前漢(ぜんかん)・成帝(せいてい)③・哀帝(あいてい)・平帝(へいてい)、新(しん)・王莽(おうもう)時代の匈奴(きょうど)、烏珠留若鞮(うしゅりゅうじゃくてい)単于(ぜんう)についてまとめています。

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匈奴・前漢時代⑬新①烏珠留若鞮単于

匈奴(前漢時代)

匈奴(きょうど)(前漢(ぜんかん)時代)

若鞮について

匈奴(きょうど)では「孝(こう)」のことを「若鞮(じゃくてい)」と言います。

呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)の時代以降、匈奴(きょうど)は漢(かん)と親密になり、漢(かん)の皇帝の諡(おくりな)に「孝(こう)」の字をつけるのを見てこれを慕(した)い、みな「若鞮(じゃくてい)」の字をつけるようになりました。

漢(かん)の皇帝の「孝(こう)」の字が省略されるように、多くの場合、単于(ぜんう)の「若鞮(じゃくてい)」の字も省略して記述されています。

烏珠留若鞮単于の即位【前漢:成帝】

漢(かん)の綏和(すいわ)元年(紀元前8年)、車牙(しゃが)単于(ぜんう)は立って4年で亡くなり、弟の囊知牙斯(のうちがし)が立って烏珠留若鞮(うしゅりゅうじゃくてい)単于(ぜんう)となりました。

烏珠留(うしゅりゅう)単于(ぜんう)は立つと、第2閼氏(あつし)*1の子・楽(がく)を左賢王(さけんおう)とし、第5閼氏(あつし)*1の子・輿(よ)を右賢王(ゆうけんおう)とし、子の右股奴王(ゆうこどおう)・烏鞮牙斯(うていがし)を漢(かん)に遣(つか)わして入侍(にゅうじ)*2させました。

脚注

*1単于(ぜんう)の后妃(こうひ)の称号。匈奴(きょうど)部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

*2諸侯王(しょこうおう)や帰服した非漢人の王(おう)が「天子(てんし)(皇帝)の側近(そばちか)くに侍(はべ)らせる」という名目で漢(かん)の都(みやこ)に子息を送ること。人質の一種。

漢の領土割譲要求を断る【前漢:成帝】

烏珠留(うしゅりゅう)単于(ぜんう)が立つと、漢(かん)は使者として中郎将(ちゅうろうしょう)の夏侯藩(かこうはん)と副校尉(ふくこうい)の韓容(かんよう)を匈奴(きょうど)に遣(つか)わしました。


当時、成帝(せいてい)の舅(おじ)で大司馬(だいしば)・票騎将軍(ひょうきしょうぐん)の王根(おうこん)が尚書(しょうしょ)の事を統括していましたが、ある人が王根(おうこん)に説(と)いて言いました。


「匈奴(きょうど)には漢(かん)の張掖郡(ちょうえきぐん)に斗入(とにゅう)*4している地があり、そこでは珍(めずら)しい材木や箭竿(せんかん)(矢幹(やがら))、矢羽(やばね)に用(もち)いる鷲(わし)の羽を得ることができます。

もしこの地を得ることができれば、辺境は甚(はなは)だ饒(ゆた)かになり、国家として領土を広める実益がありますので、将軍(しょうぐん)(王根(おうこん))の顕功(けんこう)(顕著(けんちょ)な功績)は無窮(むきゅう)(永遠)に語り継がれるようになるでしょう」


王根(おうこん)が成帝(せいてい)のためにその利益を言上すると、天子(てんし)(成帝(せいてい))はすぐさま単于(ぜんう)にその地を求めたいと思いましたが、「もし得ることができなかった場合、(天子(てんし)の)詔命(しょうめい)を傷つけ国威を損(そこ)なうことになる」ことを心配していました。

そこで王根(おうこん)は、直(ただ)ちに夏侯藩(かこうはん)に天子(てんし)(成帝(せいてい))の意向を曉(さと)らせると、夏侯藩(かこうはん)の申し出ということにしてこれを(単于(ぜんう)に)求めさせることにします。


夏侯藩(かこうはん)は匈奴(きょうど)に到着すると、話のついでを装(よそお)って単于(ぜんう)に言いました。


夏侯藩(かこうはん)「窺(うかが)い見ますに、匈奴(きょうど)には漢(かん)の張掖郡(ちょうえきぐん)に斗入(とにゅう)*4している地があります。そのため漢(かん)の3都尉(とい)は塞(とりで)(長城)に在駐しているため士卒数百人は寒さに苦しみ、久しく候望(こうぼう)(見張り)に疲労しております。単于(ぜんう)には宜(よろ)しく上書してこの地を献上し、両都尉(とい)・士卒数百人を解放することによって天子(てんし)(成帝(せいてい))のご厚恩に報(むく)いられたならば、 必ずやその見返りも大きなものとなるでしょう」


単于(ぜんう)「これは天子(てんし)(成帝(せいてい))の詔語(みことのり)であろうか、それとも使者(そなた)の求めによるものだろうか?」


夏侯藩(かこうはん)「詔指(しょうし)(天子(てんし)の意向)ですが、藩(わたくし)としてもまた単于(ぜんう)のために善計を画(はか)っただけのことです」


単于(ぜんう)「孝宣(こうせん)・孝元皇帝(こうげんこうてい)(宣帝(せんてい)と元帝(げんてい))は父・呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)を哀憐(あいれん)したまい、長城以北は匈奴(きょうど)の領有するところとなった。かの地は温偶駼王(おんごうとおう)の居地であるから、(私は)その地形・産物などを把握していない。使いの者を派遣して問(と)うてみよう」


夏侯藩(かこうはん)と韓容(かんよう)は漢(かん)に帰りましたが、その後また匈奴(きょうど)に使者としてやって来て土地を求めると、単于(ぜんう)は答えて言いました。


「父兄・5世に亘(わた)って漢(かん)がこの地を求めることはなかったのに、知(わたし)の代になって求めて来るのはなぜであろうか?

温偶駼王(おんごうとおう)に問(と)うたところ、匈奴(きょうど)の西辺の諸侯(しょこう)(小国)は穹廬(きゅうろ)(テント状の住宅)や車を作るのに、みなこの山の材木を使っているとか。ともあれ、先祖伝来の地を敢(あ)えて手放そうとは思わない」


夏侯藩(かこうはん)は帰国すると、太原太守(たいげんたいしゅ)に遷(うつ)りました。


その後、単于(ぜんう)が使者を派遣して上書し、夏侯藩(かこうはん)が土地を求めた事状について上聞すると、成帝(せいてい)はこれに報(こた)えて詔(みことのり)を下し、


「夏侯藩(かこうはん)が勝手に詔(みことのり)と称して単于(ぜんう)に土地を求めたこと。法では死罪に相当するが、2度の大赦(たいしゃ)を経(へ)て今は夏侯藩(かこうはん)を済南太守(せいなんたいしゅ)に徙(うつ)し、匈奴(きょうど)に関わらせないこととした」


と言いました。


翌年、匈奴(きょうど)の侍子(じし)*2・烏鞮牙斯(うていがし)が亡くなって帰葬(きそう)されると、単于(ぜんう)はまた、子の左於駼仇撣王(さおときゅうてんおう)・稽留昆(けいりゅうこん)を漢(かん)に遣(つか)わして入侍(にゅうじ)*2させました。

脚注

*2諸侯王(しょこうおう)や帰服した非漢人の王(おう)が「天子(てんし)(皇帝)の側近(そばちか)くに侍(はべ)らせる」という名目で漢(かん)の都(みやこ)に子息を送ること。人質の一種。

*3領尚書事(りょうしょうしょじ)。実質的な権力機構である尚書台(しょうしょだい)を統括する権限を持つ。後漢(ごかん)では録尚書事(ろくしょうしょじ)。

*4岬(みさき)などが斗枡(とます)の隅(すみ)のように角ばって入りこんでいること。

烏孫国の侵入【前漢:哀帝】

漢(かん)の哀帝(あいてい)の建平(けんぺい)2年(紀元前5年)、烏孫国(うそんこく)*5の庶子(しょし)・卑援疐(ひえんじ)翕侯(きゅうこう)の人衆が匈奴(きょうど)の西の境界に侵入して牛畜を寇盗(こうとう)(略奪)し、多くの民を殺害します。

報告を受けた単于(ぜんう)が、左大当戸(さだいとうこ)の烏夷泠(ういれい)に5千騎を率(ひき)いて烏孫国(うそんこく)*5を攻撃させ、数百人を殺害・千余人を略奪し、牛畜を駆り立てて去ると、卑援疐(ひえんじ)は恐れ、子の趨逯(すうろく)を匈奴(きょうど)に遣(つか)わして人質としました。

単于(ぜんう)がこの事状を報告して上聞したところ、漢(かん)は中郎将(ちゅうろうしょう)の丁野林(ていやりん)と副校尉(ふくこうい)の公乗音(こうじょうおん)を派遣して単于(ぜんう)を責め、卑援疐(ひえんじ)の人質の子を帰国させるように告げたので、単于(ぜんう)は詔(ことのり)を受けて(趨逯(すうろく)を)帰国させました。

脚注

*5漢(かん)代の西域(さいいき)最大の国。新疆(しんきょう)・温宿(おんじゅく)以北、伊黎(いれい)以南の地。その民は青眼赤須(せきしゅ)(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏(だいげっし)と共に敦煌(とんこう)・祁連(きれん)の間にいたが、後(のち)に大月氏(だいげっし)を破って烏孫国(うそんこく)を建国し、漢(かん)と和親した。

単于の参朝【前漢:哀帝】

漢(かん)に朝賀することを願う

漢(かん)の哀帝(あいてい)の建平(けんぺい)4年(紀元前3年)、単于(ぜんう)は上書して翌年の正月に朝賀することを願いましたが、当時、哀帝(あいてい)は病(やまい)に伏(ふ)せっており、またある人が、

「匈奴(きょうど)は黄河(こうが)の上流からやって来て人を厭(そこな)い、黄龍(こうりゅう)・竟寧(きょうねい)年間以来、単于(ぜんう)が中国(漢(かん))に朝賀すると、その都度(つど) 大故(たいこ)*6があった」

と言ったのを聞いて、単于(ぜんう)の願いを承諾(しょうだく)することに難色を示しました。

そこで公卿(こうけい)たちに問(と)うたところ、公卿(こうけい)たちもまた、

「府帑(ふど)(国庫金)を浪費させるだけですので、しばらく許可しないほうがよろしいでしょう」

と、単于(ぜんう)の朝賀に反対の意見を述(の)べました。

黄門郎(こうもんろう)・揚雄(ようゆう)の諫言(かんげん)

単于(ぜんう)の使者が辞去し、まだ匈奴(きょうど)に出発する前のこと。黄門郎(こうもんろう)の揚雄(ようゆう)が上書して諫(いさ)めました。

揚雄の上書・全文
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臣(わたくし)は「『六経(りくけい)の治』は未乱を貴(たっと)び、『兵家の勝』は未戦を貴(たっと)ぶ」と聞いております。この2つは「大事の根本」であって、(国家の事柄を判断する際に)考慮に入れないわけにはいきません。

臣(わたくし)が愚(おろ)かながら考えますに、今、単于(ぜんう)が上書して朝賀を求めているのに国家(漢(かん))がこれを許さなければ、漢(かん)と匈奴(きょうど)の間に隙(すき)(不和)を生じさせる原因となってしまうでしょう。

もともと北方の狄(えびす)は、五帝(ごてい)(太古の5人の帝王)でも臣従させることはできず、三王(さんおう)*7でも制御することはできませんでした。これと隙(すき)(不和)を生じさせてはならないことは明白です。

臣(わたくし)はここで敢(あ)えて遠い昔のことは言わず、秦(しん)以来のことを引用して、この理由を明らかにしたいと存じます。


秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の強大さ、(秦(しん)の将軍(しょうぐん)・)蒙恬(もうてん)の武威、40万の帯甲(たいこう)(武装兵)をもってしても、敢(あ)えて西河(せいが)(オルドス地方)を窺(うかが)おうとせず、長城を築いてその境界としました。


漢(かん)が興(おこ)った当初は、高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))の威霊と30万の軍勢をもってしても、平城(へいじょう)に困(くる)しみ、兵士は(包囲されて)7日の間、食べ物を食べることができませんでした。この時(漢(かん)には)、奇譎(きけつ)の士(優(すぐ)れた謀略の士)や石画(せっかく)の臣*8が甚(はなは)だ多く、どのように脱出したのかは世に公言することはできません。(関連記事)


また、高皇后(こうこうごう)(高祖(こうそ)の皇后(こうごう)・呂后(りょこう))がかつて匈奴(きょうど)の非礼に憤(いきどお)り、群臣が宮廷で評議した際、樊噲(はんかい)が「10万の軍勢をもって匈奴(きょうど)中を蹂躙(じゅうりん)したい」と請(こ)うと、季布(きふ)は「樊噲(はんかい)を斬るべしっ!妄(みだ)りに(高皇后(こうこうごう)に)阿(おもね)り順(したが)うとは何たることかっ!」と言いました。
そこで大臣が方便の辞(ことば)を綴(つづ)って返書を送ったところ、匈奴(きょうど)は結解(けつげ)*9し、中国(漢(かん))の憂(うれ)いはなくなりました。(関連記事)


孝文帝(こうぶんてい)(文帝(ぶんてい))の御代(みよ)に至ると、匈奴(きょうど)が北の辺境を侵(おか)し暴(あば)れ、斥候(せっこう)の騎兵が雍(よう)、甘泉(かんせん)の辺りまで出没したので、京師(けいし)(首都:長安(ちょうあん))では大いに駭(おどろ)き、3人の将軍(しょうぐん)を細柳(さいりゅう)、棘門(きょくもん)、覇上(はじょう)に駐屯させてこれに備えましたが、数ヶ月で罷(や)めました。


孝武帝(こうぶてい)(武帝(ぶてい))が即位なされると、馬邑(ばゆう)の策略を設(もう)けて匈奴(きょうど)を誘い出そうとし、(御史大夫(ぎょしたいふ)の)韓安国(かんあんこく)に30万の軍勢を率(ひき)いて迎え撃たせようとしましたが、匈奴(きょうど)がこれに気づいて去ったため、いたずらに財を費(つい)やし兵を労(ろう)しただけで1人の虜(りょ)(敵兵)すら見ることができず、ましてや単于(ぜんう)の面(つら)を見るどころではありませんでした。(馬邑(ばゆう)の役(えき))

その後、深く「社稷(しゃしょく)(国家)の計(はかりごと)」を惟(おも)い、壮大な「万載(ばんさい)(万年)の策」をもって数10万の軍を興(おこ)し、衛青(えいせい)・霍去病(かくきょへい)に兵を指揮させること前後10余年、西河(せいが)に(船を)浮かべ大幕(たいばく)(大きな砂漠)を絶(わた)り、寘顏(てんがん)*10を破り王庭(匈奴(きょうど)の首都))を襲い、その地の果てまで行き着き逃げる敵を追って北に逐(お)い払い、狼居胥山(ろうきょしょざん)で「封(ほう)の祭*11」を行い姑衍山(こえんざん)で「禅(ぜん)の祭*12」を行って翰海(かんかい)*13に臨(のぞ)み、百を数える(匈奴(きょうど)の)名王(めいおう)・貴人(貴族)を捕虜としました。

これ以降、匈奴(きょうど)は震(ふる)え怖(おそ)れ、ますます和親を求めて来るようになりましたが、それでもまだ臣と称して仕えることは承諾しなかったのです。

そもそも前の世は、このように量(はか)り知れない費用を費(つい)やし、罪なき人々を労役(ろうえき)してまで「狼望(ろうぼう)の北*14」に報復したことで、満足できましたでしょうか?
思いますに、一度も労しない者は久しく佚(たの)しむことはできず、少しも費(つい)やさない者は永く寧(やす)らかではいられません。故(ゆえ)に百万の軍を忍(しの)んで飢(う)えた虎の喙(くち)(口)で摧(くだ)させ、府庫の財を運んで盧山(ろざん)の壑(たに)(谷)に填(うず)めても悔(く)いはないのです。


(宣帝(せんてい)の)本始(ほんし)年間(紀元前73年〜紀元前70年)の初めに至ると、匈奴(きょうど)には「漢(かん)に従わない」という堅(かた)い心があり、烏孫国(うそんこく)*5を攻撃して(烏孫国(うそんこく)*5に嫁(とつ)いでいた)公主(こうしゅ)(皇女)を奪おうとしましたので、漢(かん)は5人の将軍(しょうぐん)と総兵15万騎を発して(匈奴(きょうど)の)南で狩猟し、長羅侯(ちょうらこう)(・常恵(じょうけい))には烏孫国(うそんこく)*5の5万騎をもって(匈奴(きょうど)の)西を震(ふる)わせて、それぞれ帰還しました。

ですがこの時獲(え)たものは鮮(すく)なく、徒(いたずら)に威武を奮(ふる)い揚(あ)げて「漢兵(かんぺい)の襲撃が雷や風のようであることを明らかにした」に過ぎず、戦果を挙(あ)げずに帰還した(虎牙将軍(こがしょうぐん)・田順(でんじゅん)と祁連将軍(きれんしょうぐん)・田広明(でんこうめい)の)両将軍(しょうぐん)を罰して自殺させました。

故(ゆえ)に北狄(ほくてき)(匈奴(きょうど))が屈服しなければ、中国(漢(かん))はまだ枕(まくら)を高くして安眠することはできなかったのです。(関連記事)


(宣帝(せんてい)の)元康(げんこう)・神爵(しんしゃく)年間(紀元前65年〜紀元前58年)に至ると、(天子(てんし)の)大いなる教化は神の如(ごと)く明らかに、鴻恩(こうおん)(大恩)はあまねく行き渡り、匈奴(きょうど)では国内が乱れて5人の単于(ぜんう)が争い立ちました。その結果、日逐(にっちく)・呼韓邪(こかんや)は(国人を)携(たずさ)えて帰化し、手足を地に伏して臣と称しましたが、それでもなお繋(つな)ぎ止めて掣肘(せいちゅう)することはなく、朝賀を望む者は拒(こば)まず、望まない者には強請しませんでした。

なぜでしょうか?
外国(匈奴(きょうど))は生まれつき猛々(たけだけ)しく残忍で、風貌(ふうぼう)は逞(たくま)しく、力を負(たの)み気を怙(たの)むので、善をもって教化することは難しく、悪に染(そま)りやすいので、その強さは挫(くじ)き難(がた)く和を得(え)難(がた)いからです。

未(いま)だ(漢(かん)に)帰服していない時には、兵を労(ろう)して遠征し、国を傾けて財貨を殫(つ)(尽)くし、尸(しかばね)を伏せ血を流しても、堅固な敵を抜き破ることは難しいものですが、すでに帰服した後には、これを慰撫(いぶ)し、交(まじ)わり接して賂(まいない)を贈(おく)れば、(匈奴(きょうど)も)今回のように威儀を正して振る舞うようになるのです。


かつて(漢(かん)は、)大宛(だいえん)*15の城を屠(ほふ)り、烏桓(うがん)(烏丸(うがん))の塁(とりで)を踏(ふ)み、姑繒(こそう)*16の城壁を探(うかが)い、蕩姐(とうし)*17の祭の場(にわ)を籍(ふ)み、朝鮮の旃(はた)を艾(おさ)め、両越(りょうえつ)(東越(とうえつ)と南越(なんえつ))の旗を抜き取りましたが、近いところは10日から1ヶ月の役(えき)に過ぎず、遠いところでも半年の労(ろう)を経(へ)ず、すでにその庭(てい)(首都))を犁(す)き耕(たがや)し、その閭(りょ)(里門)を掃(は)き、郡県を置いて、雲が去るように、席(しきもの)を巻くように、後に何の余災もありませんでした。

ですが、ただ北狄(ほくてき)(匈奴(きょうど))だけはそれらのようにはいかず、真(まこと)に中国(漢(かん))の堅敵(強敵)であり、他の3方の辺境と比べて遠く隔(へだた)たっております。故(ゆえ)に前世より(匈奴(きょうど)との関係を)甚(はなは)だしく重視してきました。軽々しく軽んずるべきではありません。


今、単于(ぜんう)は(漢(かん)の)義に帰服し款誠(まこと)の心を懐(いだ)いて、その庭(てい)(首都))を離れ(天子(てんし)の)御前において陳(の)べ見(あらわ)そうとしております。これこそ上世(大昔)からの(果たされなかった)遺策であり、神霊が想(おも)い望(のぞ)まれたところであって、どれほど国家の負担となっても成し遂(と)げようとしてきた理想の状態なのです。

どうして「(匈奴(きょうど)は黄河(こうが)の上流から)やって来て人を厭(そこな)いう」という辞(ことば)を理由に(単于(ぜんう)の参朝を)拒(こば)み、無期限に疎遠(そえん)となるようなことをなさって、(これまで漢(かん)が単于(ぜんう)に与えてきた)昔の恩を消し去り、将来の隙(すき)(不和)の扉を開こうとなさるのですかっ!

そもそも真心をもって親しもうとする者を拒(こば)んで、相手の心に恨(うら)みを懐(いだ)かせれば、漢(かん)に怨(うら)みを向け自(みずか)ら断絶し、北面して臣従する心をなくしてしまいます。(そうして単于(ぜんう)を)威(おど)すことも諭(さと)すこともできなくなってしまっては、どうしてこれを「大憂(たいゆう)(大きな憂(うれ)い)」と呼ばずにおれましょうかっ!

明者は無形のうちに視(み)て、聴者は無声のうちに聴(き)いて、問題を未然に防ぎます。(そうして問題を未然に防げば、)蒙恬(もうてん)・樊噲(はんかい)の労(ろう)を繰り返す必要がなく、再び棘門(きょくもん)・細柳(さいりゅう)の軍備を備(そな)える必要もなく、馬邑(ばゆう)の策など設(もう)ける必要もありませんし、衛青(えいせい)・霍光(かくこう)の功績や5人の将軍(しょうぐん)の武威を震(ふる)わせる場所もないのではありませんか?

一度(ひとたび)、隙(すき)(不和)を生じさせてしまえば、内に智者が(智恵を絞(しぼ)って)心を労(ろう)し、外に弁者が轂(こしき)*18を擊ち合わせて(馳(は)せまわったとして)も、なお問題を未然に防ぐことには及ばないのです。


これまで西域(さいいき)を図(はか)り、車師国(しゃしこく)*19を制し、城郭都護(じょうかくとご)(西域都護(さいいきとご))を置いて西域(さいいき)の36国を護(まも)って、その経費が毎年・数百万銭を計(かぞ)えましたが、これは康居国(こうきょこく)*20と烏孫国(うそんこく)*5が、白龍堆(はくりょうたい)*21を越えて匈奴(きょうど)の西側に侵攻できるようにするためであったのでしょうか?

そうではなく、これらは(漢(かん)が)匈奴(きょうど)を制するための手段であったのです。


そもそも百年の苦労)(の成果)を1日で失い、10を費(つい)やしながら1を愛(おし)まれるとは。臣(わたくし)は国家のために、秘かに不安に堪(た)えないのです。

ただ陛下には、未(いま)だ乱れ戦うことになる前に、このことを少しでもご留意され、辺境に芽生(めば)えようとしている禍(わざわい)を食い止めてくださいますように。

脚注

*5漢(かん)代の西域(さいいき)最大の国。新疆(しんきょう)・温宿(おんじゅく)以北、伊黎(いれい)以南の地。その民は青眼赤須(せきしゅ)(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏(だいげっし)と共に敦煌(とんこう)・祁連(きれん)の間にいたが、後(のち)に大月氏(だいげっし)を破って烏孫国(うそんこく)を建国し、漢(かん)と和親した。

*7中国古代の三人の聖王。夏(か)の禹王(うおう)・殷(いん)の湯王(とうおう)・周(しゅう)の文王(ぶんおう)(または武王(ぶおう))のこと。

*8失敗や危険が少ない計画を立てる臣下。または、壮大な計画を立てる臣下。「石画(せっかく)」とは石のように堅(かた)い計画のこと。

*9煩悩(ぼんのう)に縛(しば)られて自由でないこと。悟(さと)りを得て煩悩(ぼんのう)を脱すること。今回は後者。
冒頓(ぼくとつ)単于(ぜんう)は高皇后(こうこうごう)に「未亡人となって寂(さび)しいだろうから、私でよければ慰(なぐさ)めてやろう」という主旨(しゅし)の書簡を送ったが、高皇后(こうこうごう)が謙(へりくだ)って辞退すると、非礼を詫(わ)びて漢(かん)と和親した。

*10祁連山(きれんざん)の別名。匈奴(きょうど)を指(さ)す。

*11高山の頂上で土を盛り祭壇(さいだん)を築いて天に告祭する儀式。

*12地を祓(はら)って天地の神を祭ること。

*13バイカル湖。一説にゴビ砂漠。

*14狼煙(のろし)を挙(あ)げて敵を見張る北の辺境の地。

*15西域(さいいき)の国の1つ。大宛国(だいえんこく)。かつて中央アジアのシル川流域・フェルガナ盆地にあり、汗血馬(かんけつば)の産地として知られた。転じて西域(さいいき)諸国を指すこともある。

*16益州(えきしゅう)にいた西南夷(せいなんい)の一種。

*17羌族(きょうぞく)の一種。

*18車輪の中心の太い丸い部分。中を車軸が通り、周囲に輻(や)(スポーク)が放射状に差し込まれている。
轂擊(こくげき)とは轂(こしき)同士が擊ち合うほど往来が激しいこと。

*19西域(さいいき)の国の1つ。かつて東トルキスタンに存在したオアシス都市国家。

*20中央アジアのシル河下流よりキルギス・ステップの地方。

*21新疆(しんきょう)ウイグル自治区の南東部にある砂漠の名。


この諫言(かんげん)に目が覚(さ)める思いがした天子(てんし)(哀帝(あいてい))は、匈奴(きょうど)の使者を召(め)し還(かえ)すと、改めて単于(ぜんう)に返書して参朝することを許し、諫(いさ)めた揚雄(ようゆう)には帛(きぬ)50匹と黃金10斤(きん)を下賜(かし)しました。


ですが単于(ぜんう)は、まだ出発しないうちにたまたま病(やまい)にかかったので、また使者を遣(つか)わして、翌年に参朝することを願いました。

単于(ぜんう)が参朝する際の随員は、前例では名王(めいおう)以下、従者2百余人となっていましたが、単于(ぜんう)はまた上書して、

「天子(てんし)(哀帝(あいてい))の神霊を蒙(こうむ)りまして、民は盛壮であります。願わくは5百人の者を従えて入朝し、もって天子(てんし)(哀帝(あいてい))のご盛徳を明らかにしたいと存じます」

と言うと、天子(てんし)(哀帝(あいてい))はこれをみな許しました。

脚注

*6大きな事故、災害。大きな不幸、父母の喪(も)。

単于(ぜんう)の参朝

漢(かん)の元寿(げんじゅ)2年(紀元前1年)、単于(ぜんう)が来朝すると、天子(てんし)(哀帝(あいてい))は(単于(ぜんう)の来た方角が)太歳(たいさい)*22の方角に当たっていたため、これを厭勝(ようしょう)*23して忌避(きひ)しようと、単于(ぜんう)を上林苑(じょうりんえん)の蒲陶宮(ぶどうきゅう)に宿泊させました。

このことは、単于(ぜんう)には「敬意を加えるためである」と伝えていましたが、単于(ぜんう)はこれが厭勝(ようしょう)*23であることを知っていました。

今回の入朝によって単于(ぜんう)は、衣(ころも)370襲(かさね)、錦繡(きんしゅう)・繒帛(きんぱく)3万匹、絮(じょ)(綿(わた))3万斤(きん)を増し加えられ、それ以外は漢(かん)の河平(かへい)4年(紀元前25年)正月に復株累若鞮(ふくしゅるいじゃくてい)単于(ぜんう)が入朝した際と同様に下賜(かし)されました。(関連記事)

朝賀の儀式が終わると、漢(かん)は中郎将(ちゅうろうしょう)の韓況(かんきょう)を遣(つか)わして単于(ぜんう)を送らせました。

単于(ぜんう)は塞(とりで)(長城)を出て休屯井(きゅうとんせい)に至ると北に車田盧水(しゃでんろすい)を渡り、迂回(うかい)して遠回りしました。その結果、韓況(かんきょう)らは食糧が欠乏し、単于(ぜんう)は食糧を供給しましたが、期日を過ぎて50余日経(た)ってようやく帰還しました。

脚注

*22木星の異名。術数家は太歳(たいさい)をもって「人君の象(かたち)」とし、これに当たる方角はすべて犯(おか)すべからざるものとした。
単于(ぜんう)の来た方角がこれに当たったので、これを忌避(きひ)しようとした。

*23まじないで圧服すること。

漢への入侍を更新する【前漢:平帝】

以前、哀帝(あいてい)は(単于(ぜんう)が漢(かん)に入侍(にゅうじ)*2させていた)稽留昆(けいりゅうこん)を単于(ぜんう)に伴(ともな)わせて帰しましたが、帰国すると、単于(ぜんう)はまた稽留昆(けいりゅうこん)の同母兄の右大且(ゆうだいしょ)・方(ほう)とその婦(妻)を遣(つか)わして入侍(にゅうじ)*2させ、彼らが帰還すると、今度は且方(しょほう)(右大且(ゆうだいしょ)・方(ほう))の同母兄、左日逐王(さにっちくおう)・都(と)とその婦(妻)を入侍(にゅうじ)*2させました。

当時、漢(かん)の平帝(へいてい)はまだ幼かったため、太皇太后(たいこうたいごう)が称制(しょうせい)*24し、新都侯(しんとこう・王莽(おうもう)が政務を執(と)っていました。

そこで王莽(おうもう)は、太后(たいこう)に(漢(かん)の)威徳が前代(の哀帝(あいてい))より盛んであることを示(しめ)そうとして、単于(ぜんう)に仄(ほの)めかして王昭君(おうしょうくん)(と復株累(ふくしゅるい)単于(ぜんう))の女(むすめ)・須卜居次(しゅぼくきょじ)*25・雲(うん)を太后(たいこう)に入侍(にゅうじ)*2させると、太后(たいこう)はこれを甚(はなは)だ手厚く賞賜(しょうし)しました。

脚注

*2諸侯王(しょこうおう)や帰服した非漢人の王(おう)が「天子(てんし)(皇帝)の側近(そばちか)くに侍(はべ)らせる」という名目で漢(かん)の都(みやこ)に子息を送ること。人質の一種。

*24太皇太后(たいこうたいごう)などが天子(てんし)に代わって制を称する(政令を行う)こと。詔書(しょうしょ)に対して制書(せいしょ)は制度をつくる命令を言う。

*25居次(きょじ)は漢(かん)の公主(こうしゅ)に同じ。単于(ぜんう)の女(むすめ)の号。

漢の4ヶ条を受け入れる【前漢:平帝】

当時、西域(さいいき)の車師後王(しゃしこうおう)・姑句(ここう)(原文:句姑(こうこ))と去胡来王(きょこらいおう)・唐兜(とうと)はみな都護校尉(とごこうい)を怨恨(うら)んでおり、妻子・民衆を引き連れて匈奴(きょうど)に投降して来ました。(関連記事)

単于(ぜんう)はこれを受け入れて左谷蠡王(さろくりおう)の地におらせ、使者を派遣して「臣(わたくし)は謹(つつし)んで、すでに(姑句(ここう)と唐兜(とうと)を)受け入れました」と上書します。

すると(漢(かん)は)、詔書(しょうしょ)をもって中郎将(ちゅうろうしょう)の韓隆(かんりゅう)、王昌(おうしょう)、副校尉(ふくこうい)の甄阜(けんぷ)、侍中謁者(じちゅうえっしゃ)の帛敞(はくしょう)、長水校尉(ちょうすいこうい)の王歙(おうきゅう)を匈奴(きょうど)に派遣して、

「西域(さいいき)は(漢(かん)に)内属しているのだから、(匈奴(きょうど)が投降を)受け入れることなどできないはずである。今すぐこれを帰らせよ」

と単于(ぜんう)に言いました。これに単于(ぜんう)が、


「孝宣(こうせん)(宣帝(せんてい))・孝元皇帝(こうげんこうてい)(元帝(げんてい))は(匈奴(きょうど)を)哀憐(あいれん)したまい、『長城以南は天子(てんし)(漢(かん))が領有し、長城以北は単于(ぜんう)(匈奴(きょうど))が領有する』ことを約束なされ、塞(とりで)(長城)を犯(おか)す者があればすぐさまその事状を上聞し、投降する者があっても、それを受け入れることはできないこととなっておりました。

臣(わたくし)・知(ち)の父・呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)は量(はか)り知れないご恩を蒙(こうむ)り、遺言(ゆいごん)して『中国(漢(かん))から投降して来る者があっても受け入れてはならず、直(ただ)ちに塞(とりで)(長城)に送り返して天子(てんし)のご厚恩に報(むく)いよ』と申しました。

ですがこの度(たび)のことは、[中国人(漢人(かんじん))ではなく]外国人ですので、受け入れることはできるはずでございましょう」


と言うと、使者は、

「匈奴(きょうど)は骨肉同士で攻め合い国がほとんど絶(た)えようとしていたのに、中国(漢(かん))の大恩を蒙(こうむ)って危急存亡の状態から回復し、妻も子も無事安全に、累世(るいせい)相(あい)継(つ)ぐことができたのではないか。宜(よろ)しく(天子(てんし)の)ご厚恩に報(むく)いるべきである」

と言いました。

すると単于(ぜんう)は叩頭(こうとう)して謝罪し、2人の虜(りょ)(姑句(ここう)と唐兜(とうと))を捕らえて使者に引き渡すと、(漢(かん)は)詔(みことのり)を下して中郎将(ちゅうろうしょう)の王萌(おうほう)を派遣し、西域(さいいき)の悪都奴(あくとど)*26の境界で待たせて、これを出迎え受け取らせました。


単于(ぜんう)が使者を派遣して(姑句(ここう)と唐兜(とうと)の)免罪(めんざい)を請(こ)い、漢(かん)の使者がこれを上聞しましたが、(漢(かん)は)聴(き)き入れず、詔(みことのり)を下して西域(さいいき)諸国の王(おう)を会同させ、(姑句(ここう)と唐兜(とうと)の)2人を斬って見せしめとします。

そして漢(かん)は新たに、

  • 逃亡して匈奴(きょうど)に入った中国人(漢人(かんじん))
  • 逃亡して匈奴(きょうど)に降伏した烏孫国(うそんこく)*5の者
  • 匈奴(きょうど)に降伏した、中国(漢(かん))の印綬(いんじゅ)を佩(お)びた西域(さいいき)諸国の者
  • 匈奴(きょうど)に降伏した烏桓(うがん)(烏丸(うがん))の者

を受け入れてはならないという4ヶ条を設(もう)けると、中郎将(ちゅうろうしょう)の王駿(おうしゅん)、王昌(おうしょう)、副校尉(ふくこうい)の甄阜(けんぷ)、王尋(はおうじん)を匈奴(きょうど)に派遣して、4ヶ条を単于(ぜんう)に班(わか)ち与えましたが、これを勅書(ちょくしょ)と同じ函(はこ)に封じて付与し、単于(ぜんう)に命を奉じ行わせるようにし、よって故(もと)の宣帝(せんてい)の作った約束の封函(ふうかん)を回収して還(かえ)りました。*27

脚注

*5漢(かん)代の西域(さいいき)最大の国。新疆(しんきょう)・温宿(おんじゅく)以北、伊黎(いれい)以南の地。その民は青眼赤須(せきしゅ)(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏(だいげっし)と共に敦煌(とんこう)・祁連(きれん)の間にいたが、後(のち)に大月氏(だいげっし)を破って烏孫国(うそんこく)を建国し、漢(かん)と和親した。

*26西域(さいいき)の谷の名前。

*27ちくま学芸(がくげい)文庫(ぶんこ)『漢書(かんじょ)7』より。
原文:班四條與單于,雜函封,付單于,令奉行,因收故宣帝所為約束封函還。

名を改める【前漢:平帝】

当時、王莽(おうもう)は、「中国(漢(かん))では2字名をつけてはならない」とするように奏上し、また使者を派遣して、それとなく単于(ぜんう)に、

「漢(かん)の皇化を慕(した)って1字名とする旨(むね)の上書をするなら、必ずや漢(かん)は厚い恩賞を加えるであろう」

と言いました。そこで単于(ぜんう)がこれに従って、

「幸いにして(漢(かん)の)藩臣に備(そな)わることを得(え)、秘かに太平の聖制を楽しんでおります。臣(わたくし)の元の名は囊知牙斯(のうちがし)と申しましたが、今、謹(つつし)んで名を知(ち)と改めました」

と上書すると、王莽(おうもう)は大いに喜んで太后(たいこう)に申し上げ、使者を派遣して答え諭(さと)し、手厚い恩賞を下賜(かし)しました。

烏桓(烏丸)を攻める【前漢:平帝】

漢(かん)はすでに4ヶ条を班(わ)けましたが、その後さらに、護烏桓校尉(ごうがんこういの使者が烏桓(うがん)(烏丸うがん))の民に「匈奴(きょうど)に皮布ひふの税を与えてはならない」と告げました。

すると匈奴(きょうど)は、使者に匈奴(きょうど)の民・婦女で烏桓(うがん)(烏丸うがん))との取引を望む者たちをみな引き連れさせ、烏桓(うがん)(烏丸うがん))に派遣して税を納めないことを責めると、烏桓(うがん)(烏丸うがん))はこれを拒(こば)んで「『匈奴(きょうど)に税を納めてはならぬ』という天子(てんし)の詔条(しょうじょう)に従ったのです」と言いました。

これに匈奴(きょうど)の使者は怒り、烏桓(うがん)(烏丸うがん))の酋豪(しゅうごう)を捕らえ縛(しば)って吊(つる)し上げると、怒った酋豪(しゅうごう)の昆弟(こんてい)(兄弟)たちは、共に匈奴(きょうど)の使者やその属官を殺害し、その婦女や牛馬を収奪しました。


このことを聞いた単于(ぜんう)は、使者を遣(つか)わし左賢王(さけんおう)の兵を発して烏桓(うがん)(烏丸うがん))に攻め入り、使者を殺害したことを責めてこれを攻撃すると、烏桓(うがん)(烏丸うがん))は、あるいは山上に逃げ、あるいは東の塞(とりで)に入って守りを固めました。

そこで匈奴(きょうど)は大いに烏桓(うがん)(烏丸うがん))の民を殺害し、その婦女・幼弱な者、千人ばかりを駆り立てて去ると、これを左地に留置し、烏桓(うがん)(烏丸うがん))に「馬畜・皮布を持って(罪を)贖(あがな)いに来い」と告げました。

これに烏桓(うがん)(烏丸うがん))の連れ去られた者たちの親族・2千余人は財物・家畜を持って贖(あがな)いに行きましたが、匈奴(きょうど)はこれらを受け取りながら、留置した人々を帰しませんでした。

新の印紱を授けられる【新:王莽】

王莽(おうもう)が皇位を簒奪(さんだつ)した新(しん)の建国(けんこく)元年(9年)、王莽(おうもう)は五威将ごいしょう)の王駿(おうしゅん)と(五威率(ごいすい)の)甄阜(けんぷ)・王颯(おうりゅう)・陳饒(ちんじょう)・帛敞(はくしょう)・丁業(ていぎょう)の6人を遣(つか)わして多くの金帛(きんぱく)を手厚く単于(ぜんう)に贈(おく)り、天命を受けて漢(かん)に代わった事状を諭告(ゆこく)して、(漢(かん)の時代は)「匈奴単于璽」であった単于(ぜんう)の印の印文を「新匈奴単于章」と改めます。

(新(しん)の)将率(しょうすい)たちが到着すると、単于(ぜんう)は(新(しん)の)印紱(いんふつ)(印と紱(くみひも))を授(さず)けられ、「(漢(かん)の)印紱(いんふつ)の返上」を命じる詔(みことのり)を、再拝して受けました。

通訳が進み出て(単于(ぜんう)から漢(かん)の)印紱(いんふつ)を解(と)いて取ろうとすると、単于(ぜんう)は掖(わき)を挙(あ)げてこれを(通訳に)授(さず)けようとします。

この時、(単于(ぜんう)の)傍(かたわ)らに従う左姑夕侯(さこせきこう)・蘇(そ)が「まだ新(しん)の印文を見ていないのですから、しばらく与えてはなりません」と言うと、単于(ぜんう)は(漢(かん)の印紱(いんふつ)を)与えるのをやめ、(新(しん)の)使者たちに穹廬(きゅうろ)(テント状の住宅)の中で待つように請(こ)い、祝いの言葉を述(の)べようとしました。

ですが、五威将ごいしょう)(王駿(おうしゅん))が「(漢(かん)の)印紱(いんふつ)は時を置かずに返上するように」と言うと、単于(ぜんう)は「承知しました」と言って、また掖(わき)を挙(あ)げて通訳に(漢(かん)の印紱(いんふつ)を)授(さず)けようとします。

これに左姑夕侯(さこせきこう)・蘇(そ)がまた「まだ印文を見ていないのですから、しばらく与えてはなりません」と言いましたが、単于(ぜんう)は「何の理由があって印文を変更するというのかっ!」と言い、ついに(漢(かん)の)印紱(いんふつ)を解(と)いて(新(しん)の)将率(しょうすい)に奉上(ほうじょう)(返上)しました。


(単于(ぜんう)は)新しい紱(くみひも)を著(つ)けましたが、敢(あ)えて印を解(と)いては見ず、(将率(しょうすい)たちと)夜まで飲食を共にして退出しました。

すると右率さゆうすい*28の陳饒(ちんじょう)は、他の将率(しょうすい)たちに言いました。


「先程、姑夕侯(こせきこう)が印文を疑ったため、あやうく単于(ぜんう)が(漢(かん)の印紱(いんふつ)の)返還をやめるところであった。

もし印を見てその印文が改変されていることを知れば、必ずや(漢(かん)の)印紱(いんふつ)を返すように求めてくるだろうが、これは辞(ことば)で説得して拒(こば)めることではない。

せっかく手に入れたのにまた失ってしまっては、この上もなく(新(しん)の)命令を辱(はずかし)めることになる。(漢(かん)の)印を打ち砕(くだ)いて、禍根(かこん)を絶っておいたほうが良い」


将率(しょうすい)たちはみな躊躇(ためら)ってこれに応じる者はいませんでしたが、果敢な(ことで有名な)燕士(えんし)である陳饒(ちんじょう)は、すぐさま斧で(漢(かん)の)印を打ち砕(くだ)いてしまいました。


翌日、単于(ぜんう)は果(は)たして右骨都侯(ゆうこつとこう)・当(とう)を遣(つか)わして(新(しん)の)将率(しょうすい)たちに言いました。


「漢(かん)が単于(ぜんう)に賜(たまわ)りました印は『璽(じ)』と言っており、『章(しょう)』とは言っておりません。また、漢(かん)の印には『漢(かん)』の字がなく、諸王(しょおう)以下の印には『漢(かん)』の字があり『章(しょう)』と言っております。

今、『璽(じ)』の字を削(けず)って『新(しん)』の字が加えられておりますが、これでは臣下と区別がつきません。願わくは、故(もと)の印を返していただきたいと存じます」


すると、将率(しょうすい)たちは(打ち砕(くだ)かれた)故(もと)の印を示して、

「(新しい印は)新(しん)の皇室が天命に順(したが)って制作したもの。故(もと)の印は将率(わたし)たちの手で破壊した。単于(ぜんう)は宜(よろ)しく天命を奉じ、新(しん)の皇室の制を奉ずべきである」

と言いました。

当(とう)が還(かえ)って報告すると、単于(ぜんう)は「もはやどうすることもできない」と知り、また多くの賂(まいない)(贈り物)を得たことから、すぐさま弟の右賢王(ゆうけんおう)・輿(よ)を遣(つか)わして馬や牛を贈(おく)り、将率(しょうすい)たちと共に新(しん)に入国して御礼の言葉を述(の)べさせ、その上で上書して、故(もと)の通りの印を賜(たまわ)るよう求めることにしました。

脚注

*28五威率(ごいすい)の1つ。

烏桓(烏丸)の捕虜の返還を求められる【新:王莽】

将率(しょうすい)たちが帰還の途につき、左犁汗王(さりかんおう)・咸(かん)の居地に到着した時のこと。

そこに烏桓(うがん)(烏丸(うがん))の民が多くいるのを見て咸(かん)にその事状を問(と)うたところ、咸(かん)は「彼らは以前、烏桓(うがん)(烏丸うがん))を攻めた時に連れ去った者たちであること」をつぶさに話して聞かせました。

これに将率(しょうすい)たちが、

「前(さき)に封じた『4ヶ条の禁』では、『烏桓(うがん)(烏丸(うがん))の投降者を受け入れてはならない』ことになっている。速やかに還(かえ)すように」

と要求すると、咸(かん)は、

「どうか内々に単于(ぜんう)に相談し、(単于(ぜんう)の)語(ことば)を得てから(投降者を)帰すようにさせてください」

と請(こ)い、単于(ぜんう)は咸(かん)に、

「[烏桓(うがん)(烏丸(うがん))の投降者を]塞内(さいない)から帰せばよろしいでしょうか?それとも塞外(さいがい)から帰せばよろしいでしょうか?」

と確認させました。

将率(しょうすい)たちはこれを上聞し、詔(みことのり)の報(こた)えによって「塞外(さいがい)から還(かえ)す」ように伝えました。

西域の混乱【新:王莽】

新(しん)に対する怨恨(えんこん)

単于(ぜんう)は以前、夏侯藩(かこうはん)による漢(かん)の領土割譲(かつじょう)要求を距(こば)み、その後、(漢(かん)により)烏桓(うがん)(烏丸(うがん))から税を取ることを禁じられたため、烏桓(うがん)(烏丸(うがん))に攻め入ってその民を略奪したことによって、(漢(かん)との間に)釁(きん)(不和)が生じていました。

それらに加え、(新(しん)により印紱(いんふつ)の)印文を改易(かいえき)されたため、(新(しん)に)怨恨(えんこん)を抱(いだ)くようになります。

そこで(単于(ぜんう)は)右大且渠(ゆうだいしょきょ)・蒲呼盧訾(ほころし)ら10余人に1万騎を率(ひき)いさせ、烏桓人(うがんじん)を護送するという名目で、朔方郡(さくほうぐん)の塞下(さいか)に兵を閲兵(えっぺい)しました。

また、(新(しん)の)朔方太守(さくほうたいしゅ)はそのことを(王莽(おうもう)に)上聞(報告)しました。

車師後王(しゃしこうおう)の兄・狐蘭支(こらんし)を受け入れる

翌年、西域(さいいき)の車師後王(しゃしこうおう)・須置離(しゅちり)が匈奴(きょうど)に投降しようと謀(はか)ったので、都護(とご)(西域都護(さいいきとご))の但欽(たんきん)がこれを誅(ちゅう)して斬りました。

すると、須置離(しゅちり)の兄・狐蘭支(こらんし)は2千余人の民衆と家畜を引き連れ、国を挙(あ)げて匈奴(きょうど)に投降し、単于(ぜんう)はこれを受け入れます。

狐蘭支(こらんし)は匈奴(きょうど)と共に車師国(しゃしこく)*19に攻め入って後成(こうせい)*20の長(ちょう)を殺害し、都護(とご)の司馬(しば)を傷つけて、また引き還(かえ)して匈奴(きょうど)に入りました。

脚注

*19西域(さいいき)の国の1つ。かつて東トルキスタンに存在したオアシス都市国家。

*20車師(しゃし)の小国の1つ。

戊己校尉(ぼきこうい)の史(し)・陳良(ちんりょう)らの投降

当時、戊己校尉(ぼきこうい)の史(し)・陳良(ちんりょう)、終帯(しゅうたい)、司馬(しば)の丞(じょう)・韓玄(かんげん)、右曲候(ゆうきょくこう)・任商(じんしょう)らは、西域(さいいき)が頗(すこぶ)る背叛(はいはん)しているのを見て、また匈奴(きょうど)が大挙して侵入して来ようとしていると聞くと、みな死を恐れ、すぐさま謀(はか)って吏卒(りそつ)・数百人を脅(おど)し奪い、共に戊己校尉(ぼきこうい)の刁護(ちょうご)を殺害し、匈奴(きょうど)の南犁汗王(なんりかんおう)の南将軍(なんしょうぐん)に人を遣(つか)わして気脈を通じました。

すると匈奴(きょうど)の南将軍(なんしょうぐん)の2千騎が西域(さいいき)に入って陳良(ちんりょう)らを迎え、陳良(ちんりょう)らは戊己校尉(ぼきこうい)の吏士(りし)・男女二千余人の盡(ことごと)くを脅迫・略奪して匈奴(きょうど)に入ります。

韓玄(かんげん)と任商(じんしょう)は南将軍(なんしょうぐん)の所に留(とど)まり、陳良(ちんりょう)と終帯(しゅうたい)は直(ただ)ちに単于庭(ぜんうてい)(匈奴(きょうど)の都)に赴(おもむ)き、(略奪した)人々は別に零吾水(れいごすい)の畔(ほとり)に住まわせて、そこで農耕させました。


単于(ぜんう)は陳良(ちんりょう)と終帯(しゅうたい)を烏桓都将軍(うがんとしょうぐん)と号(よ)んで単于(ぜんう)の所に留(とど)め居(お)らせ、たびたび呼んでは飲食を共にしました。

新の雲中郡に侵入する【新:王莽】

西域都護(さいいきとご)の但欽(たんきん)が「匈奴(きょうど)の南将軍(なんしょうぐん)・右伊秩訾(ゆういちつし)が人衆(大勢の人々)を率(ひき)いて諸国を寇擊(こうげき)(攻撃)しています」と上書しました。

すると王莽(おうもう)は、匈奴(きょうど)を大いに分裂させて15人の単于(ぜんう)を立てようと目論(もくろ)み、中郎将(ちゅうろうしょう)の藺苞(らんぽう)と副校尉(ふくこうい)の戴級(たいきゅう)に1万騎を率(ひき)いさせ、多くの珍宝を持って雲中郡(うんちゅうぐん)の塞下(さいか)に赴(おもむ)き、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)の諸子を招(まね)き誘って、順次単于(ぜんう)に任命しようとします。

(藺苞(らんぽう)と戴級(たいきゅう)は)塞(とりで)(長城)から通訳を出して、右犁汗王(ゆうりかんおう)・咸(かん)、咸(かん)の子・登(とう)、助(じょ)の3人を誘い呼ばせ、やって来たところで彼らを脅(おど)して、

  • 咸(かん)を孝(こう)単于(ぜんう)に任命して安車(あんしゃ)・鼓車(こしゃ)各1乗(じょう)、黃金千斤(きん)、雑繒(ざつしょう)(絹織物)千匹(ひき)、戲戟(ぎげき)(旗のついた戟(ほこ))10本を下賜(かし)し、
  • 助(じょ)を順(じゅん)単于(ぜんう)に任命して黃金5百斤(きん)を下賜(かし)し、
  • 伝馬で助(じょ)と登(とう)を長安(ちょうあん)に送りました。

また王莽(おうもう)は、藺苞(らんぽう)を宣威公(せんいこう)に封じて虎牙将軍(こがしょうぐん)に任命し、戴級(たいきゅう)を揚威公(よういこう)に封じて虎賁将軍(こふんしょうぐん)に任命します。


単于(ぜんう)(烏珠留(うしゅりゅう)単于(ぜんう))はこれを聞くと怒って、

「先の単于(ぜんう)は漢(かん)の宣帝(せんてい)の恩を受けていたため負(そむ)くことができなかった。今の天子(てんし)は宣帝(せんてい)の子孫でもないのに、どうして(天子(てんし)に)立つことができようか?」

と言い、左骨都侯(さこつとこう)と右伊秩訾王(ゆういちつしおう)・呼盧訾(ころし)、左賢王(さけんおう)・楽(がく)を遣(つか)わし、兵を率(ひき)いて雲中郡(うんちゅうぐん)の益寿塞(えきじゅさい)に入って大いに吏民(役人と民)を殺害しました。この年は新(しん)の建国(けんこく)3年(11年)です。


その後単于(ぜんう)は左部・右部の都尉(とい)、辺境の諸王(おう)らに広く告げ知らせ、塞内(さいない)に侵入して攻撃・略奪させました。

その結果、規模の大きな部隊で1万余、中くらいの部隊で数千、小さな部隊で数百の部隊が(侵入して新(しん)の)鴈門太守(がんもんたいしゅ)・朔方太守(さくほうたいしゅ)・都尉(とい)を殺害し、数え切れないほどの吏民(役人と民)・家畜を略奪したため、その周辺は次第に損耗(そんもう)していきました。

厳尤の諫言【新:王莽】

王莽(おうもう)は即位すると、府庫(国庫)の富(とみ)を怙(たの)んで権威を立てようとして12部の将率(しょうすい)を任命し、郡国の勇士と武庫の精兵(精巧な兵器)を徴発して各所を屯守させ、貨物を辺境に輸送させていました。

ここに来て王莽(おうもう)が、

「30万の衆(軍勢)と3百日分の食料をもって10の道から同時に出撃し、丁令(ていれい)*21の地に匈奴(きょうど)を追い詰(つ)め、匈奴(きょうど)の地を分割して呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)の15人の子らを単于(ぜんう)に立てる」

ことを議論すると、王莽(おうもう)の将(しょう)・厳尤(げんゆう)が「匈奴(きょうど)遠征の困難さ」を指摘して諌(いさ)めましたが、王莽(おうもう)は聴(き)き入れず、元通り兵器と穀物を輸送させたため、天下は大騒(さわ)ぎとなりました。

厳尤(げんゆう)の諫言(かんげん)・全文

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匈奴征伐の失敗例

臣(わたくし)は『(中国は)匈奴(きょうど)の害に悩まされて久しい』と聞いており、また『上世(周(しゅう)以前)において(匈奴(きょうど)を)完全に征伐できた者があったこと』を聞いたことがありません。

また、後世の3家、周(しゅう)・秦(しん)・漢(かん)もこれを征伐しましたが、みな上策(大成功)を得(え)た者はおらず、周(しゅう)は中策(中成功)を得(え)、漢(かん)は下策(小成功)を得(え)、秦(しん)は無策(失敗)でありした。


周(しゅう)の宣王(せんおう)は、獫允(けんいん)*22が涇陽(けいよう)まで侵入して来ると、将(しょう)(尹吉甫(いんきっぽ))に命じてこれを征伐させましたが、国境から追い出したところで帰還しました(原文:盡境而還)。

(周(しゅう)は)戎狄(じゅうてき)(異民族)の侵入に際して蚊(か)や虻(あぶ)に刺された時のように打ち払うことだけしかできなかったのです。当時、天下は宣王(せんおう)の獫允(けんいん)*22征伐を称(たた)えましたが、これは中策(中成功)と言えます。


漢(かん)の武帝(ぶてい)は、将(しょう)を選んで練兵し、装具を約(つづ)め食料を軽くし*23、辺境の守りに深入りして克(か)ち獲(と)る功績を挙(あ)げましたが、その度(たび)ごとに胡(えびす)(匈奴(きょうど))に報復され、30余年にわたって兵禍(へいか)が続いたため、中国(漢(かん))は疲弊(ひへい)しました。

匈奴(きょうど)もまた懲(こ)り恐れ、天下はその「武」を称(たた)えましたが、これは下策(小成功)と言えます。


秦(しん)の始皇帝(しこうてい)は、(匈奴(きょうど)の侵攻を受ける)小さな恥に耐えられず、民の負担を軽んじて延(えん)々(えん)万里(ばんり)に及ぶ長城の固(かた)めを築(きず)き、運輸の行路は辺境より起こって(原文:轉輸之行,起於負海)、国境の備(そな)えは完成しましたが、中国(秦(しん))の国内は消耗(しょうもう)し尽くし、こうして社稷(しゃしょく)(国家)は失われました。これは無策(失敗)と言えます。

匈奴征伐が困難な5つの理由

今、天下は「陽九(ようきゅう)の阨(やく)(厄(やく))」に遭(あ)い、毎年繰り返される飢饉(ききん)は西北の辺境が最も酷(ひど)い状況です。

30万の軍勢と3百日分の食糧とは、東は東海(とうかい)から泰山(たいざん)、南は長江(ちょうこう)から淮水(わいすい)一帯から徴発して、ようやく備(そな)えることができるものです。*25

そのために必要な期間を計算してみれば、一年を費(つい)やしてもなお(兵を)集合させることができず、先に徴発された兵の聚居(しゅうきょ)(集居(しゅうきょ))は雨露(うろ)に暴(さら)され、軍隊は疲弊(ひへい)し兵器は使い物にならなくなってしまいます。これが第1の困難です。


辺境がすでに空虚では、(辺境から)軍糧を調達することはできず、国内の郡国から調達しようとしても長くは続きません。これが第2の困難です。


兵1人の3百日分の食糧を計算してみますと、糒(ほしいい)18斛(こく)となります。

これは牛の力でなければ運ぶことができず、牛の餌(えさ)を加えれば20斛(こく)となり、非常に重くなります。

胡(えびす)(匈奴(きょうど))の地は沙鹵(さろ)(塩分を含む砂漠)で、その多くは水や草に乏(とぼ)しく、昔と同じ方法では出陣して百日に満たないうちに必ずや牛は全滅し、多くの食糧が残っていたとしても、人ではそのすべてを背負(せお)うことができません。これが第3の困難です。


また、胡(えびす)(匈奴(きょうど))の地の秋・冬はとても寒く、春・夏はとても風が強く、(寒さを防ぐために)たくさん持参した釜(かま)・鍑(さがり)*26・薪(まき)・炭(すみ)は重すぎて運ぶことができず、糒(ほしいい)を食べ水を飲んで四季を過ごすことになり、軍隊には疫病(えきびょう)の心配があります。

故(ゆえ)に前世(前王朝)において胡(えびす)(匈奴(きょうど))征伐が百日を超えなかったのは、長期戦を嫌ったからではなく、長期戦をする力がなかったからなのです。これが第4の困難です。


輜重(しちょう)(軍需物資)を自(みずか)ら運んで軽装の精兵が少なくなれば、素早い行軍ができないため、逃走する虜(りょ)(匈奴(きょうど))に追いつくことができません。

また、運良く虜(りょ)(匈奴(きょうど))に遭遇(そうぐう)することができても輜重(しちょう)(軍需物資)に煩(わずら)わされ、もし険阻(けんそ)な地形に出(で)逢(あ)えば後馬の銜(くつわ)と前馬の尾が接近しすぎて、虜(りょ)(匈奴(きょうど))に前後を遮断される危険を予測することができません。これが第5の困難です。


このような理由から、民の力を大いに用(もち)いたとしても、必ずしも功績を立てられる訳(わけ)ではありません。臣(わたくし)は伏(ふ)してこれを憂(うれ)えます。

今、すでに兵を発したからには、宜(よろ)しく先発の部隊を縦(はな)って、臣(しん)・尤(ゆう)らに命じて深く攻め入って霆擊(ていげき)(一気に擊つこと)させ、胡虜(こりょ)(匈奴(きょうど))を懲(こ)り恐れさせなければなりません。

脚注

*22匈奴(きょうど)以前に中国の北方に割拠していた異民族。儼狁(けんいん)、獫狁(けんいん)とも。

*23原文:約齎輕糧。

*24世界の終末を意味する陰陽家(いんようか)の用語。陰陽家(いんようか)は陰陽(いんよう)五行思想(ごぎょうしそう)を基(もと)にした王朝交替説を説(と)いた。

*25原文:發三十萬眾,具三百日糧,東援海代,南取江淮,然後乃備。

*26吊(つ)り下げて煮(に)炊(た)きする口の大きい釜(かま)。

脚注

*21北方異民族の1つ。丁零(ていれい)。モンゴル高原北部や南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。

匈奴の侵入【新:王莽】

(匈奴(きょうど)の右犁汗王(ゆうりかんおう)・)咸(かん)は王莽(おうもう)によって孝(こう)単于(ぜんう)の号を受けると、塞(とりで)から馳(は)せ出て庭(てい)(単于庭(ぜんうてい))に帰り、(王莽(おうもう)に)脅(おど)された事状を単于(ぜんう)(烏珠留(うしゅりゅう)単于(ぜんう))につぶさに報告しました。

単于(ぜんう)は改めて咸(かん)を於粟置支侯(おぞくちしこう)としましたが、この官は匈奴(きょうど)の中でも卑賎(ひせん)な官でした。

その後、(王莽(おうもう)が順(じゅん)単于(ぜんう)に任命した)助(じょ)が病死したため、王莽(おうもう)は助(じょ)の代わりに登(とう)を順(じゅん)単于(ぜんう)とします。


厭難将軍(えんなんしょうぐん)・陳欽(ちんきん)と震狄将軍(しんてきしょうぐん)・王巡(おうじゅん)が雲中郡(うんちゅうぐん)の葛邪塞(かつやさい)に駐屯しました。

この時、匈奴(きょうど)はしばしば辺境に侵入して(新(しん)の)将率(しょうすい)・吏士を殺害し、甚(はなは)だ多くの民と家畜を略奪していました。

(陳欽(ちんきん)と王巡(おうじゅん)が)捕(と)らえた虜(りょ)(匈奴(きょうど))の生口(せいこう)(奴隷)に調べ尋(たず)ねたところ、みな「孝(こう)単于(ぜんう)・咸(かん)の子・角(かく)がしばしば侵入しているのだ」と答えたので、陳欽(ちんきん)・王巡(おうじゅん)の両将軍(しょうぐん)はこのことを(王莽(おうもう)に)上聞します。

新(しん)の建国(けんこく)4年(12年)、王莽(おうもう)は諸蛮夷(ばんい)を集め、長安(ちょうあん)の市で咸(かん)の子・登(とう)を斬りました。


(新(しん)の)北方の辺境には(漢(かん)の)宣帝(せんてい)以来、数代にわたって(匈奴(きょうど)の侵入を知らせる)煙火(のろし)の警報が見られず、民は繁栄し牛馬が野に満ちていました。

ですが、王莽(おうもう)が匈奴(きょうど)を乱し(匈奴(きょうど)と)事を構えるに及んで、(新(しん)の)辺境の民(の多く)は、あるいは殺害され、逃亡し、繋(つな)がれ、捕(と)らえられましたが、12部の兵はずっと駐屯したまま出陣せず、吏士は罷弊(ひへい)して、数年の間に北方の辺境は空虚(くうきょ)となり、野には人骨が暴(さら)されたままとなりました。

烏珠留単于の死【新:王莽】

新(しん)の建国(けんこく)5年(13年)、烏珠留(うしゅりゅう)単于(ぜんう)が立って21年で亡くなると、匈奴(きょうど)の政事を取り仕切っていた大臣の右骨都侯(ゆうこつとこう)・須卜当(しゅぼくとう)は、右賢王(ゆうけんおう)・輿(よ)(の継承順位)を飛び越えて、(王莽(おうもう)によって孝(こう)単于(ぜんう)に任命された)咸(かん)を立てて烏累若鞮(うるいじゃくてい)単于(ぜんう)としました。

須卜当(しゅぼくとう)は王昭君(おうしょうくん)*27の女(むすめ)、須卜居次(しゅぼくきょじ)・雲(うん)*28の婿(むこ)で、雲(うん)が常々中国との和親を望んでおり、また元々咸(かん)とは親密で、咸(かん)が前後に王莽(おうもう)によって孝(こう)単于(ぜんう)に任命されたことを見て、ついに輿(よ)(の継承順位)を飛び越えて、咸(かん)を烏累若鞮(うるいじゃくてい)単于(ぜんう)に立てたのでした。

脚注

*27王昭君(おうしょうくん)は、漢(かん)の元帝(げんてい)によって「漢氏(かんし)の婿(むこ)となり親善する」ことを申し出た呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)に下賜(かし)しされた。寧胡(ねいこ)閼氏(あつし)。閼氏(あつし)は単于(ぜんう)の后妃(こうひ)の称号。匈奴(きょうど)部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

*28原文:匈奴用事大臣右骨都侯須卜當,即王昭君女伊墨居次云之婿也。
居次(きょじ)は漢(かん)の公主(こうしゅ)に同じ。単于(ぜんう)の女(むすめ)の号。前述に合わせて須卜居次(しゅぼくきょじ)とした。ちくま学芸文庫『漢書(かんじょ)7』匈奴伝(きょうどでん)下(げ)の訳注にも「須卜居次(しゅぼくきょじ)の誤(あやま)りか」とある。


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