正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(115)[槐頭(かいとう)・魁頭(かいとう)・角里(かくり)(角里先生(ろくりせんせい))・鄂邑蓋主(がくゆうこうしゅ )(蓋公主こうこうしゅ))]です。

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凡例・目次

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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か(115)

槐頭・魁頭・角里・鄂邑蓋主

槐頭(かいとう)

生没年不詳。鮮卑(せんぴ)東部の大人(たいじん)の1人。

鮮卑の拡大

檀石槐(たんせきかい)が人々に推(お)されて鮮卑(せんぴ)の大人(たいじん)となり、高柳(こうりゅう)の北3百余里(約129km)の弾汗山(だんかんさん)、啜仇水(せつきゅうすい)の辺(ほとり)に庭(てい)(首都)を置くと、東西の部族の大人(たいじん)たちはみな彼に帰服した。

その兵馬は勢いが盛んで、南は漢(かん)の国境地帯で略奪を働き、北は丁令(ていれい)*1を拒(ふせ)ぎ、東は夫餘(ふよ)を撃退し、西は烏孫(うそん)を攻撃し、東西12,000余里(約5,160km)、南北7,000余里(約3,010km)にわたる山川・水沢・塩地など、広大な匈奴(きょうど)の故地の悉(ことごと)くを手に入れた。

漢(かん)はこの鮮卑(せんぴ)の勢力拡大を憂慮(ゆうりょ)し、桓帝(かんてい)の時代に使匈奴中郎将(しきょうどちゅうろうしょう)の張奐(ちょうかん)を派遣して討伐させたが、勝つことができなかった。そこで漢(かん)は、檀石槐(たんせきかい)を王(おう)に封じて和親を結ぼうとしたが、檀石槐(たんせきかい)は拒否して印綬(いんじゅ)を受け取らず、鮮卑(せんぴ)の侵入・略奪はいよいよ激しくなった。

そこで檀石槐(たんせきかい)は鮮卑(せんぴ)の領土を中部・東部・西部の3部に分けた。

脚注

*1紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて、バイカル湖南方からセレンゲ川流域にかけてのモンゴル高原北部や、南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。丁零(ていれい)・丁霊(ていれい)・勅勒(ちょくろく)とも。

東部

幽州(ゆうしゅう)・右北平郡(ゆうほくへいぐん)から東は遼東郡(りょうとうぐん)、夫餘(ふよ)・濊貊(わいばく)と接する辺りまでの20余邑(ゆう)を東部とし、

東部の大人(たいじん)には、

  • 弥加(びか)
  • 闕機(けつき)
  • 素利(そり)
  • 槐頭(かいとう)

という者たちがいた。

中部

幽州(ゆうしゅう)・右北平郡(ゆうほくへいぐん)から西は上谷郡(じょうこくぐん)までの10余邑(ゆう)を中部とし、

中部の大人(たいじん)には、

  • 柯最(かさい)
  • 闕居(けつきょ)
  • 慕容(ぼよう)

という者たちがいた。

西部

幽州(ゆうしゅう)・上谷郡(じょうこくぐん)から西は燉煌郡(とんこうぐん)(敦煌郡(とんこうぐん))、烏孫(うそん)と接する辺りまでの20余邑(ゆう)を西部とし、

西部の大人(たいじん)には、

  • 置鞬落羅(ちけんらくら)
  • 日律推演(じつりつすいえん)
  • 宴茘游(えんれいゆう)

という者たちがいた。


彼らはみな大帥(たいすい)でもあり、檀石槐(たんせきかい)に属してその指揮下にあった。


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魁頭(かいとう)

生没年不詳。鮮卑(せんぴ)族の大人(たいじん)。檀石槐(たんせきかい)の孫。

鮮卑(せんぴ)族の大人(たいじん)・檀石槐(たんせきかい)が立って15年で亡くなると、子の和連(われん)が代わって大人(たいじん)に立ったが、和連(われん)には父ほどの素質や能力がなく、しかも貪欲(どんよく)・淫乱(いんらん)で法の裁(さば)きが不公平であったため、部下の半数は彼に叛(そむ)いた。

後漢(ごかん)の霊帝(れいてい)の末年[中平(ちゅうへい)6年(189年)]、和連(われん)はたびたび涼州(りょうしゅう)・北地郡(ほくちぐん)に攻め入って略奪を行ったが、北地郡(ほくちぐん)の庶民に弩(ど)(弩(いしゆみ))で狙撃されて即死した。

和連(われん)の子・騫曼(けんまん)はまだ幼かったので、(和連(われん)の)兄の子・魁頭(かいとう)が代わって大人(たいじん)に立ったが、その後騫曼(けんまん)が成長すると、騫曼(けんまん)は魁頭(かいとう)と国を争ったため、ついに部下は離散してしまった。

魁頭(かいとう)が亡くなると、弟の歩度根(ほどこん)が代わって大人(たいじん)に立った。

檀石槐(たんせきかい)の死後、大人(たいじん)たちの位はみな世襲(せしゅう)されるようになった。


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角里(かくり)(甪里(ろくり)・角里先生(ろくりせんせい))

生没年不詳。河内郡(かだいぐん)・軹県(しけん)(または汲県(きゅうけん))の人。秦(しん)〜漢(かん)初の戦乱を避(さ)けて商山(しょうざん)に隠れ棲(す)んだ4人の隠士(いんし)「商山(しょうざん)四皓(しこう)[東園公(とうえんこう)・甪里先生(ろくりせんせい)(角里先生(ろくりせんせい))・綺里季(きりき)・夏黄公(かこうこう)]」の1人。

秦の世を退く

東園公(とうえんこう)・甪里先生(ろくりせんせい)(角里先生(ろくりせんせい))・綺里季(きりき)・夏黄公(かこうこう)の4人はみな道を修(おさ)め、自(みずか)らの身を清く保(たも)ち、義に適(かな)わないことは決して行わなかった。

秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の時代、その政治が苛酷(かこく)であるのを見て世を退(しりぞ)き、藍田山(らんでんさん)に入り、次のような歌を作った。


莫莫高山,深谷逶迤,曄曄紫芝,可以療飢,唐虞世遠,吾将安帰。

駟馬高蓋,其憂甚大,富貴之畏人,不如貧賤之肆志。


遙(はる)かに高くそびえる山と、どこまでも曲がりくねって続く深い谷には、鮮やかに美しく輝く紫芝(しし)(霊芝(れいし):キノコ)が生えており、これで飢(う)えをしのぐことができる。

だが、(理想の王が治めた)堯(ぎょう)・舜(しゅん)の時代は遠く過ぎ去ってしまった今、吾(わたし)たちは一体どこへ帰ればよいのだろうか。

立派な駟馬(しば)(4頭立ての馬車)に乗り高い天蓋(てんがい)を掲(かか)げて走るような富貴(高位高官の身分)は、一見すると栄華を極(きわ)めているように見えるが、その実、抱(かか)える憂(うれ)いはきわめて大きい。

富や地位を得た者は常に人を警戒し、人から害されることを恐れながら生きなければならない。たとえ貧賤(ひんせん)(貧しく身分が低いこと)であっても、自分の志のままに自由に生きる方がよい。


こうして彼らはともに商山(しょうざん)・雒南(らくなん)の隠れ里である地肺山(ちはいさん)へ入り、天下が安定する時を待った。彼らはみな鬚眉(しゅび)(鬚(ひげ)と眉(まゆ))が白かったので「商山(しょうざん)四皓(しこう)」(皓(こう)=白)と呼ばれた。

秦(しん)が滅びると、漢(かん)の高祖(こうそ)(劉邦りゅうほう)はその名声を聞いて彼らを召(め)し出そうとしたが、みな応じなかった。

太子・劉盈を支持する

漢(かん)の12年(紀元前195年)、以前から高祖こうそ(劉邦りゅうほう)は、太子たいしを呂后りょこうの子・劉盈りゅうえいから愛妾あいしょう・戚夫人せきふじんの子・劉如意りゅうじょいに変えたいと思っていたが、病やまいのため政務をみることができなくなると、いよいよそれを実行に移そうとした。

ある時、酒宴の席上で太子(たいし)・劉盈(りゅうえい)の後ろに4人の者が従っていた。歳はみな80有余歳、鬚眉皓白(しゅびこうはく)(鬚(ひげ)も眉(まゆ)も白いこと)の老人で、衣冠はまことに見事であった。

高祖こうそ(劉邦りゅうほう)はこれを怪(あや)しんで、「彼らは何をしている者か?」と問(と)うと、4人は進み出て、それぞれ東園公(とうえんこう)、甪里先生(ろくりせんせい)(角里先生(ろくりせんせい))、綺里季(きりき)、夏黄公(かこうこう)と名乗った。

すると高祖こうそ(劉邦りゅうほう)は大いに驚いて、

「吾(わし)は数年に亘(わた)ってあなた方(がた)を探し求めておったのに、あなた方(がた)は我(わし)を避(さ)けておられた。今、あなた方(がた)は何故(なにゆえ)、吾児(わがこ)と一緒におられるのか?」

これに4人は口を揃(そろ)えて言った。


「陛下は士を軽んじ、よく人を罵(ののし)られますが、臣(わたくし)たちは『義』としてそのような辱(はずかし)めを受けることはできません。それ故(ゆえ)、逃(のが)れ匿(かく)れておったのです。

ですが秘かに聞きましたところ、『太子(たいし)(劉盈(りゅうえい))には思いやりがあり、情が深く孝行者で、士を恭(つつし)み敬(うやま)い愛することから、天下を遙(はる)かに望んでみても、太子(たいし)(劉盈(りゅうえい))のために死ぬことを願わない者はいない』とか。

それ故(ゆえ)、臣(わたくし)たちはこうしてやって来たのです」


商山(しょうざん)四皓(しこう)の言葉を聞いた高祖こうそ(劉邦りゅうほう)は、

「あなた方(がた)を煩(わずら)わせることになるだろうが、どうか最後まで太子(たいし)(劉盈(りゅうえい))を護(まも)り助けてやって欲しい」

と言った。

4人は高祖こうそ(劉邦りゅうほう)の長寿を祝福すると足早に立ち去った。

これは、留侯(りゅうこう)(張良(ちょうりょう))がこの4人を招(まね)かせた力によるものであった。太子(たいし)・劉盈(りゅうえい)とは、後(のち)の前漢(ぜんかん)・第2代皇帝・恵帝(けいてい)である。


その後4人は、さらに深く終南山(しゅうなんざん)に身を隠し、自(みずか)らの志を曲げることはなかった。

出典
  • 『髙士伝(こうしでん)』巻中(かんちゅう)
  • 『史記(しき)』高祖本紀(こうそほんぎ)

「角里(かくり)」の関連記事

鄂邑蓋主(がくゆうこうしゅ)(蓋公主こうこうしゅ))

生年不詳〜漢(かん)の元鳳(げんぽう)元年(紀元前80年)没。前漢(ぜんかん)・武帝(ぶてい)の女(むすめ)。昭帝(しょうてい)の姉。弟に燕王(えんおう)・劉旦(りゅうたん)。鄂邑公主(がくゆうこうしゅ)・鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)・蓋公主こうこうしゅ)・蓋主こうしゅ)とも。

武帝(ぶてい)の舅( おじ)で蓋侯こうこう)の王信(おうしん)、またはその子・王充(おうじゅう)の妻となったとの説があるが、どちらもこれを証明する決定的な史料はない。

昭帝の即位

漢(かん)の後元(こうげん)2年(紀元前87年)に武帝(ぶてい)が崩御(ほうぎょ)し、幼い弟・昭帝(しょうてい)が即位した。

昭帝(しょうてい)が即位すると、鄂邑公主(がくゆうこうしゅ)は湯沐邑(とうもくゆう)(封邑(ほうゆう))を増し加えられ、長公主(ちょうこうしゅ)となって省中(宮中)で養(やしな)われた。

また、大将軍(だいしょうぐん)・霍光(かくこう)が執政(しっせい)して尚書(しょうしょ)の事を総領*2し、車騎将軍(しゃきしょうぐん)・金日磾(きんじってい)と左将軍(さしょうぐん)・上官桀(じょうかんけつ)がこれを補佐することとなった。


漢(かん)の始元(しげん)元年(紀元前86年)春2月、鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)は、燕王(えんおう)・劉旦(りゅうたん)、広陵王(こうりょうおう)・劉胥(りゅうしょ)と共にそれぞれ1万3千戸を増し加えられた。

脚注

*2領尚書事(りょうしょうしょじ)。実質的な権力機構である尚書台(しょうしょだい)を統括する権限を持つ。後漢(ごかん)では録尚書事(ろくしょうしょじ)。

上官桀父子

大将軍(だいしょうぐん)・霍光(かくこう)の長女が左将軍(さしょうぐん)・上官桀(じょうかんけつ)の子・上官安(じょうかんあん)の妻となって女子を生んでいたが、ちょうど昭帝(しょうてい)と似合いの年頃だった。

そこで上官桀(じょうかんけつ)は、鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)の取りなしでその子を後宮に入れて倢伃(しょうよ)(倢妤(しょうよ))*3とすると、数ヶ月で皇后(こうごう)に立てられ、皇后(こうごう)の父・上官安(じょうかんあん)は票騎将軍(ひょうきしょうぐん)となって桑楽侯(そうらくこう)に封ぜられた。漢(かん)の始元(しげん)4年(紀元前83年)のことである。

脚注

*3倢伃(しょうよ)(倢妤(しょうよ))は皇帝の側室の称号。

情夫・丁外人

鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)は身持ちが悪く、冀州(きしゅう)・河間郡(かかんぐん)出身の丁外人(ていがいじん)を寵愛(ちょうあい)していた。

丁外人(ていがいじん)は傲慢(きょうまん)放恣(ほうし)で、刺客を使って、怨(うら)んでいた元京兆尹(けいちょういん)・樊福(はんぷく)を射殺させ、刺客を鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)の廬(いおり)に匿(かくま)った。そのため役人は敢(あ)えて捕らえようとしなかったが、渭城令(いじょうれい)の胡建(こけん)が吏卒(りそつ)を率(ひき)い、廬(いおり)を包囲して刺客を捕らえた。

そのことを聞いた鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)は、丁外人(ていがいじん)・上官(じょうかん)将軍(しょうぐん)*4と共に大勢の奴僕(どぼく)・食客(しょっかく)を従え駆けつけて、追捕(ついぶ)の役人たちに射かけたので、役人たちは散(ち)り散(ぢ)りになって逃走した。

その後、鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)は僕射(ぼくや)を使って「渭城令(いじょうれい)(胡建(こけん))の游徼(ゆうきょう)*5が主家(長公主家)の奴僕(どぼく)を傷つけた」と弾劾(だんがい)させたが、胡建(こけん)は「游徼(ゆうきょう)*5は公務を執行したまでのこと。他意はありません」と報(こた)えた。

これに怒った鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)は、人を使って上書させ、「胡建(こけん)が長公主(ちょうこうしゅ)を侵害・侮辱し、長公主邸(ちょうこうしゅてい)の門を射た」と告発した。胡建(こけん)は「役人が鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)の奴僕(どぼく)を傷つけたこと」を知っていたので、その罪を避(さ)けて報答したため審議は尽くされず、大将軍(だいしょうぐん)・霍光(かくこう)はこの奏上を寝かせておいた。


鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)に恩義を感じていた上官桀(じょうかんけつ)父子は、丁外人(ていがいじん)のために爵位を求め、国家の慣例により列侯(れっこう)に封じて鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)を妻に迎えさせようと望んだが、霍光(かくこう)は許さなかった。

そこでまた上官桀(じょうかんけつ)父子は、丁外人(ていがいじん)のために光禄大夫(こうろくたいふ)の官位を求め、昭帝(しょうてい)の召見(しょうけん)を得られるように望んだが、霍光(かくこう)はこれも許さなかったので、鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)は大いに霍光(かくこう)を怨(うら)み、また上官桀(じょうかんけつ)父子もこれを恥じた。

脚注

*4当時、上官桀(じょうかんけつ)は左将軍(さしょうぐん)、上官安(じょうかんあん)は票騎将軍(ひょうきしょうぐん)なので、どちらなのかは不詳。2人共参加したので上官(じょうかん)将軍(しょうぐん)としたか。

*5郷(きょう)内を巡察して犯罪を防止する役人。

反霍光勢力の団結

上官桀(じょうかんけつ)は先帝(武帝(ぶてい))の時からすでに九卿(きゅうけい)に列(つら)なり、位は霍光(かくこう)の上位であった上に、今は父子共々将軍(しょうぐん)となり、さらに椒房殿(しょうぼうでん)・中宮(ちゅうぐう)の威光*6が加わっていた。また、上官安(じょうかんあん)は皇后(こうごう)の父であり、霍光(かくこう)はその外祖父に過ぎないのに、霍光(かくこう)が朝廷を専制していることから、上官桀(じょうかんけつ)父子と霍光(かくこう)は権力を争うようになった。

また、昭帝(しょうてい)の兄、燕王(えんおう)・劉旦(りゅうたん)は、自分が帝位につけなかったため常に怨(うら)みを懐(いだ)いており、また御史大夫(ぎょしたいふ)の桑弘羊(そうこうよう)は酒と塩・鉄の専売制度を確立した功績を誇(ほこ)って、子弟のために官を得ようとしたが果たせず、やはり霍光(かくこう)を怨(うら)んでいた。


劉旦(りゅうたん)の姉・鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)と左将軍(さしょうぐん)・上官桀(じょうかんけつ)父子は、劉旦(りゅうたん)が霍光(かくこう)を怨(うら)んでいることを知ると密かに交流し、劉旦(りゅうたん)は前後十数回にわたって孫縦之(そんじゅうし)らを遣(つか)わし、鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)や上官桀(じょうかんけつ)・御史大夫(ぎょしたいふ)・桑弘羊(そうこうよう)らに多くの黄金・宝物・良馬を贈(おく)った。


漢(かん)の元鳳(げんぽう)元年(紀元前80年)春、鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)を養(やしな)うのに事(こと)欠(か)くため、再び鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)の湯沐邑(とうもくゆう)(封邑(ほうゆう))として藍田(らんでん)*7を増し加えられた。

脚注

*6椒房殿(しょうぼうでん)・中宮(ちゅうぐう)は共に皇后(こうごう)の居所。椒房殿(しょうぼうでん)・中宮(ちゅうぐう)の威光=皇后(こうごう)の威光。

*7藍(あい)を植える田。藍(あい)を刈り採った後に稲を作る二毛作の田。年貢は上田より高かった。

霍光を讒言する

鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)、上官桀(じょうかんけつ)、上官安(じょうかんあん)、桑弘羊(そうこうよう)らはみな燕王(えんおう)・劉旦(りゅうたん)と陰謀を通じて、霍光(かくこう)が休暇を取って宮中を退出した日を見計(みはか)らい、劉旦(りゅうたん)から上書して昭帝(しょうてい)に霍光(かくこう)の過失(かしつ)を告げ、上官桀(じょうかんけつ)が禁中でその文章を役人に下げ渡して事を処理させ、桑弘羊(そうこうよう)は諸大臣と共に休暇退出中の霍光(かくこう)を捕らえようとしたが、昭帝(しょうてい)は承知しなかった。

劉旦の上書・全文
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『漢書(かんじょ)』燕刺王(えんらつおう)劉旦伝(りゅうたんでん)

昔、秦(しん)は「南面の位(帝位)」に拠(よ)って当代に活殺の権を*8握(にぎ)り、四夷(しい)(四方の夷狄(いてき))を威服させましたが、骨肉(一族)を軽(かろ)んじ弱めて異族(異姓)を重用し、道義を廃して刑罰に任せ、宗室は(皇帝の)恩沢を蒙(こうむ)りませんでした。

その後、尉佗(いた)*9は南夷(なんい)(南方の夷狄(いてき))に入り、陳渉(ちんしょう)*10は楚(そ)の沼沢(しょうたく)で呼号し、近狎(きんこう)(近習:趙高(ちょうこう))が乱を起こすなど、内外共に(反乱が)起こり、こうして趙氏(ちょうし)は秦(しん)の祭祀(さいし)を絶(た)つに至りました。

高皇帝(こうこうてい)(劉邦(りゅうほう))はこうした事跡をご覧になり、その得失を観て秦(しん)が根本の建て方を誤(あやま)ったと見られ、それゆえその路(みち)を改め土地を区切って城を連(つら)ね、子孫を各地の王(おう)とされました。そのため同姓の枝葉が四方に広がり、異姓の入り込む余地がなくなったのです。

今、陛下(昭帝(しょうてい))はその聖明を承(う)け成業を継いで、公卿(こうけい)に(政事を)委任しておりますが、群臣たちは派閥を連(つら)ねて宗室の名誉を傷つけ、肌身に滲(し)み込むような讒言(ざんげん)が、日々、朝廷に飛び交(か)っております。そのため悪吏(あくり)(悪い役人)が法を無視して威張り散らしているため、主(昭帝(しょうてい))の恩徳は下(しも)々(じも)に行き渡ることができません。

臣(わたくし)は『武帝(ぶてい)が中郎将(ちゅうろうしょう)・蘇武(そぶ)を匈奴(きょうど)に遣(つか)わした際、蘇武(そぶ)は20年にわたって勾留(こうりゅう)されても降(くだ)らなかったのに、帰還した後はただ典属国(てんぞっこく)*11となっただけだった』と聞いております。

それなのに今、大将軍(だいしょうぐん)(霍光(かくこう))の長史(ちょうし)・楊敞(ようしょう)は、何の功績もないのに捜粟都尉(そうぞくとい)となりました。

また、大将軍(だいしょうぐん)(霍光(かくこう))は郎(ろう)・羽林(うりん)の軍事訓練を行った際、䟆(ひつ)(天子(てんし)が行幸(ぎょうこう)する際に通行人や車の往来を止めること)を行い、太官(たいかん)は真っ先に霍光(かくこう)に飲食を提供しました。

臣(しん)旦(たん)は燕王(えんおう)の符璽(ふじ)を返上して宿衛に入り、奸臣の異変を監視したいと願います。


『漢書(かんじょ)』霍光伝(かくこうでん)

霍光(かくこう)は郊外に出て郎(ろう)・羽林(うりん)の軍事訓練を行った際、䟆(ひつ)(天子(てんし)が行幸(ぎょうこう)する際に通行人や車の往来を止めること)を行い、太官(たいかん)は真っ先に霍光(かくこう)に飲食を提供しました。

また以前、匈奴(きょうど)に使いした蘇武(そぶ)は20年間拘留(こうりゅう)されても降(くだ)らなかったのに、帰国後はただ典属国(てんぞっこく)*11に任命されただけであったにもかかわらず、大将軍(だいしょうぐん)長史(ちょうし)の楊敞(ようしょう)は何の功績もないのに捜粟都尉(そうぞくとい)とし、また勝手に大将軍府(だいしょうぐんふ)の校尉(こうい)の定員を増やしています。

霍光(かくこう)の専権・自恣(じし)(自分の思うがままに行動すること)は目に余るものがあり、『非常のこと(謀叛(むほん))を起こすのではないか』と疑われます。臣(しん)旦(たん)は燕王(えんおう)の符璽(ふじ)を返上して宿衛に入り、姦臣の異変を監視したいと願います。

脚注

*8原文:制一世之命。

*9秦(しん)時代に南海郡(なんかいぐん)・竜川県(りゅうせんけん)の県令(けんれい)、南海都尉(なんかいとい)となり、秦(しん)・漢(かん)交代期に独立して桂林郡(けいりんぐん)と象郡(しょうぐん)を合わせて南越(なんえつ)を建国した。

*10秦(しん)末期の反乱指導者。呉広(ごこう)とともに秦(しん)に反乱を起こし、旧楚(そ)の首都・陳城(ちんじょう)を占領し、国号を張楚(ちょうそ)として王位に就(つ)いた。(陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の乱)

*11夷狄(いてき)の投降者を司(つかさど)る官。官秩(かんちつ):二千石(にせんせき)。


翌朝、このことを聞いた霍光(かくこう)は、昭帝(しょうてい)の御殿の前にある西閣(せいかく)の画室(がしつ)に留(とど)まって、御殿に参内しなかった。

昭帝(しょうてい)が「大将軍(だいしょうぐん)(霍光(かくこう))はどこにおるのか」と問うと、左将軍(さしょうぐん)・上官桀(じょうかんけつ)は「燕王(えんおう)(劉旦(りゅうたん))に自分の罪を告発されたので、敢(あ)えて参内しようとしないのです」と答えた。


その後、昭帝(しょうてい)は詔(みことのり)をもって大将軍(だいしょうぐん)(霍光(かくこう))を召(め)した。

霍光(かくこう)が参内し、冠(かんむり)を脱ぎ頭を地面に擦(こす)りつけて謝罪すると、昭帝(しょうてい)は「将軍(しょうぐん)(霍光(かくこう))よ、冠(かんむり)を着けよ。朕(ちん)(私)はこの上書が偽(いつわ)りであることを知っている。将軍(しょうぐん)(霍光(かくこう))に罪はない」と言った。

これに霍光(かくこう)が「陛下にはどうしてそれがお分かりになられたのでしょうか」と問うと、昭帝(しょうてい)は「将軍(しょうぐん)(霍光(かくこう))は広明亭(こうめいてい)に行って郎(ろう)の属(やから)を演習させたに過ぎない。また校尉(こうい)を選考してからまだ10日にもならないのに、燕王(えんおう)(劉旦(りゅうたん))はどうしてそれを知ることができるだろうか。それに、将軍(しょうぐん)(霍光(かくこう))が謀叛(むほん)をしようとする場合、1、2人の校尉(こうい)に頼るはずがない」と答えた。

当時、昭帝(しょうてい)はまだ14歳であったので、尚書(しょうしょ)や左右の者たちはこの立派な返答にみな驚いた。

霍光(かくこう)を讒言(ざんげん)する上書をした者たちは逃亡し、早急に捕(と)り手が派遣された。上官桀(じょうかんけつ)らは懼(おそ)れて「そこまでする必要はありません」と申し上げたが、昭帝(しょうてい)は聴(き)き入れなかった。


その後また、上官桀(じょうかんけつ)の一味で霍光(かくこう)を讒言(ざんげん)した者があったが、昭帝(しょうてい)は怒って、

「大将軍(だいしょうぐん)(霍光(かくこう))は忠臣であり、先帝(武帝(ぶてい))から朕(ちん)(私)の身を補佐するように託(たく)された方である。敢(あ)えて毀(そし)ろうとする者があればこれを罪に落とそう」

と言ったので、これ以降、上官桀(じょうかんけつ)らは再び讒言(ざんげん)しようとしなかった。

自害

漢(かん)の元鳳(げんぽう)元年(紀元前80年)9月、上官桀(じょうかんけつ)らは謀(はかりごと)を巡(めぐ)らして、鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ)に宴会を催(もよお)させて霍光(かくこう)を招待し、あらかじめ兵を伏せて彼を打ち殺し、その機会に昭帝(しょうてい)を廃して燕王(えんおう)(劉旦(りゅうたん))を迎えて天子(てんし)に立てようとした。

ところが、事が未然に発覚し*12、霍光(かくこう)は上官桀(じょうかんけつ)・上官安(じょうかんあん)・桑弘羊(そうこうよう)・丁外人(ていがいじん)らをことごとく誅殺(ちゅうさつ)し、宗族の燕王(えんおう)・劉旦(りゅうたん)と鄂邑蓋主(がくゆうこうしゅ)は自害した。

脚注

*12『漢書(かんじょ)』燕刺王(えんらつおう)劉旦伝(りゅうたんでん)に「蓋主こうしゅ)(鄂邑長公主がくゆうちょうこうしゅ))の舎人(しゃじん)の父・燕倉(えんそう)が(劉旦(りゅうたん)の)陰謀を知って密告し、事が発覚した」とあるが、宴会の件は記載されていない。


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