前漢ぜんかん成帝せいてい③・哀帝あいてい平帝へいていしん王莽おうもう時代の匈奴きょうど烏珠留若鞮うしゅりゅうじゃくてい単于ぜんうについてまとめています。

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匈奴・前漢時代⑬新①烏珠留若鞮単于

匈奴(前漢時代)

匈奴きょうど前漢ぜんかん時代)

若鞮について

匈奴きょうどでは「こう」のことを「若鞮じゃくてい」と言います。

呼韓邪こかんや単于ぜんうの時代以降、匈奴きょうどかんと親密になり、かんの皇帝のおくりなに「こう」の字をつけるのを見てこれをしたい、みな「若鞮じゃくてい」の字をつけるようになりました。

かんの皇帝の「こう」の字が省略されるように、多くの場合、単于ぜんうの「若鞮じゃくてい」の字も省略して記述されています。

烏珠留若鞮単于の即位【前漢:成帝】

かん綏和すいわ元年(紀元前8年)、車牙しゃが単于ぜんうは立って4年で亡くなり、弟の囊知牙斯のうちがしが立って烏珠留若鞮うしゅりゅうじゃくてい単于ぜんうとなりました。

烏珠留うしゅりゅう単于ぜんうは立つと、第2閼氏あつし*1の子・がく左賢王さけんおうとし、第5閼氏あつし*1の子・輿右賢王ゆうけんおうとし、子の右股奴王ゆうこどおう烏鞮牙斯うていがしかんつかわして入侍にゅうじ*2させました。

脚注

*1単于ぜんう后妃こうひの称号。匈奴きょうど部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

*2諸侯王しょこうおうや帰服した非漢人のおうが「天子てんし(皇帝)の側近そばちかくにはべらせる」という名目でかんみやこに子息を送ること。人質の一種。

漢の領土割譲要求を断る【前漢:成帝】

烏珠留うしゅりゅう単于ぜんうが立つと、かんは使者として中郎将ちゅうろうしょう夏侯藩かこうはん副校尉ふくこうい韓容かんよう匈奴きょうどつかわしました。


当時、成帝せいていおじ大司馬だいしば票騎将軍ひょうきしょうぐん王根おうこん尚書しょうしょの事を統括していましたが、ある人が王根おうこんいて言いました。


匈奴きょうどにはかん張掖郡ちょうえきぐん斗入とにゅう*4している地があり、そこではめずらしい材木や箭竿せんかん矢幹やがら)、矢羽やばねもちいるわしの羽を得ることができます。

もしこの地を得ることができれば、辺境ははなはゆたかになり、国家として領土を広める実益がありますので、将軍しょうぐん王根おうこん)の顕功けんこう顕著けんちょな功績)は無窮むきゅう(永遠)に語り継がれるようになるでしょう」


王根おうこん成帝せいていのためにその利益を言上すると、天子てんし成帝せいてい)はすぐさま単于ぜんうにその地を求めたいと思いましたが、「もし得ることができなかった場合、(天子てんしの)詔命しょうめいを傷つけ国威をそこなうことになる」ことを心配していました。

そこで王根おうこんは、ただちに夏侯藩かこうはん天子てんし成帝せいてい)の意向をさとらせると、夏侯藩かこうはんの申し出ということにしてこれを(単于ぜんうに)求めさせることにします。


夏侯藩かこうはん匈奴きょうどに到着すると、話のついでをよそおって単于ぜんうに言いました。


夏侯藩かこうはんうかがい見ますに、匈奴きょうどにはかん張掖郡ちょうえきぐん斗入とにゅう*4している地があります。そのためかんの3都尉といとりで(長城)に在駐しているため士卒数百人は寒さに苦しみ、久しく候望こうぼう(見張り)に疲労しております。単于ぜんうにはよろしく上書してこの地を献上し、両都尉とい・士卒数百人を解放することによって天子てんし成帝せいてい)のご厚恩にむくいられたならば、 必ずやその見返りも大きなものとなるでしょう」


単于ぜんう「これは天子てんし成帝せいてい)の詔語みことのりであろうか、それとも使者そなたの求めによるものだろうか?」


夏侯藩かこうはん詔指しょうし天子てんしの意向)ですが、わたくしとしてもまた単于ぜんうのために善計をはかっただけのことです」


単于ぜんう孝宣こうせん孝元皇帝こうげんこうてい宣帝せんてい元帝げんてい)は父・呼韓邪こかんや単于ぜんう哀憐あいれんしたまい、長城以北は匈奴きょうどの領有するところとなった。かの地は温偶駼王おんごうとおうの居地であるから、(私は)その地形・産物などを把握していない。使いの者を派遣してうてみよう」


夏侯藩かこうはん韓容かんようかんに帰りましたが、その後また匈奴きょうどに使者としてやって来て土地を求めると、単于ぜんうは答えて言いました。


「父兄・5世にわたってかんがこの地を求めることはなかったのに、わたしの代になって求めて来るのはなぜであろうか?

温偶駼王おんごうとおううたところ、匈奴きょうどの西辺の諸侯しょこう(小国)は穹廬きゅうろ(テント状の住宅)や車を作るのに、みなこの山の材木を使っているとか。ともあれ、先祖伝来の地をえて手放そうとは思わない」


夏侯藩かこうはんは帰国すると、太原太守たいげんたいしゅうつりました。


その後、単于ぜんうが使者を派遣して上書し、夏侯藩かこうはんが土地を求めた事状について上聞すると、成帝せいていはこれにこたえてみことのりを下し、


夏侯藩かこうはんが勝手にみことのりと称して単于ぜんうに土地を求めたこと。法では死罪に相当するが、2度の大赦たいしゃて今は夏侯藩かこうはん済南太守せいなんたいしゅうつし、匈奴きょうどに関わらせないこととした」


と言いました。


翌年、匈奴きょうど侍子じし*2烏鞮牙斯うていがしが亡くなって帰葬きそうされると、単于ぜんうはまた、子の左於駼仇撣王さおときゅうてんおう稽留昆けいりゅうこんかんつかわして入侍にゅうじ*2させました。

脚注

*2諸侯王しょこうおうや帰服した非漢人のおうが「天子てんし(皇帝)の側近そばちかくにはべらせる」という名目でかんみやこに子息を送ること。人質の一種。

*3領尚書事りょうしょうしょじ。実質的な権力機構である尚書台しょうしょだいを統括する権限を持つ。後漢ごかんでは録尚書事ろくしょうしょじ

*4みさきなどが斗枡とますすみのように角ばって入りこんでいること。

烏孫国の侵入【前漢:哀帝】

かん哀帝あいてい建平けんぺい2年(紀元前5年)、烏孫国うそんこく*5庶子しょし卑援疐ひえんじ翕侯きゅうこうの人衆が匈奴きょうどの西の境界に侵入して牛畜を寇盗こうとう(略奪)し、多くの民を殺害します。

報告を受けた単于ぜんうが、左大当戸さだいとうこ烏夷泠ういれいに5千騎をひきいて烏孫国うそんこく*5を攻撃させ、数百人を殺害・千余人を略奪し、牛畜を駆り立てて去ると、卑援疐ひえんじは恐れ、子の趨逯すうろく匈奴きょうどつかわして人質としました。

単于ぜんうがこの事状を報告して上聞したところ、かん中郎将ちゅうろうしょう丁野林ていやりん副校尉ふくこうい公乗音こうじょうおんを派遣して単于ぜんうを責め、卑援疐ひえんじの人質の子を帰国させるように告げたので、単于ぜんうことのりを受けて(趨逯すうろくを)帰国させました。

脚注

*5かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

単于の参朝【前漢:哀帝】

かんに朝賀することを願う

かん哀帝あいてい建平けんぺい4年(紀元前3年)、単于ぜんうは上書して翌年の正月に朝賀することを願いましたが、当時、哀帝あいていやまいせっており、またある人が、

匈奴きょうど黄河こうがの上流からやって来て人をそこない、黄龍こうりゅう竟寧きょうねい年間以来、単于ぜんうが中国(かん)に朝賀すると、その都度つど 大故たいこ*6があった」

と言ったのを聞いて、単于ぜんうの願いを承諾しょうだくすることに難色を示しました。

そこで公卿こうけいたちにうたところ、公卿こうけいたちもまた、

府帑ふど(国庫金)を浪費させるだけですので、しばらく許可しないほうがよろしいでしょう」

と、単于ぜんうの朝賀に反対の意見をべました。

黄門郎こうもんろう揚雄ようゆう諫言かんげん

単于ぜんうの使者が辞去し、まだ匈奴きょうどに出発する前のこと。黄門郎こうもんろう揚雄ようゆうが上書していさめました。

揚雄の上書・全文
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わたくしは「『六経りくけいの治』は未乱をたっとび、『兵家の勝』は未戦をたっとぶ」と聞いております。この2つは「大事の根本」であって、(国家の事柄を判断する際に)考慮に入れないわけにはいきません。

わたくしおろかながら考えますに、今、単于ぜんうが上書して朝賀を求めているのに国家(かん)がこれを許さなければ、かん匈奴きょうどの間にすき(不和)を生じさせる原因となってしまうでしょう。

もともと北方のえびすは、五帝ごてい(太古の5人の帝王)でも臣従させることはできず、三王さんおう*7でも制御することはできませんでした。これとすき(不和)を生じさせてはならないことは明白です。

わたくしはここでえて遠い昔のことは言わず、しん以来のことを引用して、この理由を明らかにしたいと存じます。


しん始皇帝しこうていの強大さ、(しん将軍しょうぐん・)蒙恬もうてんの武威、40万の帯甲たいこう(武装兵)をもってしても、えて西河せいがオルドス地方)をうかがおうとせず、長城を築いてその境界としました。


かんおこった当初は、高祖こうそ劉邦りゅうほう)の威霊と30万の軍勢をもってしても、平城へいじょうくるしみ、兵士は(包囲されて)7日の間、食べ物を食べることができませんでした。この時(かんには)、奇譎きけつの士(すぐれた謀略の士)や石画せっかくの臣*8はなはだ多く、どのように脱出したのかは世に公言することはできません。(関連記事


また、高皇后こうこうごう高祖こうそ皇后こうごう呂后りょこう)がかつて匈奴きょうどの非礼にいきどおり、群臣が宮廷で評議した際、樊噲はんかいが「10万の軍勢をもって匈奴きょうど中を蹂躙じゅうりんしたい」とうと、季布きふは「樊噲はんかいを斬るべしっ!みだりに(高皇后こうこうごうに)おもねしたがうとは何たることかっ!」と言いました。
そこで大臣が方便のことばつづって返書を送ったところ、匈奴きょうど結解けつげ*9し、中国(かん)のうれいはなくなりました。(関連記事


孝文帝こうぶんてい文帝ぶんてい)の御代みよに至ると、匈奴きょうどが北の辺境をおかあばれ、斥候せっこうの騎兵がよう甘泉かんせんの辺りまで出没したので、京師けいし(首都:長安ちょうあん)では大いにおどろき、3人の将軍しょうぐん細柳さいりゅう棘門きょくもん覇上はじょうに駐屯させてこれに備えましたが、数ヶ月でめました。


孝武帝こうぶてい武帝ぶてい)が即位なされると、馬邑ばゆうの策略をもうけて匈奴きょうどを誘い出そうとし、(御史大夫ぎょしたいふの)韓安国かんあんこくに30万の軍勢をひきいて迎え撃たせようとしましたが、匈奴きょうどがこれに気づいて去ったため、いたずらに財をついやし兵をろうしただけで1人のりょ(敵兵)すら見ることができず、ましてや単于ぜんうつらを見るどころではありませんでした。(馬邑ばゆうえき

その後、深く「社稷しゃしょく(国家)のはかりごと」をおもい、壮大な「万載ばんさい(万年)の策」をもって数10万の軍をおこし、衛青えいせい霍去病かくきょへいに兵を指揮させること前後10余年、西河せいがに(船を)浮かべ大幕たいばく(大きな砂漠)をわたり、寘顏てんがん*10を破り王庭(匈奴きょうどの首都)を襲い、その地の果てまで行き着き逃げる敵を追って北にい払い、狼居胥山ろうきょしょざんで「ほうの祭*11」を行い姑衍山こえんざんで「ぜんの祭*12」を行って翰海かんかい*13のぞみ、百を数える(匈奴きょうどの)名王めいおう・貴人(貴族)を捕虜としました。

これ以降、匈奴きょうどふるおそれ、ますます和親を求めて来るようになりましたが、それでもまだ臣と称して仕えることは承諾しなかったのです。

そもそも前の世は、このようにはかり知れない費用をついやし、罪なき人々を労役ろうえきしてまで「狼望ろうぼうの北*14」に報復したことで、満足できましたでしょうか?
思いますに、一度も労しない者は久しくたのしむことはできず、少しもついやさない者は永くやすらかではいられません。ゆえに百万の軍をしのんでえた虎のくち(口)でくださせ、府庫の財を運んで盧山ろざんたに(谷)にうずめてもいはないのです。


宣帝せんていの)本始ほんし年間(紀元前73年〜紀元前70年)の初めに至ると、匈奴きょうどには「かんに従わない」というかたい心があり、烏孫国うそんこく*5を攻撃して(烏孫国うそんこく*5とついでいた)公主こうしゅ(皇女)を奪おうとしましたので、かんは5人の将軍しょうぐんと総兵15万騎を発して(匈奴きょうどの)南で狩猟し、長羅侯ちょうらこう(・常恵じょうけい)には烏孫国うそんこく*5の5万騎をもって(匈奴きょうどの)西をふるわせて、それぞれ帰還しました。

ですがこの時たものはすくなく、いたずらに威武をふるげて「漢兵かんぺいの襲撃が雷や風のようであることを明らかにした」に過ぎず、戦果をげずに帰還した(虎牙将軍こがしょうぐん田順でんじゅん祁連将軍きれんしょうぐん田広明でんこうめいの)両将軍しょうぐんを罰して自殺させました。

ゆえ北狄ほくてき匈奴きょうど)が屈服しなければ、中国(かん)はまだまくらを高くして安眠することはできなかったのです。(関連記事


宣帝せんていの)元康げんこう神爵しんしゃく年間(紀元前65年〜紀元前58年)に至ると、(天子てんしの)大いなる教化は神のごとく明らかに、鴻恩こうおん(大恩)はあまねく行き渡り、匈奴きょうどでは国内が乱れて5人の単于ぜんうが争い立ちました。その結果、日逐にっちく呼韓邪こかんやは(国人を)たずさえて帰化し、手足を地に伏して臣と称しましたが、それでもなおつなぎ止めて掣肘せいちゅうすることはなく、朝賀を望む者はこばまず、望まない者には強請しませんでした。

なぜでしょうか?
外国(匈奴きょうど)は生まれつき猛々たけだけしく残忍で、風貌ふうぼうたくましく、力をたのみ気をたのむので、善をもって教化することは難しく、悪にそまりやすいので、その強さはくじがたく和をがたいからです。

いまだ(かんに)帰服していない時には、兵をろうして遠征し、国を傾けて財貨を(尽)くし、しかばねを伏せ血を流しても、堅固な敵を抜き破ることは難しいものですが、すでに帰服した後には、これを慰撫いぶし、まじわり接してまいないおくれば、(匈奴きょうども)今回のように威儀を正して振る舞うようになるのです。


かつて(かんは、)大宛だいえん*15の城をほふり、烏桓うがん烏丸うがん)のとりでみ、姑繒こそう*16の城壁をうかがい、蕩姐とうし*17の祭のにわみ、朝鮮のはたおさめ、両越りょうえつ東越とうえつ南越なんえつ)の旗を抜き取りましたが、近いところは10日から1ヶ月のえきに過ぎず、遠いところでも半年のろうず、すでにそのてい(首都)をたがやし、そのりょ(里門)をき、郡県を置いて、雲が去るように、しきものを巻くように、後に何の余災もありませんでした。

ですが、ただ北狄ほくてき匈奴きょうど)だけはそれらのようにはいかず、まことに中国(かん)の堅敵(強敵)であり、他の3方の辺境と比べて遠くへだたたっております。ゆえに前世より(匈奴きょうどとの関係を)はなはだしく重視してきました。軽々しく軽んずるべきではありません。


今、単于ぜんうは(かんの)義に帰服し款誠まことの心をいだいて、そのてい(首都)を離れ(天子てんしの)御前においてあらわそうとしております。これこそ上世(大昔)からの(果たされなかった)遺策であり、神霊がおものぞまれたところであって、どれほど国家の負担となっても成しげようとしてきた理想の状態なのです。

どうして「(匈奴きょうど黄河こうがの上流から)やって来て人をそこないう」ということばを理由に(単于ぜんうの参朝を)こばみ、無期限に疎遠そえんとなるようなことをなさって、(これまでかん単于ぜんうに与えてきた)昔の恩を消し去り、将来のすき(不和)の扉を開こうとなさるのですかっ!

そもそも真心をもって親しもうとする者をこばんで、相手の心にうらみをいだかせれば、かんうらみを向けみずから断絶し、北面して臣従する心をなくしてしまいます。(そうして単于ぜんうを)おどすこともさとすこともできなくなってしまっては、どうしてこれを「大憂たいゆう(大きなうれい)」と呼ばずにおれましょうかっ!

明者は無形のうちにて、聴者は無声のうちにいて、問題を未然に防ぎます。(そうして問題を未然に防げば、)蒙恬もうてん樊噲はんかいろうを繰り返す必要がなく、再び棘門きょくもん細柳さいりゅうの軍備をそなえる必要もなく、馬邑ばゆうの策などもうける必要もありませんし、衛青えいせい霍光かくこうの功績や5人の将軍しょうぐんの武威をふるわせる場所もないのではありませんか?

一度ひとたびすき(不和)を生じさせてしまえば、内に智者が(智恵をしぼって)心をろうし、外に弁者がこしき*18を擊ち合わせて(せまわったとして)も、なお問題を未然に防ぐことには及ばないのです。


これまで西域さいいきはかり、車師国しゃしこく*19を制し、城郭都護じょうかくとご西域都護さいいきとご)を置いて西域さいいきの36国をまもって、その経費が毎年・数百万銭をかぞえましたが、これは康居国こうきょこく*20烏孫国うそんこく*5が、白龍堆はくりょうたい*21を越えて匈奴きょうどの西側に侵攻できるようにするためであったのでしょうか?

そうではなく、これらは(かんが)匈奴きょうどを制するための手段であったのです。


そもそも百年の苦労(の成果)を1日で失い、10をついやしながら1をおしまれるとは。わたくしは国家のために、秘かに不安にえないのです。

ただ陛下には、いまだ乱れ戦うことになる前に、このことを少しでもご留意され、辺境に芽生めばえようとしているわざわいを食い止めてくださいますように。

脚注

*5かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

*7中国古代の三人の聖王。禹王うおういん湯王とうおうしゅう文王ぶんおう(または武王ぶおう)のこと。

*8失敗や危険が少ない計画を立てる臣下。または、壮大な計画を立てる臣下。「石画せっかく」とは石のようにかたい計画のこと。

*9煩悩ぼんのうしばられて自由でないこと。さとりを得て煩悩ぼんのうを脱すること。今回は後者。
冒頓ぼくとつ単于ぜんう高皇后こうこうごうに「未亡人となってさびしいだろうから、私でよければなぐさめてやろう」という主旨しゅしの書簡を送ったが、高皇后こうこうごうへりくだって辞退すると、非礼をびてかんと和親した。

*10祁連山きれんざんの別名。匈奴きょうどす。

*11高山の頂上で土を盛り祭壇さいだんを築いて天に告祭する儀式。

*12地をはらって天地の神を祭ること。

*13バイカル湖。一説にゴビ砂漠

*14狼煙のろしげて敵を見張る北の辺境の地。

*15西域さいいきの国の1つ。大宛国だいえんこく。かつて中央アジアのシル川流域・フェルガナ盆地にあり、汗血馬かんけつばの産地として知られた。転じて西域さいいき諸国を指すこともある。

*16益州えきしゅうにいた西南夷せいなんいの一種。

*17羌族きょうぞくの一種。

*18車輪の中心の太い丸い部分。中を車軸が通り、周囲に(スポーク)が放射状に差し込まれている。
轂擊こくげきとはこしき同士が擊ち合うほど往来が激しいこと。

*19西域さいいきの国の1つ。かつて東トルキスタンに存在したオアシス都市国家。

*20中央アジアのシル河下流よりキルギス・ステップの地方。

*21新疆しんきょうウイグル自治区の南東部にある砂漠の名。


この諫言かんげんに目がめる思いがした天子てんし哀帝あいてい)は、匈奴きょうどの使者をかえすと、改めて単于ぜんうに返書して参朝することを許し、いさめた揚雄ようゆうにはきぬ50匹と黃金10きん下賜かししました。


ですが単于ぜんうは、まだ出発しないうちにたまたまやまいにかかったので、また使者をつかわして、翌年に参朝することを願いました。

単于ぜんうが参朝する際の随員は、前例では名王めいおう以下、従者2百余人となっていましたが、単于ぜんうはまた上書して、

天子てんし哀帝あいてい)の神霊をこうむりまして、民は盛壮であります。願わくは5百人の者を従えて入朝し、もって天子てんし哀帝あいてい)のご盛徳を明らかにしたいと存じます」

と言うと、天子てんし哀帝あいてい)はこれをみな許しました。

脚注

*6大きな事故、災害。大きな不幸、父母の

単于ぜんうの参朝

かん元寿げんじゅ2年(紀元前1年)、単于ぜんうが来朝すると、天子てんし哀帝あいてい)は(単于ぜんうの来た方角が)太歳たいさい*22の方角に当たっていたため、これを厭勝ようしょう*23して忌避きひしようと、単于ぜんう上林苑じょうりんえん蒲陶宮ぶどうきゅうに宿泊させました。

このことは、単于ぜんうには「敬意を加えるためである」と伝えていましたが、単于ぜんうはこれが厭勝ようしょう*23であることを知っていました。

今回の入朝によって単于ぜんうは、ころも370かさね錦繡きんしゅう繒帛きんぱく3万匹、じょ綿わた)3万きんを増し加えられ、それ以外はかん河平かへい4年(紀元前25年)正月に復株累若鞮ふくしゅるいじゃくてい単于ぜんうが入朝した際と同様に下賜かしされました。(関連記事

朝賀の儀式が終わると、かん中郎将ちゅうろうしょう韓況かんきょうつかわして単于ぜんうを送らせました。

単于ぜんうとりで(長城)を出て休屯井きゅうとんせいに至ると北に車田盧水しゃでんろすいを渡り、迂回うかいして遠回りしました。その結果、韓況かんきょうらは食糧が欠乏し、単于ぜんうは食糧を供給しましたが、期日を過ぎて50余日ってようやく帰還しました。

脚注

*22木星の異名。術数家は太歳たいさいをもって「人君のかたち」とし、これに当たる方角はすべておかすべからざるものとした。
単于ぜんうの来た方角がこれに当たったので、これを忌避きひしようとした。

*23まじないで圧服すること。

漢への入侍を更新する【前漢:平帝】

以前、哀帝あいていは(単于ぜんうかん入侍にゅうじ*2させていた)稽留昆けいりゅうこん単于ぜんうともなわせて帰しましたが、帰国すると、単于ぜんうはまた稽留昆けいりゅうこんの同母兄の右大且ゆうだいしょほうとその婦(妻)をつかわして入侍にゅうじ*2させ、彼らが帰還すると、今度は且方しょほう右大且ゆうだいしょほう)の同母兄、左日逐王さにっちくおうとその婦(妻)を入侍にゅうじ*2させました。

当時、かん平帝へいていはまだ幼かったため、太皇太后たいこうたいごう称制しょうせい*24し、新都侯しんとこう王莽おうもうが政務をっていました。

そこで王莽おうもうは、太后たいこうに(かんの)威徳が前代(の哀帝あいてい)より盛んであることをしめそうとして、単于ぜんうほのめかして王昭君おうしょうくん(と復株累ふくしゅるい単于ぜんう)のむすめ須卜居次しゅぼくきょじ*25うん太后たいこう入侍にゅうじ*2させると、太后たいこうはこれをはなはだ手厚く賞賜しょうししました。

脚注

*2諸侯王しょこうおうや帰服した非漢人のおうが「天子てんし(皇帝)の側近そばちかくにはべらせる」という名目でかんみやこに子息を送ること。人質の一種。

*24太皇太后たいこうたいごうなどが天子てんしに代わって制を称する(政令を行う)こと。詔書しょうしょに対して制書せいしょは制度をつくる命令を言う。

*25居次きょじかん公主こうしゅに同じ。単于ぜんうむすめの号。

漢の4ヶ条を受け入れる【前漢:平帝】

当時、西域さいいき車師後王しゃしこうおう姑句ここう(原文:句姑こうこ)と去胡来王きょこらいおう唐兜とうとはみな都護校尉とごこうい怨恨うらんでおり、妻子・民衆を引き連れて匈奴きょうどに投降して来ました。(関連記事

単于ぜんうはこれを受け入れて左谷蠡王さろくりおうの地におらせ、使者を派遣して「わたくしつつしんで、すでに(姑句ここう唐兜とうとを)受け入れました」と上書します。

すると(かんは)、詔書しょうしょをもって中郎将ちゅうろうしょう韓隆かんりゅう王昌おうしょう副校尉ふくこうい甄阜けんぷ侍中謁者じちゅうえっしゃ帛敞はくしょう長水校尉ちょうすいこうい王歙おうきゅう匈奴きょうどに派遣して、

西域さいいきは(かんに)内属しているのだから、(匈奴きょうどが投降を)受け入れることなどできないはずである。今すぐこれを帰らせよ」

単于ぜんうに言いました。これに単于ぜんうが、


孝宣こうせん宣帝せんてい)・孝元皇帝こうげんこうてい元帝げんてい)は(匈奴きょうどを)哀憐あいれんしたまい、『長城以南は天子てんしかん)が領有し、長城以北は単于ぜんう匈奴きょうど)が領有する』ことを約束なされ、とりで(長城)をおかす者があればすぐさまその事状を上聞し、投降する者があっても、それを受け入れることはできないこととなっておりました。

わたくしの父・呼韓邪こかんや単于ぜんうはかり知れないご恩をこうむり、遺言ゆいごんして『中国(かん)から投降して来る者があっても受け入れてはならず、ただちにとりで(長城)に送り返して天子てんしのご厚恩にむくいよ』と申しました。

ですがこのたびのことは、[中国人(漢人かんじん)ではなく]外国人ですので、受け入れることはできるはずでございましょう」


と言うと、使者は、

匈奴きょうどは骨肉同士で攻め合い国がほとんどえようとしていたのに、中国(かん)の大恩をこうむって危急存亡の状態から回復し、妻も子も無事安全に、累世るいせいあいぐことができたのではないか。よろしく(天子てんしの)ご厚恩にむくいるべきである」

と言いました。

すると単于ぜんう叩頭こうとうして謝罪し、2人のりょ姑句ここう唐兜とうと)を捕らえて使者に引き渡すと、(かんは)みことのりを下して中郎将ちゅうろうしょう王萌おうほうを派遣し、西域さいいき悪都奴あくとど*26の境界で待たせて、これを出迎え受け取らせました。


単于ぜんうが使者を派遣して(姑句ここう唐兜とうとの)免罪めんざいい、かんの使者がこれを上聞しましたが、(かんは)き入れず、みことのりを下して西域さいいき諸国のおうを会同させ、(姑句ここう唐兜とうとの)2人を斬って見せしめとします。

そしてかんは新たに、

  • 逃亡して匈奴きょうどに入った中国人(漢人かんじん
  • 逃亡して匈奴きょうどに降伏した烏孫国うそんこく*5の者
  • 匈奴きょうどに降伏した、中国(かん)の印綬いんじゅびた西域さいいき諸国の者
  • 匈奴きょうどに降伏した烏桓うがん烏丸うがん)の者

を受け入れてはならないという4ヶ条をもうけると、中郎将ちゅうろうしょう王駿おうしゅん王昌おうしょう副校尉ふくこうい甄阜けんぷ王尋はおうじん匈奴きょうどに派遣して、4ヶ条を単于ぜんうわかち与えましたが、これを勅書ちょくしょと同じはこに封じて付与し、単于ぜんうに命を奉じ行わせるようにし、よってもと宣帝せんていの作った約束の封函ふうかんを回収してかえりました。*27

脚注

*5かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

*26西域さいいきの谷の名前。

*27ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ漢書かんじょ7』より。
原文:班四條與單于,雜函封,付單于,令奉行,因收故宣帝所為約束封函還。

名を改める【前漢:平帝】

当時、王莽おうもうは、「中国(かん)では2字名をつけてはならない」とするように奏上し、また使者を派遣して、それとなく単于ぜんうに、

かんの皇化をしたって1字名とするむねの上書をするなら、必ずやかんは厚い恩賞を加えるであろう」

と言いました。そこで単于ぜんうがこれに従って、

「幸いにして(かんの)藩臣にそなわることを、秘かに太平の聖制を楽しんでおります。わたくしの元の名は囊知牙斯のうちがしと申しましたが、今、つつしんで名をと改めました」

と上書すると、王莽おうもうは大いに喜んで太后たいこうに申し上げ、使者を派遣して答えさとし、手厚い恩賞を下賜かししました。

烏桓(烏丸)を攻める【前漢:平帝】

かんはすでに4ヶ条をけましたが、その後さらに、護烏桓校尉ごうがんこういの使者が烏桓うがん烏丸うがん)の民に「匈奴きょうど皮布ひふの税を与えてはならない」と告げました。

すると匈奴きょうどは、使者に匈奴きょうどの民・婦女で烏桓うがん烏丸うがん)との取引を望む者たちをみな引き連れさせ、烏桓うがん烏丸うがん)に派遣して税を納めないことを責めると、烏桓うがん烏丸うがん)はこれをこばんで「『匈奴きょうどに税を納めてはならぬ』という天子てんし詔条しょうじょうに従ったのです」と言いました。

これに匈奴きょうどの使者は怒り、烏桓うがん烏丸うがん)の酋豪しゅうごうを捕らえしばってつるし上げると、怒った酋豪しゅうごう昆弟こんてい(兄弟)たちは、共に匈奴きょうどの使者やその属官を殺害し、その婦女や牛馬を収奪しました。


このことを聞いた単于ぜんうは、使者をつかわし左賢王さけんおうの兵を発して烏桓うがん烏丸うがん)に攻め入り、使者を殺害したことを責めてこれを攻撃すると、烏桓うがん烏丸うがん)は、あるいは山上に逃げ、あるいは東のとりでに入って守りを固めました。

そこで匈奴きょうどは大いに烏桓うがん烏丸うがん)の民を殺害し、その婦女・幼弱な者、千人ばかりを駆り立てて去ると、これを左地に留置し、烏桓うがん烏丸うがん)に「馬畜・皮布を持って(罪を)あがないに来い」と告げました。

これに烏桓うがん烏丸うがん)の連れ去られた者たちの親族・2千余人は財物・家畜を持ってあがないに行きましたが、匈奴きょうどはこれらを受け取りながら、留置した人々を帰しませんでした。

新の印紱を授けられる【新:王莽】

王莽おうもうが皇位を簒奪さんだつしたしん建国けんこく元年(9年)、王莽おうもう五威将ごいしょう王駿おうしゅんと(五威率ごいすいの)甄阜けんぷ王颯おうりゅう陳饒ちんじょう帛敞はくしょう丁業ていぎょうの6人をつかわして多くの金帛きんぱくを手厚く単于ぜんうおくり、天命を受けてかんに代わった事状を諭告ゆこくして、(かんの時代は)「匈奴単于璽」であった単于ぜんうの印の印文を「新匈奴単于章」と改めます。

しんの)将率しょうすいたちが到着すると、単于ぜんうは(しんの)印紱いんふつ(印とくみひも)をさずけられ、「(かんの)印紱いんふつの返上」を命じるみことのりを、再拝して受けました。

通訳が進み出て(単于ぜんうからかんの)印紱いんふついて取ろうとすると、単于ぜんうわきげてこれを(通訳に)さずけようとします。

この時、(単于ぜんうの)かたわらに従う左姑夕侯さこせきこうが「まだしんの印文を見ていないのですから、しばらく与えてはなりません」と言うと、単于ぜんうは(かん印紱いんふつを)与えるのをやめ、(しんの)使者たちに穹廬きゅうろ(テント状の住宅)の中で待つようにい、祝いの言葉をべようとしました。

ですが、五威将ごいしょう王駿おうしゅん)が「(かんの)印紱いんふつは時を置かずに返上するように」と言うと、単于ぜんうは「承知しました」と言って、またわきげて通訳に(かん印紱いんふつを)さずけようとします。

これに左姑夕侯さこせきこうがまた「まだ印文を見ていないのですから、しばらく与えてはなりません」と言いましたが、単于ぜんうは「何の理由があって印文を変更するというのかっ!」と言い、ついに(かんの)印紱いんふついて(しんの)将率しょうすい奉上ほうじょう(返上)しました。


単于ぜんうは)新しいくみひもけましたが、えて印をいては見ず、(将率しょうすいたちと)夜まで飲食を共にして退出しました。

すると右率さゆうすい*28陳饒ちんじょうは、他の将率しょうすいたちに言いました。


「先程、姑夕侯こせきこうが印文を疑ったため、あやうく単于ぜんうが(かん印紱いんふつの)返還をやめるところであった。

もし印を見てその印文が改変されていることを知れば、必ずや(かんの)印紱いんふつを返すように求めてくるだろうが、これはことばで説得してこばめることではない。

せっかく手に入れたのにまた失ってしまっては、この上もなく(しんの)命令をはずかしめることになる。(かんの)印を打ちくだいて、禍根かこんを絶っておいたほうが良い」


将率しょうすいたちはみな躊躇ためらってこれに応じる者はいませんでしたが、果敢な(ことで有名な)燕士えんしである陳饒ちんじょうは、すぐさま斧で(かんの)印を打ちくだいてしまいました。


翌日、単于ぜんうたして右骨都侯ゆうこつとこうとうつかわして(しんの)将率しょうすいたちに言いました。


かん単于ぜんうたまわりました印は『』と言っており、『しょう』とは言っておりません。また、かんの印には『かん』の字がなく、諸王しょおう以下の印には『かん』の字があり『しょう』と言っております。

今、『』の字をけずって『しん』の字が加えられておりますが、これでは臣下と区別がつきません。願わくは、もとの印を返していただきたいと存じます」


すると、将率しょうすいたちは(打ちくだかれた)もとの印を示して、

「(新しい印は)しんの皇室が天命にしたがって制作したもの。もとの印は将率わたしたちの手で破壊した。単于ぜんうよろしく天命を奉じ、しんの皇室の制を奉ずべきである」

と言いました。

とうかえって報告すると、単于ぜんうは「もはやどうすることもできない」と知り、また多くのまいない(贈り物)を得たことから、すぐさま弟の右賢王ゆうけんおう輿つかわして馬や牛をおくり、将率しょうすいたちと共にしんに入国して御礼の言葉をべさせ、その上で上書して、もとの通りの印をたまわるよう求めることにしました。

脚注

*28五威率ごいすいの1つ。

烏桓(烏丸)の捕虜の返還を求められる【新:王莽】

将率しょうすいたちが帰還の途につき、左犁汗王さりかんおうかんの居地に到着した時のこと。

そこに烏桓うがん烏丸うがん)の民が多くいるのを見てかんにその事状をうたところ、かんは「彼らは以前、烏桓うがん烏丸うがん)を攻めた時に連れ去った者たちであること」をつぶさに話して聞かせました。

これに将率しょうすいたちが、

さきに封じた『4ヶ条の禁』では、『烏桓うがん烏丸うがん)の投降者を受け入れてはならない』ことになっている。速やかにかえすように」

と要求すると、かんは、

「どうか内々に単于ぜんうに相談し、(単于ぜんうの)ことばを得てから(投降者を)帰すようにさせてください」

い、単于ぜんうかんに、

「[烏桓うがん烏丸うがん)の投降者を]塞内さいないから帰せばよろしいでしょうか?それとも塞外さいがいから帰せばよろしいでしょうか?」

と確認させました。

将率しょうすいたちはこれを上聞し、みことのりこたえによって「塞外さいがいからかえす」ように伝えました。

西域の混乱【新:王莽】

しんに対する怨恨えんこん

単于ぜんうは以前、夏侯藩かこうはんによるかんの領土割譲かつじょう要求をこばみ、その後、(かんにより)烏桓うがん烏丸うがん)から税を取ることを禁じられたため、烏桓うがん烏丸うがん)に攻め入ってその民を略奪したことによって、(かんとの間に)きん(不和)が生じていました。

それらに加え、(しんにより印紱いんふつの)印文を改易かいえきされたため、(しんに)怨恨えんこんいだくようになります。

そこで(単于ぜんうは)右大且渠ゆうだいしょきょ蒲呼盧訾ほころしら10余人に1万騎をひきいさせ、烏桓人うがんじんを護送するという名目で、朔方郡さくほうぐん塞下さいかに兵を閲兵えっぺいしました。

また、(しんの)朔方太守さくほうたいしゅはそのことを(王莽おうもうに)上聞(報告)しました。

車師後王しゃしこうおうの兄・狐蘭支こらんしを受け入れる

翌年、西域さいいき車師後王しゃしこうおう須置離しゅちり匈奴きょうどに投降しようとはかったので、都護とご西域都護さいいきとご)の但欽たんきんがこれをちゅうして斬りました。

すると、須置離しゅちりの兄・狐蘭支こらんしは2千余人の民衆と家畜を引き連れ、国をげて匈奴きょうどに投降し、単于ぜんうはこれを受け入れます。

狐蘭支こらんし匈奴きょうどと共に車師国しゃしこく*19に攻め入って後成こうせい*20ちょうを殺害し、都護とご司馬しばを傷つけて、また引きかえして匈奴きょうどに入りました。

脚注

*19西域さいいきの国の1つ。かつて東トルキスタンに存在したオアシス都市国家。

*20車師しゃしの小国の1つ。

戊己校尉ぼきこうい陳良ちんりょうらの投降

当時、戊己校尉ぼきこうい陳良ちんりょう終帯しゅうたい司馬しばじょう韓玄かんげん右曲候ゆうきょくこう任商じんしょうらは、西域さいいきすこぶ背叛はいはんしているのを見て、また匈奴きょうどが大挙して侵入して来ようとしていると聞くと、みな死を恐れ、すぐさまはかって吏卒りそつ・数百人をおどし奪い、共に戊己校尉ぼきこうい刁護ちょうごを殺害し、匈奴きょうど南犁汗王なんりかんおう南将軍なんしょうぐんに人をつかわして気脈を通じました。

すると匈奴きょうど南将軍なんしょうぐんの2千騎が西域さいいきに入って陳良ちんりょうらを迎え、陳良ちんりょうらは戊己校尉ぼきこうい吏士りし・男女二千余人のことごとくを脅迫・略奪して匈奴きょうどに入ります。

韓玄かんげん任商じんしょう南将軍なんしょうぐんの所にとどまり、陳良ちんりょう終帯しゅうたいただちに単于庭ぜんうてい匈奴きょうどの都)におもむき、(略奪した)人々は別に零吾水れいごすいほとりに住まわせて、そこで農耕させました。


単于ぜんう陳良ちんりょう終帯しゅうたい烏桓都将軍うがんとしょうぐんんで単于ぜんうの所にとどらせ、たびたび呼んでは飲食を共にしました。

新の雲中郡に侵入する【新:王莽】

西域都護さいいきとご但欽たんきんが「匈奴きょうど南将軍なんしょうぐん右伊秩訾ゆういちつしが人衆(大勢の人々)をひきいて諸国を寇擊こうげき(攻撃)しています」と上書しました。

すると王莽おうもうは、匈奴きょうどを大いに分裂させて15人の単于ぜんうを立てようと目論もくろみ、中郎将ちゅうろうしょう藺苞らんぽう副校尉ふくこうい戴級たいきゅうに1万騎をひきいさせ、多くの珍宝を持って雲中郡うんちゅうぐん塞下さいかおもむき、呼韓邪こかんや単于ぜんうの諸子をまねき誘って、順次単于ぜんうに任命しようとします。

藺苞らんぽう戴級たいきゅうは)とりで(長城)から通訳を出して、右犁汗王ゆうりかんおうかんかんの子・とうじょの3人を誘い呼ばせ、やって来たところで彼らをおどして、

  • かんこう単于ぜんうに任命して安車あんしゃ鼓車こしゃ各1じょう、黃金千きん雑繒ざつしょう(絹織物)千ひき戲戟ぎげき(旗のついたほこ)10本を下賜かしし、
  • じょじゅん単于ぜんうに任命して黃金5百きん下賜かしし、
  • 伝馬でじょとう長安ちょうあんに送りました。

また王莽おうもうは、藺苞らんぽう宣威公せんいこうに封じて虎牙将軍こがしょうぐんに任命し、戴級たいきゅう揚威公よういこうに封じて虎賁将軍こふんしょうぐんに任命します。


単于ぜんう烏珠留うしゅりゅう単于ぜんう)はこれを聞くと怒って、

「先の単于ぜんうかん宣帝せんていの恩を受けていたためそむくことができなかった。今の天子てんし宣帝せんていの子孫でもないのに、どうして(天子てんしに)立つことができようか?」

と言い、左骨都侯さこつとこう右伊秩訾王ゆういちつしおう呼盧訾ころし左賢王さけんおうがくつかわし、兵をひきいて雲中郡うんちゅうぐん益寿塞えきじゅさいに入って大いに吏民(役人と民)を殺害しました。この年はしん建国けんこく3年(11年)です。


その後単于ぜんうは左部・右部の都尉とい、辺境の諸おうらに広く告げ知らせ、塞内さいないに侵入して攻撃・略奪させました。

その結果、規模の大きな部隊で1万余、中くらいの部隊で数千、小さな部隊で数百の部隊が(侵入してしんの)鴈門太守がんもんたいしゅ朔方太守さくほうたいしゅ都尉といを殺害し、数え切れないほどの吏民(役人と民)・家畜を略奪したため、その周辺は次第に損耗そんもうしていきました。

厳尤の諫言【新:王莽】

王莽おうもうは即位すると、府庫(国庫)のとみたのんで権威を立てようとして12部の将率しょうすいを任命し、郡国の勇士と武庫の精兵(精巧な兵器)を徴発して各所を屯守させ、貨物を辺境に輸送させていました。

ここに来て王莽おうもうが、

「30万の衆(軍勢)と3百日分の食料をもって10の道から同時に出撃し、丁令ていれい*21の地に匈奴きょうどを追いめ、匈奴きょうどの地を分割して呼韓邪こかんや単于ぜんうの15人の子らを単于ぜんうに立てる」

ことを議論すると、王莽おうもうしょう厳尤げんゆうが「匈奴きょうど遠征の困難さ」を指摘していさめましたが、王莽おうもうき入れず、元通り兵器と穀物を輸送させたため、天下は大さわぎとなりました。

厳尤げんゆう諫言かんげん・全文

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匈奴征伐の失敗例

わたくしは『(中国は)匈奴きょうどの害に悩まされて久しい』と聞いており、また『上世(しゅう以前)において(匈奴きょうどを)完全に征伐できた者があったこと』を聞いたことがありません。

また、後世の3家、しゅうしんかんもこれを征伐しましたが、みな上策(大成功)をた者はおらず、しゅうは中策(中成功)をかんは下策(小成功)をしんは無策(失敗)でありした。


しゅう宣王せんおうは、獫允けんいん*22涇陽けいようまで侵入して来ると、しょう尹吉甫いんきっぽ)に命じてこれを征伐させましたが、国境から追い出したところで帰還しました(原文:盡境而還)。

しゅうは)戎狄じゅうてき(異民族)の侵入に際してあぶに刺された時のように打ち払うことだけしかできなかったのです。当時、天下は宣王せんおう獫允けんいん*22征伐をたたえましたが、これは中策(中成功)と言えます。


かん武帝ぶていは、しょうを選んで練兵し、装具をつづめ食料を軽くし*23、辺境の守りに深入りしてる功績をげましたが、そのたびごとにえびす匈奴きょうど)に報復され、30余年にわたって兵禍へいかが続いたため、中国(かん)は疲弊ひへいしました。

匈奴きょうどもまたり恐れ、天下はその「武」をたたえましたが、これは下策(小成功)と言えます。


しん始皇帝しこうていは、(匈奴きょうどの侵攻を受ける)小さな恥に耐えられず、民の負担を軽んじてえんえん万里ばんりに及ぶ長城のかためをきずき、運輸の行路は辺境より起こって(原文:轉輸之行,起於負海)、国境のそなえは完成しましたが、中国(しん)の国内は消耗しょうもうし尽くし、こうして社稷しゃしょく(国家)は失われました。これは無策(失敗)と言えます。

匈奴征伐が困難な5つの理由

今、天下は「陽九ようきゅうやくやく)」にい、毎年繰り返される飢饉ききんは西北の辺境が最もひどい状況です。

30万の軍勢と3百日分の食糧とは、東は東海とうかいから泰山たいざん、南は長江ちょうこうから淮水わいすい一帯から徴発して、ようやくそなえることができるものです。*25

そのために必要な期間を計算してみれば、一年をついやしてもなお(兵を)集合させることができず、先に徴発された兵の聚居しゅうきょ集居しゅうきょ)は雨露うろさらされ、軍隊は疲弊ひへいし兵器は使い物にならなくなってしまいます。これが第1の困難です。


辺境がすでに空虚では、(辺境から)軍糧を調達することはできず、国内の郡国から調達しようとしても長くは続きません。これが第2の困難です。


兵1人の3百日分の食糧を計算してみますと、ほしいい18こくとなります。

これは牛の力でなければ運ぶことができず、牛のえさを加えれば20こくとなり、非常に重くなります。

えびす匈奴きょうど)の地は沙鹵さろ(塩分を含む砂漠)で、その多くは水や草にとぼしく、昔と同じ方法では出陣して百日に満たないうちに必ずや牛は全滅し、多くの食糧が残っていたとしても、人ではそのすべてを背負せおうことができません。これが第3の困難です。


また、えびす匈奴きょうど)の地の秋・冬はとても寒く、春・夏はとても風が強く、(寒さを防ぐために)たくさん持参したかまさがり*26まきすみは重すぎて運ぶことができず、ほしいいを食べ水を飲んで四季を過ごすことになり、軍隊には疫病えきびょうの心配があります。

ゆえに前世(前王朝)においてえびす匈奴きょうど)征伐が百日を超えなかったのは、長期戦を嫌ったからではなく、長期戦をする力がなかったからなのです。これが第4の困難です。


輜重しちょう(軍需物資)をみずから運んで軽装の精兵が少なくなれば、素早い行軍ができないため、逃走するりょ匈奴きょうど)に追いつくことができません。

また、運良くりょ匈奴きょうど)に遭遇そうぐうすることができても輜重しちょう(軍需物資)にわずらわされ、もし険阻けんそな地形にえば後馬のくつわと前馬の尾が接近しすぎて、りょ匈奴きょうど)に前後を遮断される危険を予測することができません。これが第5の困難です。


このような理由から、民の力を大いにもちいたとしても、必ずしも功績を立てられるわけではありません。わたくししてこれをうれえます。

今、すでに兵を発したからには、よろしく先発の部隊をはなって、しんゆうらに命じて深く攻め入って霆擊ていげき(一気に擊つこと)させ、胡虜こりょ匈奴きょうど)をり恐れさせなければなりません。

脚注

*22匈奴きょうど以前に中国の北方に割拠していた異民族。儼狁けんいん獫狁けんいんとも。

*23原文:約齎輕糧。

*24世界の終末を意味する陰陽家いんようかの用語。陰陽家いんようか陰陽いんよう五行思想ごぎょうしそうもとにした王朝交替説をいた。

*25原文:發三十萬眾,具三百日糧,東援海代,南取江淮,然後乃備。

*26り下げてきする口の大きいかま


脚注

*21北方異民族の1つ。丁零ていれい。モンゴル高原北部や南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。

匈奴の侵入【新:王莽】

匈奴きょうど右犁汗王ゆうりかんおう・)かん王莽おうもうによってこう単于ぜんうの号を受けると、とりでからせ出ててい単于庭ぜんうてい)に帰り、(王莽おうもうに)おどされた事状を単于ぜんう烏珠留うしゅりゅう単于ぜんう)につぶさに報告しました。

単于ぜんうは改めてかん於粟置支侯おぞくちしこうとしましたが、この官は匈奴きょうどの中でも卑賎ひせんな官でした。

その後、(王莽おうもうじゅん単于ぜんうに任命した)じょが病死したため、王莽おうもうじょの代わりにとうじゅん単于ぜんうとします。


厭難将軍えんなんしょうぐん陳欽ちんきん震狄将軍しんてきしょうぐん王巡おうじゅん雲中郡うんちゅうぐん葛邪塞かつやさいに駐屯しました。

この時、匈奴きょうどはしばしば辺境に侵入して(しんの)将率しょうすい・吏士を殺害し、はなはだ多くの民と家畜を略奪していました。

陳欽ちんきん王巡おうじゅんが)らえたりょ匈奴きょうど)の生口せいこう(奴隷)に調べたずねたところ、みな「こう単于ぜんうかんの子・かくがしばしば侵入しているのだ」と答えたので、陳欽ちんきん王巡おうじゅんの両将軍しょうぐんはこのことを(王莽おうもうに)上聞します。

しん建国けんこく4年(12年)、王莽おうもうは諸蛮夷ばんいを集め、長安ちょうあんの市でかんの子・とうを斬りました。


しんの)北方の辺境には(かんの)宣帝せんてい以来、数代にわたって(匈奴きょうどの侵入を知らせる)煙火のろしの警報が見られず、民は繁栄し牛馬が野に満ちていました。

ですが、王莽おうもう匈奴きょうどを乱し(匈奴きょうどと)事を構えるに及んで、(しんの)辺境の民(の多く)は、あるいは殺害され、逃亡し、つながれ、らえられましたが、12部の兵はずっと駐屯したまま出陣せず、吏士は罷弊ひへいして、数年の間に北方の辺境は空虚くうきょとなり、野には人骨がさらされたままとなりました。

烏珠留単于の死【新:王莽】

しん建国けんこく5年(13年)、烏珠留うしゅりゅう単于ぜんうが立って21年で亡くなると、匈奴きょうどの政事を取り仕切っていた大臣の右骨都侯ゆうこつとこう須卜当しゅぼくとうは、右賢王ゆうけんおう輿(の継承順位)を飛び越えて、(王莽おうもうによってこう単于ぜんうに任命された)かんを立てて烏累若鞮うるいじゃくてい単于ぜんうとしました。

須卜当しゅぼくとう王昭君おうしょうくん*27むすめ須卜居次しゅぼくきょじうん*28婿むこで、うんが常々中国との和親を望んでおり、また元々かんとは親密で、かんが前後に王莽おうもうによってこう単于ぜんうに任命されたことを見て、ついに輿(の継承順位)を飛び越えて、かん烏累若鞮うるいじゃくてい単于ぜんうに立てたのでした。

脚注

*27王昭君おうしょうくんは、かん元帝げんていによって「漢氏かんし婿むことなり親善する」ことを申し出た呼韓邪こかんや単于ぜんう下賜かししされた。寧胡ねいこ閼氏あつし閼氏あつし単于ぜんう后妃こうひの称号。匈奴きょうど部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

*28原文:匈奴用事大臣右骨都侯須卜當,即王昭君女伊墨居次云之婿也。
居次きょじかん公主こうしゅに同じ。単于ぜんうむすめの号。前述に合わせて須卜居次しゅぼくきょじとした。ちくま学芸文庫『漢書かんじょ7』匈奴伝きょうどでんの訳注にも「須卜居次しゅぼくきょじあやまりか」とある。


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【後漢・三国時代の異民族】目次