袁紹たちによる宦官一掃を受けて、少帝と陳留王は宦官たちに連れられて洛陽を脱出してしまいました。
そして、少帝と陳留王を保護して洛陽に入った董卓は、あっという間に権力を掌握します。
では、董卓はどのようにして権力を掌握したのでしょうか。
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目次
董卓の洛陽入り
董卓の動向
霊帝が崩御する少し前、皇甫嵩と共に「辺章・韓遂の乱」の鎮圧にあたっていた董卓は、右扶風に駐屯していました。
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そして188年、董卓は少府に任命され「軍官と兵士を皇甫嵩に預けて任官せよ」という命令を受けます。ですが、董卓はこの命令を無視して軍勢を手放しませんでした。
また、翌年(霊帝崩御の年)にも改めて幷州牧に任命され、同様に軍を手放すよう命令されますが、董卓はまたも命令を無視して、軍勢を率いたまま任地の幷州に向かっています。
何進によって洛陽に召喚されたのは、ちょうどこの時だったのです。
宦官たちの最期
霊帝の崩御後、宦官たちの謀略によって何進が殺されると、宦官たちは袁紹らによって滅ぼされました。
ですが、難を逃れた中常侍の張讓・段珪らは、少帝と陳留王を連れて洛陽を脱出し、北の小平津に向かいます。
そして、尚書の盧植と河南中部掾の閔貢がこれを追って数人を斬ると、張讓らは黄河に身を投げて自ら命を絶ちました。
少帝と陳留王は、洛陽に戻るため蛍の光を頼りに南へ進み、ようやく2人を追ってきた公卿(大臣)たちと出会うことができました。
閔貢の官職・河南中部掾とは河南尹の属官で、各県を巡察する監察官(督郵)の1人です。
督郵の管轄は東・西・南・北・中の5部に分かれており、河南中部掾は、河南尹の中部を管轄する督郵ということになります。
董卓の洛陽入り
何進の召喚に従って洛陽西部の顕陽苑に駐屯していた董卓は、少帝が洛陽の北にいるという報告を受けると軍勢を率いて北上し、北芒阪の下で少帝たちを出迎えました。
すると、董卓の軍勢を見た少帝が怯えて泣き出したので、公卿たちは董卓に「勅命である。兵を下げよ」と命じます。
ですが董卓は、
「あなた方は大臣でありながら王室を守ることもできず、天子を流浪させている。どうして兵を退くことなどできようか!」
と一喝し、少帝と陳留王を連れ、軍勢を率いたまま洛陽に入城しました。
この時、董卓は少帝と陳留王の2人と言葉を交わしましたが、少帝はうまく答えることができず、逆に陳留王はよどみなく答えました。
このことから、董卓は暗愚な少帝を廃位して、新たに陳留王を帝位につける考えに至ったとされています。
また、この一連の朝廷の混乱の中で、天子が使用する6種類の印璽は見つかったものの、歴代皇帝に受け継がれて来た伝国璽が紛失してしまいました。
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董卓による権力の掌握
軍事権の掌握
少帝が洛陽に帰還すると、朝廷は大赦を行い、年号を「昭寧」に改め、董卓と同様に洛陽に入城した武猛都尉・丁原を執金吾に任命しました。
そしてちょうどこの頃、何進の命令によって軍兵を募集していた鮑信が洛陽に帰ってきます。
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董卓の権勢が強まっているのを見て取った鮑信は、袁紹に進言しました。
「董卓は二心を抱いて強兵を擁しております。今手を打たなければ、朝廷は必ずや董卓によって支配されてしまうでしょう」
ですが、袁紹は董卓を恐れて行動を起こさなかったので、あきれた鮑信は郷里に帰ってしまいました。
袁紹が行動を起こせずにいるうちに、董卓が先手を打ちます。
董卓は夜陰に紛れて軍兵を洛陽の外に出し、翌日には軍旗を押し立て陣太鼓を打ち鳴らしながら、また洛陽に入城させたのです。
これを4、5日おきに行うと、洛陽の人々は董卓の大軍が続々と到着していると錯覚し、所属不明となっていた何進・何苗の兵たちは、こぞって董卓の下に身を寄せました。
洛陽に入城した時点で、董卓の兵は歩騎合わせて3,000人に過ぎません。
当時の洛陽には、丁原が率いてきた兵に加え、混乱によって殺害された大将軍・何進と車騎将軍・何苗が率いていた兵が、所属不明のまま存在していました。
この時、袁紹や王允らがいち早くこれらの兵をまとめ上げることができれば、圧倒的な兵力を背景に、董卓の手から少帝と陳留王を奪い返すことができたかもしれません。
執金吾・丁原を殺害
何進・何苗の兵を自軍に組み入れた董卓にとって、権力を掌握するために障害となるのは、執金吾・丁原の軍勢のみとなります。
この丁原は粗野な性格で、役人としての能力に欠けるところがありましたが、戦の際には常に先頭に立って戦う勇猛な人物でしたので、董卓もあなどれません。
そこで董卓は、丁原配下の猛将・呂布に目をつけます。
董卓は呂布を懐柔して丁原を殺害させ、丁原の軍勢を手に入れることに成功しました。これによって、洛陽において軍事権を握る者は、董卓ただ1人となったのです。
呂布が丁原の首を持ってやって来ると、董卓は大いに喜んで呂布を騎都尉に任命し、父子の契りを結びました。
自ら司空となる
その後、長らく雨が降らなかったことを理由に司空の劉弘が罷免され、董卓は自らその後任に就きました。
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なぜ袁紹は動かなかったのか?
この時の董卓の権力掌握の手腕には目を見張るものがあります。
ですがこの時、袁紹たちが董卓の動きを傍観せざるを得なかったのはなぜなのでしょうか。
天子の存在
何進が宦官に殺された後、何進の兵たちは袁紹らに従って宦官を討ち滅ぼしました。
董卓が洛陽入りした時、宮中の兵権は袁紹たちの手にあり、わずか3,000人の兵力に過ぎない董卓など問題にならなかったはずです。
ですが、洛陽入りした董卓の手中には、張讓らと共に洛陽を脱出した少帝と陳留王が握られていました。
もし董卓と対峙した場合、少帝が「董卓は朕たちを助けてくれた恩人であるぞ」と言えば、袁紹たちが逆賊にされてしまう可能性があります。
このことから、袁紹たちに迷いが生まれ、董卓がつけ入る隙ができました。
董卓の周到な計画
これより以前、董卓は2度に渡って朝廷の命令を無視し、朝廷から与えられた兵を私兵化していました。これは、霊帝が崩御する前からすでに、董卓にその兵力を背景にして独自の勢力圏を形成する意思があったことに他なりません。
董卓は、洛陽に火の手が上がった時点で好機の到来を感じ、少帝と陳留王を保護した時点で、それは確信に変わります。
董卓は洛陽に入る前から「どのようにして権力を掌握するか」に考えを巡らし、迷うことなく即座に実行に移しました。
董卓の権勢が増大し、袁紹たちが危機感を抱くころには、すでに洛陽には董卓に対抗し得る勢力はいなくなってしまったのです。
朝廷の高官たちは、口々に「董卓を招くこと」を危険だと警告していました。
そして、諸豪族を招いたことによって董卓が朝廷の実権を握ったことは、当然の結果であるように語られています。
ですが、董卓が率いる3,000の兵だけで朝廷の実権を握ることは不可能に近く、少帝が洛陽を脱出するという偶然と、董卓の迅速な行動がなければ成し得なかったことだと言えるでしょう。