正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(113)軻比能(かひのう)です。

スポンサーリンク

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


スポンサーリンク


か(113)

鮮卑の大人・軻比能

軻比能(かひのう)

生年不詳〜青龍(せいりゅう)3年(235年)没。後漢(ごかん)末期から魏(ぎ)の明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))時代の鮮卑(せんぴ)族の大人(たいじん)の1人。

鮮卑の大人となる【後漢・曹操期】

軻比能(かひのう)は元々鮮卑(せんぴ)の中でも勢力の小さな種族の出身であったが、勇健で法の裁(さば)きが公平で財物を貪(むさぼ)ることがなかったため、推(お)されて大人(たいじん)(部落長)となった。*1

軻比能(かひのう)の部落は漢(かん)の塞(とりで)(長城)に近く、袁紹(えんしょう)が河北(かほく)に割拠(かっきょ)するようになると、漢(かん)人の多くが逃(のが)れ叛(そむ)いて軻比能(かひのう)の元に身を寄せた。そういった漢(かん)の亡命者たちは軻比能(かひのう)に兵器や鎧(よろい)・楯(たて)の作り方を教え、また軻比能(かひのう)は彼らから(漢(かん)の)文字を学んだ。

そのため軻比能(かひのう)は、軍の指揮の仕方を漢(かん)に倣(なら)い、外出や狩猟の時には旌麾(せいき)(旗)を立て、太鼓を合図にして進退させた。


軻比能(かひのう)は北方の群狄(ぐんてき)(複数の異民族)を支配し、匈奴(きょうど)の故地(こち)(元の匈奴(きょうど)の領土)のすべてを領土に収(おさ)め、西は幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・雲中郡(うんちゅうぐん)、五原郡(ごげんぐん)から東は遼水(りょうすい)に至るまでの土地が、すべて鮮卑(せんぴ)の支配するところとなった。

軻比能(かひのう)はたびたび塞(とりで)(長城)を犯(おか)して辺境を荒らしたので、幽州(ゆうしゅう)と幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))はこれに苦しんだ。

脚注

*1勇敢壮健にして闘争や訴訟(そしょう)ごとを裁決(さいけつ)できる者がいれば推戴(すいたい)して大人(たいじん)とし、大人(たいじん)の仕事を代々継承させることはなかった。数百から数千の邑落(ゆうらく)が自(おの)ずと1部落を形成した。
鮮卑(せんぴ)の中には複数人の大人(たいじん)が存在する。

漢に貢物を献上する【後漢・曹操期】

歩度根(ほどこん)が大人(たいじん)に立ってから、その部落の勢いは次第に衰(おとろ)え、彼の中兄(次兄)の扶羅韓(ふらかん)が別に衆を擁(よう)して大人(たいじん)となった。


漢(かん)の建安(けんあん)12年(207年)に曹操(そうそう)が幽州(ゆうしゅう)を平定すると、軻比能(かひのう)は歩度根(ほどこん)らと共に護烏丸校尉(ごうがんこうい)の閻柔(えんじゅう)を通じて朝廷に貢物を献上した。


漢(かん)の建安(けんあん)16年(211年)に曹操(そうそう)が関中(かんちゅう)に西征すると、田銀(でんぎん)と蘇伯(そはく)が冀州(きしゅう)・河間国(かかんこく)で反乱を起こした。軻比能(かひのう)は3千余騎を率(ひき)いて閻柔(えんじゅう)の討伐軍に従軍し、田銀(でんぎん)と蘇伯(そはく)を撃ち破った。

扶羅韓を殺害する【後漢・曹操期】

漢(かん)の建安(けんあん)23年(218年)、幽州(ゆうしゅう)・代郡(だいぐん)の烏丸(うがん)・能臣氐(のうしんてい)らが「漢(かん)の支配に叛(そむ)いて扶羅韓(ふらかん)に属したい」と求めて来たため、扶羅韓(ふらかん)は1万余騎を率(ひき)いてこれを迎えに出た。

ところが扶羅韓(ふらかん)が桑乾県(そうかんけん)まで来た時、能臣氐(のうしんてい)らは「扶羅韓(ふらかん)の部落は法令や禁令が緩(ゆる)んでいるため、事を仕(し)損(そん)じるだろう」と思い、軻比能(かひのう)にも人を派遣した。

軻比能(かひのう)はすぐさま1万余騎を率(ひき)いて(桑乾県(そうかんけん)に)至ると、(扶羅韓(ふらかん)・能臣氐(のうしんてい)らと)盟約を誓うこととなったが、軻比能(かひのう)はその席上で扶羅韓(ふらかん)を殺害し、扶羅韓(ふらかん)の子・泄帰泥せつきでいとその部落民は軻比能(かひのう)に属した。

軻比能(かひのう)は自分が泄帰泥せつきでいの父を殺害していることから彼に特別に目をかけたが、(扶羅韓(ふらかん)の弟の)歩度根(ほどこん)は軻比能(かひのう)を怨(うら)むようになった。


その後、軻比能(かひのう)は烏丸(うがん)を助け 漢(かん)に侵入して害を為(な)したが、曹操(そうそう)は鄢陵侯(えんきょうこう)・曹彰(そうしょう)を北中郎将(ほくちゅうろうしょう)とし、驍騎将軍(ぎょうきしょうぐん)を代行させて北征させ、これを大いに破った。

曹彰(そうしょう)の奮戦を見た軻比能(かひのう)は逃走して塞(とりで)(長城)の外に出ると、また朝廷に貢物を献上するようになった。

附義王に封ぜられる【魏・文帝(曹丕)期】

漢(かん)の延康(えんこう)元年(220年)の初め、軻比能(かひのう)は使者を派遣して馬を献上し、文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は軻比能(かひのう)を附義王(ふぎおう)に封じた。

魏(ぎ)の黄初(こうしょ)2年(221年)、軻比能(かひのう)は鮮卑(せんぴ)にいる魏(ぎ)の人・5百余家を送り返して代郡(だいぐん)に住まわせた。

魏(ぎ)の黄初(こうしょ)3年(222年)、軻比能(かひのう)は部落の大人(たいじん)・小子(配下)、代郡(だいぐん)の烏丸(うがん)・脩武盧(しゅうぶろ)(修武盧(しゅうぶろ))ら3千余騎を率(ひき)い、牛・馬7万余頭を追い立ててやって来ると、市を開いて(魏(ぎ)と)交易を行い、魏(ぎ)の人・千余家を派遣して上谷郡(じょうこくぐん)に住まわせた。

護烏丸校尉・田豫の離間政策【魏・文帝(曹丕)期】

文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は即位した当初、南陽太守(なんようたいしゅ)の田豫(でんよ)を持節(じせつ)護烏丸校尉(ごうがんこうい)として昌平(しょうへい)に駐屯させ、牽招(けんしょう)・解儁(かいしゅん)と共に鮮卑(せんぴ)族を監督させた。

当時、高柳(こうりゅう)以東・濊貊(わいばく)*2以西の地域にいる鮮卑(せんぴ)の数10部落、比能(ひのう)・弥加(びか)・素利(そり)らは、それぞれ境界を設(もう)けて統治し、共に誓約して、みな魏(ぎ)の市(いち)に馬を出すことをしなかった。

田豫(でんよ)は「戎狄(じゅうてき)(異民族)が1つに結束することは魏(ぎ)の利益にならない」と思い、先に手を打って彼らを分離し、仇敵(きゅうてき)となるように仕向けて互いに攻伐し合うように仕向けた。

すると、素利(そり)は鮮卑(せんぴ)族同士の盟約に背(そむ)いて魏(ぎ)の官に馬千頭を出し、歩度根(ほどこん)は魏(ぎ)に使者を派遣して馬を献上し、文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))によって王(おう)に封ぜられた。


その後、軻比能(かひのう)が素利(そり)に攻撃を加えると、素利(そり)は田豫(でんよ)に救援を求めた。

田豫(でんよ)は「素利(そり)が軻比能(かひのう)に併呑(へいどん)されることによって(鮮卑(せんぴ)の)害が酷(ひど)くなる」ことを恐れ、「善を救い悪を討つことにより戎狄(じゅうてき)(異民族)に信義を示すべきだ」と考え、1人精鋭兵を率(ひき)いて敵地深く侵入した。

ところが胡人(こじん)(鮮卑(せんぴ))の数が多く、田豫(でんよ)の軍の前後を鈔(かす)めてその退路を断(た)ったので、田豫(でんよ)は軍を進めて敵から10余里離れた地点に屯営を結ぶと、そこにたくさんの牛馬の糞(ふん)を集めて燃やし、他の道を通って引き揚(あ)げた。

胡人(こじん)(鮮卑(せんぴ))は煙火(えんか)(炊事(すいじ)の煙(けむり))が絶(た)えないのを見て、田豫(でんよ)がそこに留(とど)まっているものと思い込んでいたが、すでに去ったことに気づいた時には、田豫(でんよ)は数10里先に進んでいた。

[胡人(こじん)(鮮卑(せんぴ))は]そこから追撃して馬城(ばじょう)に至り田豫(でんよ)を十重に包囲したが、田豫(でんよ)は秘かに司馬(しば)に命じて、旌旗(せいき)を建てて鼓吹(こすい)を鳴らし、歩兵・騎兵を率(ひき)いて南門から出て行かせた。

胡人(こじん)(鮮卑(せんぴ))がみなその動きに目を奪われて司馬(しば)の方に向かうと、田豫(でんよ)は精鋭を率(ひき)い北門から出て太鼓を打ち鳴らし、司馬(しば)と呼応して南北から攻撃を仕掛けて胡人(こじん)(鮮卑(せんぴ))の不意を突いた。

胡人(こじん)(鮮卑(せんぴ))がみな弓馬を棄(す)て算を乱して逃走すると、田豫(でんよ)は20余里にわたって追撃し、[胡人(こじん)(鮮卑(せんぴ))の]屍(しかばね)が地面を覆(おお)った。

脚注

*2中国東北部から朝鮮半島北東部にかけて居住したツングース系民族。

鴈門太守・牽招の離間政策【魏・文帝(曹丕)期】

文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は即位すると、牽招(けんしょう)を使持節(しじせつ)護鮮卑校尉(ごせんぴこうい)に任命し、昌平(しょうへい)に駐屯させた。

当時、辺境の民の中には、山沢に流散したり魏(ぎ)に叛(そむ)いて鮮卑(せんぴ)に逃亡する者が千を数えていたが、牽招(けんしょう)は広く恩徳と信義をもって降伏・帰順する者を誘い招(まね)き入れ、鮮卑(せんぴ)族の素利(そり)・弥加(びか)ら10余万の部落を懐柔(かいじゅう)して帰服させた。

その後、右中郎将(ゆうちゅうろうしょう)・鴈門太守(がんもんたいしゅ)となった牽招(けんしょう)は、鮮卑(せんぴ)族に離間の策を講じて互いに猜疑(さいぎ)させた。


歩度根(ほどこん)はたびたび軻比能(かひのう)と戦闘を交(まじ)えたが、歩度根(ほどこん)の部落は次第に弱体化し、その衆・1万余を引き連れて幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)と鴈門郡(がんもんぐん)に入って安全を計(はか)った。

そこで歩度根(ほどこん)は使者を派遣して泄帰泥せつきでいに誘いをかけて言った。


「汝(おまえ)は父(扶羅韓(ふらかん))を軻比能(かひのう)に殺されたというのに その仇(あだ)を報じようとせず、怨家(かたき)の元に身を寄せている。

(軻比能(かひのう)は)今は汝(おまえ)を手厚く待遇しているかもしれないが、これは汝(おまえ)を殺すための計(はかりごと)である。

我(わたし)と汝(おまえ)は親戚ではないか。仇(かたき)の元にいるより我(わたし)の元に還(かえ)って来る気はないか?」


これを聞くと、泄帰泥せつきでいはその部落民を引き連れて歩度根(ほどこん)の元に身を寄せ、歩度根(ほどこん)と泄帰泥せつきでいは部落の3万余家を引き連れ、郡に赴(おもむ)いて辺境の塞(とりで)に従属した。

軻比能(かひのう)はこれを追ったが追いつくことはできなかった。


そこで文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は、勅令(ちょくれい)を下して軻比能(かひのう)を攻撃するように命じると、歩度根(ほどこん)らは軻比能(かひのう)の弟・苴羅侯(しょらこう)と魏(ぎ)に叛(そむ)いた烏丸(うがん)の帰義侯(きぎこう)・王同(おうどう)、王寄(おうき)らを殺害し、軻比能(かひのう)と仇敵(きゅうてき)となった。

ここに来て牽招(けんしょう)は自(みずか)ら出陣すると、泄帰泥せつきでいらを率(ひき)いて故(もと)の雲中郡(うんちゅうぐん)で軻比能(かひのう)を討(う)ち、これを大いに破った。

軻比能の捲土重来【魏・文帝(曹丕)期】

後(のち)に軻比能(かひのう)は、東部鮮卑(せんぴ)の大人(たいじん)・素利(そり)、歩度根(ほどこん)と三つ巴(どもえ)の争いを起こし、互いに攻撃し合うようになったが、護鮮卑校尉(ごせんぴこうい)の田豫(でんよ)がこれを調停して争いをやめさせた。


魏(ぎ)の黄初(こうしょ)5年(224年)、軻比能(かひのう)が再び素利(そり)に攻撃を加えると、田豫(でんよ)は軽騎兵を率(ひき)いて駆けつけ軻比能(かひのう)を背後から牽制(けんせい)した。

これに軻比能(かひのう)は、配下の瑣奴(さど)に少数の別働隊を率(ひき)いさせ背後を防がせたが、田豫(でんよ)は軍を進めて瑣奴(さど)を撃ち破りこれを敗走させたため、以降、軻比能(かひのう)は(魏(ぎ)に)叛意(ほんい)を懐(いだ)くようになった。

そこで軻比能(かひのう)は、輔国将軍(ほこくしょうぐん)・鮮于輔(せんうほ)に書簡を送って言った。


「以前、夷狄いてき(異民族)の我(わたくし)が漢(かん)の文字を識(し)らぬため、護烏丸校尉(ごうがんこうい)の閻柔(えんじゅう)どのが我(わたくし)と天子(てんし)(献帝(けんてい))の間(あいだ)を取り持ってくれました。

我(わたくし)は素利(そり)と讐(かたき)となり、以前これを攻撃しましたが、田(でん)校尉(こうい)(田豫(でんよ))どのは素利(そり)を助けました。我(わたくし)はその時 瑣奴(さど)を派遣して防がせましたが、使君(しくん)*3が来られると聞いてすぐさま軍を引いて退却したのです。

歩度根(ほどこん)は数々の鈔盜(しょうとう)(隙(すき)を見て盗むこと)を働き、我(わたくし)の弟を殺害しておきながら、我(わたくし)の方が鈔盜(しょうとう)したのだと誣告(ぶこく)しております。

我(わたくし)は夷狄いてき(異民族)ゆえ礼儀は存じませんが、(我(わたくし)の)兄弟・子・孫は天子(てんし)(曹丕(そうひ))から印綬(いんじゅ)を受けております。牛や馬ですら水草の美味(うま)さを知っておりますのに、まして我(わたくし)は人の心を持っているのですっ!

将軍(しょうぐん)(鮮于輔(せんうほ))には、どうか我(わたくし)に代わって『我(わたくし)の(忠義の)心』を天子(てんし)(曹丕(そうひ))に明らかにしていただきますように」


鮮于輔(せんうほ)は書簡を受け取ると文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))に上聞し、文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は再び田豫(でんよ)に命じて軻比能(かひのう)と友好関係を結び、その心を安(やす)んじさせた。


以降、軻比能(かひのう)の軍勢はついに強盛となり、弓騎兵(きゅうきへい)10余万騎を擁(よう)するようになった。軻比能(かひのう)は鈔略(しょうりゃく)(略奪)するごとに必ず得た財物をみなの目の前で均等に分配し、決して私物化することがなかったため、配下の者たちは軻比能(かひのう)のために死力を尽くした。

他の部落の大人(たいじん)たちもみな彼を敬(うやま)い憚(はばか)ったが、それでもなお檀石槐(たんせきかい)(歩度根(ほどこん)の祖父)には及ばなかった。


またこの年、歩度根(ほどこん)は朝廷に参内して貢物を献上し、手厚い賞賜(しょうし)を加えられた。これ以降、歩度根(ほどこん)は辺境の守りに専念して侵入・略奪を行わなかったが、軻比能(かひのう)の部落はますます勢力を強めた。


魏(ぎ)の黄初(こうしょ)6年(225年)3月、幷州刺史(へいしゅうしし)の梁習(りょうしゅう)が軻比能(かひのう)を討伐して大いに破った。*4

脚注

*3刺史(しし)・太守(たいしゅ)の敬称。ここでは田豫(でんよ)?。

*4『魏書(ぎしょ)』文帝紀(ぶんていぎ)より。討伐に至った経緯は不明。

田豫を馬城に包囲する【魏・明帝(曹叡)期】

魏(ぎ)の太和(たいわ)2年(228年) 、護烏丸校尉(ごうがんこうい)の田豫でんよは通訳の夏舎かしゃを派遣して、軻比能かひのうの女婿(むすめむこ)・鬱築鞬(うつちくけん)の部落を訪問させたが、夏舎かしゃは鬱築鞬(うつちくけん)に殺害されてしまった。

その秋、田豫でんよは西部鮮卑(せんぴ)の蒲頭ほとうと泄帰泥せつきでいを率(ひき)いて塞(とりで)(長城)を出ると、鬱築鞬(うつちくけん)を討伐して大いに撃ち破ったが、その帰途に田豫でんよの軍が馬城(ばじょう)(馬邑(ばゆう)の故城)に着いたところで、軻比能かひのうは自(みずか)ら3万騎を率(ひき)いてこれを包囲し、その包囲は7日に及んだ。


明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))はこの報告を受けたが、これに対してどのように対処すれば良いか分からず、中書省(ちゅうしょしょう)に赴(おもむ)いて中書監(ちゅうしょかん)の劉放りゅうほうと中書令(ちゅうしょれい)の孫資そんしに尋(たず)ねた。

すると孫資そんしは、


「上谷太守(じょうこくたいしゅ)の閻志えんしは(鮮卑(せんぴ)族の崇敬(すうけい)を集めた)閻柔えんじゅうの弟で、彼もまた平素から軻比能かひのうの信頼を得ております。

閻志えんしに詔(みことのり)を下して軻比能かひのうを説得させましたならば、軍を煩(わずら)わせずとも自(おの)ずから包囲は解(と)けるでしょう」


と言い、明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))がこの言葉に従ったところ、はたして軻比能かひのうは包囲を解(と)いて引き揚(あ)げた。


『魏書(ぎしょ)』牽招伝(けんしょうでん)の異説

この戦いについて『魏書(ぎしょ)』牽招伝けんしょうでん)では、牽招(けんしょう)が田豫でんよを救ったように記(しる)されている。


魏(ぎ)の太和(たいわ)2年(228年) 、護烏丸校尉(ごうがんこうい)の田豫でんよが国境の塞(とりで)(長城)を出たが、馬邑(ばゆう)の故城(馬城(ばじょう))で軻比能かひのうに包囲され、(鴈門太守(がんもんたいしゅ)の)牽招(けんしょう)に救援を求めた。

牽招(けんしょう)がすぐさま兵馬を整えて救援に赴(おもむ)こうとすると、幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))の役人たちは常憲(じょうけん)(常に守るべき掟(おきて))を持ち出して出陣を禁じたが、牽招(けんしょう)は「節将(せつしょう)(節(せつ)を与えられた将軍(しょうぐん))が包囲されているというのに、吏議(りぎ)(役人の意見)に拘束(こうそく)される訳にはいかない」と考え、自(みずか)ら上表してすぐさま出陣した。

この時 牽招(けんしょう)は、先に馬を馳(は)せさせて田豫でんよの元に羽檄(うげき)(急を要する檄文(げきぶん))を宣布して形勢を説明し、

「西北に向かい敵の家を襲って奪い取り、その後で東方に向かい必ずや敵の身を誅(ちゅう)しましょう」

と伝えたので、その羽檄(うげき)が届くと田豫でんよの軍は躍(おど)り上がった。

また、もう1通を敵が通る道の要衝(ようしょう)に送ったので、敵はたちまち恐怖して離散し、牽招(けんしょう)の軍が故(もと)の平城(へいじょう)に至る頃には みな潰走(かいそう)していた。

その後 軻比能かひのうは再び騎兵を大集結して来攻し、故(もと)の平州(へいしゅう)の塞(とりで)(長城)の北に至ったが、牽招(けんしょう)は秘かに行動を起こして討伐し、大いに首級(しゅきゅう)をあげた。

護烏丸校尉・田豫の失脚【魏・明帝(曹叡)期】

その後、幽州刺史(ゆうしゅうしし)・王雄(おうゆう)の一党が王雄(おうゆう)に烏丸校尉(うがんこうい)を宰領(さいりょう)させようとして「田豫(でんよ)は国境地帯を混乱させており、国にとって事件が起こることになるだろう」と非難したため、田豫(でんよ)は汝南太守(じょなんたいしゅ)に転任され、殄夷将軍(てんいしょうぐん)の官を加えられた。

こうして幽州刺史(ゆうしゅうしし)・王雄(おうゆう)が烏丸校尉(うがんこうい)の任を兼ねるようになり、恩賞と信義をもって鮮卑(せんぴ)たちを慰撫(いぶ)すると、軻比能かひのうもしばしば幽州(ゆうしゅう)の役所にやって来て貢物を献上するようになった。

蜀の諸葛亮に呼応する【魏・明帝(曹叡)期】

鴈門太守(がんもんたいしゅ)の牽招(けんしょう)は、

「蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)がたびたび魏(ぎ)に侵入しておりますが、軻比能かひのうが狡猾(こうかつ)に立ち回り、互いに誼(よしみ)を通じております。(軻比能かひのうに対する)防備をするべきです」

と上表したが、議者(議論の参加者)は「遠隔の地であるから」と信じようとしなかった。


魏(ぎ)の太和(たいわ)5年(231年)2月、蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)は祁山(きざん)を包囲すると、使者を派遣して軻比能(かひのう)と手を結び、軻比能(かひのう)は故(もと)の北地郡(ほくちぐん)の石城県(せきじょうけん)まで進出して諸葛亮(しょかつりょう)に呼応した。

明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))は牽招(けんしょう)に詔(みことのり)を下して「適宜(てきぎ)の判断に従ってこれを討伐せよ(従便宜討之)」と命じたが、その時すでに軻比能(かひのう)は砂漠の南に引き揚(あ)げていた。


夏4月、軻比能(かひのう)は鮮卑(せんぴ)族と丁零(ていれい)*5の大人(たいじん)・児禅(げいぜん)を率(ひき)いて幽州(ゆうしゅう)に赴(おもむ)き、名馬を献上した。

脚注

*5北方異民族の1つ。モンゴル高原北部や南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。

歩度根を誘って魏に叛く【魏・明帝(曹叡)期】

魏(ぎ)の青龍(せいりゅう)元年(233年)6月、軻比能かひのうは自分とは長年敵対関係にあり、魏(ぎ)に帰服して国境の塞(とりで)(長城)を守備していた鮮卑(せんぴ)の大人(たいじん)・歩度根ほどこんに誘いをかけ、「幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))の支配に叛(そむ)いて互いに和親を結ぶ」約束をすると、自(みずか)ら1万騎を率(ひき)いてその一族郎党を陘北(けいほく)(雁門関(がんもんかん)の北)まで迎えに出た。


すると幷州刺史(へいしゅうしし)の畢軌(ひつき)は「すぐさま出兵して(国境の)外は軻比能(かひのう)を威嚇(いかく)し、内は歩度根(ほどこん)を鎮圧します」と上表した。

明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))はこの上表を見ると、

「歩度根(ほどこん)は軻比能(かひのう)に誘われはしたが、心に躊躇(ためら)いがある。今 畢軌(ひつき)が軍を出したとて、両者を驚かせて1つに結束させるだけのこと。どうして威鎮などできようか?」

と言い、畢軌(ひつき)に勅(ちょく)を下して「出兵しても、塞(とりで)(長城)を越えて句注(こうしゅう)(雁門関(がんもんかん))を通過することは慎(つつし)むように」と促(うなが)した。


この詔書(しょうしょ)が届いた頃、畢軌(ひつき)は軍を進めて幷州(へいしゅう)・雁門郡(がんもんぐん)・陰館県(いんかんけん)に駐屯し、将軍(しょうぐん)の蘇尚(そしょう)・董弼(とうひつ)を派遣して鮮卑(せんぴ)を追撃させていた。

この時、ちょうど軻比能(かひのう)が息子に千余騎を率(ひき)いさせ、歩度根(ほどこん)の部落民を迎えに派遣したところだったが、蘇尚(そしょう)・董弼(とうひつ)の軍と遭遇して楼煩(ろうはん)において合戦となり、蘇尚そしょうと董弼とうひつの2将を討ち取った。

すると歩度根(ほどこん)は、泄帰泥せつきでいとその部落民の悉(ことごと)くを引き連れて軻比能(かひのう)の元に身を寄せ、幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))に侵入して略奪を働き、吏民を殺害して連れ去った。


そこで明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))が、驍騎将軍(ぎょうきしょうぐん)の秦朗(しんろう)に中軍(ちゅうぐん)を率(ひき)いさせてこれを討伐させると、泄帰泥せつきでいは軻比能(かひのう)に叛(そむ)いてその部落民を引き連れて降伏し、帰義王(きぎおう)に封ぜられ、幢麾(どうき)(儀礼用の旗)と曲蓋(きょくがい)(柄(え)の曲がった天蓋(てんがい))・鼓吹(こすい)(楽隊)を下賜(かし)され、これまで通り幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))に居住することを許された。


冬10月、歩度根(ほどこん)の部落の大人(たいじん)・戴胡阿狼泥たいこあろうでいらが幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))に赴(おもむ)いて降伏したため、秦朗(しんろう)は軍を引いて帰還した。

軻比能(かひのう)は歩度根(ほどこん)を殺害して、砂漠の北に逃走した。

軻比能の死【魏・明帝(曹叡)期】

魏(ぎ)の青龍(せいりゅう)3年(235年)、幽州刺史(ゆうしゅうしし)・王雄(おうゆう)は勇士・韓龍かんりょうを派遣して軻比能かひのうを刺殺させ、代わってその弟を大人(たいじん)に立てた。


「軻比能(かひのう)」の関連記事


スポンサーリンク


【三国志人物伝】総索引