正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(113)軻比能かひのうです。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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か(113)

鮮卑の大人・軻比能

軻比能かひのう

生年不詳〜青龍せいりゅう3年(235年)没。後漢ごかん末期から明帝めいてい曹叡そうえい)時代の鮮卑せんぴ族の大人たいじんの1人。

鮮卑の大人となる【後漢・曹操期】

軻比能かひのうは元々鮮卑せんぴの中でも勢力の小さな種族の出身であったが、勇健で法のさばきが公平で財物をむさぼることがなかったため、されて大人たいじん(部落長)となった。*1

軻比能かひのうの部落はかんとりで(長城)に近く、袁紹えんしょう河北かほく割拠かっきょするようになると、かん人の多くがのがそむいて軻比能かひのうの元に身を寄せた。そういったかんの亡命者たちは軻比能かひのうに兵器やよろいたての作り方を教え、また軻比能かひのうは彼らから(かんの)文字を学んだ。

そのため軻比能かひのうは、軍の指揮の仕方をかんならい、外出や狩猟の時には旌麾せいき(旗)を立て、太鼓を合図にして進退させた。


軻比能かひのうは北方の群狄ぐんてき(複数の異民族)を支配し、匈奴きょうど故地こち(元の匈奴きょうどの領土)のすべてを領土におさめ、西は幷州へいしゅう并州へいしゅう)・雲中郡うんちゅうぐん五原郡ごげんぐんから東は遼水りょうすいに至るまでの土地が、すべて鮮卑せんぴの支配するところとなった。

軻比能かひのうはたびたびとりで(長城)をおかして辺境を荒らしたので、幽州ゆうしゅう幷州へいしゅう并州へいしゅう)はこれに苦しんだ。

脚注

*1勇敢壮健にして闘争や訴訟そしょうごとを裁決さいけつできる者がいれば推戴すいたいして大人たいじんとし、大人たいじんの仕事を代々継承させることはなかった。数百から数千の邑落ゆうらくおのずと1部落を形成した。
鮮卑せんぴの中には複数人の大人たいじんが存在する。

漢に貢物を献上する【後漢・曹操期】

歩度根ほどこん大人たいじんに立ってから、その部落の勢いは次第におとろえ、彼の中兄(次兄)の扶羅韓ふらかんが別に衆をようして大人たいじんとなった。


かん建安けんあん12年(207年)に曹操そうそう幽州ゆうしゅうを平定すると、軻比能かひのう歩度根ほどこんらと共に護烏丸校尉ごうがんこうい閻柔えんじゅうを通じて朝廷に貢物を献上した。


かん建安けんあん16年(211年)に曹操そうそう関中かんちゅうに西征すると、田銀でんぎん蘇伯そはく冀州きしゅう河間国かかんこくで反乱を起こした。軻比能かひのうは3千余騎をひきいて閻柔えんじゅうの討伐軍に従軍し、田銀でんぎん蘇伯そはくを撃ち破った。

扶羅韓を殺害する【後漢・曹操期】

かん建安けんあん23年(218年)、幽州ゆうしゅう代郡だいぐん烏丸うがん能臣氐のうしんていらが「かんの支配にそむいて扶羅韓ふらかんに属したい」と求めて来たため、扶羅韓ふらかんは1万余騎をひきいてこれを迎えに出た。

ところが扶羅韓ふらかん桑乾県そうかんけんまで来た時、能臣氐のうしんていらは「扶羅韓ふらかんの部落は法令や禁令がゆるんでいるため、事をそんじるだろう」と思い、軻比能かひのうにも人を派遣した。

軻比能かひのうはすぐさま1万余騎をひきいて(桑乾県そうかんけんに)至ると、(扶羅韓ふらかん能臣氐のうしんていらと)盟約を誓うこととなったが、軻比能かひのうはその席上で扶羅韓ふらかんを殺害し、扶羅韓ふらかんの子・泄帰泥せつきでいとその部落民は軻比能かひのうに属した。

軻比能かひのうは自分が泄帰泥せつきでいの父を殺害していることから彼に特別に目をかけたが、(扶羅韓ふらかんの弟の)歩度根ほどこん軻比能かひのううらむようになった。


その後、軻比能かひのう烏丸うがんを助け かんに侵入して害をしたが、曹操そうそう鄢陵侯えんきょうこう曹彰そうしょう北中郎将ほくちゅうろうしょうとし、驍騎将軍ぎょうきしょうぐんを代行させて北征させ、これを大いに破った。

曹彰そうしょうの奮戦を見た軻比能かひのうは逃走してとりで(長城)の外に出ると、また朝廷に貢物を献上するようになった。

附義王に封ぜられる【魏・文帝(曹丕)期】

かん延康えんこう元年(220年)の初め、軻比能かひのうは使者を派遣して馬を献上し、文帝ぶんてい曹丕そうひ)は軻比能かひのう附義王ふぎおうに封じた。

黄初こうしょ2年(221年)、軻比能かひのう鮮卑せんぴにいるの人・5百余家を送り返して代郡だいぐんに住まわせた。

黄初こうしょ3年(222年)、軻比能かひのうは部落の大人たいじん・小子(配下)、代郡だいぐん烏丸うがん脩武盧しゅうぶろ修武盧しゅうぶろ)ら3千余騎をひきい、牛・馬7万余頭を追い立ててやって来ると、市を開いて(と)交易を行い、の人・千余家を派遣して上谷郡じょうこくぐんに住まわせた。

護烏丸校尉・田豫の離間政策【魏・文帝(曹丕)期】

文帝ぶんてい曹丕そうひ)は即位した当初、南陽太守なんようたいしゅ田豫でんよ持節じせつ護烏丸校尉ごうがんこういとして昌平しょうへいに駐屯させ、牽招けんしょう解儁かいしゅんと共に鮮卑せんぴ族を監督させた。

当時、高柳こうりゅう以東・濊貊わいばく*2以西の地域にいる鮮卑せんぴの数10部落、比能ひのう弥加びか素利そりらは、それぞれ境界をもうけて統治し、共に誓約して、みないちに馬を出すことをしなかった。

田豫でんよは「戎狄じゅうてき(異民族)が1つに結束することはの利益にならない」と思い、先に手を打って彼らを分離し、仇敵きゅうてきとなるように仕向けて互いに攻伐し合うように仕向けた。

すると、素利そり鮮卑せんぴ族同士の盟約にそむいての官に馬千頭を出し、歩度根ほどこんに使者を派遣して馬を献上し、文帝ぶんてい曹丕そうひ)によっておうに封ぜられた。


その後、軻比能かひのう素利そりに攻撃を加えると、素利そり田豫でんよに救援を求めた。

田豫でんよは「素利そり軻比能かひのう併呑へいどんされることによって(鮮卑せんぴの)害がひどくなる」ことを恐れ、「善を救い悪を討つことにより戎狄じゅうてき(異民族)に信義を示すべきだ」と考え、1人精鋭兵をひきいて敵地深く侵入した。

ところが胡人こじん鮮卑せんぴ)の数が多く、田豫でんよの軍の前後をかすめてその退路をったので、田豫でんよは軍を進めて敵から10余里離れた地点に屯営を結ぶと、そこにたくさんの牛馬のふんを集めて燃やし、他の道を通って引きげた。

胡人こじん鮮卑せんぴ)は煙火えんか炊事すいじけむり)がえないのを見て、田豫でんよがそこにとどまっているものと思い込んでいたが、すでに去ったことに気づいた時には、田豫でんよは数10里先に進んでいた。

胡人こじん鮮卑せんぴ)は]そこから追撃して馬城ばじょうに至り田豫でんよを十重に包囲したが、田豫でんよは秘かに司馬しばに命じて、旌旗せいきを建てて鼓吹こすいを鳴らし、歩兵・騎兵をひきいて南門から出て行かせた。

胡人こじん鮮卑せんぴ)がみなその動きに目を奪われて司馬しばの方に向かうと、田豫でんよは精鋭をひきい北門から出て太鼓を打ち鳴らし、司馬しばと呼応して南北から攻撃を仕掛けて胡人こじん鮮卑せんぴ)の不意を突いた。

胡人こじん鮮卑せんぴ)がみな弓馬をて算を乱して逃走すると、田豫でんよは20余里にわたって追撃し、[胡人こじん鮮卑せんぴ)の]しかばねが地面をおおった。

脚注

*2中国東北部から朝鮮半島北東部にかけて居住したツングース系民族。

鴈門太守・牽招の離間政策【魏・文帝(曹丕)期】

文帝ぶんてい曹丕そうひ)は即位すると、牽招けんしょう使持節しじせつ護鮮卑校尉ごせんぴこういに任命し、昌平しょうへいに駐屯させた。

当時、辺境の民の中には、山沢に流散したりそむいて鮮卑せんぴに逃亡する者が千を数えていたが、牽招けんしょうは広く恩徳と信義をもって降伏・帰順する者を誘いまねき入れ、鮮卑せんぴ族の素利そり弥加びから10余万の部落を懐柔かいじゅうして帰服させた。

その後、右中郎将ゆうちゅうろうしょう鴈門太守がんもんたいしゅとなった牽招けんしょうは、鮮卑せんぴ族に離間の策を講じて互いに猜疑さいぎさせた。


歩度根ほどこんはたびたび軻比能かひのうと戦闘をまじえたが、歩度根ほどこんの部落は次第に弱体化し、その衆・1万余を引き連れて幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐん鴈門郡がんもんぐんに入って安全をはかった。

そこで歩度根ほどこんは使者を派遣して泄帰泥せつきでいに誘いをかけて言った。


おまえは父(扶羅韓ふらかん)を軻比能かひのうに殺されたというのに そのあだを報じようとせず、怨家かたきの元に身を寄せている。

軻比能かひのうは)今はおまえを手厚く待遇しているかもしれないが、これはおまえを殺すためのはかりごとである。

わたしおまえは親戚ではないか。かたきの元にいるよりわたしの元にかえって来る気はないか?」


これを聞くと、泄帰泥せつきでいはその部落民を引き連れて歩度根ほどこんの元に身を寄せ、歩度根ほどこん泄帰泥せつきでいは部落の3万余家を引き連れ、郡におもむいて辺境のとりでに従属した。

軻比能かひのうはこれを追ったが追いつくことはできなかった。


そこで文帝ぶんてい曹丕そうひ)は、勅令ちょくれいを下して軻比能かひのうを攻撃するように命じると、歩度根ほどこんらは軻比能かひのうの弟・苴羅侯しょらこうそむいた烏丸うがん帰義侯きぎこう王同おうどう王寄おうきらを殺害し、軻比能かひのう仇敵きゅうてきとなった。

ここに来て牽招けんしょうみずから出陣すると、泄帰泥せつきでいらをひきいてもと雲中郡うんちゅうぐん軻比能かひのうち、これを大いに破った。

軻比能の捲土重来【魏・文帝(曹丕)期】

のち軻比能かひのうは、東部鮮卑せんぴ大人たいじん素利そり歩度根ほどこんと三つどもえの争いを起こし、互いに攻撃し合うようになったが、護鮮卑校尉ごせんぴこうい田豫でんよがこれを調停して争いをやめさせた。


黄初こうしょ5年(224年)、軻比能かひのうが再び素利そりに攻撃を加えると、田豫でんよは軽騎兵をひきいて駆けつけ軻比能かひのうを背後から牽制けんせいした。

これに軻比能かひのうは、配下の瑣奴さどに少数の別働隊をひきいさせ背後を防がせたが、田豫でんよは軍を進めて瑣奴さどを撃ち破りこれを敗走させたため、以降、軻比能かひのうは(に)叛意ほんいいだくようになった。

そこで軻比能かひのうは、輔国将軍ほこくしょうぐん鮮于輔せんうほに書簡を送って言った。


「以前、夷狄いてき(異民族)のわたくしかんの文字をらぬため、護烏丸校尉ごうがんこうい閻柔えんじゅうどのがわたくし天子てんし献帝けんてい)のあいだを取り持ってくれました。

わたくし素利そりかたきとなり、以前これを攻撃しましたが、でん校尉こうい田豫でんよ)どのは素利そりを助けました。わたくしはその時 瑣奴さどを派遣して防がせましたが、使君しくん*3が来られると聞いてすぐさま軍を引いて退却したのです。

歩度根ほどこんは数々の鈔盜しょうとうすきを見て盗むこと)を働き、わたくしの弟を殺害しておきながら、わたくしの方が鈔盜しょうとうしたのだと誣告ぶこくしております。

わたくし夷狄いてき(異民族)ゆえ礼儀は存じませんが、(わたくしの)兄弟・子・孫は天子てんし曹丕そうひ)から印綬いんじゅを受けております。牛や馬ですら水草の美味うまさを知っておりますのに、ましてわたくしは人の心を持っているのですっ!

将軍しょうぐん鮮于輔せんうほ)には、どうかわたくしに代わって『わたくしの(忠義の)心』を天子てんし曹丕そうひ)に明らかにしていただきますように」


鮮于輔せんうほは書簡を受け取ると文帝ぶんてい曹丕そうひ)に上聞し、文帝ぶんてい曹丕そうひ)は再び田豫でんよに命じて軻比能かひのうと友好関係を結び、その心をやすんじさせた。


以降、軻比能かひのうの軍勢はついに強盛となり、弓騎兵きゅうきへい10余万騎をようするようになった。軻比能かひのう鈔略しょうりゃく(略奪)するごとに必ず得た財物をみなの目の前で均等に分配し、決して私物化することがなかったため、配下の者たちは軻比能かひのうのために死力を尽くした。

他の部落の大人たいじんたちもみな彼をうやまはばかったが、それでもなお檀石槐たんせきかい歩度根ほどこんの祖父)には及ばなかった。


またこの年、歩度根ほどこんは朝廷に参内して貢物を献上し、手厚い賞賜しょうしを加えられた。これ以降、歩度根ほどこんは辺境の守りに専念して侵入・略奪を行わなかったが、軻比能かひのうの部落はますます勢力を強めた。


黄初こうしょ6年(225年)3月、幷州刺史へいしゅうしし梁習りょうしゅう軻比能かひのうを討伐して大いに破った。*4

脚注

*3刺史しし太守たいしゅの敬称。ここでは田豫でんよ?。

*4魏書ぎしょ文帝紀ぶんていぎより。討伐に至った経緯は不明。

田豫を馬城に包囲する【魏・明帝(曹叡)期】

太和たいわ2年(228年) 、護烏丸校尉ごうがんこうい田豫でんよは通訳の夏舎かしゃを派遣して、軻比能かひのう女婿むすめむこ鬱築鞬うつちくけんの部落を訪問させたが、夏舎かしゃ鬱築鞬うつちくけんに殺害されてしまった。

その秋、田豫でんよは西部鮮卑せんぴ蒲頭ほとう泄帰泥せつきでいひきいてとりで(長城)を出ると、鬱築鞬うつちくけんを討伐して大いに撃ち破ったが、その帰途に田豫でんよの軍が馬城ばじょう馬邑ばゆうの故城)に着いたところで、軻比能かひのうみずから3万騎をひきいてこれを包囲し、その包囲は7日に及んだ。


明帝めいてい曹叡そうえい)はこの報告を受けたが、これに対してどのように対処すれば良いか分からず、中書省ちゅうしょしょうおもむいて中書監ちゅうしょかん劉放りゅうほう中書令ちゅうしょれい孫資そんしたずねた。

すると孫資そんしは、


上谷太守じょうこくたいしゅ閻志えんしは(鮮卑せんぴ族の崇敬すうけいを集めた)閻柔えんじゅうの弟で、彼もまた平素から軻比能かひのうの信頼を得ております。

閻志えんしみことのりを下して軻比能かひのうを説得させましたならば、軍をわずらわせずともおのずから包囲はけるでしょう」


と言い、明帝めいてい曹叡そうえい)がこの言葉に従ったところ、はたして軻比能かひのうは包囲をいて引きげた。


魏書ぎしょ牽招伝けんしょうでんの異説

この戦いについて魏書ぎしょ牽招伝けんしょうでんでは、牽招けんしょう田豫でんよを救ったようにしるされている。


太和たいわ2年(228年) 、護烏丸校尉ごうがんこうい田豫でんよが国境のとりで(長城)を出たが、馬邑ばゆうの故城(馬城ばじょう)で軻比能かひのうに包囲され、(鴈門太守がんもんたいしゅの)牽招けんしょうに救援を求めた。

牽招けんしょうがすぐさま兵馬を整えて救援におもむこうとすると、幷州へいしゅう并州へいしゅう)の役人たちは常憲じょうけん(常に守るべきおきて)を持ち出して出陣を禁じたが、牽招けんしょうは「節将せつしょうせつを与えられた将軍しょうぐん)が包囲されているというのに、吏議りぎ(役人の意見)に拘束こうそくされる訳にはいかない」と考え、みずから上表してすぐさま出陣した。

この時 牽招けんしょうは、先に馬をせさせて田豫でんよの元に羽檄うげき(急を要する檄文げきぶん)を宣布して形勢を説明し、

「西北に向かい敵の家を襲って奪い取り、その後で東方に向かい必ずや敵の身をちゅうしましょう」

と伝えたので、その羽檄うげきが届くと田豫でんよの軍はおどり上がった。

また、もう1通を敵が通る道の要衝ようしょうに送ったので、敵はたちまち恐怖して離散し、牽招けんしょうの軍がもと平城へいじょうに至る頃には みな潰走かいそうしていた。

その後 軻比能かひのうは再び騎兵を大集結して来攻し、もと平州へいしゅうとりで(長城)の北に至ったが、牽招けんしょうは秘かに行動を起こして討伐し、大いに首級しゅきゅうをあげた。

護烏丸校尉・田豫の失脚【魏・明帝(曹叡)期】

その後、幽州刺史ゆうしゅうしし王雄おうゆうの一党が王雄おうゆう烏丸校尉うがんこうい宰領さいりょうさせようとして「田豫でんよは国境地帯を混乱させており、国にとって事件が起こることになるだろう」と非難したため、田豫でんよ汝南太守じょなんたいしゅに転任され、殄夷将軍てんいしょうぐんの官を加えられた。

こうして幽州刺史ゆうしゅうしし王雄おうゆう烏丸校尉うがんこういの任を兼ねるようになり、恩賞と信義をもって鮮卑せんぴたちを慰撫いぶすると、軻比能かひのうもしばしば幽州ゆうしゅうの役所にやって来て貢物を献上するようになった。

蜀の諸葛亮に呼応する【魏・明帝(曹叡)期】

鴈門太守がんもんたいしゅ牽招けんしょうは、

しょく諸葛亮しょかつりょうがたびたびに侵入しておりますが、軻比能かひのう狡猾こうかつに立ち回り、互いによしみを通じております。(軻比能かひのうに対する)防備をするべきです」

と上表したが、議者(議論の参加者)は「遠隔の地であるから」と信じようとしなかった。


太和たいわ5年(231年)2月、しょく諸葛亮しょかつりょう祁山きざんを包囲すると、使者を派遣して軻比能かひのうと手を結び、軻比能かひのうもと北地郡ほくちぐん石城県せきじょうけんまで進出して諸葛亮しょかつりょうに呼応した。

明帝めいてい曹叡そうえい)は牽招けんしょうみことのりを下して「適宜てきぎの判断に従ってこれを討伐せよ(従便宜討之)」と命じたが、その時すでに軻比能かひのうは砂漠の南に引きげていた。


夏4月、軻比能かひのう鮮卑せんぴ族と丁零ていれい*5大人たいじん児禅げいぜんひきいて幽州ゆうしゅうおもむき、名馬を献上した。

脚注

*5北方異民族の1つ。モンゴル高原北部や南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。

歩度根を誘って魏に叛く【魏・明帝(曹叡)期】

青龍せいりゅう元年(233年)6月、軻比能かひのうは自分とは長年敵対関係にあり、に帰服して国境のとりで(長城)を守備していた鮮卑せんぴ大人たいじん歩度根ほどこんに誘いをかけ、「幷州へいしゅう并州へいしゅう)の支配にそむいて互いに和親を結ぶ」約束をすると、みずから1万騎をひきいてその一族郎党を陘北けいほく雁門関がんもんかんの北)まで迎えに出た。


すると幷州刺史へいしゅうしし畢軌ひつきは「すぐさま出兵して(国境の)外は軻比能かひのう威嚇いかくし、内は歩度根ほどこんを鎮圧します」と上表した。

明帝めいてい曹叡そうえい)はこの上表を見ると、

歩度根ほどこん軻比能かひのうに誘われはしたが、心に躊躇ためらいがある。今 畢軌ひつきが軍を出したとて、両者を驚かせて1つに結束させるだけのこと。どうして威鎮などできようか?」

と言い、畢軌ひつきちょくを下して「出兵しても、とりで(長城)を越えて句注こうしゅう雁門関がんもんかん)を通過することはつつしむように」とうながした。


この詔書しょうしょが届いた頃、畢軌ひつきは軍を進めて幷州へいしゅう雁門郡がんもんぐん陰館県いんかんけんに駐屯し、将軍しょうぐん蘇尚そしょう董弼とうひつを派遣して鮮卑せんぴを追撃させていた。

この時、ちょうど軻比能かひのうが息子に千余騎をひきいさせ、歩度根ほどこんの部落民を迎えに派遣したところだったが、蘇尚そしょう董弼とうひつの軍と遭遇して楼煩ろうはんにおいて合戦となり、蘇尚そしょう董弼とうひつの2将を討ち取った。

すると歩度根ほどこんは、泄帰泥せつきでいとその部落民のことごとくを引き連れて軻比能かひのうの元に身を寄せ、幷州へいしゅう并州へいしゅう)に侵入して略奪を働き、吏民を殺害して連れ去った。


そこで明帝めいてい曹叡そうえい)が、驍騎将軍ぎょうきしょうぐん秦朗しんろう中軍ちゅうぐんひきいさせてこれを討伐させると、泄帰泥せつきでい軻比能かひのうそむいてその部落民を引き連れて降伏し、帰義王きぎおうに封ぜられ、幢麾どうき(儀礼用の旗)と曲蓋きょくがいの曲がった天蓋てんがい)・鼓吹こすい(楽隊)を下賜かしされ、これまで通り幷州へいしゅう并州へいしゅう)に居住することを許された。


冬10月、歩度根ほどこんの部落の大人たいじん戴胡阿狼泥たいこあろうでいらが幷州へいしゅう并州へいしゅう)におもむいて降伏したため、秦朗しんろうは軍を引いて帰還した。

軻比能かひのう歩度根ほどこんを殺害して、砂漠の北に逃走した。

軻比能の死【魏・明帝(曹叡)期】

青龍せいりゅう3年(235年)、幽州刺史ゆうしゅうしし王雄おうゆうは勇士・韓龍かんりょうを派遣して軻比能かひのうを刺殺させ、代わってその弟を大人たいじんに立てた。


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【三国志人物伝】総索引