189年4月に霊帝が崩御がすると、大将軍・何進は宦官を一掃するために、袁紹と謀って諸豪族を召集しました。では、なぜ何進は諸豪族を召集する必要があったのでしょうか。
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目次
2人の皇子と霊帝の崩御
2人の皇子
霊帝は何度か皇子を失っていましたが、何皇后が生んだ劉辯と、王美人(王栄)が生んだ劉協の2人の皇子をもうけることができました。
何皇后の子・劉辯
劉辯の母の何氏は、もとは羊の屠殺業を営む家庭に生まれた身分の低い女性でしたが、中常侍の郭勝の推薦によって後宮に入ると、霊帝の寵愛を受けて劉辯を生みました。
その後、何氏が皇后に立てられると、異母兄の何進は大将軍、異父兄の何苗は車騎将軍にまで昇り、何氏の一族は外戚として権力を握るようになります。
大臣たちは劉辯を皇太子に立てるように勧めていましたが、劉辯が軽率で素行が悪かったため、霊帝は天子には相応しくないと考えていました。
王美人の子・劉協
劉協の母の王美人は、良家の出身で聡明な女性でした。
霊帝の子を身籠もったことを知った王美人は、何皇后の嫉妬をおそれて堕胎しようとしますが、元気な男の子・劉協が生まれました。また、妊娠中しばしば太陽を背負って歩く夢を見たと言われています。
何皇后の嫉妬によって王美人が毒殺されると、霊帝は激怒して何皇后を廃位しようとしますが、中常侍たちの嘆願によって思いとどまりました。
そして、残された劉協は霊帝の母である董太后によって育てられることになります。
霊帝は劉協を皇太子に立てたいと思っていましたが、何皇后と何進に配慮して、ずっと皇太子を決められずにいました。
霊帝の崩御
189年4月、霊帝は病が重くなり、中常侍の蹇碩に「劉協を皇太子とする」遺詔(遺言)を託して、34歳で亡くなってしまいました。
ですが、霊帝の遺詔通り劉協を天子に立てるためには、当然、実子の劉辯を天子に立てようとする何皇后や何進との争いは避けられないことでした。
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霊帝の後継者をめぐる争い
宦官と外戚の関係
幼少の天子が即位することが多かった後漢王朝では、天子を補佐する外戚と宦官の権力争いが繰り返されてきました。
霊帝の時代は、即位後に起こった外戚と宦官の争いで、外戚の竇武が敗れたことにはじまる「第二次党錮の禁」以降、宦官が権力を握り続けています。
その後、何氏が宦官の後押しによって皇后に立てられたことと、霊帝が成人したことによって、外戚が必要以上に権力を持つことはありませんでした。
ですが、ここで劉辯が天子に即位してしまうと、政治の実権は完全に外戚に奪われてしまうことになりかねません。
蹇碩にとって霊帝の遺詔を守ることは、自分たち宦官の権力維持にとって最重要課題であると言えました。
宦官と外戚の争い
何進暗殺計画と新帝の即位
霊帝の遺詔を受けた蹇碩は、劉協を天子に即位させるため、劉辯派の大将軍・何進の誅殺を計画します。
そして、蹇碩は何進を密かに殺害しようと、何進を宮中に呼び寄せる使者を送りました。
何進が禁門に到着すると、門の警備をする司馬の潘隠が近づいてきて、何進になにやら目配せをしています。
何進は身の危険を感じて慌てて引き返し、病気を理由に参内を見送ったため、蹇碩の謀略は失敗に終わりました。
ほどなくして14歳(一説には17歳)の劉辯(少帝)が即位し、何皇后は皇太后として天子を補佐することになります。また、劉協は勃海王に封ぜられました。(この年の7月、劉協は陳留王に転封されます)
蹇碩の死
蹇碩の謀略を知った何進は、蹇碩の誅殺を考えるようになります。そして、何進の側近となっていた袁紹は、これを機に宦官を一掃することを提案しました。
何進もこれを了承し、袁紹の従弟の虎賁中郎将・袁術をはじめ、何顒、荀攸、鄭泰ら20人の知謀の士が集まりました。
一方、何進の誅殺に失敗した蹇碩も、次の一手として中常侍の趙忠、宋典とともに「何進・何苗を誅殺し、少帝(劉辯)を廃位して勃海王(劉協)を即位させる」計画を立てます。
中常侍の1人である郭勝は、何氏を後宮に推薦した人物で、何皇后と何進に厚遇されたことによって権力を得ていました。
蹇碩らの計画は郭勝から何進に伝わり、蹇碩は捕らえられて殺されてしまいます。霊帝の崩御から2日後のことでした。
蹇碩は霊帝が創設した皇帝直属の部隊である西園八校尉の筆頭を務め、大将軍・何進に匹敵する軍権を握っている人物でした。
実は霊帝崩御の直前、蹇碩は何進を中央から遠ざけるため、霊帝に涼州で反乱を起こした辺章・韓遂を討たせる詔勅を出させています。
ですが、これを蹇碩の謀と察した何進は、袁紹に徐州と兗州の兵を集めさるとし、出陣を引き延ばしていました。
もし、何進がすぐに辺章・韓遂の討伐に向かっていたら、蹇碩は労せずして劉協を天子につけることができたかもしれません。
何太后と董太后の対立
すでに劉辯が天子に即位していても、霊帝崩御後の朝廷の混乱は治まったわけではありませんでした。
霊帝の生前から劉協を皇太子に立てるように言い続けてきた霊帝の母・董太后は、兄の子である驃騎将軍・董重の軍事力を頼りとして政に参加しようとし、何太后と対立します。
そして、董太后が発した「いずれ董重に何進を討つべしという勅令が下るだろう」という言葉を伝え聞いた何太后は、そのことを何進に告げました。
何進はこれを受けて、三公と共に「董太后は本国(故郷・河間国)に帰すように」と上奏し、董太后もこれを受け入れます。
何進はさらに驃騎府を包囲して董重を捕らえると、董重は自害して果てました。その後、董太后も自害したため、劉協の後ろ盾となる人物はいなくなってしまいました。
何進の誅殺を企てた蹇碩を殺し、劉協を天子に立てようとする董太后と董重が死んだ今、朝廷に何氏一族に反対する勢力はいなくなったことになります。
ですが、残っている宦官による暗殺を警戒した何進は、同年6月に行われた霊帝の葬儀には参列しませんでした。
宦官一掃計画の始動
何太后の反対と何進の孤立
何太后による朝政に反発する董太后・董重一派の排除を済ませた何進は、いよいよ宦官の一掃に取りかかります。
ですが、大将軍・何進と言えども、計画を実行に移すためには何太后の許可が必要でした。
何進は「宦官一掃」の計画を何太后に打ち明け、実行の許可を求めます。
何太后は、中常侍の後押しによって後宮に入ることができただけでなく、過去に彼らの嘆願によって廃位を免れていたため、中常侍に大きな恩を感じていました。
そのため、
「はるか昔から現在に至るまで、宦官を一掃するなど先例がありません」
と、何進の上奏を聞き入れませんでした。
さらに、中常侍から多額の賄賂を受け取っていた何太后の母・舞陽君と何苗もこれに反対したため、逆に何進が権力を独占しようとしているとの疑いを向けられてしまいます。
諸豪族を洛陽に招く
宦官の存在が諸悪の根源であることは、もちろん何進も承知していました。
ですが、何太后をはじめ舞陽君や何苗にまで反対されると、もともと宦官が妹を皇后に引き立ててくれたお陰で現在の地位を手に入れた何進です。
自身の謀殺を謀った蹇碩を粛清した今、「本当に宦官を一掃する必要があるのか?」と迷いはじめ、何太后の反対を押し切ってまで宦官の一掃を決行できずにいました。
そこで袁紹は「今、ことごとく宦官を除かなければ、後に必ず災いとなる」と言い、地方の諸豪族を洛陽に召集し、彼らの兵で何太后に圧力をかけて宦官の一掃を認めさせることを提案します。
一族の何太后や舞陽君、何苗にも疑いを持たれて決行を迷っていた何進は、腹心の袁紹にまで見放されるわけにはいかず、この提案を受け入れました。
主簿の陳琳や尚書を務めていた盧植、尚書侍郎の鄭太、典軍校尉であった曹操らはこの案に反対しましたが、何進は聞き入れませんでした。
ですが、この時点では董卓1人を指名したわけではないにも関わらず、彼らの言葉にはやたらと董卓を危険視する内容が多く、彼らの諫言は後付けされたエピソードである可能性が高いと言えます。
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なぜ何進は董卓を洛陽に呼び寄せたのか?
何進に残された選択肢
地方の諸豪族を洛陽に召集した後、何進は諸豪族の到着を待たずに中常侍の謀略によって殺されてしまいます。
これを受けて、袁術は嘉徳殿と青瑣門に火を放ち、袁紹は宦官2,000人を皆殺しにしました。
この時、洛陽の外に待機していた董卓は、宮殿を抜け出した少帝と陳留王を保護して洛陽に入り、朝廷の実権を握って暴虐の限りをつくすことになります。
では、この時の何進には他にどのような選択肢があったのでしょうか。
① 宦官と共存
まず、何太后の言う通り宦官の一掃をせず、宦官と共存した場合はどうなるのでしょうか?
現時点で何太后を頂点として権力を握っている外戚ですが、少帝の成人後には、天子の側に仕える宦官の権力が増大することは目に見えています。
また、「宦官一掃計画」は、この時点で舞陽君と何苗を通じて宦官の知るところとなっている可能性も高く、すでに引き返せないところまで来ていました。
② 「宦官一掃計画」を強行
では、何太后の許可を得ずに「宦官一掃計画」を強行した場合、どのような結果になることが予想できるでしょうか?
この何進・袁紹による「宦官一掃計画」は、霊帝の即位後に起こった竇武・陳蕃と宦官の争いに酷似していました。
桓帝の崩御後、竇武と陳蕃も竇太后に「宦官一掃計画」を上奏して反対されています。
そして、竇武たちが竇太后の説得に手間取っている間に、計画を知った宦官たちに先手を打たれてしまいました。
急いで軍勢を整えて宦官たちと対峙した竇武ですが、宦官たちが竇武を謀反人とする詔を読み上げると、兵士はすべて宦官たちに降伏し、竇武は自害に追い込まれてしまいます。
何太后の許可を得ずに「宦官一掃計画」を強行した場合、当然、何進と袁紹も、竇武・陳蕃と同じ運命をたどる危険性がありました。
天子の詔を自由に偽造できる宦官を討つためには、何太后が発行した「正式な詔」の存在が必要不可欠だったのです。
また、下図のように、何進は父・何真の先妻の子であり、後妻の舞陽君の子である何苗、何太后とは直接の血のつながりはありません。
何氏の家系図
宦官たちの処遇をめぐって舞陽君・何苗・何太后と対立していた何進は、一族の中で孤立してしまいました。
つまり、「宦官一掃計画」を強行した場合、何太后が「何進の誅殺を命令する詔」を出す可能性すら考えられたのです。
諸豪族の召集は悪手だったのか?
曹操は、宦官一掃のために「地方の諸豪族を洛陽に召集する」ことに対し、次のように言っています。
そもそも宦官の存在自体が悪いのではなく、彼らに権力を与えたことが間違いなのだ。
もし彼らの罪を裁くのであれば、張本人を処刑するたった1人の獄吏がいれば十分である。
なぜわざわざ外にいる将軍を召し寄せる必要があるのか。
彼らを皆殺しにしようとすれば、必ず事は露見するだろう。私には失敗する様子が目に浮かぶようだ。
では、地方の諸豪族を洛陽に召集し、彼らの兵で何太后に圧力をかけることは、本当に悪い選択だったのでしょうか。
そもそも隠れて悪事を働く中常侍を、正式な手続きを経てすべて捕らえることなど不可能に近く、また、軽微な罪では何太后が庇うことは間違いありません。
中常侍たちをすべて除くためには、やはり軍事力による強硬手段に訴えるしか方法はなかったのです。
しかしながら、軍事力に訴えた場合、何進が率いる朝廷の兵は、日々天子の威光を強く感じているため、宦官が振りかざす「偽の詔」の影響を受けやすく、竇武と陳蕃の時のように、一斉に降伏してしまう危険性があります。
やはり、地方の諸豪族の私兵であれば、「偽の詔」に影響されずに命令を完遂できる可能性が高いことは事実です。
洛陽に到着した董卓の兵は3,000あまり。その後、何進・何苗の兵、さらには丁原の兵を吸収するまでは、董卓も権力の掌握に苦心しています。
このことから、もし董卓が洛陽に到着した時に何進が生きていれば、董卓を制御することは十分可能だったのではないでしょうか。
つまり本当の失敗は「諸豪族を洛陽に召集したこと」ではなく、董卓が到着する前に何進が中常侍に殺されてしまったことだったと言えるでしょう。