(つと)めた名門の出身。

孫堅(そんけん)が反董卓(とうたく)連合に参加した際、舒県(じょけん)に移住してきた孫策(そんさく)と親交を結んだ。

孫策(そんさく)・孫権(そんけん)の2代に仕え、曹操(そうそう)の南下に際しては魯粛(ろしゅく)と共に徹底交戦を主張して「赤壁の戦い」を勝利に導く。

孫権(そんけん)に益州(えきしゅう)を得て曹操(そうそう)と対抗することを進言し、出陣の準備に向かう途上、病(やまい)により36歳の若さで亡(な)くなった。


朱暉(しゅき)・文季(ぶんき)


荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・宛県(えんけん)の人。父・朱岑(しゅしん)の友であった光武帝(こうぶてい)に探し出されて郎(ろう)となる。明帝(めいてい)の時、東平王(とうへいおう)・劉蒼(りゅうそう)に辟召(へきしょう)され、後に臨淮太守(りんわいたいしゅ)となった。気高い節操と堅い信念を持つ人物を多く抜擢(ばってき)した。



朱儁(しゅしゅん)・公偉(こうい)


朱儁(しゅしゅん)

生没年 ?〜195年
出身地 揚州(ようしゅう)・会稽郡(かいけいぐん)・上虞県(じょうぐけん)
所属勢力 霊帝(れいてい)→少帝(しょうてい)→献帝(けんてい)

黄巾の乱が起こると右中郎将(ゆうちゅうろうしょう)に任命され、皇甫嵩(こうほすう)らと各地を転戦してその鎮圧に貢献した。

黄巾の乱後に実権を握った董卓(とうたく)や李傕(りかく)・郭汜(かくし)らにも高く評価されて表面上は従ったが、最期まで献帝(けんてい)の復権を願っていた。

吉川英治(よしかわえいじ)の小説『三国志』や、これを原作とした横山光輝(よこやまみつてる)の漫画『三国志』では、傲慢(ごうまん)で凡庸(ぼんよう)な将軍として描かれているため、無能なイメージがついてしまった可哀想な人。


朱穆(しゅぼく)・公叔(こうしゅく)


荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・宛県(えんけん)の人。朱暉(しゅき)の孫。大将軍(だいしょうぐん)・梁冀(りょうき)の故吏(こり)で、たびたび梁冀(りょうき)の横暴を諫(いさ)めた。

冀州刺史(きしゅうしし)に就任すると宦官(かんがん)の不正を厳しく取り締まったが、その苛烈(かれつ)さが桓帝(かんてい)の怒りに触れて罷免(ひめん)される。その後尚書令(しょうしょれい)に任命されたが、宦官(かんがん)に対する厳しさは変わらなかった。

死後、蔡邕(さいよう)によって「文忠(ぶんちゅう)先生」と諡(おくりな)される。



荀爽(じゅんそう)・慈明(じめい)


豫州(よしゅう)・潁川郡(えいせんぐん)・潁陰県(えいいんけん)の人。荀淑(じゅんしゅく)の子、荀彧(じゅんいく)の叔父(おじ)。

杜喬(ときょう)に「荀(じゅん)氏八龍(みな優秀と言われた荀淑(じゅんしゅく)の8人の子)の中で慈明(じめい)に並ぶ者はいない」と評される。

董卓(とうたく)に厚遇され、わずか95日間で平原相(へいげんしょう)から司空(しくう)に昇進する異例の大出世を遂げた。



鍾皓(しょうこう)・秀明(しゅうめい)


豫州(よしゅう)・潁川郡(えいせんぐん)・長社県(ちょうしゃけん)の人。鍾繇(しょうよう)の祖父。

若い頃から篤行(とっこう)(人情に篤(あつ)い誠実な行為)を称(たた)えられる。法律に通じ、密山(みつさん)に隠棲(いんせいして)して門弟千余人に『詩経(しきょう)』や法律を講義した。



諸葛亮(しょかつりょう)・孔明(こうめい)


諸葛亮・孔明(しょかつりょう・こうめい)

生没年 181年〜234年
出身地 徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・陽都県(ようとけん)
所属勢力 劉備(りゅうび)→劉禅(りゅうぜん)

幼い頃に父を亡(な)くすと従父(おじ)の諸葛玄(しょかつげん)と共に劉表(りゅうひょう)を頼って荊州(けいしゅう)に移住し、崔州平(さいしゅうへい)や徐庶(じょしょ)らと親交を持って農耕生活を送っていた。

「三顧(さんこ)の礼」をもって劉備(りゅうび)の軍師(ぐんし)に迎(むか)えられると、蜀漢(しょくかん)の建国に多大な貢献をする。

劉備(りゅうび)が崩御(ほうぎょ)すると丞相(じょうしょう)として劉禅(りゅうぜん)をよく補佐し、国是(こくぜ)である北伐を行うが、5度目の出陣中に病(やまい)に倒れて陣中で没(ぼっ)した。


す


鄒靖(すうせい)


鄒靖(すうせい)

生没年 不明
出身地 不明
所属勢力 霊帝(れいてい)(→少帝(しょうてい)→献帝(けんてい))

黄巾の乱が起こると、挙兵した劉備(りゅうび)を従えてその討伐にあたった。

翌年の185年、皇甫嵩(こうほすう)と共に「韓遂(かんすい)・辺章(へんしょう)の乱」の鎮圧に向かった際、烏桓(うがん)兵3,000人の増援の案に対し「烏桓(うがん)兵は弱いので鮮卑(せんぴ)兵を採用すべきだ」と提案したものの「鮮卑(せんぴ)兵は野蛮で戦地で略奪を働くから」と反対されて却下された。

鄒靖(すうせい)は辺境近くで暮らしていた経験があり、異民族たちの実態をよく知っていたらしい。

せ


単超(ぜんちょう)


司隷(しれい)・河南尹(かなんいん)の人。宦官(かんがん)。梁冀(りょうき)の専横を危惧(きぐ)する桓帝(かんてい)に協力した。

梁冀(りょうき)の誅殺(ちゅうさつ)に成功すると、功績第一として新豊侯(しんほうこう)(司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)・新豊県(しんほうけん))2万戸に封(ほう)ぜられるが、その数ヶ月後に病死する。


そ


臧洪(ぞうこう)・子源(しげん)


臧洪(ぞうこう)

生没年 ?〜196年
出身地 徐州(じょしゅう)・広陵郡(こうりょうぐん)・射陽県(しゃようけん)
所属勢力 献帝(けんてい)→張超(ちょうちょう)→袁紹(えんしょう)

広陵太守(こうりょうたいしゅ)・張超(ちょうちょう)に招(まね)かれて功曹(こうそう)となると「董卓(とうたく)討伐」を提案し、諸将を代表して誓いを立てた。

その後、幽州牧(ゆうしゅうぼく)・劉虞(りゅうぐ)への使者となった際に袁紹(えんしょう)によって留(とど)められる。

旧主・張超(ちょうちょう)が曹操(そうそう)に包囲されると、袁紹(えんしょう)に張超(ちょうちょう)の救援を願うも聞き入れらず、袁紹(えんしょう)と関係を絶(た)って城に立て籠(こ)もったが、袁紹(えんしょう)の攻撃に敗れて処刑された。



曹嵩(そうすう)・巨高(きょこう)


豫州(よしゅう)・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。曹操(そうそう)の父。

宦官(かんがん)・曹騰(そうとう)の養子となって司隷校尉(しれいこうい)、大鴻臚(だいこうろ)、大司農(だいしのう)を歴任し、実に1億銭を霊帝(れいてい)に献上して太尉(たいい)に就任する。

晩年は戦乱を避(さ)けて徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)に避難していたが、兗州(えんしゅう)に地盤を得た曹操(そうそう)の元に向かう途中、陶謙(とうけん)の兵に襲われて殺害された。



曹節(そうせつ)・漢豊(かんほう)


荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・新野県(しんやけん)の人。宦官(かんがん)。

順帝(じゅんてい)の時に西園騎(せいえんき)から小黄門(しょうこうもん)となり、桓帝(かんてい)が崩御すると中黄門(ちゅうこうもん)、虎賁(こほん)、羽林(うりん)1,000人を率(ひき)いて劉宏(りゅうこう)(霊帝(れいてい))を迎える。

竇武(とうぶ)・陳蕃(ちんはん)らの宦官(かんがん)一掃計画を察知すると逆に彼らを誅殺(ちゅうさつ)し、政治の実権を握って権勢を誇(ほこ)った。



曹操(そうそう)・孟徳(もうとく)


曹操(そうそう)

生没年 155年〜220年
出身地 豫州(よしゅう)・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)
所属勢力 霊帝(れいてい)→少帝(しょうてい)→献帝(けんてい)

父・曹嵩(そうすう)が中常侍(ちゅうじょうじ)・曹騰(そうとう)の養子となったため曹(そう)氏を継ぐ。

董卓(とうたく)が朝廷を支配すると洛陽(らくよう)を脱出し、私財を投じて挙兵した。
董卓(とうたく)の死後、長安(ちょうあん)を脱出した献帝(けんてい)を迎えると着々と中原の支配を固め、官渡の戦いで袁紹(えんしょう)を破ると、華北一帯に及ぶ一大勢力を築く。

216年に魏王(ぎおう)に封じられるが、最後まで帝位にはつかず、後漢(ごかん)の丞相(じょうしょう)としてその生涯を閉じる。


曹騰(そうとう)・季興(ききょう)


豫州(よしゅう)・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。安帝(あんてい)、順帝(じゅんてい)、冲帝(ちゅうてい)、質帝(しつてい)の4代に仕えた宦官(かんがん)。曹操(そうそう)の養祖父。

桓帝(かんてい)の擁立(ようりつ)に貢献したことにより費亭侯(ひていこう)に封ぜられ、大長秋(だいちょうしゅう)に昇進して特進(とくしん)を加えられる。政治闘争の激しい宮中にあって30年あまりも大過(たいか)なく勤(つと)めた。



孫夏(そんか)


荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)で蜂起した黄巾賊・張曼成(ちょうまんせい)の将。『三国志演義(さんごくしえんぎ)』では孫仲(そんちゅう)として登場する。

張曼成(ちょうまんせい)、趙弘(ちょうこう)の後を継(つ)いだ韓忠(かんちゅう)は城を捨てて撤退。朱儁(しゅしゅん)の攻撃を受けて降伏するが、南陽太守(なんようたいしゅ)・秦頡(しんけつ)が降伏した韓忠(かんちゅう)を殺害したため、孫夏(そんか)は兵をまとめて再度宛県城(えんけんじょう)に籠(こ)もった。

その後、孫堅(そんけん)の攻撃に耐えきれず城を捨てて逃亡するが、荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・西鄂県(せいがくけん)の精山(せいざん)で討ち取られる。



孫堅(そんけん)・文台(ぶんだい)


孫堅(そんけん)

生没年 155年〜191年
出身地 揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)・富春県(ふしゅんけん)
所属勢力 霊帝(れいてい)→少帝(しょうてい)→献帝(けんてい)

17歳の時に銭唐県(せんとうけん)で海賊退治をしたことで名を挙げ、その後は会稽郡(かいけいぐん)で起こった許昌(きょしょう)の乱をはじめとする各地の反乱の鎮圧で活躍した。

また、袁紹(えんしょう)を盟主とする反董卓(とうたく)連合に応じて挙兵し、袁術(えんじゅつ)の下で積極的に戦って華雄(かゆう)を討ち取った。

袁紹(えんしょう)と袁術(えんじゅつ)の対立が深まると、袁術(えんじゅつ)の命によって袁紹(えんしょう)派の劉表(りゅうひょう)を攻めるが、黄祖(こうそ)の部下が放った矢によって命を落とした。

た


段熲(だんけい)・紀明(きめい)


涼州(りょうしゅう)・武威郡(ぶいぐん)・姑臧県(こそうけん)の人。皇甫規(こうほき)や張奐(ちょうかん)らが羌族(きょうぞく)に慎重な姿勢をとる中、強硬策を主張して討伐を押し進め、東西羌(ひがしせいきょう)を平定する。

司隷校尉(しれいこうい)に任じられると宦官(かんがん)の王甫(おうほ)らに与(くみ)して太学生(たいがくせい)を弾圧するが、後(のち)に王甫(おうほ)らとの関係を弾劾(だんがい)され服毒自殺した。



檀石槐(たんせきかい)


鮮卑(せんぴ)族の大人(たいじん)。父・投鹿侯(とうろくこう)が3年間南匈奴(みなみきょうど)に従軍している間に生まれる。

不義の子として殺されかけるが、母の「口に入った雹(ひょう)を飲み込んだところ身籠(みご)もったので、きっと非凡な人物になるでしょう」という助命嘆願によって、母は離縁され檀石槐(たんせきかい)の命は助けられた。

その後、勇健で知略に富んだ檀石槐(たんせきかい)は部族内で推(お)されて大人(たいじん)となる。初めて鮮卑(せんぴ)族を統一し、扶余(ふよ)・丁零(ていれい)・烏孫(うそん)を討(う)って内外モンゴル一帯を支配すると、たびたび後漢(ごかん)領内に侵入・略奪をくり返し、討伐軍を退(しりぞ)けた。


ち


种暠(ちゅうこう)・景伯(けいはく)


司隷(しれい)・河南尹(かなんいん)・洛陽県(らくようけん)の人。

益州刺史(えきしゅうしし)を務めていた時、蜀郡太守(しょくぐんたいしゅ)が曹騰(そうとう)に私的に送った書簡を手に入れ蜀郡太守(しょくぐんたいしゅ)と曹騰(そうとう)を弾劾(だんがい)したが、逆に曹騰(そうとう)はこの行為を褒(ほ)め称(たた)え、その後も种暠(ちゅうこう)を厚く遇した。

後(のち)に司徒(しと)となった种暠(ちゅうこう)は「今の自分があるのは曹常侍(そうじょうじ)(曹騰(そうとう))のお陰だ」と語った。



趙雲(ちょううん)・子龍(しりょう)


趙雲(ちょううん)

生没年 ?〜229年
出身地 冀州(きしゅう)・常山郡(じょうざんぐん)・真定県(しんていけん)
所属勢力 公孫瓚(こうそんさん) → 劉備(りゅうび) → 劉禅(りゅうぜん)

はじめ公孫瓚(こうそんさん)に仕えたが、後(のち)に劉備(りゅうび)に仕える。

長坂(ちょうはん)の戦いでは、曹操(そうそう)軍の激しい追撃の中劉備(りゅうび)の妻子を守りきった。

また、定軍山(ていぐんざん)の戦いではみごとな空城(くうじょう)の計によって敵を退却させ、劉備(りゅうび)に「子龍(しりょう)は一身すべてこれ肝なり」と称賛(しょうさん)される。

劉備(りゅうび)亡(な)き後も冷静な判断と実直な人柄で劉禅(りゅうぜん)を支え、死後に順平侯(じゅんぺいこう)の諡号(しごう)を贈られた。


張温(ちょうおん)・伯慎(はくしん)


荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・穣県(じょうけん)の人。中常侍(ちゅうじょうじ)・曹騰(そうとう)の推挙によって取り立てられ、大司農(だいしのう)から司空(しくう)に昇進した。

皇甫嵩(こうほすう)の後任として「辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)の乱」の鎮圧にあたるが、配下にいた董卓(とうたく)の恨(うら)みを買う事となり、その後朝廷で権力を握(にぎ)った董卓(とうたく)に処刑された。



趙戒(ちょうかい)・志伯(しはく)


益州(えきしゅう)・蜀郡(しょくぐん)・成都県(せいとけん)の人。

不正を働いた者はどのような身分でも厳しく取り締まったことで名をあげる。その後三公(さんこう)を歴任するが、梁冀(りょうき)の専横には対抗することができなかった。



張角(ちょうかく)


張角(ちょうかく)

生没年 ?〜184年
出身地 冀州(きしゅう)・鉅鹿郡(きょろくぐん)
所属勢力 独立勢力

道教の一派である太平道(たいへいどう)の開祖。自ら大賢良師(たいけんりょうし)と称し、8つの州にまたがり40〜50万人の信者を抱えていた。

表面的には善道を説いていたが、信者を36の「方(ほう)」に分け、それぞれに将軍を配置してまとめさせると、信者による一斉蜂起をうながして後漢(ごかん)の転覆(てんぷく)を企てた。

宗教家としての太平道人(たいへいどうじん)、大賢良師(たいけんりょうし)に続いて、黄巾の乱を引き起こした際は、天公将軍(てんこうしょうぐん)と称するなど、肩書きが大好きな人。黄巾の乱の最中に病死する。


張奐(ちょうかん)・然明(ぜんめい)


涼州(りょうしゅう)・敦煌郡(とんこうぐん)・淵泉県(えんせんけん)の人。使匈奴中郎将(しきょうどちゅうろうしょう)、度遼将軍(とりょうしょうぐん)を歴任し、異民族の平定で大功をあげる。

第二次党錮(とうこ)の禁に際し、宦官(かんがん)に命じられるまま竇武(とうぶ)を包囲して自害に追い込んだことを恥じ、以後宦官(かんがん)と対立した。



趙弘(ちょうこう)


荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)で蜂起した黄巾賊・張曼成(ちょうまんせい)の将。

張曼成(ちょうまんせい)が南陽太守(なんようたいしゅ)・秦頡(しんけつ)に討たれると、その後を継(つ)いで宛県城(えんけんじょう)に籠(こ)もり続けたが、朱儁(しゅしゅん)の総攻撃を受けて敗死した。



張譲(ちょうじょう)


豫州(よしゅう)・潁川郡(えいせんぐん)の人。宦官(かんがん)。霊帝(れいてい)期の中常侍(ちゅうじょうじ)の中心人物で、霊帝(れいてい)から絶大な信頼を受けて栄華を極めた。

霊帝(れいてい)の死後、袁紹(えんしょう)の攻撃を受けた張譲(ちょうじょう)は少帝(しょうてい)と陳留王(ちんりゅうおう)を連れて洛陽(らくよう)を脱出するが、追い詰(つ)められ、川に身を投げて自害した。



張邈(ちょうばく)・孟卓(もうたく)


張邈(ちょうばく)

生没年 ?〜195年
出身地 兗州(えんしゅう)・東平国(とうへいこく)・寿張県(じゅちょうけん)
所属勢力 献帝(けんてい)→曹操(そうそう)→呂布(りょふ)

若い頃から袁紹(えんしょう)と「奔走(ほんそう)の友」の交(まじ)わりを結び、董卓(とうたく)が朝廷の実権を握ると陳留太守(ちんりゅうたいしゅ)に任命されるが、弟の張超(ちょうちょう)と共に反董卓(とうたく)連合に加わった。

その後は兗州牧(えんしゅうぼく)となった曹操(そうそう)に従っていたが、曹操(そうそう)の徐州(じょしゅう)侵攻の隙(すき)を突いて呂布(りょふ)、陳宮(ちんきゅう)らと反乱を起こす。

急ぎ徐州(じょしゅう)から帰還した曹操(そうそう)に呂布(りょふ)が敗れると劉備(りゅうび)を頼って徐州(じょしゅう)に落ち延(の)びるが、兗州(えんしゅう)に残した弟・張超(ちょうちょう)のため袁術(えんじゅつ)に救援要請に行く途上、部下に殺害された。



張飛(ちょうひ)・益徳(えきとく)


張飛(ちょうひ)

生没年 ?〜221年
出身地 幽州(ゆうしゅう)・涿郡(たくぐん)
所属勢力 劉備(りゅうび)

劉備(りゅうび)の挙兵以来、関羽(かんう)と共に兄弟のように仕えた万夫不当(ばんぷふとう)の豪傑。

長坂(ちょうはん)の戦いでは、曹操(そうそう)軍から逃げる劉備(りゅうび)を守るために殿軍(しんがり)を務(つと)め、一喝して曹操(そうそう)軍を退けるなど、その勇名は敵味方に轟(とどろ)いていた。

目上の者は敬(うやま)うが、部下に対する苛烈な刑罰を改めることができず、関羽(かんう)の弔(とむら)い合戦の前に恨みを抱いていた部下の范彊(はんきょう)・張達(ちょうたつ)に殺害された。『三国志演義』での字(あざな)は翼徳(よくとく)。


張宝(ちょうほう)


張宝(ちょうほう)

生没年 ?〜184年
出身地 冀州(きしゅう)・鉅鹿郡(きょろくぐん)
所属勢力 張角(ちょうかく)

太平道(たいへいどう)の開祖・張角(ちょうかく)の弟。張梁(ちょうりょう)の兄。張角(ちょうかく)が黄巾の乱を起こすと地公将軍(ちこうしょうぐん)と称してこれに従った。

朝廷より討伐軍が派遣されると、病床の張角(ちょうかく)の代わりに指揮をとった。兄の張角(ちょうかく)が病死し弟の張梁(ちょうりょう)が戦死する中、冀州(きしゅう)・鉅鹿郡(きょろくぐん)の下曲陽(かきょくよう)に籠城して最後まで抵抗したが、皇甫嵩(こうほすう)率いる討伐軍に敗れて討たれた。

『三国志演義』では妖術を使って官軍を苦しめた。


張曼成(ちょうまんせい)


荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)で蜂起した黄巾賊の将。

184年3月、太平道(たいへいどう)の張角(ちょうかく)が蜂起すると「神上使(しんじょうし)」を称して南陽太守(なんようたいしゅ)・褚貢(ちょこう)を殺害し、宛県城(えんけんじょう)を拠点とするが、新たに任命された南陽太守(なんようたいしゅ)・秦頡(しんけつ)の攻撃を受けて討ち死にする。



張梁(ちょうりょう)


張梁(ちょうりょう)

生没年 ?〜184年
出身地 冀州(きしゅう)・鉅鹿郡(きょろくぐん)
所属勢力 張角(ちょうかく)

太平道(たいへいどう)の開祖・張角(ちょうかく)の末弟。張角(ちょうかく)が黄巾の乱を起こすと兄の張宝(ちょうほう)とともに人公将軍(じんこうしょうぐん)と称してこれに従った。

朝廷より討伐軍が派遣されると冀州(きしゅう)・鉅鹿郡(きょろくぐん)・広宗県(こうそうけん)で迎え撃ち、緒戦(しょせん)を勝利するなど官軍を苦しめるが、最後は皇甫嵩(こうほすう)軍の奇襲を受け、敗れて斬り殺された。






褚貢(ちょこう)


荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)で蜂起した黄巾賊・張曼成(ちょうまんせい)に殺害された南陽太守(なんようたいしゅ)。



陳温(ちんおん)・元悌(げんてい)


豫州(よしゅう)・汝南郡(じょなんぐん)の人。初平(しょへい)元年(190年)当時の揚州刺史(ようしゅうしし)。

董卓(とうたく)が支配する洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))から逃亡してきた許靖(きょせい)を匿(かくま)った他、曹洪(そうこう)と親しく、董卓(とうたく)に敗れた曹操(そうそう)に廬江郡(ろこうぐん)の精鋭武装兵・2,000人を援助した。

その死については、「初平(しょへい)3年(192年)冬に病死」とする記録と、「初平(しょへい)4年(193年)3月に袁術(えんじゅつ)によって殺害された」とする記録がある。



陳寔(ちんしょく)・仲弓(ちゅうきゅう)


豫州(よしゅう)・潁川郡(えいせんぐん)・許県(きょけん)の人。子に陳紀(ちんき)。孫に陳羣(ちんぐん)がいる。

貧しい家に生まれたが、太学(たいがく)に学び郡の西門亭長(せいもんていちょう)・功曹従事(こうそうじゅうじ)となった。党錮(とうこ)の禁に連座したが、宦官(かんがん)・張譲(ちょうじょう)の父の葬儀に出席していたために許された。



陳蕃(ちんはん)・仲挙(ちゅうきょ)


豫州(よしゅう)・汝南郡(じょなんぐん)・平輿県(へいよけん)の人。党人(とうじん)の指導者で「三君」の1人。

霊帝(れいてい)が即位すると太傅(たいふ)・録尚書事(ろくしょうしょじ)に任命される。竇武(とうぶ)と共に宦官(かんがん)誅殺(ちゅうさつ)を計画するが、事前に察知され、捕らえられて獄死した。


て


程遠志(ていえんし)


『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物。黄巾賊の将。

5万の兵を率(ひき)いて幽州(ゆうしゅう)・涿郡(たくぐん)・涿県(たくけん)に攻め寄せるが、大興山(たいこうざん)のふもとで鄒靖(すうせい)・劉備(りゅうび)率(ひき)いる500の義勇軍に遭遇(そうぐう)し、関羽(かんう)に一刀両断にされた。



典韋(てんい)


典韋(てんい)

生没年 ?〜197年
出身地 兗州(えんしゅう)・陳留郡(ちんりゅうぐん)・己吾県(きごけん)
所属勢力 張邈(ちょうばく)(趙寵(ちょうちょう))→曹操(そうそう)

反董卓(とうたく)の義兵を挙(あ)げた張邈(ちょうばく)配下の趙寵(ちょうちょう)に所属したが、曹操(そうそう)が兗州牧(えんしゅうぼく)に迎えられると夏侯惇(かこうとん)に所属して戦功を立て、司馬(しば)に任命された。

その後、曹操(そうそう)の身辺警護に当たるようになると「帳下(ちょうか)の壮士に典君(てんくん)あり」と謳(うた)われたが、荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・宛県(えんけん)で張繡(ちょうしゅう)が曹操(そうそう)に謀叛(むほん)した際、門の前に立ちはだかって曹操(そうそう)の逃走を助け、壮絶な最期を遂(と)げた。


と


陶謙(とうけん)・恭祖(きょうそ)


陶謙(とうけん)

生没年 132年〜194年
出身地 揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))
所属勢力 桓帝(かんてい)→霊帝(れいてい)→少帝(しょうてい)→献帝(けんてい)

車騎将軍(しゃきしょうぐん)・張温(ちょうおん)の下で「辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)の乱」討伐に参加し、後に徐州刺史(じょしゅうしし)に任命されて徐州(じょしゅう)の黄巾賊を撃ち破った。

李傕(りかく)・郭汜(かくし)らが朝廷の実権を握ると、朱儁(しゅしゅん)を太師(たいし)に推戴(すいたい)して討伐(とうばつ)を計画するが、失敗。朝廷に帰順して徐州牧(じょしゅうぼく)に任命される。

曹操(そうそう)の2度に渡る徐州(じょしゅう)侵攻を凌(しの)いだが、その後病(やまい)を患(わずら)い、「劉備(りゅうび)に徐州(じょしゅう)を譲(ゆず)る」ことを遺言(ゆいごん)して亡くなった。



董卓(とうたく)・仲穎(ちゅうえい)


董卓(とうたく)

生没年 ?〜192年
出身地 涼州(りょうしゅう)・隴西郡(ろうせいぐん)・臨洮県(りんとうけん)
所属勢力 桓帝(かんてい)→霊帝(れいてい)→少帝(しょうてい)→献帝(けんてい)

若い頃から武芸に秀で、羌族(きょうぞく)などの異民族と交流を持った。

黄巾の乱では盧植(ろしょく)の後任として討伐に当たるも敗退して職を解かれる。

何進(かしん)の宦官一掃に協力して洛陽(らくよう)に入ると反対勢力を駆逐して実権を掌握。少帝(しょうてい)を廃して献帝(けんてい)を擁立すると、自(みずか)ら相国(しょうこく)となって暴虐の限りを尽くした。

打倒董卓(とうたく)を掲げる「反董卓(とうたく)連合」を退けるが、配下の呂布(りょふ)に殺された。



竇武(とうぶ)・游平(ゆうへい)


司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)・平陵県(へいりょうけん)の人。桓帝(かんてい)の皇后(こうごう)・竇妙(とうみょう)の父。「三君」の筆頭。

陳蕃(ちんはん)と共に党人(とうじん)を庇護(ひご)して宦官(かんがん)と対立。宦官(かんがん)の誅殺(ちゅうさつ)を計画するが、逆に「霊帝(れいてい)廃位を目論(もくろ)んだ逆賊」として包囲され自害した。



鄧茂(とうも)


『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物。5万の兵を率(ひき)いて幽州(ゆうしゅう)・涿郡(たくぐん)・涿県(たくけん)に攻め寄せた程遠志(ていえんし)の副将。

大興山(たいこうざん)のふもとで鄒靖(すうせい)・劉備(りゅうび)率(ひき)いる500の義勇軍に遭遇(そうぐう)し、先手(さきて)として戦いを挑(いど)むが、張飛(ちょうひ)に一突きで殺された。



杜喬(ときょう)・叔栄(しゅくえい)


司隷(しれい)・河内郡(かだいぐん)・林慮県(りんりょけん)の人。順帝(じゅんてい)に泰山太守(たいざんたいしゅ)の李固(りこ)を推挙し、外戚(がいせき)・梁冀(りょうき)と関係のある地方官を次々に弾劾(だんがい)した。

質帝(しつてい)が梁冀(りょうき)に毒殺されると李固(りこ)と共に清河王(せいがおう)・劉蒜(りゅうさん)を擁立(ようりつ)しようとするが、蠡吾侯(れいごこう)・劉志(りゅうし)(後の桓帝(かんてい))を擁立(ようりつ)しようとする梁冀(りょうき)に敗れて殺害された。


な


南華老仙(なんかろうせん)


南華老仙(なんかろうせん)

生没年 不明
出身地 不明
所属勢力 なし

『三国志演義』のみに登場する仙人。張角(ちょうかく)に『太平要術(たいへいようじゅつ)の書(しょ)』を授(さず)ける。

「これを使って民を助けよ。ただし、悪しきことに使えば天罰が下る」と忠告するも、張角(ちょうかく)は『太平要術(たいへいようじゅつ)の書(しょ)』で習得した妖術を頼りに太平道(たいへいどう)を開き、黄巾の乱を引き起こした。

南華老仙(なんかろうせん)は、戦国時代の思想家である荘周(そうしゅう)(荘子(そうし))が仙人になった姿と考えられており、青い目を持つ子供のような顔をした老人として描かれている。

ね

の

は


馬元義(ばげんぎ)


黄巾賊の将。184年、朝廷の宦官(かんがん)に内応工作を行うために洛陽(らくよう)に潜伏していたが、部下の唐周(とうしゅう)の密告によって計画が露見(ろけん)し、捕縛されて処刑された。



馬融(ばゆう)・季長(きちょう)


司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)・茂陵県(もりょうけん)の人。馬援(ばえん)の兄の子。

外戚(がいせき)の鄧氏(とうし)に逆らって左遷(させん)されるが、桓帝(かんてい)の代になって南郡太守(なんぐんたいしゅ)となり、中央に召されて議郎(ぎろう)に任命される。経籍(けいせき)に精通し、盧植(ろしょく)、鄭玄(ていげん)などの弟子を世に出した。


ひ

ふ

へ

ほ


鮑信(ほうしん)


鮑信(ほうしん)

生没年 152年〜192年
出身地 兗州(えんしゅう)・泰山郡(たいざんぐん)
所属勢力 霊帝(れいてい)→少帝(しょうてい)→献帝(けんてい)

董卓(とうたく)が洛陽(らくよう)を支配すると、袁紹(えんしょう)に董卓(とうたく)を討つように勧めるが受け入れられず、曹操(そうそう)の挙兵に呼応して反董卓(とうたく)連合に加わる。

董卓(とうたく)との戦いでは、盟主の袁紹(えんしょう)よりもまだ力なき曹操(そうそう)を高く評価し、行動を共にした。

その後済北相(せいほくしょう)となると、兗州牧(えんしゅうぼく)となった曹操(そうそう)と共に侵攻してきた青州(せいしゅう)黄巾(こうきん)と戦うが、激戦の中戦死した。




ま

む

め

も

や

ゆ

よ

ら

り


李傕(りかく)・稚然(ちぜん)


李傕(りかく)

生没年 ?〜198年
出身地 涼州(りょうしゅう)・北地郡(ほくちぐん)
所属勢力 董卓(とうたく)→少帝(しょうてい)→献帝(けんてい)

董卓(とうたく)配下の校尉(こうい)。董卓(とうたく)誅殺(ちゅうさつ)の報が入ると、郭汜(かくし)らと長安(ちょうあん)を包囲して陥落させ、王允(おういん)を斬った。

その後、郭汜(かくし)、樊稠(はんちゅう)らと朝廷で権力を握ったが、やがて郭汜(かくし)と対立する。

献帝(けんてい)が洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に向かうと、郭汜(かくし)と和睦(わぼく)して献帝(けんてい)を追ったが捕らえることはできず、その後は権勢を失って、朝廷が派遣した裴茂(はいぼう)に討伐された。



陸康(りくこう)・季寧(きねい)


陸康(りくこう)

生没年 126年〜195年
出身地 揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)・呉県(ごけん)
所属勢力 桓帝(かんてい)→霊帝(れいてい)→少帝(しょうてい)→献帝(けんてい)

若い頃から孝行と義烈(正義の心がきわめて強いこと)をもって知られ、陸康(りくこう)が赴任すると百姓たちは大いに喜び、盗賊もいなくなったので、州郡にその功績を称(たた)えられた。

後(のち)に復帰して廬江太守(ろこうたいしゅ)に任命されるが、袁術(えんじゅつ)の物資援助要請を断ったことで怨(うら)みを買い、袁術(えんじゅつ)の命を受けた孫策(そんさく)の攻撃を受けて城は陥落。その1ヶ月余り後(のち)に病(やまい)で亡くなった。




李固(りこ)・子堅(しけん)


益州(えきしゅう)・漢中郡(かんちゅうぐん)・南鄭県(なんていけん)の人。大将軍(たいしょうぐん)・梁商(りょうしょう)に辟召(へきしょう)されるが、梁商(りょうしょう)の子・梁冀(りょうき)と対立した。後に太尉(たいい)に昇進する。

質帝(しつてい)が梁冀(りょうき)に毒殺されると、蠡吾侯(れいごこう)・劉志(りゅうし)(後の桓帝(かんてい))を擁立(ようりつ)しようとする梁冀(りょうき)に対抗して杜喬(ときょう)と共に清河王(せいがおう)・劉蒜(りゅうさん)を擁立(ようりつ)するが、冤罪(えんざい)によって投獄・殺害された。



劉焉(りゅうえん)・君郎(くんろう)


劉焉(りゅうえん)

生没年 ?〜194年
出身地 荊州(けいしゅう)・江夏郡(こうかぐん)・竟陵県(きょうりょうけん)
所属勢力 霊帝(れいてい)→少帝(しょうてい)→献帝(けんてい)

前漢の魯恭王(ろきょうおう)であった劉余(りゅうよ)(景帝(けいてい)の第4子)の末裔(まつえい)に当たる。

霊帝(れいてい)の時代、政治の腐敗や黄巾の乱の影響によって刺史(しし)や太守(たいしゅ)の支配力が弱体化していることを理由に、軍権と民政権を兼ねた「州牧(しゅうぼく)」の復活を提案し、みずから益州(えきしゅう)の牧(ぼく)となる。劉璋(りゅうしょう)の父。

『三国志演義』では、黄巾の乱の時に幽州太守(ゆうしゅうたいしゅ)として登場するが、正史にその記録はなく、後に益州(えきしゅう)を治めることになる劉備(りゅうび)との因果関係を強める演出である。


劉悝(りゅうかい)


桓帝(かんてい)の弟。勃海王(ぼっかいおう)。165年に反乱を計画した罪で廮陶王(えいとうおう)に格下げされる。

中常侍(ちゅうじょうじ)の王甫(おうほ)に勃海王(ぼっかいおう)への復帰工作を依頼していたが、桓帝(かんてい)の遺詔(ゆいしょう)によって復帰が叶(かな)うと(王甫(おうほ)のお陰ではないからと)王甫(おうほ)に礼金を支払わなかった。

これを恨(うら)みに思った王甫(おうほ)は「劉悝(りゅうかい)に帝位簒奪(さんだつ)の企(たくら)みあり」と誣告(ぶこく)し、追い詰(つ)められた劉悝(りゅうかい)は自害に追い込まれる。



劉虞(りゅうぐ)・伯安(はくあん)


劉虞(りゅうぐ)

生没年 ?〜193年
出身地 徐州(じょしゅう)・東海郡(とうかいぐん)・郯県(たんけん)
所属勢力 霊帝(れいてい)→少帝(しょうてい)→献帝(けんてい)

東海恭王(とうかいきょうおう)・劉彊(りゅうきょう)[後漢(ごかん)の初代皇帝・光武帝(こうぶてい) (劉秀(りゅうしゅう))の長子]の末裔(まつえい)に当たる。

清貧で知られ、幽州牧(ゆうしゅうぼく)に任命されて「張純(ちょうじゅん)の乱」を平定。反董卓(とうたく)連合が決起すると、袁紹(えんしょう)らに天子(てんし)に推戴(すいたい)されるが、これを拒絶した。

その後、暴走する公孫瓚(こうそんさん)討伐の軍を起こすが、敗れて捕らえられ、帝号を僭称(せんしょう)しようとした罪で処刑された。



劉陶(りゅうとう)・子奇(しき)


豫州(よしゅう)・潁川郡(えいせんぐん)・潁陰県(えいいんけん)の人。漢(かん)の宗族。

太平道(たいへいどう)が蜂起する前から張角(ちょうかく)の危険性を進言していた功により、中陵郷侯(ちゅうりょうきょうこう)に封ぜられるが、その後宦官(かんがん)を弾劾する上奏を行ったため、宦官(かんがん)によって「先の進言は張角(ちょうかく)と結んでいたから知ることができた」と讒言(ざんげん)され、獄中で自害した。



劉表(りゅうひょう)・景升(けいしょう)


劉表(りゅうひょう)

生没年 142年〜208年
出身地 兗州(えんしゅう)・山陽郡(さんようぐん)・高平県(こうへいけん)
所属勢力 霊帝(れいてい)→少帝(しょうてい)→献帝(けんてい)

前漢の景帝(けいてい)の第4子・魯恭王(ろきょうおう)・劉余(りゅうよ)の第6子、郁桹侯(いくろうこう)・劉驕(りゅうきょう)の子孫。若い頃から清流派の党人として名声を得る。

孫堅(そんけん)によって荊州刺史(けいしゅうしし)・王叡(おうえい)が殺害されると、その後任に任命される。また、劉表(りゅうひょう)は学問を奨励(しょうれい)したため、戦乱を逃れた名士や学者の多くが荊州(けいしゅう)に移住した。

河北(かほく)を平定した曹操(そうそう)が南下の姿勢を見せると、領土を失った劉備(りゅうび)を受け入れて最前線の新野県(しんやけん)を守らせるが、間もなく亡くなった。


劉備(りゅうび)・玄徳(げんとく)


劉備(りゅうび)

生没年 161年〜223年
出身地 幽州(ゆうしゅう)・涿郡(たくぐん)・涿県(たくけん)
所属勢力 霊帝(れいてい)→少帝(しょうてい)→献帝(けんてい)
→蜀漢(しょくかん)建国

前漢(ぜんかん)の景帝(けいてい)の第9子、中山靖王(ちゅうざんせいおう)・劉勝(りゅうしょう)の庶子、劉貞(りゅうてい)の末裔というが、定かではない。

黄巾の乱の時に挙兵。以来各地を転戦するも確たる地盤を持てずにいたが、軍師(ぐんし)・諸葛亮(しょかつりょう)を迎えると「天下三分の計」に従って益州(えきしゅう)の地に地盤を築いた。

献帝(けんてい)が曹魏(そうぎ)に禅譲(ぜんじょう)すると、皇帝に即位して「蜀漢(しょくかん)」を建国する。配下の関羽(かんう)の仇討(かたきう)ちに呉(ご)に攻め込むが、陸遜(りくそん)の火計に敗退し、病を患って白帝城(はくていじょう)で諸葛亮(しょかつりょう)に後事を託して没する。


劉繇(りゅうよう)・正礼(せいれい)


劉繇(りゅうよう)

生没年 157年〜198年
出身地 青州(せいしゅう)・東萊郡(とうらいぐん)・牟平県(ぼうへいけん)
所属勢力 霊帝(れいてい)→少帝(しょうてい)→献帝(けんてい)

前漢(ぜんかん)の孝王(こうおう)の末裔。青州(せいしゅう)・済南国(せいなんこく)の行政監察にあたった時には、賄賂(わいろ)を貪(むさぼ)る中常侍(ちゅうじょうじ)の息子を罷免(ひめん)するなどしたが、その後は官職につがず、戦乱を避けて淮水(わいすい)流域に避難した。

後に揚州刺史(ようしゅうしし)に任命されると、勝手に郡県を攻撃する袁術(えんじゅつ)と敵対する。

その後は、袁術(えんじゅつ)が派遣した孫策(そんさく)に敗北を重ね、豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))に移るが、まもなく病死した。



李膺(りよう)・元礼(げんれい)


豫州(よしゅう)・潁川郡(えいせんぐん)・襄城県(じょうじょうけん)の人。党人(とうじん)の中心人物。太守(たいしゅ)を歴任して多くの宦官(かんがん)の不正を摘発する。第二次党錮(とうこ)の禁が起こると投獄されて殺された。



梁冀(りょうき)・伯卓(はくたく)


涼州(りょうしゅう)・安定郡(あんていぐん)・烏枝県(うしけん)の人。 後漢(ごかん)第8代皇帝・順帝(じゅんてい)の皇后(こうごう)・梁妠(りょうどう)の兄。外戚(がいせき)として権力を握り、順帝(じゅんてい)、冲帝(ちゅうてい)、質帝(しつてい)、桓帝(かんてい)の4代に渡って国政を私物化した。

成人した桓帝(かんてい)が宦官(かんがん)・単超(ぜんちょう)らの助力を得て梁冀(りょうき)の排斥に成功したことから、一層宦官(かんがん)への権力集中が進んだ。



呂布(りょふ)・奉先(ほうせん)


呂布(りょふ)

生没年 ?年〜199年
出身地 幷州(へいしゅう)・五原郡(ごげんぐん)
所属勢力 丁原(ていげん)→董卓(とうたく)→独立

丁原(ていげん)に仕えていたが、董卓(とうたく)が洛陽(らくよう)に入ると丁原(ていげん)を殺して董卓(とうたく)に従い、父子の契(ちぎ)りを結ぶ。「人中に呂布(りょふ)あり、馬中に赤兎(せきと)あり」と賞された万夫不当の豪傑。

その後、司徒(しと)・王允(おういん)らと結んで董卓(とうたく)を殺害するが、李傕(りかく)・郭汜(かくし)に敗れて各地を放浪、自分を受け入れてくれた劉備(りゅうび)が治める徐州(じょしゅう)を奪う。

その後劉備(りゅうび)と結んだ曹操(そうそう)に包囲されると配下の裏切りを受けて降伏するが、命乞(ご)いも空(むな)しく劉備(りゅうび)の進言によって処刑された。

る

れ


霊帝(れいてい)(劉宏(りゅうこう))


霊帝(れいてい)

生没年 156〜189年
出身地 冀州(きしゅう)・河間国(かかんこく)
所属勢力 後漢(ごかん)

後漢(ごかん)第12代皇帝。先帝の桓帝(かんてい)には男子がなく、第3代皇帝・章帝(しょうてい)の玄孫にあたる劉宏(りゅうこう)がわずか12歳で即位した。

即位してすぐに「第二次党錮(とうこ)の禁」が起こり、十常侍(じゅうじょうじ)を筆頭とする宦官が権力を握ると、その傀儡(かいらい)となって良将賢臣を遠ざける。

また、皇帝自らが「売官」を行い賄賂を横行させたため、民衆は重い賦役に一層苦しむようになり、「黄巾の乱」の一因となった。

ろ


盧植(ろしょく)・子幹(しかん)


盧植(ろしょく)

生没年 ?〜192年
出身地 幽州(ゆうしゅう)・涿郡(たくぐん)・涿県(たくけん)
所属勢力 霊帝(れいてい)→少帝(しょうてい)→袁紹(えんしょう)

鄭玄(じょうげん)とともに馬融(ばゆう)に師事して儒学を学び、故郷幽州(ゆうしゅう)・涿郡(たくぐん)・涿県(たくけん)で近隣の子弟に学問を教えていた。門下には劉備(りゅうび)や公孫瓚(こうそんさん)がいる。

黄巾の乱が起こると北中郎将(ほくちゅうろうしょう)に任命されて討伐軍の一翼を担ったが、軍の監察に来た左豊(さほう)に賄賂を求められ、これを断ったために罪を着せられて免官された。

黄巾の乱が終結すると、皇甫嵩(こうほすう)が冤罪(えんざい)を証明したために復職したが、董卓(とうたく)の献帝(けんてい)擁立(ようりつ)に反対したために再び免官された。
晩年は袁紹(えんしょう)の軍師(ぐんし)となって病死した。

わ