正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(115)[槐頭かいとう魁頭かいとう角里かくり角里先生ろくりせんせい)・鄂邑蓋主がくゆうこうしゅ 蓋公主こうこうしゅ)]です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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か(115)

槐頭・魁頭・角里・鄂邑蓋主

槐頭かいとう

生没年不詳。鮮卑せんぴ東部の大人たいじんの1人。

鮮卑の拡大

檀石槐たんせきかいが人々にされて鮮卑せんぴ大人たいじんとなり、高柳こうりゅうの北3百余里(約129km)の弾汗山だんかんさん啜仇水せつきゅうすいほとりてい(首都)を置くと、東西の部族の大人たいじんたちはみな彼に帰服した。

その兵馬は勢いが盛んで、南はかんの国境地帯で略奪を働き、北は丁令ていれい*1ふせぎ、東は夫餘ふよを撃退し、西は烏孫うそんを攻撃し、東西12,000余里(約5,160km)、南北7,000余里(約3,010km)にわたる山川・水沢・塩地など、広大な匈奴きょうどの故地のことごとくを手に入れた。

かんはこの鮮卑せんぴの勢力拡大を憂慮ゆうりょし、桓帝かんていの時代に使匈奴中郎将しきょうどちゅうろうしょう張奐ちょうかんを派遣して討伐させたが、勝つことができなかった。そこでかんは、檀石槐たんせきかいおうに封じて和親を結ぼうとしたが、檀石槐たんせきかいは拒否して印綬いんじゅを受け取らず、鮮卑せんぴの侵入・略奪はいよいよ激しくなった。

そこで檀石槐たんせきかい鮮卑せんぴの領土を中部・東部・西部の3部に分けた。

脚注

*1紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて、バイカル湖南方からセレンゲ川流域にかけてのモンゴル高原北部や、南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。丁零ていれい丁霊ていれい勅勒ちょくろくとも。

東部

幽州ゆうしゅう右北平郡ゆうほくへいぐんから東は遼東郡りょうとうぐん夫餘ふよ濊貊わいばくと接する辺りまでの20余ゆうを東部とし、

東部の大人たいじんには、

  • 弥加びか
  • 闕機けつき
  • 素利そり
  • 槐頭かいとう

という者たちがいた。

中部

幽州ゆうしゅう右北平郡ゆうほくへいぐんから西は上谷郡じょうこくぐんまでの10余ゆうを中部とし、

中部の大人たいじんには、

  • 柯最かさい
  • 闕居けつきょ
  • 慕容ぼよう

という者たちがいた。

西部

幽州ゆうしゅう上谷郡じょうこくぐんから西は燉煌郡とんこうぐん敦煌郡とんこうぐん)、烏孫うそんと接する辺りまでの20余ゆうを西部とし、

西部の大人たいじんには、

  • 置鞬落羅ちけんらくら
  • 日律推演じつりつすいえん
  • 宴茘游えんれいゆう

という者たちがいた。


彼らはみな大帥たいすいでもあり、檀石槐たんせきかいに属してその指揮下にあった。


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魁頭かいとう

生没年不詳。鮮卑せんぴ族の大人たいじん檀石槐たんせきかいの孫。

鮮卑せんぴ族の大人たいじん檀石槐たんせきかいが立って15年で亡くなると、子の和連われんが代わって大人たいじんに立ったが、和連われんには父ほどの素質や能力がなく、しかも貪欲どんよく淫乱いんらんで法のさばきが不公平であったため、部下の半数は彼にそむいた。

後漢ごかん霊帝れいていの末年[中平ちゅうへい6年(189年)]、和連われんはたびたび涼州りょうしゅう北地郡ほくちぐんに攻め入って略奪を行ったが、北地郡ほくちぐんの庶民にいしゆみ)で狙撃されて即死した。

和連われんの子・騫曼けんまんはまだ幼かったので、(和連われんの)兄の子・魁頭かいとうが代わって大人たいじんに立ったが、その後騫曼けんまんが成長すると、騫曼けんまん魁頭かいとうと国を争ったため、ついに部下は離散してしまった。

魁頭かいとうが亡くなると、弟の歩度根ほどこんが代わって大人たいじんに立った。

檀石槐たんせきかいの死後、大人たいじんたちの位はみな世襲せしゅうされるようになった。


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角里かくり角里先生ろくりせんせい

生没年不詳。しん末・かん初の戦乱をけて商山しょうざんに隠れんだ4人の隠士いんし商山しょうざん四皓しこう」の1人。


かんの12年(紀元前195年)、以前から高祖こうそ劉邦りゅうほう)は、太子たいし呂后りょこうの子・劉盈りゅうえいから愛妾あいしょう戚夫人せきふじんの子・劉如意りゅうじょいに変えたいと思っていたが、やまいのため政務がみれなくなると、いよいよそれを実行に移そうとしていた。

ある時、酒宴の席上で太子たいし劉盈りゅうえいの後ろに4人の者が従っていた。歳はみな80有余歳、鬚眉皓白しゅびこうはくひげまゆも白いこと)の老人で、衣冠はまことに見事であった。

高祖こうそ劉邦りゅうほう)はこれをあやしんで、「彼らは何をしている者か?」とうと、4人は進み出て、それぞれ東園公とうえんこう角里先生ろくりせんせい綺里季きりき夏黄公かこうこうと名乗った。

すると高祖こうそ劉邦りゅうほう)は大いに驚いて、

わしは数年にわたってあなたがたを探し求めておったのに、あなたがたわしけておられた。今、あなたがた何故なにゆえ吾児わがこと一緒におられるのか?」

これに4人は口をそろえて言った。


「陛下は士を軽んじ、よく人をののしられますが、わたくしたちは『義』としてそのようなはずかしめを受けることはできません。それゆえのがかくれておったのです。

ですが秘かに聞きましたところ、『太子たいし劉盈りゅうえい)には思いやりがあり、情が深く孝行者で、士をつつしうやまい愛することから、天下をはるかに望んでみても、太子たいし劉盈りゅうえい)のために死ぬことを願わない者はいない』とか。

それゆえわたくしたちはこうしてやって来たのです」


商山しょうざん四皓しこうの言葉を聞いた高祖こうそ劉邦りゅうほう)は、

「あなたがたわずらわせることになるだろうが、どうか最後まで太子たいし劉盈りゅうえい)をまもり助けてやって欲しい」

と言った。

4人は高祖こうそ劉邦りゅうほう)の長寿を祝福すると足早に立ち去った。

これは、留侯りゅうこう張良ちょうりょう)がこの4人をまねかせた力によるものであった。


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鄂邑蓋主がくゆうこうしゅ蓋公主こうこうしゅ

生年不詳〜かん元鳳げんぽう元年(紀元前80年)没。前漢ぜんかん武帝ぶていむすめ昭帝しょうていの姉。弟に燕王えんおう劉旦りゅうたん鄂邑公主がくゆうこうしゅ鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ蓋公主こうこうしゅ蓋主こうしゅとも。

武帝ぶてい おじ蓋侯こうこう王信おうしん、またはその子・王充おうじゅうの妻となったとの説があるが、どちらもこれを証明する決定的な史料はない。

昭帝の即位

かん後元こうげん2年(紀元前87年)に武帝ぶてい崩御ほうぎょし、幼い弟・昭帝しょうていが即位した。

昭帝しょうていが即位すると、鄂邑公主がくゆうこうしゅ湯沐邑とうもくゆう封邑ほうゆう)を増し加えられ、長公主ちょうこうしゅとなって省中(宮中)でやしなわれた。

また、大将軍だいしょうぐん霍光かくこう執政しっせいして尚書しょうしょの事を総領*2し、車騎将軍しゃきしょうぐん金日磾きんじってい左将軍さしょうぐん上官桀じょうかんけつがこれを補佐することとなった。


かん始元しげん元年(紀元前86年)春2月、鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅは、燕王えんおう劉旦りゅうたん広陵王こうりょうおう劉胥りゅうしょと共にそれぞれ1万3千戸を増し加えられた。

脚注

*2領尚書事りょうしょうしょじ。実質的な権力機構である尚書台しょうしょだいを統括する権限を持つ。後漢ごかんでは録尚書事ろくしょうしょじ

上官桀父子

大将軍だいしょうぐん霍光かくこうの長女が左将軍さしょうぐん上官桀じょうかんけつの子・上官安じょうかんあんの妻となって女子を生んでいたが、ちょうど昭帝しょうていと似合いの年頃だった。

そこで上官桀じょうかんけつは、鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅの取りなしでその子を後宮に入れて倢伃しょうよ倢妤しょうよ*3とすると、数ヶ月で皇后こうごうに立てられ、皇后こうごうの父・上官安じょうかんあん票騎将軍ひょうきしょうぐんとなって桑楽侯そうらくこうに封ぜられた。かん始元しげん4年(紀元前83年)のことである。

脚注

*3倢伃しょうよ倢妤しょうよ)は皇帝の側室の称号。

情夫・丁外人

鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅは身持ちが悪く、冀州きしゅう河間郡かかんぐん出身の丁外人ていがいじん寵愛ちょうあいしていた。

丁外人ていがいじん傲慢きょうまん放恣ほうしで、刺客を使って、うらんでいた元京兆尹けいちょういん樊福はんぷくを射殺させ、刺客を鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅいおりかくまった。そのため役人はえて捕らえようとしなかったが、渭城令いじょうれい胡建こけん吏卒りそつひきい、いおりを包囲して刺客を捕らえた。

そのことを聞いた鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅは、丁外人ていがいじん上官じょうかん将軍しょうぐん*4と共に大勢の奴僕どぼく食客しょっかくを従え駆けつけて、追捕ついぶの役人たちに射かけたので、役人たちはりになって逃走した。

その後、鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ僕射ぼくやを使って「渭城令いじょうれい胡建こけん)の游徼ゆうきょう*5が主家(長公主家)の奴僕どぼくを傷つけた」と弾劾だんがいさせたが、胡建こけんは「游徼ゆうきょう*5は公務を執行したまでのこと。他意はありません」とこたえた。

これに怒った鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅは、人を使って上書させ、「胡建こけん長公主ちょうこうしゅを侵害・侮辱し、長公主邸ちょうこうしゅていの門を射た」と告発した。胡建こけんは「役人が鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ奴僕どぼくを傷つけたこと」を知っていたので、その罪をけて報答したため審議は尽くされず、大将軍だいしょうぐん霍光かくこうはこの奏上を寝かせておいた。


鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅに恩義を感じていた上官桀じょうかんけつ父子は、丁外人ていがいじんのために爵位を求め、国家の慣例により列侯れっこうに封じて鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅを妻に迎えさせようと望んだが、霍光かくこうは許さなかった。

そこでまた上官桀じょうかんけつ父子は、丁外人ていがいじんのために光禄大夫こうろくたいふの官位を求め、昭帝しょうてい召見しょうけんを得られるように望んだが、霍光かくこうはこれも許さなかったので、鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅは大いに霍光かくこううらみ、また上官桀じょうかんけつ父子もこれを恥じた。

脚注

*4当時、上官桀じょうかんけつ左将軍さしょうぐん上官安じょうかんあん票騎将軍ひょうきしょうぐんなので、どちらなのかは不詳。2人共参加したので上官じょうかん将軍しょうぐんとしたか。

*5きょう内を巡察して犯罪を防止する役人。

反霍光勢力の団結

上官桀じょうかんけつは先帝(武帝ぶてい)の時からすでに九卿きゅうけいつらなり、位は霍光かくこうの上位であった上に、今は父子共々将軍しょうぐんとなり、さらに椒房殿しょうぼうでん中宮ちゅうぐうの威光*6が加わっていた。また、上官安じょうかんあん皇后こうごうの父であり、霍光かくこうはその外祖父に過ぎないのに、霍光かくこうが朝廷を専制していることから、上官桀じょうかんけつ父子と霍光かくこうは権力を争うようになった。

また、昭帝しょうていの兄、燕王えんおう劉旦りゅうたんは、自分が帝位につけなかったため常にうらみをいだいており、また御史大夫ぎょしたいふ桑弘羊そうこうようは酒と塩・鉄の専売制度を確立した功績をほこって、子弟のために官を得ようとしたが果たせず、やはり霍光かくこううらんでいた。


劉旦りゅうたんの姉・鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ左将軍さしょうぐん上官桀じょうかんけつ父子は、劉旦りゅうたん霍光かくこううらんでいることを知ると密かに交流し、劉旦りゅうたんは前後十数回にわたって孫縦之そんじゅうしらをつかわし、鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ上官桀じょうかんけつ御史大夫ぎょしたいふ桑弘羊そうこうようらに多くの黄金・宝物・良馬をおくった。


かん元鳳げんぽう元年(紀元前80年)春、鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅやしなうのにことくため、再び鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ湯沐邑とうもくゆう封邑ほうゆう)として藍田らんでん*7を増し加えられた。

脚注

*6椒房殿しょうぼうでん中宮ちゅうぐうは共に皇后こうごうの居所。椒房殿しょうぼうでん中宮ちゅうぐうの威光=皇后こうごうの威光。

*7あいを植える田。あいを刈り採った後に稲を作る二毛作の田。年貢は上田より高かった。

霍光を讒言する

鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ上官桀じょうかんけつ上官安じょうかんあん桑弘羊そうこうようらはみな燕王えんおう劉旦りゅうたんと陰謀を通じて、霍光かくこうが休暇を取って宮中を退出した日を見計みはからい、劉旦りゅうたんから上書して昭帝しょうてい霍光かくこう過失かしつを告げ、上官桀じょうかんけつが禁中でその文章を役人に下げ渡して事を処理させ、桑弘羊そうこうようは諸大臣と共に休暇退出中の霍光かくこうを捕らえようとしたが、昭帝しょうていは承知しなかった。

劉旦の上書・全文
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漢書かんじょ燕刺王えんらつおう劉旦伝りゅうたんでん

昔、しんは「南面の位(帝位)」にって当代に活殺の権を*8にぎり、四夷しい(四方の夷狄いてき)を威服させましたが、骨肉(一族)をかろんじ弱めて異族(異姓)を重用し、道義を廃して刑罰に任せ、宗室は(皇帝の)恩沢をこうむりませんでした。

その後、尉佗いた*9南夷なんい(南方の夷狄いてき)に入り、陳渉ちんしょう*10沼沢しょうたくで呼号し、近狎きんこう(近習:趙高ちょうこう)が乱を起こすなど、内外共に(反乱が)起こり、こうして趙氏ちょうししん祭祀さいしつに至りました。

高皇帝こうこうてい劉邦りゅうほう)はこうした事跡をご覧になり、その得失を観てしんが根本の建て方をあやまったと見られ、それゆえそのみちを改め土地を区切って城をつらね、子孫を各地のおうとされました。そのため同姓の枝葉が四方に広がり、異姓の入り込む余地がなくなったのです。

今、陛下(昭帝しょうてい)はその聖明をけ成業を継いで、公卿こうけいに(政事を)委任しておりますが、群臣たちは派閥をつらねて宗室の名誉を傷つけ、肌身にみ込むような讒言ざんげんが、日々、朝廷に飛びっております。そのため悪吏あくり(悪い役人)が法を無視して威張り散らしているため、主(昭帝しょうてい)の恩徳はしもじもに行き渡ることができません。

わたくしは『武帝ぶてい中郎将ちゅうろうしょう蘇武そぶ匈奴きょうどつかわした際、蘇武そぶは20年にわたって勾留こうりゅうされてもくだらなかったのに、帰還した後はただ典属国てんぞっこく*11となっただけだった』と聞いております。

それなのに今、大将軍だいしょうぐん霍光かくこう)の長史ちょうし楊敞ようしょうは、何の功績もないのに捜粟都尉そうぞくといとなりました。

また、大将軍だいしょうぐん霍光かくこう)はろう羽林うりんの軍事訓練を行った際、ひつ天子てんし行幸ぎょうこうする際に通行人や車の往来を止めること)を行い、太官たいかんは真っ先に霍光かくこうに飲食を提供しました。

しんたん燕王えんおう符璽ふじを返上して宿衛に入り、奸臣の異変を監視したいと願います。


漢書かんじょ霍光伝かくこうでん

霍光かくこうは郊外に出てろう羽林うりんの軍事訓練を行った際、ひつ天子てんし行幸ぎょうこうする際に通行人や車の往来を止めること)を行い、太官たいかんは真っ先に霍光かくこうに飲食を提供しました。

また以前、匈奴きょうどに使いした蘇武そぶは20年間拘留こうりゅうされてもくだらなかったのに、帰国後はただ典属国てんぞっこく*11に任命されただけであったにもかかわらず、大将軍だいしょうぐん長史ちょうし楊敞ようしょうは何の功績もないのに捜粟都尉そうぞくといとし、また勝手に大将軍府だいしょうぐんふ校尉こういの定員を増やしています。

霍光かくこうの専権・自恣じし(自分の思うがままに行動すること)は目に余るものがあり、『非常のこと(謀叛むほん)を起こすのではないか』と疑われます。しんたん燕王えんおう符璽ふじを返上して宿衛に入り、姦臣の異変を監視したいと願います。

脚注

*8原文:制一世之命。

*9しん時代に南海郡なんかいぐん竜川県りゅうせんけん県令けんれい南海都尉なんかいといとなり、しんかん交代期に独立して桂林郡けいりんぐん象郡しょうぐんを合わせて南越なんえつを建国した。

*10しん末期の反乱指導者。呉広ごこうとともにしんに反乱を起こし、旧の首都・陳城ちんじょうを占領し、国号を張楚ちょうそとして王位にいた。(陳勝ちんしょう呉広ごこうの乱)

*11夷狄いてきの投降者をつかさどる官。官秩かんちつ二千石にせんせき


翌朝、このことを聞いた霍光かくこうは、昭帝しょうていの御殿の前にある西閣せいかく画室がしつとどまって、御殿に参内しなかった。

昭帝しょうていが「大将軍だいしょうぐん霍光かくこう)はどこにおるのか」と問うと、左将軍さしょうぐん上官桀じょうかんけつは「燕王えんおう劉旦りゅうたん)に自分の罪を告発されたので、えて参内しようとしないのです」と答えた。


その後、昭帝しょうていみことのりをもって大将軍だいしょうぐん霍光かくこう)をした。

霍光かくこうが参内し、かんむりを脱ぎ頭を地面にこすりつけて謝罪すると、昭帝しょうていは「将軍しょうぐん霍光かくこう)よ、かんむりを着けよ。ちん(私)はこの上書がいつわりであることを知っている。将軍しょうぐん霍光かくこう)に罪はない」と言った。

これに霍光かくこうが「陛下にはどうしてそれがお分かりになられたのでしょうか」と問うと、昭帝しょうていは「将軍しょうぐん霍光かくこう)は広明亭こうめいていに行ってろうやからを演習させたに過ぎない。また校尉こういを選考してからまだ10日にもならないのに、燕王えんおう劉旦りゅうたん)はどうしてそれを知ることができるだろうか。それに、将軍しょうぐん霍光かくこう)が謀叛むほんをしようとする場合、1、2人の校尉こういに頼るはずがない」と答えた。

当時、昭帝しょうていはまだ14歳であったので、尚書しょうしょや左右の者たちはこの立派な返答にみな驚いた。

霍光かくこう讒言ざんげんする上書をした者たちは逃亡し、早急にり手が派遣された。上官桀じょうかんけつらはおそれて「そこまでする必要はありません」と申し上げたが、昭帝しょうていき入れなかった。


その後また、上官桀じょうかんけつの一味で霍光かくこう讒言ざんげんした者があったが、昭帝しょうていは怒って、

大将軍だいしょうぐん霍光かくこう)は忠臣であり、先帝(武帝ぶてい)からちん(私)の身を補佐するようにたくされた方である。えてそしろうとする者があればこれを罪に落とそう」

と言ったので、これ以降、上官桀じょうかんけつらは再び讒言ざんげんしようとしなかった。

自害

かん元鳳げんぽう元年(紀元前80年)9月、上官桀じょうかんけつらははかりごとめぐらして、鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅに宴会をもよおさせて霍光かくこうを招待し、あらかじめ兵を伏せて彼を打ち殺し、その機会に昭帝しょうていを廃して燕王えんおう劉旦りゅうたん)を迎えて天子てんしに立てようとした。

ところが、事が未然に発覚し*12霍光かくこう上官桀じょうかんけつ上官安じょうかんあん桑弘羊そうこうよう丁外人ていがいじんらをことごとく誅殺ちゅうさつし、宗族の燕王えんおう劉旦りゅうたん鄂邑蓋主がくゆうこうしゅは自害した。

脚注

*12漢書かんじょ燕刺王えんらつおう劉旦伝りゅうたんでんに「蓋主こうしゅ鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)の舎人しゃじんの父・燕倉えんそうが(劉旦りゅうたんの)陰謀を知って密告し、事が発覚した」とあるが、宴会の件は記載されていない。


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