正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(112)睢陽(すいよう)灌氏(かんし)(灌嬰(かんえい)・灌阿(かんあ)・灌彊(かんきょう)・灌賢(かんけん))+灌均(かんきん)です。

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凡例・目次

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次

秦(しん)〜前漢(ぜんかん):睢陽(すいよう)灌氏(かんし)

魏(ぎ)の監国謁者(かんこくえっしゃ)


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か(112)

睢陽灌氏

睢陽(すいよう)灌氏(かんし)系図

睢陽灌氏系図

睢陽(すいよう)灌氏(かんし)系図

※灌賢(かんけん)は「灌嬰(かんえい)の孫」とのみ記載あり。父親は不明。


灌嬰(かんえい)

生年不詳〜文帝(ぶんてい)の4年(紀元前176年)没。睢陽(すいよう)の人。

沛公(劉邦)に従って転戦する

潁陰侯(えいいんこう)・灌嬰(かんえい)は、睢陽(すいよう)の販繒者(はんそうしゃ)(絹商人)であった。

秦(しん)の末期、高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))は沛公(はいこう)となり各地を攻略して雍丘(ようきゅう)の城下に至ったが、項梁(こうりょう)が秦(しん)の将・章邯(しょうかん)に敗(やぶ)れて殺害されたため、引き返して碭(とう)に軍を置いた。

灌嬰(かんえい)は中涓(ちゅうけん)*1として沛公(はいこう)(劉邦(りゅうほう))に従い、成武(せいぶ)において東郡(とうぐん)の郡尉(ぐんい)を撃ち破り、扛裏(こうり)において秦(しん)軍と疾闘(激闘)し、七大夫(しつたいふ)の爵位を賜(たまわ)った。

また、亳(はく)の南・開封(かいほう)・曲遇(きょくぐう)における秦(しん)軍攻撃に従軍して速戦力闘し、執帛(しっぱく)の爵位を賜(たまわ)って宣陵君(せんりょうくん)と号した。

陽武(ようぶ)以西、雒陽(らくよう)(洛陽(らくよう))に至るまでの攻撃に従軍し、尸(し)の北で秦(しん)軍を破り、北方の黄河(こうが)の津(わたし)を絶(た)ち、南方の南陽(なんよう)の郡守(ぐんしゅ)・齮(ぎ)を陽城(ようじょう)の東に破って、ついに南陽郡(なんようぐん)を平定した。

西方の武関(ぶかん)から入って藍田(らんでん)で戦い、速戦力闘して覇上(はじょう)に至り、執珪(しつけい)の爵位を賜(たまわ)って昌文君(しょうぶんくん)と号した。

脚注

*1天子(てんし)の側(そば)近くに仕え、禁中の掃除を掌(つかさど)る官職。

漢王(劉邦)に従って楚(項羽)と戦う

高祖(こうそ)元年(紀元前206年)、沛公(はいこう)(劉邦(りゅうほう))が漢王(かんおう)に立つと、灌嬰(かんえい)は郎中(ろうちゅう)に任命され、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))に従って漢中(かんちゅう)に入り、10月には中謁者(ちゅうえっしゃ)に任命された。

[漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))に]従い引き返して三秦(さんしん)(関中(かんちゅう))を平定し、櫟陽(れきよう)を降伏させ、塞王(さいおう)(司馬欣(しばきん))を降伏させた。引き返して廃丘(はいきゅう)において秦(しん)の将・章邯(しょうかん)を包囲したが、陥落させることはできなかった。

東方の臨晋関(りんしんかん)から出て殷王(いんおう)(司馬卬(しばごう))攻撃に従軍し、降伏させてその地を平定した。

項羽(こうう)の将・龍且(りゅうしょ)と魏(ぎ)の相(しょう)(宰相(さいしょう))・項佗(こうた)の軍を定陶(ていとう)の南で激戦してこれを破り、列侯(れっこう)の爵位を賜(たまわ)って昌文侯(しょうぶんこう)と号し、杜県(とけん)の平郷(へいきょう)を食邑(しょくゆう)として与えられた。

また、中謁者(ちゅうえっしゃ)として従軍し、碭県(とうけん)から北は彭城(ほうじょう)に至るまでを降伏させた。

彭城の戦い後

高祖(こうそ)2年(紀元前205年)4月、彭城(ほうじょう)の戦いで項羽(こうう)に大敗した漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は西方に遁走(とんそう)し、灌嬰(かんえい)はこれに従い引き返して雍丘(ようきゅう)に軍を置いた。

その後、王武(おうぶ)と魏公(ぎこう)・申徒(しんと)らが叛(そむ)くと、灌嬰(かんえい)は漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))に従ってこれを撃ち破り、外黄(がいこう)を攻め下して西方の兵を収(おさ)め、滎陽(けいよう)に軍を置いた。

騎将となる

楚(そ)(項羽(こうう))の騎兵の来襲に際し、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))が軍中から騎将(きしょう)を選ぼうとしたところ、みな、

「秦(しん)の騎士(きし)であった重泉県(ちょうせんけん)出身の李必(りひつ)と駱甲(らくこう)は騎兵に習熟しています。今は校尉(こうい)となっておりすが、彼らを騎将(きしょう)とするべきです」

と言って李必(りひつ)と駱甲(らくこう)を推薦した。

これを受け、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))はその2人を騎将(きしょう)に任命しようとしたが、李必(りひつ)と駱甲(らくこう)は、

「臣(わたくし)たちは元は秦(しん)の民です。恐らく我が軍の人々は臣(わたくし)たちを信用しないでしょう。大王(だいおう)(劉邦(りゅうほう))の近臣の中から馬術に優れた方を選んで騎将(きしょう)とし、臣(わたくし)たちはその輔佐を務(つと)めることを願います」

と言った。

そこで漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は「灌嬰(かんえい)はまだ若いが、数々の戦いで奮戦している」ことから、彼を中大夫(ちゅうたいふ)に任命し、李必(りひつ)と駱甲(らくこう)をその左右の校尉(こうい)とした。


こうして灌嬰(かんえい)は郎中(ろうちゅう)の騎兵を率(ひき)いて楚(そ)の騎兵を滎陽(けいよう)の東で攻撃し、これを大いに破った。

詔(みことのり)を受け、別軍を率(ひき)いて楚(そ)軍の背後を撃(う)ち、陽武(ようぶ)から襄邑(じょうゆう)に至る敵の餉道(しようどう)(糧道)を絶(た)つと、魯(ろ)の城下で項羽(こうう)の将・項冠(こうかん)を破り、麾下(きか)の兵卒が右司馬(ゆうしば)と騎将(きしょう)、それぞれ1人を斬った。

また燕(えん)の西方で柘公(しゃこう)と王武(おうぶ)を撃(う)ち、麾下(きか)の兵卒が楼煩(ろうはん)*2の将・5人と連尹(れんいん)・1人を斬った。

白馬(はくば)の城下で王武(おうぶ)の別将・桓嬰(かんえい)を破り、麾下(きか)の兵卒が都尉(とい)・1人を斬った。

騎兵を率(ひき)いて黄河(こうが)の南に渡り、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))を送って雒陽(らくよう)(洛陽(らくよう))に到着し、北方に派遣されて相国(しょうこく)・韓信(かんしん)の軍を邯鄲(かんたん)に迎え、引き返して敖倉(ごうそう)に至ると、灌嬰(かんえい)は御史大夫(ぎょしだいふ)に遷(うつ)った。

脚注

*2オルドス地方一帯に遊牧する異民族。またはその国名。 騎射を得意とする。

韓信に属して斉を平定する

3年後、列侯(れっこう)の食邑(しょくゆう)として杜県(とけん)の平郷(へいきょう)を与えられた。*3

(御史大夫(ぎょしだいふ)として*4)詔(みことのり)を受け、郎中(ろうちゅう)の騎兵を率(ひき)いて東方の相国(しょうこく)・韓信(かんしん)に属し、歴下(れきか)で斉(せい)軍を撃ち破り、麾下(きか)の兵卒が車騎将軍(しゃきしょうぐん)・華毋傷(かぶしょう)(華無傷(かぶしょう))と将士・軍吏46人を捕虜にした。

臨菑(りんし)を降(くだ)して斉(せい)の守相(しゅしょう)・田光(でんこう)を捕え、斉(せい)の相(しょう)(宰相(さいしょう))・田横(でんおう)を追撃し、嬴(えい)・博(はく)に至ってその騎兵を破り、麾下(きか)の兵卒が敵の騎将(きしょう)・1人を斬り、騎将(きしょう)・4人を生け捕りにした。

嬴(えい)・博(はく)を攻め降(くだ)し、千乗(せんじょう)で斉(せい)の将軍(しょうぐん)・田吸(でんきゅう)を破り、(麾下(きか)の兵卒が*4)田吸(でんきゅう)を斬った。

東方の韓信(かんしん)に従い、高密(こうみつ)*5において龍且(りゅうしょ)と留公(りゅうこう)・旋(せん)*4(姓氏不詳)を攻め、麾下(きか)の兵卒が龍且(りゅうしょ)を斬り、右司馬(ゆうしば)と連尹(れんいん)、それぞれ1人、楼煩(ろうはん)*2の将・10人を生け捕りにし、灌嬰(かんえい)も自(みずか)ら亜将(あしょう)(副将)・周蘭(しゅうらん)を生け捕りにした。


斉(せい)の地が平定されると、韓信(かんしん)は自(みずか)ら立って斉王(せいおう)となった。

灌嬰(かんえい)は(韓信(かんしん)の)別将として魯(ろ)の北で楚(そ)の将・公杲(こうこう)を撃(う)ってこれを破り、南に転じて薛(せつ)の郡長(ぐんちょう)を破り、自(みずか)ら騎将(きしょう)・1人を捕虜にした。

その後、傅陽(ふよう)を攻め、前進して下相(かしょう)から東南の僮(どう)・取慮(しゅりょ)・徐(じょ)に至ると、淮水(わいすい)を渡ってその南岸の城邑(じょうゆう)の悉(ことごと)くを降伏させ、広陵(こうりょう)に至った。


項羽(こうう)が項声(こうせい)(項聲(こうせい))・薛公(せつこう)・郯公(たんこう)を派遣して再び淮水(わいすい)の北方を平定させた。

すると灌嬰(かんえい)は、淮水(わいすい)を北に渡って項声(こうせい)(項聲(こうせい))と郯公(たんこう)を下邳(かひ)で撃ち破り、薛公(せつこう)を斬って下邳(かひ)(と寿春(じゅしゅん)*6)を降伏させ、平陽(へいよう)で楚(そ)の騎兵を撃破。ついに彭城(ほうじょう)を降伏させて柱国(ちゅうこく)の項佗(こうた)を捕虜にし、留(りゅう)・薛(せつ)・沛(はい)・酇(さ)・蕭(しょう)・相(しょう)を降伏させ、苦(こ)・焦(しょう)を攻めて、再び亜将(あしょう)(副将)(・周蘭(しゅうらん)*4)を捕えた。

その後、灌嬰(かんえい)は漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))と頤郷(いきょう)で合流し、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))に従って陳(ちん)の城下で項籍(こうせき)(項羽(こうう))の軍を破り、麾下(きか)の兵卒が楼煩(ろうはん)*2の将・2人を斬り、騎将(きしょう)・8人を捕虜にした。

これらの功績により、灌嬰(かんえい)は食邑(しょくゆう)・2,500戸を加増された。

脚注

*2オルドス地方一帯に遊牧する異民族。またはその国名。 騎射を得意とする。

*3原文:三年,以列侯食邑杜平鄉。灌嬰(かんえい)はこれ以前に列侯(れっこう)に封ぜられ、食邑(しょくゆう)として杜(と)の平郷(へいきょう)を与えられている。

*4『史記(しき)』灌嬰伝(かんえいでん)より。『漢書(かんじょ)』灌嬰伝(かんえいでん)には記載なし。

*5『史記(しき)』灌嬰伝(かんえいでん)より。『漢書(かんじょ)』灌嬰伝(かんえいでん)では仮密(かみつ)。仮密(かみつ)は高密(こうみつ)の西南。

*6『漢書(かんじょ)』灌嬰伝(かんえいでん)より。『史記(しき)』灌嬰伝(かんえいでん)には記載なし。

垓下の戦い後

項籍(こうせき)(項羽(こうう))が垓下(がいか)で敗(やぶ)れ去ると、灌嬰(かんえい)は御史大夫(ぎょしだいふ)として詔(みことのり)を受け、車騎(しゃき)を率(ひき)いて別軍として項籍(こうせき)(項羽(こうう))を追撃し、東城(とうじょう)に至ってこれを破った。

この時、麾下(きか)の兵卒・5人が協力して項籍(こうせき)(項羽(こうう))を斬り、みな列侯(れっこう)の爵位を賜(たまわ)った。

灌嬰(かんえい)は左右の司馬(しば)それぞれ1人、兵卒・1万2千人を降伏させ、その将士・軍吏の悉(ことごと)くを捕らえると、東城(とうじょう)と歴陽(れきよう)を降伏させ、長江(ちょうこう)を渡って呉郡(ごぐん)の郡長(ぐんちょう)を呉(ご)の城下で破り、呉郡(ごぐん)の郡守(ぐんしゅ)を捕虜にした。

こうしてついに、呉郡(ごぐん)・豫章郡(よしょうぐん)・会稽郡(かいけいぐん)を平定し、引き返して淮水(わいすい)の北方の52県を平定した。

漢王(劉邦)の皇帝即位

高祖(こうそ)5年(紀元前202年)、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))が皇帝に即位すると、灌嬰(かんえい)は食邑(しょくゆう)・3,000戸を加増された。

その秋、灌嬰(かんえい)は車騎将軍(しゃきしょうぐん)として高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))の燕王(えんおう)・臧荼(ぞうと)攻撃に従軍し、これを撃ち破った。

翌年の高祖(こうそ)6年(紀元前201年)、高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))に従って陳(ちん)に至り、楚王(そおう)・韓信(かんしん)を捕えた。帰還すると、剖符(ほうふ)(割符)を剖(さ)き与えられ、代々の世襲を許されて、食邑(しょくゆう)として潁陰(えいいん)の2,500戸を与えられ(、潁陰侯(えいいんこう)と号し*4)た。


(車騎将軍(しゃきしょうぐん)として*4)高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))に従軍し、代(だい)において謀反(むほん)した韓王信(かんおうしん)を撃(う)ち、馬邑(ばゆう)に至った。

詔(みことのり)を受け、別軍をもって楼煩(ろうはん)*2以北の6県を降伏させ、代(だい)の左将(さしょう)*7を斬り、武泉(ぶせん)の北で胡騎(こき)*8を破った。

また、高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))に従軍し、晋陽(しんよう)の城下で韓信(かんしん)(韓王信(かんおうしん))の胡騎(こき)*8を攻撃し、麾下(きか)の兵卒が胡(こ)の白題(はくだい)(匈奴(きょうど)の1部族)の将・1人を斬った。

詔(みことのり)を受け、燕(えん)・趙(ちょう)・斉(せい)・梁(りょう)・楚(そ)の車騎を率(ひき)い、硰石(させき)で胡騎(こき)*8を撃ち破った。

その後 平城(へいじょう)に至ったところで胡(こ)(匈奴(きょうど))に包囲された[が、高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))に従って引き返し、東垣(とうえん)に軍を置いた*4]。

高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))に従って陳豨(ちんき)を攻撃し、詔(みことのり)を受け、別軍をもって曲逆(きょくげき)の城下に陳豨(ちんき)の丞相(じょうしょう)・侯敞(こうしょう)を攻撃してこれを破り、兵卒が侯敞(こうしょう)と特将(とくしょう)*9・5人を斬った。

曲逆(きょくげき)・盧奴(ろど)・上曲陽(じょうきょくよう)・安国(あんこく)・安平(あんぺい)を降伏させ、東垣(とうえん)を攻め降(くだ)した。

脚注

*4『史記(しき)』灌嬰伝(かんえいでん)より。『漢書(かんじょ)』灌嬰伝(かんえいでん)には記載なし。

*7『漢書(かんじょ)』灌嬰伝(かんえいでん)より。『史記(しき)』灌嬰伝(かんえいでん)では左相(さしょう)。

*8異民族の騎兵。ここでは匈奴(きょうど)の騎兵。

*9一方面軍の主将。

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黥布(英布)の反乱

黥布(げいふ)(英布(えいふ))が叛(そむ)くと、灌嬰(かんえい)は車騎将軍(しゃきしょうぐん)として先に出撃し、黥布(げいふ)(英布(えいふ))の別将を相(しょう)で攻め破り、亜将(あしょう)(副将)と楼煩(ろうはん)*2の将・3人を斬った。

また、軍を進めて黥布(げいふ)(英布(えいふ))の上柱国(じょうちゅうこく)と大司馬(だいしば)の軍を破ると、さらに進んで黥布(げいふ)(英布(えいふ))の別将・肥銖(ひしゅ)*10を破った。

灌嬰(かんえい)も自(みずか)ら左司馬(さしば)・1人を生け捕りにし、麾下(きか)の兵卒が小将・10人を斬ると、逃走する敵を追って淮水(わいすい)の畔(ほとり)に至った。

この功績により、灌嬰(かんえい)は食邑(しょくゆう)・2,500戸を加増された。

脚注

*2オルドス地方一帯に遊牧する異民族。またはその国名。 騎射を得意とする。

*10『漢書(かんじょ)』灌嬰伝(かんえいでん)より。『史記(しき)』灌嬰伝(かんえいでん)では肥誅(ひちゅう)。

灌嬰の戦績

黥布(げいふ)(英布(えいふ))を破り帰還した高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))は、灌嬰(かんえい)のこれまでの食邑(しょくゆう)を除(のぞ)き、改めて潁陰(えいいん)の5,000戸を彼の食邑(しょくゆう)と定めた。

これまでの灌嬰(かんえい)の戦績は、

  • 高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))に従って捕らえた二千石(にせんせき)(郡守(ぐんしゅ)):2人
  • 別軍を率(ひき)いて敵軍を破った回数:16回
  • (別軍を率(ひき)いて)降伏させた城の数:46城
  • (別軍を率(ひき)いて)平定した国の数:1国
  • (別軍を率(ひき)いて)平定した郡の数:2郡
  • (別軍を率(ひき)いて)平定した県の数:52県
  • (別軍を率(ひき)いて)捕らえた将軍(しょうぐん)の数:2人
  • (別軍を率(ひき)いて)捕らえた柱国(ちゅうこく)の数:1人
  • (別軍を率(ひき)いて)捕らえた相国(しょうこく)の数:1人
  • (別軍を率(ひき)いて)捕らえた二千石(にせんせき)(郡守(ぐんしゅ)):10人

であった。*11

脚注

*11原文:凡從得二千石二人,別破軍十六,降城四十六,定國一,郡二,縣五十二,得將軍二人,柱國、相國各一人,二千石十人。

呂氏の一族を誅滅する

灌嬰(かんえい)が自(みずか)ら黥布(げいふ)(英布(えいふ))を破って帰還した後、高帝(こうてい)(劉邦(りゅうほう))が崩御(ほうぎょ)したので、灌嬰(かんえい)は列侯(れっこう)として孝恵帝(こうけいてい)と呂太后(りょたいこう)に仕えた。

呂太后(りょたいこう)が崩御(ほうぎょ)すると、(呂太后(りょたいこう)の兄の子・)呂禄(りょろく)らは(趙王(ちょうおう)として自(みずか)ら将軍(しょうぐん)となり、長安(ちょうあん)に軍を置いて*4)乱を起こしたそうとしたが、この計画を聞いた斉(せい)の哀王(あいおう)は、兵を挙(あ)げて西向かい、(長安(ちょうあん)に)入って王(おう)の資格がない者(呂禄(りょろく)ら)を誅滅(ちゅうさつ)しようとした。

上将軍(じょうしょうぐん)・呂禄(りょろく)らはこれを聞くと、灌嬰(かんえい)を大将軍(だいしょうぐん)*12として派遣してこれを迎撃させたが、灌嬰(かんえい)は滎陽(けいよう)に至ると絳侯(こうこう)(周勃(しゅうぼつ))らと謀(はか)って兵を滎陽(けいよう)に駐屯させたまま、斉王(せいおう)(斉(せい)の哀王(あいおう))にそれとなく「呂氏(りょし)誅滅(ちゅうめつ)の計画」をほのめかしたため、斉王(せいおう)は兵を止めて前進しなかった。

絳侯(こうこう)(周勃(しゅうぼつ))らが呂氏(りょし)の一族を誅滅(ちゅうめつ)すると、斉王(せいおう)は兵をまとめて帰還し、灌嬰(かんえい)もまた滎陽(けいよう)から帰還して、絳侯(こうこう)(周勃(しゅうぼつ))・陳平(ちんぺい)と共に代王(だいおう)を立てて孝文皇帝(こうぶんこうてい)(文帝(ぶんてい))とした。

この功績により、孝文皇帝(こうぶんこうてい)は灌嬰(かんえい)の食邑(しょくゆう)を3,000戸加増し、黄金千斤(せん)を下賜(かし)して太尉(たいい)に任命しました。

脚注

*4『史記(しき)』灌嬰伝(かんえいでん)より。『漢書(かんじょ)』灌嬰伝(かんえいでん)には記載なし。

*12『漢書(かんじょ)』灌嬰伝(かんえいでん)より。『史記(しき)』灌嬰伝(かんえいでん)では「大将」

丞相となる

文帝(ぶんてい)の3年(紀元前177年)、絳侯(こうこう)・周勃(しゅうぼつ)は相(しょう)(丞相(じょうしょう))を罷免(ひめん)され[て国(封国(ほうこく))に赴(おもむ)き*4]、灌嬰(かんえい)が丞相(じょうしょう)となって太尉(たいい)の職を辞(じ)した。

この年の夏、匈奴(きょうど)が大挙して北地郡(ほくちぐん)(と上郡(じょうぐん)*4)に侵入すると、丞相(じょうしょう)・灌嬰(かんえい)は8万5千騎を率(ひき)いて匈奴(きょうど)を擊(う)つように命ぜられたが、匈奴(きょうど)が去り、また済北王(せいほくおう)が叛(そむ)いたことから、詔(みことのり)が下され兵を引き揚(あ)げて帰還した。

その1年余り後、灌嬰(かんえい)は丞相(じょうしょう)の在任中に亡くなり、懿侯(いこう)と諡(おくりな)された。

脚注

*4『史記(しき)』灌嬰伝(かんえいでん)より。『漢書(かんじょ)』灌嬰伝(かんえいでん)には記載なし。

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灌阿(かんあ)

生没年不詳*13。父は灌嬰(かんえい)。

灌嬰(かんえい)が亡くなると、灌嬰(かんえい)の子・灌阿(かんあ)が潁陰侯(えいいんこう)の爵位を継ぎ、その28年後に亡くなった。

平侯(へいこう)と諡(おくりな)された。

脚注

*13『漢書(かんじょ)』灌嬰伝(かんえいでん)より。維基百科には、景帝(けいてい)の中元(ちゅうげん)2年(紀元前148年)に亡くなったとある。
『漢書(かんじょ)』灌嬰伝(かんえいでん):子平侯阿代侯。二十八年卒,子彊代侯。
維基百科:子平侯灌阿嗣,二十八年孝景中元二年薨。


灌彊(かんきょう)

生没年不詳*14。父は灌阿(かんあ)。祖父は灌嬰(かんえい)。

灌阿(かんあ)の子・灌彊(かんきょう)が潁陰侯(えいいんこう)の爵位を継いだ。

13年後、灌彊(かんきょう)は罪を犯し、2年間爵位を剥奪(はくだつ)された。

脚注

*14『漢書(かんじょ)』灌嬰伝(かんえいでん)より。維基百科には、武帝(ぶてい)の建元(けんげん)2年(紀元前139年)に亡くなったとある。
『漢書(かんじょ)』灌嬰伝(かんえいでん):子彊代侯。十三年,彊有罪,絕二歲。
維基百科:孙彊嗣,十三年孝武建元二年薨,彊有罪绝二岁。 


灌賢(かんけん)

生没年不詳。祖父は灌嬰(かんえい)。

元光(げんこう)3年(紀元前132年)、天子(てんし)(武帝(ぶてい))は灌嬰(かんえい)の孫の灌賢(かんけん)を臨汝侯(りんじょこう)に封じて灌氏(かんし)を継がせたが、その8年後、賕(きゅう)(賄賂(わいろ))を行った罪に連座して国を除(のぞ)かれた。


「灌嬰(かんえい)」の関連記事

灌均

灌均(かんきん)

生没年不詳。魏(ぎ)の監国謁者(かんこくえっしゃ)。

後漢(ごかん)の建安(けんあん)25年(220年)、曹丕(そうひ)が魏王(ぎおう)に即(つ)くと、魏王(ぎおう)・曹丕(そうひ)は、弟の曹植(そうしょく)を太子(たいし)とするよう父の曹操(そうそう)に勧めていた丁儀(ていぎ)・丁廙(ていよく)兄弟とその一族の男性を誅殺(ちゅうさつ)し、曹植(そうしょく)は諸侯(しょこう)と共に国(封国(ほうこく))に赴(おもむ)いた。


魏(ぎ)の黄初(こうしょ)2年(221年)、監国謁者(かんこくえっしゃ)の灌均(かんきん)は文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))に希指(きし)(迎合(げいごう))して、

「曹植(そうしょく)は酒に酔って悖慢(はいまん)*15となり、使者を劫脅(きょうきょう)(脅迫)しました」

と上奏した。

有司(ゆうし)(所管の役人)は曹植(そうしょく)の罪を調べて裁(さば)くことを求めたが、文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は太后(たいこう)*16の気持ちを配慮して、

「植(しょく)(曹植(そうしょく))は朕(ちん)(曹丕(そうひ))の同母弟である。朕(ちん)(曹丕(そうひ))には天下に許容できないものはない。まして相手は植(しょく)(曹植(そうしょく))ではないか?骨肉(こつにく)の親(しん)(肉親)は舍(ゆる)して誅(ちゅう)さず、植(しょく)(曹植(そうしょく))を改封(かいほう)させることとする」

と詔(みことのり)を下し、曹植(そうしょく)の爵位を貶(お)として安郷侯(あんきょうこう)とした。

脚注

*15道理から外(はず)れ、他人を見下(みくだ)すこと。

*16卞氏(べんし)。曹丕(そうひ)・曹彰(そうしょう)・曹植(そうしょく)・曹熊(そうゆう)の母。


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