建安(けんあん)15年(210年)、荊州(けいしゅう)の治政を握(にぎ)るようになった劉備(りゅうび)が、周瑜(しゅうゆ)の功曹(こうそう)であった龐統(ほうとう)を軍師中郎将(ぐんしちゅうろうしょう)に抜擢(ばってき)・・・
「蜀」の記事一覧
【周瑜の死】周瑜から魯粛への継承と孫権の蜀(益州)侵攻
建安(けんあん)15年(210年)、孫権(そんけん)配下の南郡太守(なんぐんたいしゅ)・周瑜(しゅうゆ)の死と周瑜(しゅうゆ)から魯粛(ろしゅく)への継承、孫権(そんけん)の蜀(しょく)(益州(えきしゅう))侵攻について・・・
劉備と孫権が初めて会見した京城会見と荊州の江南4郡の領有権
建安(けんあん)15年(210年)に劉備(りゅうび)が自(みずか)ら京城(けいじょう)(京口(けいこう))に赴(おもむ)いて孫権(そんけん)と会見した「京城(けいじょう)会見」と、この時孫権(そんけん)が劉備(りゅうび)・・・
赤壁の戦い後の論功行賞。劉備と孫権の妹の結婚と蔣幹の来訪
建安(けんあん)14年(209年)末に行われた赤壁(せきへき)の戦い後の論功行賞と、劉備(りゅうび)と孫権(そんけん)の妹の結婚、曹操(そうそう)が周瑜(しゅうゆ)を配下に加えようと派遣した蔣幹(しょうかん)(蒋幹(しょ・・・
曹操の南征と益州牧・劉璋。劉璋の使者・張松を軽んじた曹操の誤算
建安(けんあん)13年(208年)の曹操(そうそう)の南征に対する益州牧(けいしゅうぼく)・劉璋(りゅうしょう)の反応と、曹操(そうそう)と劉璋(りゅうしょう)の使者・張松(ちょうしょう)の確執についてまとめています。
劉備の江南4郡(武陵郡・長沙郡・桂陽郡・零陵郡)平定
赤壁(せきへき)の戦いで曹操(そうそう)を敗走させた建安(けんあん)13年(208年)冬、劉備(りゅうび)が荊州(けいしゅう)の江南(こうなん)4郡(武陵郡(ぶりょうぐん)・長沙郡(ちょうさぐん)・桂陽郡(けいようぐん)・・・