友達に『三国志』を勧められたけど、小説にしてもマンガにしても長くて読むのが大変。ざっくり過ぎても分からない!
そんなあなたのために、名シーンを押さえながら『三国志演義』のあらすじを簡単にまとめてみました。
「三国志 勢力図」で検索されて訪問された方でより詳細な勢力図を確認したい場合は、1年ごとの勢力図のあるこちらのカテゴリーの記事をお勧めします。
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目次
舞台・時代背景
『三国志演義』の舞台は中国、時代は漢の時代になります。漢は1度滅んでしまいますので、滅びる前を前漢、再興した後の漢を後漢と言います。
『三国志演義』の物語は、後漢の末期(180年頃)から始まります。
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黄巾の乱
画像引用元:『Total War: THREE KINGDOMS』
後漢の霊帝の時代、汚職が横行して宦官や高級官僚たちが私腹を肥やしていたため、民衆には不満が蓄積されていました。
疲弊した民衆は太平道という新興宗教に救いを求め、その信者は瞬く間に中国全土に広まっていきます。
そして、太平道の教祖・張角は大きく膨れあがった信者たちを扇動し、後漢王朝に反乱を起こしました。
信者たちはみんな黄色い頭巾をつけていたことから、この反乱のことを黄巾の乱と言います。
その頃、漢の皇室の末裔である劉備は落ちぶれて平民となっていましたが、2人の豪傑・関羽、・張飛と義兄弟の誓いを立て、義勇軍を結成して黄巾の乱の鎮圧のために活躍します。
官軍や各地の義勇軍の活躍によって、黄巾の乱はわずか1年で平定されました。
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董卓の支配
画像引用元:『Total War: THREE KINGDOMS』
董卓暗殺計画
霊帝が亡くなると、その後継者争いの混乱につけ込んで悪名高い董卓が後漢の首都・洛陽にやってきます。
董卓は跡を継いだばかりの皇帝を廃位して幼い献帝を皇帝の位につけ、自分が後見人となって政治の実権を握りました。
朝廷の高官たちは董卓の残忍で傍若無人な振る舞いに怒りを覚えていましたが、彼の側には猛将・呂布がいて誰も逆らえません。
後漢の司徒・王允は、曹操に家宝の七星宝刀を託して董卓の暗殺を試みますが、暗殺に失敗した曹操は洛陽から逃げ出してしまいました。
反董卓連合軍
洛陽から逃げ出した曹操は、偽の詔を使って「董卓を倒そう!」と諸侯に呼びかけます。
この呼びかけに、後漢の名門・袁紹、袁術をはじめ多数の諸侯が集まり、袁紹を盟主とする「反董卓連合」が結成されました。この反董卓連合には、黄巾の乱で活躍した劉備・関羽・張飛も参加しています。
劉備たちの活躍で劣勢となった董卓は、洛陽を焼き払って西の長安に都を遷してしまいますが、この絶好の機会にもかかわらず、反董卓連合の盟主・袁紹は一向に戦おうとしません。
これにしびれを切らした曹操は単独で追撃を敢行しますが、大敗してしまいます。
やがて反董卓連合は、仲間割れを起こして目的を達することなく解散してしまいました。
董卓の死、呂布と貂蝉
一方、董卓の暗殺に失敗した王允は、絶世の美女である養女・貂蝉の協力を得て一計を案じます。
貂蝉は王允の屋敷を訪れた董卓配下の猛将・呂布に近づくと、貂蝉に一目惚れした呂布と結婚の約束をしました。
一方、王允は董卓を屋敷に招いて貂蝉に酌をさせると、女好きの董卓は貂蝉が気になって仕方ありません。それを見た王允が董卓に貂蝉を献上すると、董卓は喜んで貂蝉を連れて帰りました。
すると、董卓が貂蝉を連れ帰ったことを知った呂布は激怒して王允を問いただしますが、王允が「董卓には逆らえなかった」と泣きつくと呂布も引き下がらずを得ません。
そして、貂蝉を諦め切れない呂布は何度も貂蝉と密会して董卓の怒りを買い、2人は反目してとうとう呂布は董卓を殺してしまいました。
官渡の戦い
群雄割拠
董卓が死ぬと、董卓配下の李傕と郭汜が長安を攻め、王允は殺されて呂布は長安を脱出しました。幼い献帝は李傕・郭汜の手に握られることになります。
ですが、その後李傕と郭汜が仲間割れをしている隙に献帝は長安を脱出し、曹操に保護されて許都に移されました。
各地の諸侯は自分の勢力拡大に夢中になり、やがて冀州・幽州・并州・青州を手に入れた袁紹と、兗州・豫州・司隷・徐州を手に入れた曹操の間で緊張が高まっていきます。
200年頃の有力勢力・勢力図
関羽の千里行
先の戦いで曹操に敗北した劉備軍は、3兄弟が散り散りになって生死も分からない状態でした。
この時、曹操軍に囲まれた関羽は、
- 曹操に降るのではなく漢王朝に降ること
- 劉備の妻子を丁重に扱うこと
- 劉備の消息がつかめたら劉備のもとへ帰ること
という3つの条件を出して、曹操に降伏していました。
曹操は勇猛で忠義に厚い関羽を、なんとかして自分の配下にしようと贈り物をしますが、関羽は一切受け取ろうとしません。
そんな中、袁紹は曹操を糾弾する檄文を送りつけ、曹操に宣戦布告します。官渡の戦いの始まりです。
すると袁紹は、顔良・文醜の2人の猛将の働きで勝利を重ね、曹操は劣勢を強いられてしまいます。
ですが、そこへ関羽が進み出て顔良・文醜の2将を斬ると、曹操軍は勢いを盛り返すことができました。
そんな中、袁紹に身を寄せていた劉備は、戦場で曹操軍の中に関羽をみつけ、関羽に自分の消息を知らせる手紙を送ります。
手紙を見た関羽が曹操のもとを去ることを告げると、曹操は関羽の忠義に感心し、自ら送り出しました。
曹操の許可を得て劉備のもとへと急ぐ関羽ですが、曹操から通行手形を貰っていなかったため、行く先々の関所で引き留められてしまいます。
一刻も早く劉備と再会するために、関羽は5つの関所を破ることになってしまいました。
烏巣の急襲
猛将の顔良と文醜を失った袁紹は、優柔不断な性格から戦いを決断できなくなり、たびたび意見を変えたので、参謀たちは短期決戦派と持久戦派に分かれて対立するようになっていました。
ちょうどその頃、曹操軍の方でも兵糧が底を突き、撤退も考えるようになっていましたが、袁紹の参謀の1人である許攸が曹操に内通したことで状況が一変します。
曹操は許攸がもたらした情報を元に袁紹軍の兵糧が蓄えられている烏巣を強襲し、袁紹は撤退を余儀なくされました。
赤壁の戦い
三顧の礼
袁紹のもとを離れ、かつての臣下たちと再会した劉備は、今度は荊州の劉表を頼ることにしました。
劉表は劉備を歓迎し、対曹操の最前線である新野の守りを任せます。
新野で水鏡先生(司馬徽)に出会った劉備は、自分の陣営に知謀の持ち主がいないことを指摘され、「どちらか1人を得れば天下を獲れる」と言われている臥龍と鳳雛という2人の男の存在を知らされました。
その後、軍師(参謀)となる人物を探す劉備に、新野から程近い隆中に、諸葛亮という賢人が住んでいるという情報が入ります。
劉備は関羽・張飛を連れて、隆中の諸葛亮の庵を訪ねますが、あいにく諸葛亮は留守でした。
3度目の訪問でようやく諸葛亮に会うことができた劉備は、諸葛亮に自分の軍師になってくれるように懇願します。
最初は渋っていた諸葛亮ですが、劉備の熱意に負けて、荊州と蜀を奪って東の孫権と結び、北の曹操に対抗する「天下三分の計」を示して劉備の軍師になりました。
長坂坡(ちょうはんは)の戦い
劉備が諸葛亮を軍師に迎えた頃、最大のライバルであった袁紹を滅ぼした曹操は、次の目標を荊州に定めて南下を始めました。
諸葛亮の計略で1度は撃退した劉備ですが、劉表の跡を継いだ劉琮が降伏してしまったため、やむを得ず新野を捨てて、江夏の劉琦を頼ることにします。
こうして江夏を目指す劉備軍ですが、劉備を慕ってついてきた新野の領民がいるために曹操軍にすぐに追いつかれてしまいました。
この時、劉備の妻子の護衛を任されていた趙雲は劉備の息子・ 阿斗を抱き、群がる曹操軍の中を突破します。
長坂橋で待ち受けていた張飛は、単騎で駆けてくる趙雲を通すと、ただ1人橋の上に立って曹操軍を一喝します。張飛の武勇を恐れた曹操軍は一時撤退し、時間を稼ぐことに成功しました。
208年頃の有力勢力・勢力図
諸葛亮、呉に使者に立つ
江夏にたどり着いた劉備ですが、このままでは曹操にひと揉みに潰されてしまうことは間違いありません。
そんな時、荊州の次に狙われるのは呉(揚州)ではないかと、孫権配下の魯粛が様子を伺いに来ました。
すると諸葛亮は、呉の孫権と結んで共に曹操と戦うことを提案し、魯粛と一緒に自ら使者として呉に赴きます。
呉に着いてみると、孫権の重臣たちの間では主戦派と降伏派に分かれて連日議論が行われ、孫権も決めかねている状況です。
そんな中、諸葛亮は降伏派の重臣たちを鮮やかに論破して、孫権に曹操との対決を決意させました。
赤壁の戦い
曹操軍が長江・赤壁の対岸に布陣すると、孫権は、周瑜を大都督に任命して作戦を一任しました。
この時周瑜は、曹操軍を火計で打ち破りたいと考えていたのですが、この季節は北風が強く、火計を用いれば、その火は呉軍の方に燃え広がってしまうことが悩みでした。
諸葛亮は周瑜の作戦を言い当てると、曹操軍へと向かう「東南の風」を吹かせる約束をして祈祷を始めます。
諸葛亮の術で「東南の風」が吹くと、呉軍は曹操軍の軍船の大半を焼き払い、呉軍の大勝利となりました。
荊州争奪戦
呉軍が赤壁で勝利すると、劉備は曹操軍の混乱に乗じて南郡・武陵・長沙・零陵・桂陽の5郡を奪い取ってしまいます。
すると孫権は、国を挙げて曹操軍に大打撃を与えたのだから、荊州は孫権のものになるべきだと主張し、荊州は劉備が蜀(益州)を手に入れたら孫権に返すということで落ち着きました。
赤壁の戦い後の有力勢力・勢力図
劉備、蜀に入る
曹操、馬超を破る
「赤壁の戦い」で敗北した曹操は、今度は西涼(涼州)の馬騰に目標を定め、馬騰を許都に呼び出して殺してしまいます。
馬騰が殺されたことを知ると、息子の馬超は韓遂と共に長安に攻め上り、一時は曹操を追い込みますが、曹操の計略によって韓遂と仲間割れを起こして敗走しました。
劉備、蜀を得る
曹操に敗れて拠点を失った馬超が漢中の張魯を頼ると、張魯は馬超の武勇を頼みに蜀(益州)に攻め込む動きを見せ始めます。
馬超の来襲に怯える益州牧・劉璋は、荊州の劉備に援軍を求めることにしました。
ですが、劉備は援軍として蜀に入ると馬超を味方につけ、益州の州都・成都を包囲して劉璋を降伏させてしまいました。
三国鼎立(さんごくていりつ)
樊城(はんじょう)の戦い
劉備が蜀に入ると、また呉の孫権が荊州の返還を求めてきましたが、劉備はなかなか返そうとせず、劉備と孫権の関係が悪化してしまいます。
ですが、その隙をついて曹操が漢中に侵攻したため、劉備は長沙・桂陽の2郡を返還して孫権と和睦しました。
孫権と手を結び東の憂いがなくなった劉備は、漢中を攻め取って漢中王を名乗ります。
劉備が漢中を取り漢中王を名乗ったことで、荊州を任されていた関羽は「自分も手柄を立てたい!」と、独断で魏(曹操)の樊城に攻め込みました。
ですが、これによって荊州の守備が手薄になると、孫権は同盟を破棄。背後から攻撃して関羽を殺し、荊州を奪い取ってしまいました。
後漢の滅亡
孫権は劉備の怒りの矛先をそらすため、曹操に関羽の首を送りますが、曹操は手厚く弔います。
その後、曹操は64歳で亡くなってしまいました。
すると、曹操の跡を継いだ曹丕は献帝に禅譲(皇帝の位を譲ること)を迫り、皇帝となって魏の国を建国します。これにより、後漢王朝は完全に終焉を迎えたことになります。
一方、漢の皇室の末裔である劉備は、曹丕の即位を受け、後漢を正統に受け継ぐ国として蜀漢(蜀)を建国して帝位につきました。
夷陵(いりょう)の戦い
その後劉備は、諸葛亮ら多くの臣下が反対する中、関羽の仇討ちとして呉に出兵を敢行します。
序盤は勝利を重ねた劉備ですが、呉の陸遜の火計を受けて大敗。退却の途中に発病し、立ち寄った白帝城に諸葛亮を呼ぶと、彼に後事を託して亡くなってしまいました。
その後、孫権も呉を建国して皇帝の位についたので、中国大陸に1人しか存在しないはずの皇帝が、3人も並び立つ状態となりました。
三国鼎立時の有力勢力・勢力図
統一への動き
諸葛亮の北伐
劉備亡き後、蜀漢は子の劉禅が後を継ぎ、諸葛亮が国政の全権を握って、先帝の遺志である魏の討伐を目指すことになります。
諸葛亮はまず呉と和睦して同盟を結びなおし、たびたび反乱を起こす南蛮(蜀南部の異民族)の孟獲を心服させて、後顧の憂いを取り除きました。
その後、諸葛亮は5度に渡って北伐を行いましたが、蜀軍を迎え撃つ魏軍には、諸葛亮に匹敵する知恵者の司馬懿がおり、諸葛亮は決定的な勝利を得られぬまま、5度目の北伐の最中に亡くなってしまいます。
諸葛亮の死後、その遺志を継いだ姜維らによって北伐が続けられましたが、劉禅が宦官の黄皓を重用したため、国政が乱れて蜀漢の国力は一気に衰退してしまいました。
司馬一族の台頭
魏では帝位についた曹丕に続いて、第2代皇帝・曹叡も早世し、8歳の曹芳が皇帝になっていました。
政治の実権は曹一族の曹爽が握っていましたが、司馬懿のクーデターによって司馬一族の手に移り、司馬懿は皇帝の権力を取り戻そうとした曹芳を廃位して曹髦を皇帝につけました。
司馬懿が亡くなると、その実権は子の司馬師、弟の司馬昭へと引き継がれます。また、司馬昭に逆らった皇帝・曹髦は殺され、曹奐が皇帝になりました。
三国時代の終焉
こうして国内を盤石とした司馬昭は、蜀漢を攻めて劉禅を降伏させ、蜀漢は滅亡してしまいます。
そして、司馬昭が亡くなると、子の司馬炎が曹奐に禅譲を迫り、皇帝となって晋(西晋)を建国しました。
一方、呉では孫権が亡くなると、孫亮、孫休、孫皓と代を重ねていましたが、280年、晋の侵攻を受けた孫皓が降伏してしまいます。
こうして、黄巾の乱から始まった約100年の戦乱の時代は終焉を迎え、中国大陸は晋によって統一されました。