正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(112)睢陽灌氏(灌嬰・灌阿・灌彊・灌賢)+灌均です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
秦〜前漢:睢陽灌氏
魏の監国謁者
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か(112)
睢陽灌氏
睢陽灌氏系図
睢陽灌氏系図
※灌賢は「灌嬰の孫」とのみ記載あり。父親は不明。
灌嬰
生年不詳〜文帝の4年(紀元前176年)没。睢陽の人。
沛公(劉邦)に従って転戦する
潁陰侯・灌嬰は、睢陽の販繒者(絹商人)であった。
秦の末期、高祖(劉邦)は沛公となり各地を攻略して雍丘の城下に至ったが、項梁が秦の将・章邯に敗れて殺害されたため、引き返して碭に軍を置いた。
灌嬰は中涓*1として沛公(劉邦)に従い、成武において東郡の郡尉を撃ち破り、扛裏において秦軍と疾闘(激闘)し、七大夫の爵位を賜った。
また、亳の南・開封・曲遇における秦軍攻撃に従軍して速戦力闘し、執帛の爵位を賜って宣陵君と号した。
陽武以西、雒陽(洛陽)に至るまでの攻撃に従軍し、尸の北で秦軍を破り、北方の黄河の津を絶ち、南方の南陽の郡守・齮を陽城の東に破って、ついに南陽郡を平定した。
西方の武関から入って藍田で戦い、速戦力闘して覇上に至り、執珪の爵位を賜って昌文君と号した。
脚注
*1天子の側近くに仕え、禁中の掃除を掌る官職。
漢王(劉邦)に従って楚(項羽)と戦う
高祖元年(紀元前206年)、沛公(劉邦)が漢王に立つと、灌嬰は郎中に任命され、漢王(劉邦)に従って漢中に入り、10月には中謁者に任命された。
[漢王(劉邦)に]従い引き返して三秦(関中)を平定し、櫟陽を降伏させ、塞王(司馬欣)を降伏させた。引き返して廃丘において秦の将・章邯を包囲したが、陥落させることはできなかった。
東方の臨晋関から出て殷王(司馬卬)攻撃に従軍し、降伏させてその地を平定した。
項羽の将・龍且と魏の相(宰相)・項佗の軍を定陶の南で激戦してこれを破り、列侯の爵位を賜って昌文侯と号し、杜県の平郷を食邑として与えられた。
また、中謁者として従軍し、碭県から北は彭城に至るまでを降伏させた。
彭城の戦い後
高祖2年(紀元前205年)4月、彭城の戦いで項羽に大敗した漢王(劉邦)は西方に遁走し、灌嬰はこれに従い引き返して雍丘に軍を置いた。
その後、王武と魏公・申徒らが叛くと、灌嬰は漢王(劉邦)に従ってこれを撃ち破り、外黄を攻め下して西方の兵を収め、滎陽に軍を置いた。
騎将となる
楚(項羽)の騎兵の来襲に際し、漢王(劉邦)が軍中から騎将を選ぼうとしたところ、みな、
「秦の騎士であった重泉県出身の李必と駱甲は騎兵に習熟しています。今は校尉となっておりすが、彼らを騎将とするべきです」
と言って李必と駱甲を推薦した。
これを受け、漢王(劉邦)はその2人を騎将に任命しようとしたが、李必と駱甲は、
「臣たちは元は秦の民です。恐らく我が軍の人々は臣たちを信用しないでしょう。大王(劉邦)の近臣の中から馬術に優れた方を選んで騎将とし、臣たちはその輔佐を務めることを願います」
と言った。
そこで漢王(劉邦)は「灌嬰はまだ若いが、数々の戦いで奮戦している」ことから、彼を中大夫に任命し、李必と駱甲をその左右の校尉とした。
こうして灌嬰は郎中の騎兵を率いて楚の騎兵を滎陽の東で攻撃し、これを大いに破った。
詔を受け、別軍を率いて楚軍の背後を撃ち、陽武から襄邑に至る敵の餉道(糧道)を絶つと、魯の城下で項羽の将・項冠を破り、麾下の兵卒が右司馬と騎将、それぞれ1人を斬った。
また燕の西方で柘公と王武を撃ち、麾下の兵卒が楼煩*2の将・5人と連尹・1人を斬った。
白馬の城下で王武の別将・桓嬰を破り、麾下の兵卒が都尉・1人を斬った。
騎兵を率いて黄河の南に渡り、漢王(劉邦)を送って雒陽(洛陽)に到着し、北方に派遣されて相国・韓信の軍を邯鄲に迎え、引き返して敖倉に至ると、灌嬰は御史大夫に遷った。
脚注
*2オルドス地方一帯に遊牧する異民族。またはその国名。 騎射を得意とする。
韓信に属して斉を平定する
3年後、列侯の食邑として杜県の平郷を与えられた。*3
(御史大夫として*4)詔を受け、郎中の騎兵を率いて東方の相国・韓信に属し、歴下で斉軍を撃ち破り、麾下の兵卒が車騎将軍・華毋傷(華無傷)と将士・軍吏46人を捕虜にした。
臨菑を降して斉の守相・田光を捕え、斉の相(宰相)・田横を追撃し、嬴・博に至ってその騎兵を破り、麾下の兵卒が敵の騎将・1人を斬り、騎将・4人を生け捕りにした。
嬴・博を攻め降し、千乗で斉の将軍・田吸を破り、(麾下の兵卒が*4)田吸を斬った。
東方の韓信に従い、高密*5において龍且と留公・旋*4(姓氏不詳)を攻め、麾下の兵卒が龍且を斬り、右司馬と連尹、それぞれ1人、楼煩*2の将・10人を生け捕りにし、灌嬰も自ら亜将(副将)・周蘭を生け捕りにした。
斉の地が平定されると、韓信は自ら立って斉王となった。
灌嬰は(韓信の)別将として魯の北で楚の将・公杲を撃ってこれを破り、南に転じて薛の郡長を破り、自ら騎将・1人を捕虜にした。
その後、傅陽を攻め、前進して下相から東南の僮・取慮・徐に至ると、淮水を渡ってその南岸の城邑の悉くを降伏させ、広陵に至った。
項羽が項声(項聲)・薛公・郯公を派遣して再び淮水の北方を平定させた。
すると灌嬰は、淮水を北に渡って項声(項聲)と郯公を下邳で撃ち破り、薛公を斬って下邳(と寿春*6)を降伏させ、平陽で楚の騎兵を撃破。ついに彭城を降伏させて柱国の項佗を捕虜にし、留・薛・沛・酇・蕭・相を降伏させ、苦・焦を攻めて、再び亜将(副将)(・周蘭*4)を捕えた。
その後、灌嬰は漢王(劉邦)と頤郷で合流し、漢王(劉邦)に従って陳の城下で項籍(項羽)の軍を破り、麾下の兵卒が楼煩*2の将・2人を斬り、騎将・8人を捕虜にした。
これらの功績により、灌嬰は食邑・2,500戸を加増された。
脚注
*2オルドス地方一帯に遊牧する異民族。またはその国名。 騎射を得意とする。
*3原文:三年,以列侯食邑杜平鄉。灌嬰はこれ以前に列侯に封ぜられ、食邑として杜の平郷を与えられている。
*4『史記』灌嬰伝より。『漢書』灌嬰伝には記載なし。
*5『史記』灌嬰伝より。『漢書』灌嬰伝では仮密。仮密は高密の西南。
*6『漢書』灌嬰伝より。『史記』灌嬰伝には記載なし。
垓下の戦い後
項籍(項羽)が垓下で敗れ去ると、灌嬰は御史大夫として詔を受け、車騎を率いて別軍として項籍(項羽)を追撃し、東城に至ってこれを破った。
この時、麾下の兵卒・5人が協力して項籍(項羽)を斬り、みな列侯の爵位を賜った。
灌嬰は左右の司馬それぞれ1人、兵卒・1万2千人を降伏させ、その将士・軍吏の悉くを捕らえると、東城と歴陽を降伏させ、長江を渡って呉郡の郡長を呉の城下で破り、呉郡の郡守を捕虜にした。
こうしてついに、呉郡・豫章郡・会稽郡を平定し、引き返して淮水の北方の52県を平定した。
漢王(劉邦)の皇帝即位
高祖5年(紀元前202年)、漢王(劉邦)が皇帝に即位すると、灌嬰は食邑・3,000戸を加増された。
その秋、灌嬰は車騎将軍として高帝(劉邦)の燕王・臧荼攻撃に従軍し、これを撃ち破った。
翌年の高祖6年(紀元前201年)、高帝(劉邦)に従って陳に至り、楚王・韓信を捕えた。帰還すると、剖符(割符)を剖き与えられ、代々の世襲を許されて、食邑として潁陰の2,500戸を与えられ(、潁陰侯と号し*4)た。
(車騎将軍として*4)高帝(劉邦)に従軍し、代において謀反した韓王信を撃ち、馬邑に至った。
詔を受け、別軍をもって楼煩*2以北の6県を降伏させ、代の左将*7を斬り、武泉の北で胡騎*8を破った。
また、高帝(劉邦)に従軍し、晋陽の城下で韓信(韓王信)の胡騎*8を攻撃し、麾下の兵卒が胡の白題(匈奴の1部族)の将・1人を斬った。
詔を受け、燕・趙・斉・梁・楚の車騎を率い、硰石で胡騎*8を撃ち破った。
その後 平城に至ったところで胡(匈奴)に包囲された[が、高帝(劉邦)に従って引き返し、東垣に軍を置いた*4]。
高帝(劉邦)に従って陳豨を攻撃し、詔を受け、別軍をもって曲逆の城下に陳豨の丞相・侯敞を攻撃してこれを破り、兵卒が侯敞と特将*9・5人を斬った。
曲逆・盧奴・上曲陽・安国・安平を降伏させ、東垣を攻め降した。
脚注
*4『史記』灌嬰伝より。『漢書』灌嬰伝には記載なし。
*7『漢書』灌嬰伝より。『史記』灌嬰伝では左相。
*8異民族の騎兵。ここでは匈奴の騎兵。
*9一方面軍の主将。
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黥布(英布)の反乱
黥布(英布)が叛くと、灌嬰は車騎将軍として先に出撃し、黥布(英布)の別将を相で攻め破り、亜将(副将)と楼煩*2の将・3人を斬った。
また、軍を進めて黥布(英布)の上柱国と大司馬の軍を破ると、さらに進んで黥布(英布)の別将・肥銖*10を破った。
灌嬰も自ら左司馬・1人を生け捕りにし、麾下の兵卒が小将・10人を斬ると、逃走する敵を追って淮水の畔に至った。
この功績により、灌嬰は食邑・2,500戸を加増された。
脚注
*2オルドス地方一帯に遊牧する異民族。またはその国名。 騎射を得意とする。
*10『漢書』灌嬰伝より。『史記』灌嬰伝では肥誅。
灌嬰の戦績
黥布(英布)を破り帰還した高帝(劉邦)は、灌嬰のこれまでの食邑を除き、改めて潁陰の5,000戸を彼の食邑と定めた。
これまでの灌嬰の戦績は、
- 高帝(劉邦)に従って捕らえた二千石(郡守):2人
- 別軍を率いて敵軍を破った回数:16回
- (別軍を率いて)降伏させた城の数:46城
- (別軍を率いて)平定した国の数:1国
- (別軍を率いて)平定した郡の数:2郡
- (別軍を率いて)平定した県の数:52県
- (別軍を率いて)捕らえた将軍の数:2人
- (別軍を率いて)捕らえた柱国の数:1人
- (別軍を率いて)捕らえた相国の数:1人
- (別軍を率いて)捕らえた二千石(郡守):10人
であった。*11
脚注
*11原文:凡從得二千石二人,別破軍十六,降城四十六,定國一,郡二,縣五十二,得將軍二人,柱國、相國各一人,二千石十人。
呂氏の一族を誅滅する
灌嬰が自ら黥布(英布)を破って帰還した後、高帝(劉邦)が崩御したので、灌嬰は列侯として孝恵帝と呂太后に仕えた。
呂太后が崩御すると、(呂太后の兄の子・)呂禄らは(趙王として自ら将軍となり、長安に軍を置いて*4)乱を起こしたそうとしたが、この計画を聞いた斉の哀王は、兵を挙げて西向かい、(長安に)入って王の資格がない者(呂禄ら)を誅滅しようとした。
上将軍・呂禄らはこれを聞くと、灌嬰を大将軍*12として派遣してこれを迎撃させたが、灌嬰は滎陽に至ると絳侯(周勃)らと謀って兵を滎陽に駐屯させたまま、斉王(斉の哀王)にそれとなく「呂氏誅滅の計画」をほのめかしたため、斉王は兵を止めて前進しなかった。
絳侯(周勃)らが呂氏の一族を誅滅すると、斉王は兵をまとめて帰還し、灌嬰もまた滎陽から帰還して、絳侯(周勃)・陳平と共に代王を立てて孝文皇帝(文帝)とした。
この功績により、孝文皇帝は灌嬰の食邑を3,000戸加増し、黄金千斤を下賜して太尉に任命しました。
脚注
*4『史記』灌嬰伝より。『漢書』灌嬰伝には記載なし。
*12『漢書』灌嬰伝より。『史記』灌嬰伝では「大将」
丞相となる
文帝の3年(紀元前177年)、絳侯・周勃は相(丞相)を罷免され[て国(封国)に赴き*4]、灌嬰が丞相となって太尉の職を辞した。
この年の夏、匈奴が大挙して北地郡(と上郡*4)に侵入すると、丞相・灌嬰は8万5千騎を率いて匈奴を擊つように命ぜられたが、匈奴が去り、また済北王が叛いたことから、詔が下され兵を引き揚げて帰還した。
その1年余り後、灌嬰は丞相の在任中に亡くなり、懿侯と諡された。
脚注
*4『史記』灌嬰伝より。『漢書』灌嬰伝には記載なし。
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灌阿
生没年不詳*13。父は灌嬰。
灌嬰が亡くなると、灌嬰の子・灌阿が潁陰侯の爵位を継ぎ、その28年後に亡くなった。
平侯と諡された。
脚注
*13『漢書』灌嬰伝より。維基百科には、景帝の中元2年(紀元前148年)に亡くなったとある。
『漢書』灌嬰伝:子平侯阿代侯。二十八年卒,子彊代侯。
維基百科:子平侯灌阿嗣,二十八年孝景中元二年薨。
灌彊
生没年不詳*14。父は灌阿。祖父は灌嬰。
灌阿の子・灌彊が潁陰侯の爵位を継いだ。
13年後、灌彊は罪を犯し、2年間爵位を剥奪された。
脚注
*14『漢書』灌嬰伝より。維基百科には、武帝の建元2年(紀元前139年)に亡くなったとある。
『漢書』灌嬰伝:子彊代侯。十三年,彊有罪,絕二歲。
維基百科:孙彊嗣,十三年孝武建元二年薨,彊有罪绝二岁。
灌均
灌均
生没年不詳。魏の監国謁者。
後漢の建安25年(220年)、曹丕が魏王に即くと、魏王・曹丕は、弟の曹植を太子とするよう父の曹操に勧めていた丁儀・丁廙兄弟とその一族の男性を誅殺し、曹植は諸侯と共に国(封国)に赴いた。
魏の黄初2年(221年)、監国謁者の灌均は文帝(曹丕)に希指(迎合)して、
「曹植は酒に酔って悖慢*15となり、使者を劫脅(脅迫)しました」
と上奏した。
有司(所管の役人)は曹植の罪を調べて裁くことを求めたが、文帝(曹丕)は太后*16の気持ちを配慮して、
「植(曹植)は朕(曹丕)の同母弟である。朕(曹丕)には天下に許容できないものはない。まして相手は植(曹植)ではないか?骨肉の親(肉親)は舍して誅さず、植(曹植)を改封させることとする」
と詔を下し、曹植の爵位を貶として安郷侯とした。
脚注
*15道理から外れ、他人を見下すこと。
*16卞氏。曹丕・曹彰・曹植・曹熊の母。
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