暴虐非道な暴君というイメージが強い董卓ですが、若い頃は太っ腹な親分肌であったことは有名です。ではなぜ朝廷での董卓の評判が悪かったのでしょうか?
董卓が洛陽に入るまでの動向から、董卓の評判と心境の変化を探ってみました。
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目次
親分肌の青年期
出自
董卓は字を仲穎と言い、涼州・隴西郡・臨洮県の人で、父の董君雅は、小役人から豫州・潁川郡・綸氏県の県尉に出世した人物です。董卓の生年は伝えられていません。
兄弟
董卓は3兄弟の次男で、兄は董擢(字は孟高)、弟は董旻(字は叔穎)と言い、兄の董擢は若くして亡くなってしまいました。
董卓の幼少期は潁川郡で過ごしたものと思われますが、残念ながら幼少期のエピソードは伝えられていません。
耕牛を殺して羌族をもてなす
董卓は西方の異民族である羌族の居住地を放浪して羌族の顔役たちと親交を結んだ後、故郷の隴西郡で農耕生活を送っていました。
ある時昔なじみの顔役たちが董卓を訪ねて来ると、董卓は大切な耕牛を殺して彼らをもてなします。この董卓の心意気に感動した顔役たちは、国へ帰ると各々家畜を出し合って1,000頭あまりを董卓に贈りました。
胡を討伐して手柄を立てる
董卓は生まれつき非常に腕力が強く武芸に秀でており、2つの弓袋を身につけて、馬を疾駆させながら左右に弓を撃ち分けることができました。この腕を買われた董卓は郡の役人に取り立てられ、盗賊の取り締まりを行うようになります。
その後、北方異民族の胡族が侵入して略奪を行うと、涼州刺史の成就は董卓を召し出して従事とし、騎兵隊を与えて胡族の討伐に当たらせました。董卓はこの戦いで1,000人を超える蛮民を討ち取り、あるいは捕虜にする大きな手柄を立てます。
このことを聞きつけた幷州刺史・段熲の推薦を受けた董卓は、司徒・袁隗に招聘され、司徒の属官(掾)に取り立てられました。
部下に恩賞を分け与える
桓帝の末年、選ばれて羽林郎(近衛隊の将校)に任命された董卓は軍の司馬となり、使匈奴中郎将・張奐の幷州征伐に従軍して戦功をあげます。
董卓はこの功績により、郎中に任命されて絹9,000匹を賜りますが、その全てを部下に分け与えました。
羽林郎は、涼州の漢陽郡、隴西郡、安定郡、北地郡と、幷州の上郡、西河郡の6つの郡から、商人・工人・芸人などの職業を除く良家の子弟を選んで任命するのが通例でした。
その後董卓は、幷州・雁門郡・広武県の県令、蜀郡北部都尉、西域戊己校尉を歴任して昇進を重ね、幷州刺史・河東太守に任命されると、羌族を相手に戦った回数は100回以上にも及びました。
暴虐非道な暴君というイメージがつきまとう董卓ですが、親しい羌族の顔役たちに大切な耕牛を殺して振る舞い、与えられた褒美はすべて部下に分け与えるなど、仁義に厚く太っ腹な親分肌であったことが分かります。
また、決して高い家柄ではない董卓は、縁故ではなく実績を積み重ねることで昇進を重ねていきました。この頃の董卓は、朝廷でも期待の高い武官だったのではないでしょうか。
ですが、このことによる自信・自負心は、やがて驕り高ぶった態度に表れるようになります。
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唯我独尊の壮年期
黄巾賊に敗れる
184年に「黄巾の乱」が勃発すると、董卓は東中郎将に任命され、小黄門・左豊の讒言によって罷免された盧植の代わりに黄巾賊の討伐に向かいました。
ですが、ここで黄巾賊に敗退した董卓は、罪に問われて罷免されてしまいます。
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辺章・韓遂の乱の討伐
中郎将に復帰する
黄巾賊に敗退して罷免された董卓ですが、すぐに挽回の機会がやってきました。
184年冬、「黄巾の乱」が終息に向かっている頃、涼州でも羌族の反乱が起こり、翌年には反乱軍をまとめあげた辺章と韓遂が三輔地方(右扶風・左馮翊・京兆尹の3郡)に侵攻します。
これに対し朝廷は、左車騎将軍・皇甫嵩を長安に駐屯させ、董卓を中郎将に任命して鎮圧にあたらせたました。
ですが戦線が膠着状態に陥ると、皇甫嵩を良く思っていない張譲、趙忠らによって皇甫嵩は罷免され、司空の張温が車騎将軍に任命されて反乱討伐の指揮を執ることになります。
張温に対する反発
長安に駐屯した張温は戦況を確認するために董卓を呼び寄せますが、董卓は遅れて来たばかりか、張温の質問に対しても不遜な態度を取り続けます。
この時同席していた孫堅は、「董卓は遅参した上に悪びれることなく偉そうにしている。軍法に照らして斬るべきだ」と張温に耳打ちしましたが、張温は涼州での董卓の影響力を考慮して、董卓を罰することはありませんでした。
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これまで上官であった段熲、張奐、皇甫嵩たちと違って、実戦経験に乏しい張温に対し、董卓は露骨に不遜な態度を取ります。
この時の董卓には、「張温よりも自分に任せた方がうまく鎮圧することができる」という慢心があったのではないでしょうか。
このような態度によって、董卓は孫堅だけに限らず、朝廷でも要注意人物として警戒されるようになりました。
兵を損なわずに撤退させる
隴西郡の討伐に向かった董卓は、途中の望垣県の北で数万の先零羌に包囲されて身動きが取れず、兵糧が乏ぼしくなってきました。撤退をするにも背後の川を渡らねばならず、大きな損害を覚悟しなくてはなりません。
董卓は一計を案じ、兵に魚を捕るフリをさせて川をせき止めると、自軍が渡りきってから堰を切りました。 これに気づいた先零羌が追って来た頃には、川が増水してとても渡ることができず、董卓の軍勢は兵を損ねることなく撤退することができました。
この時、隴西郡に向けて6方面から軍勢が攻め上がっていましたが、兵を損なわずに撤退することができたのは、董卓の率いる軍勢だけでした。
これにより、董卓は前将軍に任命され、斄郷侯に封じられました。
皇甫嵩との対立
188年11月、涼州の反乱軍が再び三輔地方に侵攻して陳倉県を包囲すると、皇甫嵩と董卓に討伐の命が下ります。
ですがここで、すぐに陳倉県を救援するべきだと主張する董卓と、陳倉県の守りが堅いことを挙げ、敵が疲弊するのを待って救援に向かうべきとする皇甫嵩の間で意見が対立しました。
これに、上官である皇甫嵩は董卓の意見を退け、敵が疲弊するのを待つ方針を取ります。
そして、陳倉県を包囲して8ヶ月、疲弊した反乱軍が退却を始めると、皇甫嵩は追撃の開始を命じました。すると、ここでまた董卓が反対します。
「逃げる敵を追うのは兵法に反します。敵は大軍、追い込まれた敵に返り討ちに遭いますぞ」
ですが、皇甫嵩は反対する董卓に後方を守らせると、単独で追撃して反乱軍を大いに打ち破りました。
この戦いで自分の意見にことごとく反対された董卓は、皇甫嵩に恨みを抱くようになります。
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董卓は『孫子』の一節を例に出して皇甫嵩の作戦に反対しました。このことから、董卓は自らの腕力に頼るだけでなく、兵書を読んで指揮に活かしてきたことが分かります。
ですが、董卓は隴西郡での撤退戦を成功させる一方で、その知識は表面的で本質を捉えるまでには至っていないところがありました。
そして董卓の奢りは、自分の過ちを正すのではなく皇甫嵩への恨みへと向かっていくことになります。
朝廷の命令に背く
反乱軍を陳倉県から撤退させることに成功すると、朝廷は董卓を召し出して少府に任命し、「部下と兵士を皇甫嵩に預けて任官せよ」という命令を出します。
ですが、董卓は涼州の反乱が治まっていないこと、自分を慕う部下や兵士が引き留めることを理由にして軍兵を手放さず、右扶風に留まりました。
さらに189年、朝廷は今度は董卓を幷州牧に任命し、再び「部下と兵士を皇甫嵩に預けて任官せよ」という勅命を出します。
董卓はまたここでも軍兵を手放そうとせず、部下と兵士を連れて任地の幷州に向かいたいという希望を上奏しました。董卓が大将軍・何進の招聘を受けたのは、ちょうどこの頃です。
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涼州で起こった反乱は、元をたどれば朝廷が派遣した官吏の腐敗が原因です。これは、羌族と関わりの深かった董卓にはよく分かっていたはずです。
また、段熲、張奐、盧植、皇甫嵩など、朝廷の権力争いに巻き込まれて地位を危うくした上官・同僚たちを見てきた董卓は朝廷不信を募らせ、少府への任官を拒否しました。
董卓が部下や兵士を手放さなかった理由には、朝廷の外にいて、董卓個人の命令で動く私兵を持つことにあったのではないでしょうか。
大将軍・何進の招聘によって朝廷が混乱していることを知ると、ついに董卓は洛陽へと軍を進めることになります。
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董卓データベース
董卓関連地図
董卓に関連地図
① 綸氏県
豫州・潁川郡・綸氏県。
董卓の父・董君雅は、小役人から綸氏県の県尉に出世しました。董卓が生まれたのは父・董君雅が綸氏県に赴任していた頃だと思われます。
② 臨洮県
涼州・隴西郡・臨洮県。董卓の本籍地。
董卓は若い頃、羌族の居住地を放浪して顔役たちと親交を結んだ後、ここ臨洮県で農耕生活を送っていました。
③ 広武県
幷州・雁門郡・広武県。董卓が県令に任命された県。
④ 蜀郡
董卓が蜀郡北部都尉に任命されていた時の任地。
⑤ 冀県
涼州・漢陽郡・冀県。董卓が西域戊己校尉に任命されていた時の任地。
⑥ 幷州
幷州。董卓が刺史に任命された州。
189年、董卓は幷州牧に任命され、部下と兵士を皇甫嵩に預けて任地に赴くように勅命を受けました。
⑦ 河東郡
司隷・河東郡。董卓が太守に任命された郡。
⑧ 広宗県
冀州・鉅鹿郡・広宗県。董卓が盧植の後任として太平道の教祖・張角と戦った場所。
『後漢書』董卓伝には、同じ鉅鹿郡の下曲陽で張角に敗れたことが記されています。
⑨ 望垣県
涼州・漢陽郡・望垣県。
隴西郡の反乱鎮圧に向かった董卓は、望垣県の北で数万の先零羌に包囲されます。ですが、董卓の機転によって兵を損なわずに撤退することができました。
⑩ 陳倉県
司隷・右扶風・陳倉県。
皇甫嵩と董卓は、涼州の反乱軍に包囲された陳倉県の救援に向かいました。
董卓関連年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
不明 |
・董卓、豫州・潁川郡・綸氏県で生まれる。生年不明。 ・羌族の顔役たちと親交を結ぶ。 ・大切な耕牛を殺して羌族の顔役たちをもてなす。 ・涼州刺史・成就に見いだされ、胡族を討伐して大手柄を立てる。 ・幷州刺史・段熲の推薦を受け、司徒の属官(掾)に任命される。 ・羽林郎に任命される。 ・使匈奴中郎将・張奐の司馬として幷州征伐に従軍する。 ・郎中に任命され、褒美をすべて部下に分け与える。 ・幷州・雁門郡・広武県の県令に任命される。 ・蜀郡北部都尉に任命される。 ・西域戊己校尉に任命される。 ・幷州刺史に任命される。 ・河東太守に任命される。 |
184年 |
・東中郎将に任命されて張角と戦うも、敗退して罷免される。 |
185年 |
・辺章と韓遂が三輔地方に侵攻する。 ・中郎将に任命され、皇甫嵩と共に辺章・韓遂の鎮圧に当たる。 ・張温の下で反乱軍と戦い、兵を損なわずに撤退させる。 ・前将軍に任命され、斄郷侯に封じられる。 |
188年 |
・王国・韓遂・馬騰が再び三輔地方に侵攻し、陳倉県を包囲する。 ・皇甫嵩と共に陳倉県の救援を命じられ、皇甫嵩と意見が対立する。 |
189年 |
・皇甫嵩が退却する反乱軍を追撃し、陳倉県を救援する。 ・少府に任命されるが、軍兵を皇甫嵩に預けずに命令を無視する。 ・幷州牧に任命されるが、軍兵を皇甫嵩に預けずに任地に向かう。 ・大将軍・何進の招聘を受け、洛陽に向かう。 |