董卓軍を退けた孫堅と、董卓と王匡が戦った河陽津の戦い。190年冬に起こった2つの戦闘について解説します。
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董卓軍を退けた孫堅の胆力
孫堅、宴会を開く
190年冬、荊州・南陽郡・魯陽県で兵士に訓練を施していた孫堅は、いよいよ董卓のいる洛陽に攻め込む準備に取りかかり、長史・公仇称を荊州に派遣して兵糧を督促することにしました。
そこで孫堅は、魯陽県の東門の外で、荊州に向かう公仇称の送別のために宴会を開きます。
荊州・南陽郡・魯陽県
董卓軍の来襲
ちょうどその頃、董卓は洛陽と目と鼻の先にまで迫った孫堅を迎え撃つため、歩兵・騎兵合わせて数万の兵を派遣していました。
そして、魯陽県の偵察に出た董卓の騎兵数十騎が、孫堅が開いた宴会の場に出くわしたのです。
これを見た孫堅は、少しも慌てることなく宴会を続けながら、ただ兵に「隊列を整えて軽はずみな行動を取らないように」とだけ命令を出しました。
しばらくして、董卓の騎兵が集結しつつあるのを見て取った孫堅は、そこでやっと宴会を中止して、整然と魯陽県の城内に引き揚げます。
孫堅の軍勢に少しの乱れもないのを見た董卓軍は、「魯陽県を攻め落とすのは簡単ではない」と判断して兵を引きました。
宴会の最中に董卓軍が現れたことは、孫堅にとっても想定外の出来事でした。
孫堅は兵たちを混乱させないように敢えてすぐに立ち上がらず、平然として見せたのです。
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河陽津の戦い
河内太守・王匡の出陣
190年冬、河内太守・王匡は董卓に攻撃を仕掛けるため、泰山郡で募兵した兵を河陽津(孟津)に駐屯させました。
河陽津の「津」とは「渡し場」のことで、ここから黄河を渡って河南尹に入り、董卓がいる洛陽に攻め込もうというわけです。
反董卓連合の盟主・袁紹は、王匡に船百余艘と強弩1万張り、趙浮*1と程渙*1に1万の兵を与えて王匡に随行させました。
王匡軍の布陣
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脚注
*1 趙浮(ちょうふ)、程渙(ていかん)ともに、袁紹(えんしょう)ではなく韓馥(かんふく)配下の人物です。
王匡軍の敗北
董卓は特に袁紹と袁術の動きを警戒し、魯陽県の孫堅を攻撃する一方で、王匡の動きにも即座に反応します。
董卓はまず、兵を平陰津に向かわせて王匡軍を引きつけると、密かに小平津から別働隊の精兵を渡河させ、王匡軍を背後から強襲して壊滅させました。
河陽津の戦い
董卓の陽動作戦*2にまんまと乗せられてしまったこの戦いは、まさに王匡と董卓の戦闘経験の差が如実に現れた戦いであると言えます。
董卓討伐を掲げて決起した反董卓連合ですが、同年3月の曹操の敗北に続き、ここでも王匡が敗北してしまいました。
豆知識
この時董卓は、王匡と仲が良かった蔡邕に別働隊を率いさせました。また、この河陽津の戦いについて、次のような記録が残っています。
戦後、蔡邕が戦勝の記録を上奏した時のことです。
蔡邕は上奏文の内容をしっかりチェックしていなかったため、城門校尉・李参の官職を(前職の)羽林郎将とし、朝廷にいたはずの右衛尉・杜衍を不在と書いていました。
このことで蔡邕は侍御史に弾劾され、1ヶ月分の俸給を減俸されてしまいました。
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脚注
*2 自分の本当の意図を敵に誤認させることを目標として、計画的に実施される作戦行動のこと。
『魏書』董卓伝は、この「河陽津の戦い」を董卓による長安遷都の前に記述していますが、『後漢書』董卓伝、『資治通鑑』では長安遷都の後に記述しています。
当サイト「もっと知りたい!三国志」では、明確に時期が特定されている『資治通鑑』に従って、「河陽津の戦い」を190年冬の出来事として扱っています。