三国時代の幕開けである後漢の末期、後漢の支配地は13の州に分割して統治されていました。
今回は、時代が進むにつれて新設・統廃合された州・郡の変遷を確認してみます。
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後漢末期の州・郡
後漢末期の州郡地図
後漢の13州
この頃、後漢の支配地は以下の13の州に分割されていました。
司隷
豫州(予州)
冀州
兗州
徐州
青州
荊州
揚州
益州
涼州
幷州(并州)
幽州
詳しくはこちら
後漢末期の州・郡・県の詳細についてはこちらをご覧ください。
郡と州
郡・属国
郡
城壁で囲まれた都市・集落のことを、県・侯国・邑・道と言い、いくつかの都市・集落を1つにまとめた行政区画のことを「郡」と言います。
郡には太守が置かれ、皇族または諸侯に封建された郡(王国)には相(王国相)置かれました。
属国
辺境の異民族を居住させた郡のことを「属国」と言い、属国には都尉(属国都尉)が置かれました。
辺境の異民族に限らず、反乱が多発する地域にも、郡を分けて太守より軍事に特化した都尉が置かれることがあります。
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州
いくつかの郡・属国を1つにまとめた行政区画のことを「州」と言い、州には管轄内の太守の監察官として州刺史が置かれました。
また、黄巾の乱の余波で地方の反乱が続いていたため、中平5年(188年)には州刺史に変わって、兵権も含めた州内全般の統治権が与えられた州牧が設置されるようになりました。
関連記事
後漢末期から三国時代にかけて、必要に応じて県の新設や廃止、州・郡の統廃合が行われました。この記事では、年代を追ってその変遷をまとめています。
「雍州」で検索される方が多かったため、まず簡単にまとめた記事をつくりましたが、随時詳細情報を追記していきます。
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193年までの州・郡の変遷
初平4年(193年)の州郡地図
時代背景
初平4年(193年)までの後漢の統治区分です。
光和7年(184年)の黄巾の乱から、董卓が殺され、献帝のいる長安が李傕と郭汜によって支配された頃までになります。
州・郡の変遷
建和2年(148年)
冀州・清河国を甘陵国と改名
- 「清河国:高帝(劉邦)が置いた。桓帝の建和2年(148年)に甘陵国と改名した」《『続漢書』郡国志》
- 「建和2年(148年)6月、(冀州・)清河国を改め甘陵国とし、安平王・劉得の子である経侯・劉理を立てて甘陵王とした」《『後漢書』孝桓帝紀》
甘陵国は、建安11年(206年)に後嗣(後継ぎ)不在のため国が除かれました。その後、魏の黄初3年(222年)に甘陵郡から清河国に戻され、文帝(曹丕)の子・曹貢が清河王に封ぜられましたが、その翌年に子がないまま亡くなり、また国が除かれて清河郡となります。
ちなみに、蜀では魏が行った甘陵郡から清河郡への改名を認めず、蜀の建興8年(230年)には昭烈帝(劉備)の子・劉永が甘陵王に封ぜられています。
以上のことから、清河国 = 甘陵国 だと思われますが、建安18年(213年)の「禹貢九州」に倣った州郡の再編について記した『続漢書』百官志・劉昭注・『献帝起居注』には、冀州の領郡としてなぜか清河郡と甘陵郡の両方の名前が載せられています。
延熹元年(158年)
冀州に博陵郡を設置
- 「延熹元年(158年)6月、(冀州・)中山国を分けて博陵郡を置き、孝崇皇(桓帝の父:蠡吾侯・劉翼)の国陵にあてた」《『後漢書』孝桓帝紀》
- 「博陵郡の領県は蠡吾県・安平県・安国県・南深澤県・高陽県・博陵県の6県」《『東漢政区地理』》*1
- 「(博陵郡設置後〜霊帝末までの間、(幽州・)代郡の霊丘県が(冀州・)中山国に転属」《『東漢政区地理』》*2
冀州・博陵郡
「博陵」とは、孝崇皇陵(桓帝の父:蠡吾侯・劉翼の墓)のことで、中山国の蠡吾県に属していましたが、桓帝が即位すると独立して博陵県が置かれ、さらに中山国から分割されて郡になりました。
脚注
*1維基百科#博陵郡(东汉) 出典の『東漢政区地理』を直接確認できていません。
*2維基百科#中山郡 出典の『東漢政区地理』を直接確認できていません。
建寧元年(168年)(仮)
益州に汶山郡を設置
- 「霊帝末期に蜀郡北部(蜀郡北部都尉)を分割して汶山郡に戻した」《『後漢書』冉駹夷伝》
- 「汶山郡:汶山県(汶山道)郡治・都安県(湔氐道)・広陽県・広柔県・蚕陵県・升遷県・平康県・興楽県」《『華陽国志』蜀志》
益州・汶山郡
汶山郡の設置年は不明。
汶山郡は前漢の元封4年(紀元前107年)[または元鼎6年(紀元前111年)]に武帝によって建てられ、前漢の地節3年(紀元前67年)[または地節元年(紀元前69年)]に、蜀郡北部都尉に改められました。その後、後漢の延光3年(124年)に安帝によって汶山郡に戻されましたが、数年でまた蜀郡北部都尉に戻されます。
この時、霊帝によって戻された汶山郡も、また蜀郡北部都尉に戻されたようで、『蜀書』陳震伝に、
「蜀が平定された後、蜀郡の北部都尉となり、郡名の変更に従って汶山太守となり、犍為太守に転任した」
とあります。
光和元年(184年)(仮)
益州に漢嘉郡を設置
- 「霊帝の時、蜀郡属国を漢嘉郡とした」《『後漢書』南蛮西南夷列伝・莋都夷》
蜀郡・漢嘉郡の設置年は不明。仮設置年の出典は維基百科#汉嘉郡 。
中平5年(188年)
涼州に南安郡を設置
- 「中平5年(188年)、(涼州・漢陽郡を)分割して南安郡を置いた」《『続漢書』郡国志・劉昭注・『秦州記』》
涼州・南安郡
益州に蜀郡属国を設置(仮)
蜀郡・漢嘉郡が廃止され、蜀郡属国に戻されました。《維基百科#汉嘉郡 》
出典不明。
中平6年(189年)
司隷に漢安郡を設置
- 「中平6年(189年)、扶風都尉を省き漢安郡を置いた。漢安郡に属する県は鎭雍・渝麋・杜陽・陳倉・汧県の5県である」《『続漢書』郡国志・劉昭注・『献帝起居注』》
司隷・漢安郡
初平元年(190年)(仮)
荊州に章陵郡を設置
- この年の蒯越の言葉に「荊州8郡」とある。《『魏書』劉表伝・注・司馬彪『戦略』》
荊州・章 陵郡
章陵郡の設置年は不明。『続漢書』郡国志における荊州の領郡は7郡。『漢官儀』ではこれに章陵郡を加えて8郡としているため、蒯越の言葉から、この頃すでに章陵郡が設置されていたものと思われます。
初平3年(192年)(仮)
汝南郡に陽安都尉を設置
- 「初平3年(192年)、2県を分けて陽安都尉を置いた」《『続漢書』郡国志・劉昭注・『魏氏春秋』》
- 「(建安の初め)汝南郡の2県を分割し、李通を陽安都尉とした」《『魏書』李通伝》
李通は張繡征伐の際に曹操を救い、張繡の軍を散々に撃ち破っています。曹操が張繡征伐を行った建安2年(197年)以降、張繡への抑えとして陽安郡(陽安属国?)を設置し、李通を陽安都尉に任命したものと思われます。廃止年は不明。
初平3年(192年)に設置され、その後廃止されたものを、また曹操が復活させたのかもしれません。
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初平4年(193年)
涼州に永陽郡を設置
- 「初平4年(193年)12月、すでに漢陽郡・上郡(上邽県?)を分割して永陽郡とし、郷・亭を属県とした」《『続漢書』郡国志・劉昭注・『献帝起居注』》
涼州・永陽郡
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194年から219年までの州・郡の変遷
興平元年(194年)の州区分
時代背景
興平元年(194年)は、涼州では馬騰と韓遂が反乱を起こし、曹操が徐州を攻め、手薄になった兗州に呂布が攻め込んだ年に当たります。
官渡の戦い、赤壁の戦いを経て劉劉が益州に入り、漢中王を名乗った頃までになります。
州・郡の変遷
興平元年(194年)
雍州(廱州)の設置
- 「興平元年(194年)夏6月丙子、すでに涼州の河西4郡を分割して廱州(雍州)を置いた」《『後漢書』孝献帝紀》
- 「河西4郡は涼州の治所(漢陽郡・冀県)から遠く離れ、河寇(黄河の賊)によって隔絶していたため、別に州を置くことが求められた。6月丙子、献帝は詔を下し、陳留の人・邯鄲商を雍州刺史に任命して4郡を治めさせた」《『資治通鑑』》
- 「(河西4郡とは)金城・酒泉・燉煌(敦煌)・張掖の4郡を言う」《『後漢書』孝献帝紀・劉昭注》
- 「雍州の治所は武威に置かれた」《『資治通鑑』・胡三省注》
- 「献帝の時、涼州では反乱が多く、河西5郡は州治所から遠く離れていたので、これを分割して雍州を置いた」《『晋書』地理上》
雍州
当時涼州は、隴西、金城、武都、漢陽、南安、永陽、安定、北地、武威、張掖(張掖、張掖属国、張掖居延属国)、酒泉、敦煌の12郡に分割されていました。
一般に「河西4郡」と言うと、
- 武威郡
- 張掖郡(張掖属国・張掖居延属国を含む)
- 酒泉郡
- 敦煌郡
を指すようなのですが、そうなると「金城・酒泉・燉煌(敦煌)・張掖の4郡」とする『後漢書』孝献帝紀・劉昭注の内容に合いません。ですが、『資治通鑑』・胡三省注にも「雍州の治所は武威に置かれた」とあり、この時設置された雍州に武威郡が含まれていたことは間違いなさそうです。
雍州に武威郡を加えた場合の金城郡の扱いに悩みましたが、『晋書』地理上に「河西5郡を雍州とした」とあるので、ここでは「河西4郡」に金城郡を加えた5郡を雍州としています。
涼州に新平郡を設置
- 「興平元年(194年)12月、(涼州・)安定郡と(司隷・)扶風郡(右扶風)から土地を分割して新平郡を置いた」《『後漢書』孝献帝紀》
- 「興平元年(194年)、安定郡の鶉觚県と右扶風の漆県を分割して新平郡を置いた」《『続漢書』郡国志・劉昭注・袁山松『後漢書』》
涼州・新平郡
上記出典の文章を読む限り、新平郡が涼州と司隷のどちらに属するのか分かりませんが、どちらも涼州・安定郡を先に挙げていますので、涼州の領郡として扱っています。
興平2年(195年)
巴郡・永寧郡・固陵郡の設置
- 「初平元年(190年)、趙穎(趙韙)は(益州・)巴郡を分けて2郡とし、「巴」を元の名前に戻そうとした。そこで巴郡は墊江県を治所とし、安漢県より下流を永寧郡とした」《『続漢書』郡国志・劉昭注・譙周『巴記』》
- 「献帝の初平元年(190年)、安漢県出身の征東中郎将・趙穎(趙韙)が「巴郡を2郡に分ける」ことを建議した。趙穎(趙韙)は「巴」を旧名に戻すことを望み、益州牧・劉璋に建議したのである。これにより、墊江県より上流を巴郡とし、江南(河南尹の間違い?)出身の龐羲を太守に任命して安漢県を治めさせ、江州県から臨江県に至るまでの地域を永寧郡とし、胊忍県から魚復県に至るまでの地域を固陵郡とした」《『華陽国志』巴志》
巴郡・永寧郡・固陵郡
『華陽国志』巴志・任乃強注には、「初平元年(190年)は興平2年(195年)の誤り」とあり、また、劉璋が益州牧となったのも興平元年(194年)であることから、この巴郡の分割を興平2年(195年)としています。
建安元年(196年)
雍州(廱州)に西平郡を設置(仮)
- 「漢末に金城郡を分割して西平郡が置かれた」《『資治通鑑』・胡三省注》
- 「後漢の建安年間に西平郡が置かれた」《『通典』州郡4》
雍州(廱州)・西平郡
西平郡の設置年は不明。『魏書』杜畿伝に、
「たまたま天下が混乱したので、官を棄てて荊州に旅住まいし、建安年間になってやっと帰郷した。荀彧が彼を曹操に推薦した。曹操は杜畿を司空司直とし、護羌校尉に昇進させ、持節として西平太守を受け持たせた」
とあり、その後、建安10年(205年)に河東太守に転任していますので、西平郡は建安元年(196年)から建安10年(205年)までの間に設置されていたことが分かります。
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建安3年(198年)
城陽郡・利城郡・昌慮郡・東莞郡の設置
- 「[建安3年(198年)、曹操は徐州の]琅邪郡、東海郡、(青州の)北海国を分割して城陽郡・利城郡・昌慮郡を作った」《『魏書』武帝紀》
- 「太祖(曹操)は臧覇を琅邪国の相(太守)*3、呉敦を利城太守、尹礼をを東莞太守、孫観を北海太守*3、孫康を城陽太守とし、青州・徐州の2州を割いてそれを臧覇に委任した。《『魏書』臧覇伝》
青州・徐州の再編
東莞郡の設置年は不明。一般には「建安年間の初期」とされています。
『魏書』武帝紀には「城陽郡・利城郡・昌慮郡を作った」とだけあり、そこに東莞郡の名前がないことから、「建安3年(198年)以前に東莞郡が設置されていた」と考えることもできますが、ここにまとめて記載しました。
昌慮郡と利城郡の領県に関する情報がないため、郡の境界線に根拠はありません。また、上記出典の文章を読む限り、城陽郡が青州と徐州のどちらに属するのか分かりませんが、『中国歴史地図集』・魏の景元3年(262年)の地図に合わせて青州の所属としています。
脚注
*3初平4年(193年)に琅邪王・劉容が亡くなったことから、琅邪国は断絶していましたので、臧覇は琅邪太守。北海は国ですので、孫観は北海相となりますが、原文に合わせています。
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兗州・泰山郡に嬴郡を設置
- 「曹公(曹操)が上奏して糜竺を嬴郡太守に、糜竺の弟の糜芳を彭城相につけたが、いずれも官を去り、先主(劉備)に従って転々とした」《『蜀書』糜竺伝》
- 曹公(曹操)の表に言う「泰山郡の領域は広大で、古くから軽はずみな乱暴者が多い所です。一時的に5県を分離して嬴郡を立て、清廉な官吏を厳選して守将とするのがよろしいかと存じます。偏将軍の糜竺は、平素から誠実さを守り、文武共に明らかですので、糜竺を嬴郡太守に任命して、官民を慰撫させるようにお願い申し上げます」《『蜀書』糜竺伝・注・『曹公集』》
嬴郡の領県5県が不明な上、程なくして廃止されたため地図には反映させません。
建安4年(199年)
揚州に廬陵郡を設置
- 「孫策は自ら会稽太守を兼任し、呉景を丹楊太守に戻し、孫賁を豫章太守に任命した。また、豫章郡(予章郡)を分割して廬陵郡を作り、孫賁の弟の孫輔を廬陵太守に任命した」《『呉書』孫策伝》
揚州・廬陵郡
『呉書』孫策伝には、廬陵郡を設置した年は明記されていませんので、孫策が豫章郡(予章郡)を平定した建安4年(199年)としています。
建安6年(201年)
巴東郡・巴西郡・巴東属国の設置
- 「建安6年(201年)、(固陵郡・)魚復県出身の蹇胤が劉璋に「巴」の郡名を求めた。そこで劉璋は、永寧郡を巴郡、固陵郡を巴東郡と改め、(元の巴郡を巴西郡として)龐羲を巴西太守に任命し、これをもって「三巴」とした。
また、涪陵郡出身の謝本が劉璋に「丹興県、漢髪県の2県を郡とする」ことを求め、劉璋はこれに応えて巴東属国を建てたが、後に涪陵郡とした」《『華陽国志』巴志》
三巴と巴東属国
建安8年(203年)
交趾刺史部を交州とする
- 「建安8年(203年)、張津は(交趾)刺史となり、士燮は交趾太守となった。2人は州を立てることを上表し、張津は交州牧を拝した。《『晋書』地理下・交州》
建安11年(206年)
徐州の再編
- 「建安11年(206年)8月、(曹操は徐州・)東海郡のうち、襄賁県・郯県・戚県の諸県を割いて琅邪郡に編入し、昌慮郡を省いた」《『魏書』武帝紀》
徐州の再編
建安13年(208年)
揚州に蘄春郡を設置
- 「建安13年(208年)、孫権が江夏郡と廬江郡を分割して蘄春郡を置いた。管轄は蘄春県・邾県・尋陽県の3県。郡治は蘄春県。揚州に属す」《Baidu百科#蕲春郡》
揚州・蘄春郡
出典不明。おそらく孫権が、この年に黄祖を攻めて得た領土を蘄春郡として編入したものと思われます。
揚州に新都郡を設置
- 「この歳[建安13年(208年)]、賀斉を派遣して黟県(黝県)と歙県を討伐させ、歙県を分割して始新県・新定県・犁陽県・休陽県を立て、これら6県を合わせて新都郡を作った」《『呉書』呉主伝》
- 「賀斉は再び『歙県を分割して、始新県・新定県・黎陽県・休陽県・黟県(黝県)・歙県の6つの県を立てる』ように上表した。孫権はその意見を納れて歙県を分割し、それらをまとめて新都郡を立てると、賀斉を太守に任命してその役所を始新県に置かせ、偏将軍を加官した」《『呉書』賀斉伝》
- 「孫権は歙県を分割して徙新県・新定県・休陽県・黎陽県とし、黟県(黝県)と合わせた6県を新都郡とした」《『資治通鑑』・胡三省注》
揚州・新都郡
荊州に襄陽郡を設置
- 「後漢・献帝期の建安13年(208年)、魏武(曹操)は荊州を得ると、南郡以北を分割して襄陽郡を立て、また南陽郡の西部を分割して南郷郡を立て、(南郡の)枝江県以西を分割して臨江郡を立てた」《『晋書』地理下》
- 「後漢・献帝期の建安13年(208年)、曹操)は荊州を得ると、南郡と南陽郡を分割して襄陽郡を立てた。治所は襄陽県にあり、荊州に属す」《維基百科#襄阳郡》
荊州・襄陽郡
荊州に南郷郡を設置
- 「後漢・献帝期の建安13年(208年)、魏武(曹操)は荊州を得ると、南郡以北を分割して襄陽郡を立て、また南陽郡の西部を分割して南郷郡を立て、(南郡の)枝江県以西を分割して臨江郡を立てた」《『晋書』地理下》
- 「建安年間(196年〜220年)、曹操が荊州・南陽郡の西部を分割して南郷郡とした」《『読方輿紀要』河南6》
- 「建安13年(208年)、曹操は荊州を奪うと、荊州・南陽郡の西部を分割して南郷郡とした」《維基百科#南乡郡》
荊州・南郷郡
荊州に臨江郡を設置
- 「後漢・献帝期の建安13年(208年)、魏武(曹操)は荊州を得ると、南郡以北を分割して襄陽郡を立て、また南陽郡の西部を分割して南郷郡を立て、(南郡の)枝江県以西を分割して臨江郡を立てた」《『晋書』地理下》
- 「魏武(曹操)は荊州を平定すると、南郡を分割して枝江県以西を臨江郡とした」《『宋書』州郡3》
- 「建安13年(208年)、曹操は南郡の枝江県以西を分割して臨江郡を置いた。管轄は枝江県・夷陵県・巫県・秭帰県の4県。荊州に属す。曹操が赤壁の戦いで敗れて以降、臨江郡は空虚となった」《維基百科#臨江郡》
荊州・臨江郡
建安14年(209年)
彭澤郡の設置(仮)
- 「曹公(曹操)が赤壁までやって来ると、呂範は周瑜らと共にこれを防ぎ止めて撃ち破った。(この功により)裨将軍の官を授けられ、彭澤太守の任にあたり、彭澤・柴桑・歴陽を奉邑として授かった」《『呉書』呂範伝》
彭澤郡の設置年、領県は不明。呂範の奉邑とされた彭澤県・柴桑県の2県か?(豫章郡の北部)。領県が不明な上、程なくして廃止されたため地図には反映させません。
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建安15年(210年)
臨江郡を宜都郡に改名
- 「建安15年(210年)、劉備が旧臨江郡に宜都郡を設置した」《維基百科#臨江郡》
揚州に鄱陽郡を設置
- 「建安15年(210年)、(揚州・)豫章郡を分割して鄱陽郡を作った」《『呉書』呉主伝》
揚州・鄱陽郡
荊州に漢昌郡を設置
- 「建安15年(210年)、(荊州・)長沙郡を分割して漢昌郡を作り、魯粛をその太守とし、陸口に駐留させた」《『呉書』呉主伝》
- 「建安15年(210年)、孫権が長沙郡北部の下雋県・羅県・漢昌県を分割して漢昌郡を設置した。郡治は漢昌県。《維基百科#漢昌郡》
荊州・漢昌郡
漢昌県の境界線については、領県から推測したものになります。
上庸郡の新設
212年、益州の漢中郡から鍚県と上庸県を分割して、上庸郡が新設され、荊州に属することになりました。
当時、益州は劉備の治めるところとなっていましたが、益州の上庸県を含む荊州北部は曹操が支配していました。
上庸郡を新設して荊州に併合したのは、劉備が治める益州から荊州に併合することで、支配者を明確にする意図があったのではないかと思われます。
幷州(并州)の再編
幷州は、上党、太原、西河、雁門、定襄、雲中、五原、朔方、上郡の9郡に分割されていました。
215年、定襄、雲中、五原、朔方、上党(上郡?)の5郡は後漢の支配地から除かれ放棄されています。
平原郡が冀州に併合
平原郡が、青州から冀州に併合されました。
220年以降の州区分
220年の州区分
時代背景
220年は、曹操の跡を継いだ曹丕が献帝に禅譲を迫って皇帝の座についた年であり、魏の建国に際して州郡の再編が行われました。
州区分の変化
涼州と雍州の再編
220年、魏の建国に際して涼州と雍州の再編が行われました。
少しややこしいのですが、まず涼州と雍州を入れ替え、司隷の京兆尹、左馮翊、右扶風が雍州に併合されました。
当時、蜀の諸葛亮による北伐が行われ、涼州の奪取を目的の1つに挙げていました。
涼州と雍州を入れ替えることで、蜀軍が多少侵攻したとしても涼州は取られていないと言いたかったのではないでしょうか。
また、当時首都機能は完全に洛陽に移転していましたので、長安が司隷に属している必要はありませんでした。
蜀に侵攻される可能性のある郡を1つの州にまとめて雍州とすることで、防衛力の強化を狙ったのではないかと思われます。
漢陽郡が天水郡に
同年、漢陽郡が天水郡に改称されます。
漢陽郡は74年に改称された名称で、もともと天水郡と言いました。
魏を建国した曹丕は、前王朝の「漢」の字を嫌って漢陽郡を天水郡に改称したのではないでしょうか。
益州の再編
225年、益州南部の永昌郡が、諸葛亮によって永昌郡と雲南郡に分割されました。
また、229年の第3次北伐において武都が蜀軍に占領されたため、魏によって武都は雍州から益州に所属が変更されました。
基本的に勢力図が塗り変わるたびに州の境界を変更することはありません。
魏が武都を益州に編入したのは、これまた自国の領土を侵されたのではないと主張するための処置だったのかもしれません。
後漢王朝の州・郡・県は、状況に合わせて新設、統廃合がなされてきました。
今回はその代表的なものをご紹介しましたが、郡・県については反映できていないものもあります。
今後も確かな資料を見つけ次第、随時加筆修正します。
後漢末〜三国時代の州・郡の変遷一覧
西暦 |
変遷 |
148年 |
- 冀州・清河国を甘陵国と改名しました。
|
158年 |
- 6月、冀州・中山国が分割され、博陵郡が新設されました。
|
168年 |
- 益州・蜀郡の北部が分割され、汶山郡に戻されました。(仮)
|
184年 |
- 益州・蜀郡属国が廃止され、漢嘉郡が新設されました。(仮)
|
188年 |
- 涼州・漢陽郡が分割され、南安郡が新設されました。
- 益州・漢嘉郡が廃止され、蜀郡属国に戻されました。(仮)
|
189年 |
- 扶風都尉が廃止され、漢安郡が新設されました。
|
190年 |
- 荊州に章陵郡の存在を確認することができます。
|
192年 |
- 汝南郡から2県が分割され、陽安都尉が新設されました。(仮)
- 交趾刺史部(交阯刺史部)・日南郡・象林県の功曹で占族(チャム族)の区連(別名:区達・区逵)が反乱を起こし、日南郡南部に林邑国を建国しました。
|
193年 |
- 12月、涼州・漢陽郡が分割され、永陽郡が新設されました。
|
194年 |
- 6月、涼州の河西5郡(金城郡・武威郡・酒泉郡・敦煌郡・張掖郡)が分割され、雍州(廱州)が新設されました。
- 12月、司隷・右扶風の漆県と安定郡の鶉觚県が分割され、新平郡が新設されました。
|
195年 |
- 益州の巴郡が巴郡・固陵郡・永寧郡の3つの郡に分割されました。
|
196年 |
- 雍州の金城郡が分割されて、西平郡が新設されました。[建安年間(196年〜220年)]
|
198年 |
- 徐州の琅邪国、青州・斉国、兗州・泰山郡が分割され、東莞郡が新設されました。(仮)
- 徐州に城陽郡・利城郡・昌慮郡が新設されました。
- 青州の北海国、東萊郡、徐州・琅邪国が分割され、城陽郡が新設されました。
- 兗州・泰山郡が分割され、嬴郡が新設されました。
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199年 |
- 揚州の豫章郡(予章郡)が分割され、廬陵郡が新設されました。
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201年 |
- 益州の巴郡が巴西郡に改称されました。
- 益州の固陵郡が巴東郡に改称されました。
- 益州の永寧郡が巴郡に改称されました。
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203年 |
- 交趾刺史部が交州に改称されました。
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205年 |
- 揚州・豫章郡(予章郡)の上饒県が分割され建平県が新設されました。
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206年 |
- 徐州の昌慮郡が東海郡(東海国)に編入されました。
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208年 |
- 荊州・江夏郡の東部と揚州・廬江郡の西部が分割され、揚州に蘄春郡が新設されました。
- 揚州の丹楊郡(丹陽郡)が分割され、新都郡が新設されました。
- 荊州・南郡と南陽郡が分割され、襄陽郡が新設されました。
- 荊州・南陽郡の西部が分割され、南郷郡が新設されました。
- 荊州・南郡の枝江県以西が分割され、臨江郡が新設されました。
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209年 |
- この年、呂範が彭澤太守に任命されいる。
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210年 |
- 荊州・臨江郡が宜都郡に改称されました。
- 荊州・長沙郡の北部が分割され、漢昌郡が新設されました。
- 揚州の豫章郡(予章郡)が分割され、鄱陽郡が新設されました。
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212年 |
- 益州・漢中郡から錫県と上庸県が分割され、荊州に上庸郡が新設されました。
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213年 |
- 青州の平原郡が冀州に編入されました。
- 益州の犍為郡が分割され、江陽郡が新設されました。
- 涼州が雍州に併合されました。
- 幷州(并州)の上郡が冀州に編入されました。
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214年 |
- 益州・蜀郡の北部が分割され、汶山郡が新設されました。
- 涼州の永陽郡が廃止されました。
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215年 |
- 益州・漢中郡が分割され、荊州に西城郡が新設されました。
- 幷州(并州)の雲中郡、定襄郡、五原郡、朔方郡の4郡をそれぞれ1県にまとめ、4県を管轄する新興郡が新設されました。
- 幷州(并州)の上党郡が分割され、楽平郡が新設されました。
- 幷州(并州)の上郡が廃止されました。
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216年 |
- 益州の巴東属国が涪陵郡に改称されました。
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217年 |
- 益州の広漢郡が分割され、梓潼郡が新設されました。
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220年 |
- 司隷校尉部(司隷)から京兆尹・左馮翊・右扶風の3郡が分割され雍州に編入されました。
- 後漢の司隷校尉部(司隷)から京兆尹・左馮翊・右扶風の3郡を除いた地域が司州として設置されました。
- 豫州(予州)の沛国が分割され、譙郡が新設されました。
- 豫州(予州)の汝南郡の一部と荊州・江夏郡の一部が分割・統合され、弋陽郡が新設されました。
- 揚州・廬江郡の一部が分割・統合され、安豊郡が新設されました。
- 冀州の平原郡が分割され、楽陵国が新設されました。
- 荊州の房陵郡・上庸郡・西城郡が合併され、新城郡が新設されました。
- 雍州の張掖居延属国が西海郡に改称されました。[建安年間(196年〜220年)の末]
- 雍州(廱州)・張掖郡が分割され、西郡が新設されました。(献帝期)
- 雍州が分割され、旧雍州の地域が涼州、旧涼州の地域が雍州とされました。
- 雍州の漢陽郡が天水郡に改称されました。
- 交州の合浦郡が分割され、高涼郡が新設されました。
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221年 |
- 冀州の魏郡・鉅鹿郡・趙国が分割され、広平郡が新設されました。
- 冀州の魏郡と兗州・東郡が分割され、陽平郡が新設されました。
- 荊州の江夏郡南部が分割され、武昌郡が新設されましたが、ほどなくして江夏郡に戻されました。
- 益州の蜀郡属国が漢嘉郡に改称されました。
- 益州の犍為属国が朱提郡に改称されました。
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222年 |
- 荊州の江北の諸郡が分割され、郢州が新設されましたが、その年の内に荊州に戻されました。
- 冀州・甘陵郡を清河国と改名する。
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224年 |
- 益州の広漢属国が陰平郡に改称されました。
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225年 |
- 徐州の利城郡が東海郡(東海国)に編入されました。
- 益州の広漢郡が分割され、東広漢郡が新設されました。
- 益州の益州郡が建寧郡に改称されました。
- 益州の建寧郡と牂牁郡が分割され、興古郡が新設されました。
- 益州の永昌郡と建寧郡が分割され、雲南郡が新設されました。
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226年 |
- 交趾刺史部・蒼梧郡が分割され、荊州に臨賀郡が新設されました。
- 揚州の丹楊郡(丹陽郡)・呉郡・会稽郡の3郡から民情不穏な10県が分割され、東安郡が新設されました。
- 司州・馮翊郡の羌陽県が廃止され撫夷護軍が設置されました。[魏の明帝(曹叡)期(在位:226年〜239年)]
- 幽州の涿郡が范陽郡に改称されました。
- 交州・蒼梧郡の北東部を分割して臨賀郡を新設し、荊州に属させました。
- 交州が分割され広州が新設されましたが、間もなく元に戻されました。
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228年 |
- 荊州の新城郡が分割され、鍚郡と上庸郡が新設されました。
- 揚州の東安郡が廃止されました。
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229年 |
- 雍州の武都郡が益州に編入されました。
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230年 |
- 荊州の上庸郡が鍚郡に編入されました。
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234年 |
- 揚州の呉郡が分割され、毗陵典農校尉が新設されました。
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235年 |
- 幷州(并州)に朔方郡が再び設置されました。(『魏書』明帝紀に記載があるのみで詳細は不明)
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237年 |
- 荊州の鄀葉県が襄陽郡から義陽郡に編入されました。
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238年 |
- 益州に南広郡が置かれ、9年後に廃止されました。[蜀漢の延熙年間(238年〜257年)]
- 雍州の旧永陽郡の地域に広魏郡が新設されました。
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242年 |
- 交州に朱崖郡(珠崖郡)が新設されました。
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244年 |
- 幽州に遼東属国が復活され、ほどなく昌黎郡に改称されました。
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247年 |
- 司州の河東郡が分割されて平陽郡が設置されました。
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251年 |
- 揚州の九江郡が淮南郡に改称されました。
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257年 |
- 荊州の長沙郡と桂陽郡が分割され、湘東郡が新設されました。
- 荊州の長沙郡と零陵郡が分割され、衡陽郡が新設されました。
- 揚州の豫章郡(予章郡)が分割され、臨川郡が新設されました。
- 揚州の会稽郡が分割され、臨海郡が新設されました。
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259年 |
- 荊州の新城郡が分割され、上庸郡が新設されました。
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260年 |
- 荊州の宜都郡が分割され、建平郡が新設されました。
- 揚州の会稽郡の南部が分割され、建安郡が新設されました。
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【三国志地図】三国志の地名を覚えよう!後漢時代の州郡県マップ
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後漢末〜三国時代の州・郡の変遷一覧
の194年
「涼州の河西4郡(金城郡・酒泉郡・敦煌郡・張掖郡)が分割され、雍州が新設されました。」
は、金城郡ではなく武威郡ではないでしょうか。
コメントありがとうございます。
現状、『後漢書』献帝紀に、
「興平元年(194年)、夏六月丙子、涼州の河西四郡を分割して雍州を置いた」
とあり、「李賢注」に、
「金城・酒泉・敦煌・張掖の四郡を謂う」
とあるのに従っています。
これだと金城郡だけ飛び地になってしまいますし、私も武威郡の方が自然だと思うのですが、「李賢注」の誤記でしょうか?
もし4郡を武威・酒泉・敦煌・張掖とする史料をご存知でしたらご教示いただけるとありがたいです。