正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(110)(邯鄲淳かんたんじゅん邯鄲商かんたんしょう)です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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か(110)

邯鄲(かんたん)

邯鄲淳かんたんじゅん子叔ししゅく邯鄲笁かんたんとく

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐんの人。一名をとくという。

博学で文章の才能があった。張揖ちょうゆう埤蒼ひそう』『広雅こうが蟲書ちゅうしょ篆書てんしょ許氏きょし許慎きょしん説文解字せつもんかいじ)・古今字指こきんじさしに詳しかった。

また史書ししょ隷書れいしょ)にたくみで鍾繇しょうよう衛覬えいき韋誕いたん胡昭こしょうと並んで名声があり、魏略ぎりゃくにおいて賈洪かこう薛夏せつか隗禧かいき蘇林そりん楽詳がくしょう董遇とうぐうと共に7人の儒宗じゅそう儒学じゅがくの大家)の1人にも数えられている。

曹植に仕える

初平しょへい年間(190年〜193年)、邯鄲淳かんたんじゅん三輔さんぽ司隷しれい京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふう)から荊州けいしゅううつって寓居ぐうきょ仮住かりずまい)した。

建安けんあん13年(208年)9月、荊州けいしゅう劉琮りゅうそう曹操そうそうに服従すると、曹操そうそうはかねてからその名を聞いていた邯鄲淳かんたんじゅんし出して会見し、大いに彼に敬意を払った。

当時、五官将ごかんしょう曹丕そうひ)はすぐれた儒者じゅしゃを広く登用していたので、邯鄲淳かんたんじゅん文学ぶんがくの官属にしたいと上申したが、ちょうど臨菑侯りんしこう曹植そうしょくもまた邯鄲淳かんたんじゅんを求めており、曹操そうそう邯鄲淳かんたんじゅん曹植そうしょくもとに行かせることにした。

曹植を称賛する

曹植そうしょく邯鄲淳かんたんじゅんを得て大いに喜び、座中にまねき入れたが、すぐに彼と話すことはしなかった。

その日は夏の暑い最中さなかだったので、曹植そうしょくは従者を呼んで水を持って来させると、自分で身体を洗って白粉おしろいをつけた。

そして頭をあらわにして拍子ひょうしを取ると、五椎鍛ごついたん胡人こじんのようにおどり、たまね剣を振るって俳優やくしゃのやる小説こばなし・数千言を口ずさみ、それが終わると邯鄲淳かんたんじゅんに「邯鄲生かんたんせい如何いかがかな?」と言った。

そして、改めて衣服・さく頭巾ずきん)をつけて威儀を整えると、邯鄲淳かんたんじゅんと、

  • 混元造化こんげんぞうかたん混沌こんとんたる天地創造の始め)
  • 品物区別ひんぶつくべつ(万物が分離して行く意味)
  • 羲皇ぎこう伏羲ふくぎ)以来の賢人・聖人・名臣・烈士の優劣の差

について論じ、古今の文章・るい(死者をいたむ文)をたたえ、官職にあって政治を行う場合に当然なすべき順序に触れ、また軍兵をもちいる際の倚伏きふくせい(変転する状況)について論じた。

そこで廚宰ちゅうさい(料理人)に命じて酒とあぶり肉を交互に出すと、座にいた者たちの中に曹植そうしょくに対抗できる者はおらず、みな黙ったままであった。


日が暮れて帰った邯鄲淳かんたんじゅんは、知り合いに対して曹植そうしょくの才能を感嘆かんたんし、彼を「天人」と言った。

当時はまだ曹操そうそう世子せいし太子たいし)が立てられておらず、邯鄲淳かんたんじゅんがしばしば曹植そうしょくの才能を称揚しょうようしていたので、曹操そうそうにわか曹植そうしょくの方に心がかたむいた。このようなことから、五官将ごかんしょう曹丕そうひ)はすこぶる不機嫌になった。

文帝(曹丕)に博士給事中に任命される

黄初こうしょ年間(220年〜226年)の初め、文帝ぶんてい曹丕そうひ)によって博士はくし給事中きゅうじちゅうに任命され、邯鄲淳かんたんじゅん投壺賦とうこふ千余言を作って献上すると、文帝ぶんてい曹丕そうひ)はこれを「良くできている」と評価し、きぬひき下賜かしした。

『四体書勢』序・古文

しん篆書てんしょを採用して過去の典籍てんせきを焼いてから、古文(古代の文字)は滅んだ。かん武帝ぶていの時代、恭王きょうおう孔子こうしの邸宅を壊して尚書しょうしょ』『春秋しゅんじゅう』『論語ろんご』『孝経こうけいを手に入れたが、当時はもうすでに古文(古代の文字)を読むことができる者がおらず、これらを「科斗書かとしょ*1」と読んで秘蔵し、滅多に見ることはできなかった。

の初めに古文(古代の文字)を伝えたのは、邯鄲淳かんたんじゅんである。

敬侯けいこう衛覬えいき)は邯鄲淳かんたんじゅんが書いた古文の尚書しょうしょを書き写し、のち邯鄲淳かんたんじゅんに見せたが、邯鄲淳かんたんじゅんにも区別ができなかった。

正始せいし年間(240年〜249年)に三字石経さんじせきけい*2が立てられた時には、一転して邯鄲淳かんたんじゅんの書法は失われていたが、科斗かと*1の名がつけられていることから、結局その書法を真似まねたものである。

しん太康たいこう元年(280年)、司州ししゅう汲郡きゅうぐん汲県きゅうけんの住民が(戦国せんごく時代の)襄王じょうおうの墳墓を盗掘し、10余万字の策書さくしょ(辞令書)を手に入れたが、(その書体には)敬侯けいこう衛覬えいき)の書体を彷彿ほうふつとさせるものがあった。

脚注

*1科斗かととは「おたまじゃくし」のこと。

*2古文・篆書てんしょ隷書れいしょの3書体で石にきざまれた経書けいしょ

『四体書勢』序・篆書

しんの時代、李斯りし工篆こうてん篆書てんしょたくみな者)と号し、各地の山々に立てられている石碑せきひ銅人どうじん銅像どうぞう)にきざまれた銘文めいぶんは、すべて李斯りしの書である。

かん建初けんしょ年間(76年〜84年)、司隷しれい右扶風ゆうふふう出身の曹喜そうきの書は多少李斯りしの書と異なっていたが、やはり「し」と称された。

邯鄲淳かんたんじゅん曹喜そうきてほんとしてほぼその妙技みょうぎきわめ、韋誕いたん邯鄲淳かんたんじゅんてほんとしたが及ばなかった。

太和たいわ年間(227年〜233年)、韋誕いたん武都太守ぶとたいしゅとなったが、書にたくみなことから(みやこに)とどめられ、侍中じちゅうに任命された。魏氏ぎしの宝器の銘題めいだいはみな韋誕いたんの書であるという。

かん末の蔡邕さいようは、李斯りし曹喜そうきの書法を取り入れて古今のじり合った字形を書いたが、精密で無駄がなく理にかなっているという点では、邯鄲淳かんたんじゅんに及ばなかった。


師宜官しぎかんは大字を書き、邯鄲淳かんたんじゅんは小字を書いた。梁鵠りょうこくは「邯鄲淳かんたんじゅん王次仲おうじちゅうの書法をものにしたのだ」と言っている。梁鵠りょうこくふでづかいは勢いを尽くしている。


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邯鄲商かんたんしょう

生年不詳〜建安けんあん14年(209年)没。兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐんの人。

雍州刺史となる

建安けんあんの初め、郡の功曹こうそう張猛ちょうもうが「河西かせい4郡*3涼州りょうしゅうの治所(漢陽郡かんようぐん隴県ろうけん)から遠く離れ、黄河こうが周辺のぞくによって統治が行き届いていない」ことから、上書して別に州を設置することを求めた。

建安けんあん11年(206年)、みことのりが下り、兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん出身の邯鄲商かんたんしょう雍州刺史ようしゅうししに任命し、別に4郡*3を担当させた。

またこの時、武威太守ぶいたいしゅが欠員となったため、張猛ちょうもうの父(張奐ちょうかん)が、その昔河西かせいにおいて威名をとどろかせていたことから、張猛ちょうもう武威太守ぶいたいしゅとするみことのりが下った。

脚注

*3一般にぐんちょうえきぐんしゅせんぐんとんこうぐんの4郡とされているが、かんじょこうけんていりゅうしょう注には「きんじょうしゅせんとんこうとんこう)・ちょうえきの4郡」とある。またしんじょじょうには「西せい5郡をようしゅうとした」とあり、当サイトではぐんちょうえきぐんしゅせんぐんとんこうぐんきんじょうぐんの5郡をようしゅうとしている。

邯鄲商と張猛

雍州刺史ようしゅうししに任命された邯鄲商かんたんしょう武威太守ぶいたいしゅに任命された張猛ちょうもうは、一緒に(任地の)西に向かった。*4

邯鄲商かんたんしょう張猛ちょうもうは同い歲だったので、これまでいつもふざけて馬鹿にし合っていたが、一緒に任地におもむく道中、2人は互いにうらみ合った。


建安けんあん11年(206年)秋7月、邯鄲商かんたんしょう張猛ちょうもう誅殺ちゅうさつしようとし、それに気づいた張猛ちょうもうは兵をひきいて邯鄲商かんたんしょうを攻撃した。

邯鄲商かんたんしょうの役所の宿舎は張猛ちょうもうの宿舎のそばちかくにあったが、邯鄲商かんたんしょうは「張猛ちょうもうの兵がやって来た」と聞くと、恐怖のあまり屋根に登って、張猛ちょうもうあざなで呼んで言った。

叔威しゅくいよ、おまえわしを殺すつもりか?そんなことをすれば、わしは死者となってもおまえの一族を皆殺しにするぞ。和解しよう、まだ可能だろう?」

これに張猛ちょうもうは「来い」と呼びかけ、邯鄲商かんたんしょうが屋根を越えてやって来ると、張猛ちょうもうは彼を散々責め立てた後、邯鄲商かんたんしょう督郵とくゆうに引き渡した。

督郵とくゆう邯鄲商かんたんしょうを取り調べ、伝舎でんしゃ(宿場の旅館)に閉じ込めておいたが、のちに逃げだそうとして発覚し、結局殺害された。この年は建安けんあん14年(209年)であった。

脚注

*4資治通鑑しじつがん胡三省こさんせい注に「雍州ようしゅうの治所は武威郡ぶいぐんに置かれた」とあり、邯鄲商かんたんしょうの任地は武威太守ぶいたいしゅ張猛ちょうもうと同じ武威郡ぶいぐん姑臧県こぞうけんである。

忠烈の士・龐淯

邯鄲商かんたんしょうを殺害した張猛ちょうもうは、「えて邯鄲商かんたんしょうのぞむ者がいれば、容赦なく処刑する」と命じた。

雍州ようしゅう金城郡きんじょうぐん破羌県はきょうけん県長けんちょう龐淯ほういくはこれを聞くと、官をて昼夜を分かたず奔走ほんそうして邯鄲商かんたんしょうの遺体の元へ行き、号泣した。

その後 龐淯ほういくは、匕首あいくちふところに忍ばせて張猛ちょうもうの門に行き、会見を利用して張猛ちょうもうを殺害しようとした。張猛ちょうもうの兵が龐淯ほういくを捕縛しようとしていることを聞いた張猛ちょうもうは、龐淯ほういくが義士であることを知っていたので、

わし刺史しし邯鄲商かんたんしょう)を殺害するという罪をおかし、この人(龐淯ほういく)は至忠によって名声を得る。もし今また彼を殺しておいて、どうやって一州(の吏民)に義をまっとうするよう奨励しょうれいすることができるというのかっ!」

と言い、龐淯ほういくを殺さぬよう命じて、彼に邯鄲商かんたんしょうに服すことを許した。この一件により、龐淯ほういくの名は忠烈をもって知られるようになった。


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【三国志人物伝】総索引