三国時代の幕開けである後漢の末期、後漢の支配地は13の州に分割して統治されていました。
今回は、時代が進むにつれて新設・統廃合された州・郡の変遷を確認してみます。

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後漢末期の州・郡

後漢の13州

中平4年(187年)までの州名

後漢ごかん末期の州郡地図

後漢の13州

この頃、後漢ごかんの支配地は以下の13の州に分割されていました。


司隷しれい
豫州よしゅう予州よしゅう
冀州きしゅう
兗州えんしゅう
徐州じょしゅう
青州せいしゅう
荊州けいしゅう
揚州ようしゅう
益州えきしゅう
涼州りょうしゅう
幷州へいしゅう并州へいしゅう
幽州ゆうしゅう
交州こうしゅう
詳しくはこちら

後漢ごかん末期の州・郡・県の詳細についてはこちらをご覧ください。

郡と州

ぐん属国ぞっこく

城壁でかこまれた都市・集落のことを、けん侯国こうこくゆうどうと言い、いくつかの都市・集落を1つにまとめた行政区画のことを「ぐん」と言います。

ぐんには太守たいしゅが置かれ、皇族または諸侯に封建されたぐん王国おうこく)にはしょう王国相おうこくそう)置かれました。

属国

辺境の異民族を居住させたぐんのことを「属国ぞっこく」と言い、属国ぞっこくには都尉とい属国都尉ぞっこくとい)が置かれました。

辺境の異民族に限らず、反乱が多発する地域にも、ぐんを分けて太守たいしゅより軍事に特化した都尉といが置かれることがあります。

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しゅう

いくつかのぐん属国ぞっこくを1つにまとめた行政区画のことを「しゅう」と言い、しゅうには管轄内の太守たいしゅの監察官として州刺史しゅうししが置かれました。

また、黄巾の乱の余波で地方の反乱が続いていたため、中平ちゅうへい5年(188年)には州刺史しゅうししに変わって、兵権も含めた州内全般の統治権が与えられた州牧しゅうぼくが設置されるようになりました。

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後漢ごかん末期から三国時代にかけて、必要に応じて県の新設や廃止、州・郡の統廃合が行われました。この記事では、年代を追ってその変遷へんせんをまとめています。

雍州ようしゅう」で検索される方が多かったため、まず簡単にまとめた記事をつくりましたが、随時ずいじ詳細情報を追記していきます。


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193年までの州・郡の変遷

初平4年(193年)までの州郡地図

初平4年(193年)までの州名

初平しょへい4年(193年)の州郡地図

時代背景

初平しょへい4年(193年)までの後漢ごかんの統治区分です。

光和こうわ7年(184年)の黄巾こうきんの乱から、董卓とうたくが殺され、献帝けんていのいる長安ちょうあん李傕りかく郭汜かくしによって支配された頃までになります。

州・郡の変遷

建和けんわ2年(148年)

冀州・清河国を甘陵国と改名
  • 清河国せいがこく高帝こうてい劉邦りゅうほう)が置いた。桓帝かんてい建和けんわ2年(148年)に甘陵国かんりょうこくと改名した」《続漢書ぞくかんじょ郡国志ぐんこくし
  • 建和けんわ2年(148年)6月、(しゅう・)せいこくを改めかんりょうこくとし、あんぺいおうりゅうとくの子であるけいこうりゅうを立ててかんりょうおうとした」《かんじょこうかんてい

甘陵国かんりょうこくは、建安けんあん11年(206年)に後嗣こうし(後継ぎ)不在のため国が除かれました。その後、黄初こうしょ3年(222年)に甘陵郡かんりょうぐんから清河国せいがこくに戻され、文帝ぶんてい曹丕そうひ)の子・曹貢そうこう清河王せいがおうに封ぜられましたが、その翌年に子がないまま亡くなり、また国が除かれて清河郡せいがぐんとなります。

ちなみに、しょくではが行った甘陵郡かんりょうぐんから清河郡せいがぐんへの改名を認めず、しょく建興けんこう8年(230年)には昭烈帝しょうれつてい劉備りゅうび)の子・劉永りゅうえい甘陵王かんりょうおうに封ぜられています。


以上のことから、清河国せいがこく = 甘陵国かんりょうこく だと思われますが、建安けんあん18年(213年)の「禹貢うこう九州きゅうしゅう」にならった州郡の再編についてしるした続漢書ぞくかんじょ百官志ひゃっかんし劉昭りゅうしょう注・けんていきょちゅうには、冀州きしゅうの領郡としてなぜかせいぐんかんりょうぐんの両方の名前がせられています。

延熹えんき元年(158年)

冀州に博陵郡を設置
  • 延熹えんき元年(158年)6月、(しゅう・)ちゅうざんこくを分けてはくりょうぐんを置き、こうすうこうかんていの父:れいこうりゅうよく)の国陵こくりょうにあてた」《かんじょこうかんてい
  • はくりょうぐんの領県はれいけんあんぺいけんあんこくけんなんしんたくけんこうようけんはくりょうけんの6県」《とうかんせい*1
  • 「(はくりょうぐん設置後〜れいてい末までの間、(ゆうしゅう・)だいぐんれいきゅうけんが(しゅう・)ちゅうざんこくに転属」《とうかんせい*2

冀州・博陵郡

冀州きしゅう博陵郡はくりょうぐん


博陵はくりょう」とは、こうすうこうりょうかんていの父:れいこうりゅうよくの墓)のことでちゅうざんこくれいけんに属していましたが、かんていが即位すると独立してはくりょうけんが置かれ、さらにちゅうざんこくから分割されて郡になりました。

脚注

*1維基百科#博陵郡(东汉) 出典のとうかんせいを直接確認できていません。

*2維基百科#中山郡 出典のとうかんせいを直接確認できていません。

建寧けんねい元年(168年)(仮)

益州に汶山郡を設置
  • れいてい末期にしょくぐん北部(しょくぐんほく)を分割してぶんざんぐんに戻した」《かんじょぜんもうでん
  • ぶんざんぐんぶんざんけんぶんざんどう)郡治・あんけんせんていどう)・こうようけんこうじゅうけんさんりょうけんしょうせんけんへいこうけんこうがくけん」《ようこくしょく

益州・汶山郡

益州えきしゅう汶山郡ぶんざんぐん


ぶんざんぐんの設置年は不明。

ぶんざんぐんぜんかんげんぽう4年(紀元前107年)[またはげんてい6年(紀元前111年)]にていによって建てられ、ぜんかんせつ3年(紀元前67年)[またはせつ元年(紀元前69年)]に、しょくぐんほくに改められました。その後、かんえんこう3年(124年)にあんていによってぶんざんぐんに戻されましたが、数年でまたしょくぐんほくに戻されます。

この時、霊帝れいていによって戻された汶山郡ぶんざんぐんも、またしょくぐんほくに戻されたようで、しょくしょちんしんでんに、

しょくが平定された後、しょくぐんほくとなり、郡名の変更に従ってぶんざんたいしゅとなり、けんたいしゅに転任した」

とあります。

光和こうわ元年(184年)(仮)

益州に漢嘉郡を設置
  • 霊帝れいていの時、しょくぐんぞっこくかんぐんとした」《かんじょなんばん西せいなんれつでんさく

しょくぐんかんぐんの設置年は不明。仮設置年の出典は維基百科#汉嘉郡 。

中平ちゅうへい5年(188年)

涼州に南安郡を設置
  • ちゅうへい5年(188年)、(りょうしゅうかんようぐんを)分割してなんあんぐんを置いた」《ぞくかんじょぐんこくりゅうしょう注・しんしゅう

涼州・南安郡

涼州りょうしゅう南安郡なんあんぐん

益州に蜀郡属国を設置(仮)

しょくぐんかんぐんが廃止され、しょくぐんぞっこくに戻されました。《維基百科#汉嘉郡

出典不明。

中平ちゅうへい6年(189年)

司隷に漢安郡を設置
  • ちゅうへい6年(189年)、ふうはぶかんあんぐんを置いた。かんあんぐんに属する県はちんようようちんそうけんけんの5県である」《ぞくかんじょぐんこくりゅうしょう注・けんていきょちゅう

司隷・漢安郡

司隷しれい漢安郡かんあんぐん

初平しょへい元年(190年)(仮)

荊州に章陵郡を設置
  • この年のかいえつの言葉に「けいしゅう8郡」とある。《しょりゅうひょうでん・注・ひょうせんりゃく

荊州・章陵郡

荊州けいしゅう章 陵郡しょうりょうぐん


しょうりょうぐんの設置年は不明。ぞくかんじょぐんこくにおけるけいしゅうの領郡は7郡。かんかんではこれにしょうりょうぐんを加えて8郡としているため、かいえつの言葉から、この頃すでにしょうりょうぐんが設置されていたものと思われます。

初平しょへい3年(192年)(仮)

汝南郡に陽安都尉を設置
  • しょへい3年(192年)、2県を分けてようあんを置いた」《ぞくかんじょぐんこくりゅうしょう注・しゅんじゅう
  • 「(けんあんの初め)じょなんぐんの2県を分割し、つうようあんとした」《しょつうでん

つうちょうしゅう征伐の際にそうそうを救い、ちょうしゅうの軍を散々に撃ち破っています。そうそうちょうしゅう征伐を行ったけんあん2年(197年)以降、ちょうしゅうへのおさえとしてようあんぐんようあんぞっこく?)を設置し、つうようあんに任命したものと思われます。廃止年は不明。

しょへい3年(192年)に設置され、その後廃止されたものを、またそうそうが復活させたのかもしれません。

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初平しょへい4年(193年)

涼州に永陽郡を設置
  • しょへい4年(193年)12月、すでにかんようぐんじょうぐんじょうけいけん?)を分割してえいようぐんとし、きょうていを属県とした」《ぞくかんじょぐんこくりゅうしょう注・けんていきょちゅう

涼州・永陽郡

涼州りょうしゅう永陽郡えいようぐん


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194年から219年までの州・郡の変遷

194年頃の州区分

興平こうへい元年(194年)の州区分

時代背景

こうへい元年(194年)は、りょうしゅうではとうかんすいが反乱を起こし、そうそうじょしゅうを攻め、手薄になったえんしゅうりょが攻め込んだ年に当たります。

かんの戦い、せきへきの戦いをりゅうえきしゅうに入り、かんちゅうおうを名乗った頃までになります。

州・郡の変遷

興平こうへい元年(194年)

雍州(廱州)の設置
  • こうへい元年(194年)夏6月へい、すでにりょうしゅう西せい4郡を分割してようしゅうようしゅう)を置いた」《かんじょこうけんてい
  • 西せい4郡はりょうしゅうの治所(かんようぐんけん)から遠く離れ、こうこうぞく)によって隔絶していたため、別に州を置くことが求められた。6月へいけんていみことのりを下し、ちんりゅうの人・かんたんしょうようしゅうに任命して4郡を治めさせた」《がん
  • 「(西せい4郡とは)きんじょうしゅせんとんこうとんこう)・ちょうえきの4郡を言う」《かんじょこうけんていりゅうしょう注》
  • ようしゅうの治所はに置かれた」《がんさんせい注》
  • けんていの時、りょうしゅうでは反乱が多く、西せい5郡は州治所から遠く離れていたので、これを分割してようしゅうを置いた」《しんじょじょう

雍州(ようしゅう)

雍州ようしゅう


当時りょうしゅうは、ろう西せいきんじょうかんようなんあんえいようあんていほくちょうえきちょうえきちょうえきぞっこくちょうえききょえんぞっこく)、しゅせんとんこうの12郡に分割されていました。

一般に「西せい4郡」と言うと、

  • ぐん
  • ちょうえきぐんちょうえきぞっこくちょうえききょえんぞっこくを含む)
  • しゅせんぐん
  • とんこうぐん

を指すようなのですが、そうなると「きんじょうしゅせんとんこうとんこう)・ちょうえきの4郡」とするかんじょこうけんていりゅうしょう注の内容に合いません。ですが、がんさんせい注にも「ようしゅうの治所はに置かれた」とあり、この時設置されたようしゅうぐんが含まれていたことは間違いなさそうです。

ようしゅうぐんを加えた場合のきんじょうぐんの扱いに悩みましたが、しんじょじょうに「西せい5郡をようしゅうとした」とあるので、ここでは「西せい4郡」にきんじょうぐんを加えた5郡をようしゅうとしています。

涼州に新平郡を設置
  • こうへい元年(194年)12月、(りょうしゅう・)あんていぐんと(れい・)ふうぐんゆうふう)から土地を分割してしんぺいぐんを置いた」《かんじょこうけんてい
  • こうへい元年(194年)、あんていぐんじゅんけんゆうふうしつけんを分割してしんぺいぐんを置いた」《ぞくかんじょぐんこくりゅうしょう注・えんさんしょうかんじょ

涼州・新平郡

涼州りょうしゅう新平郡しんぺいぐん


上記出典の文章を読む限り、しんぺいぐんりょうしゅうれいのどちらに属するのか分かりませんが、どちらもりょうしゅうあんていぐんを先にげていますので、りょうしゅうの領郡として扱っています。

興平こうへい2年(195年)

巴郡・永寧郡・固陵郡の設置
  • しょへい元年(190年)、ちょうえいちょう)は(えきしゅう・)ぐんを分けて2郡とし、「」を元の名前に戻そうとした。そこでぐんてんこうけんを治所とし、あんかんけんより下流をえいねいぐんとした」《ぞくかんじょぐんこくりゅうしょう注・しょうしゅう
  • けんていしょへい元年(190年)、あんかんけん出身のせいとうちゅうろうしょうちょうえいちょう)が「ぐんを2郡に分ける」ことを建議した。ちょうえいちょう)は「」を旧名に戻すことを望み、えきしゅうぼくりゅうしょうに建議したのである。これにより、てんこうけんより上流をぐんとし、こうなんなんいんの間違い?)出身のほうたいしゅに任命してあんかんけんを治めさせ、こうしゅうけんからりんこうけんに至るまでの地域をえいねいぐんとし、しゅんじんけんからぎょふくけんに至るまでの地域をりょうぐんとした」《ようこく

巴郡・永寧郡・固陵郡

巴郡はぐん永寧郡えいねいぐん固陵郡こりょうぐん


ようこくじんだいきょう注には、「しょへい元年(190年)はこうへい2年(195年)のあやまり」とあり、また、りゅうしょうえきしゅうぼくとなったのもこうへい元年(194年)であることから、このぐんの分割をこうへい2年(195年)としています。

建安けんあん元年(196年)

雍州(廱州)に西平郡を設置(仮)
  • かん末にきんじょうぐんを分割して西せいへいぐんが置かれた」《がんさんせい注》
  • 後漢ごかん建安けんあん年間に西せいへいぐんが置かれた」《てんしゅうぐん4

雍州(廱州)・西平郡

雍州ようしゅう廱州ようしゅう)・西平郡せいへいぐん


西せいへいぐんの設置年は不明。しょでんに、

「たまたま天下が混乱したので、官をててけいしゅうに旅住まいし、けんあん年間になってやっと帰郷した。じゅんいくが彼をそうそうに推薦した。そうそうくうちょくとし、きょうこうに昇進させ、せつとして西せいへいたいしゅを受け持たせた」

とあり、その後、けんあん10年(205年)にとうたいしゅに転任していますので、西せいへいぐんけんあん元年(196年)からけんあん10年(205年)までの間に設置されていたことが分かります。

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建安けんあん3年(198年)

城陽郡・利城郡・昌慮郡・東莞郡の設置
  • 「[けんあん3年(198年)、そうそうじょしゅうの]ろうぐんとうかいぐん、(せいしゅうの)ほっかいこくを分割してじょうようぐんじょうりぐんしょうりょぐんを作った」《しょてい
  • たいそうそう)はぞうろうこくしょうたいしゅ*3とんじょうたいしゅいんれいををとうかんたいしゅそんかんほっかいたいしゅ*3そんこうじょうじょうたいしゅとし、せいしゅうじょしゅうの2州をいてそれをぞうに委任した。《しょぞうでん

青州・徐州の再編

青州せいしゅう徐州じょしゅうの再編


とうかんぐんの設置年は不明。一般には「建安けんあん年間の初期」とされています。

しょていには「じょうようぐんじょうりぐんしょうりょぐんを作った」とだけあり、そこにとうかんぐんの名前がないことから、「建安けんあん3年(198年)以前にとうかんぐんが設置されていた」と考えることもできますが、ここにまとめて記載しました。

しょうりょぐんじょうぐんの領県に関する情報がないため、郡の境界線に根拠はありません。また、上記出典の文章を読む限り、じょうようぐんせいしゅうじょしゅうのどちらに属するのか分かりませんが、ちゅうごくれきしゅうけいげん3年(262年)の地図に合わせてせいしゅうの所属としています。

脚注

*3しょへい4年(193年)にろうおうりゅうようが亡くなったことから、ろうこくは断絶していましたので、ぞうろうたいしゅほっかいは国ですので、そんかんほっかいしょうとなりますが、原文に合わせています。

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兗州・泰山郡に嬴郡を設置
  • そうこうそうそう)が上奏してじくえいぐんたいしゅに、じくの弟のほうほうじょうしょうにつけたが、いずれも官を去り、せんしゅりゅう)に従って転々とした」《しょくしょじくでん
  • そうこうそうそう)の表に言う「たいざんぐんの領域は広大で、古くから軽はずみな乱暴者が多い所です。一時的に5県を分離してえいぐんを立て、せいれんな官吏を厳選して守将とするのがよろしいかと存じます。へんしょうぐんじくは、平素から誠実さを守り、文武共に明らかですので、じくえいぐんたいしゅに任命して、官民をさせるようにお願い申し上げます」《しょくしょじくでん・注・そうこうしゅう

えいぐんの領県5県が不明な上、ほどなくして廃止されたため地図には反映させません。

けんあん4年(199年)

揚州に廬陵郡を設置
  • 孫策そんさくみずか会稽太守かいけいたいしゅを兼任し、呉景ごけい丹楊太守たんようたいしゅに戻し、孫賁そんふん豫章太守よしょうたいしゅに任命した。また、豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)を分割して廬陵郡ろりょうぐんを作り、孫賁そんふんの弟の孫輔そんほ廬陵太守ろりょうたいしゅに任命した」《呉書ごしょ孫策伝そんさくでん

揚州・廬陵郡

揚州ようしゅう廬陵郡ろりょうぐん


呉書ごしょ孫策伝そんさくでんには、廬陵郡ろりょうぐんを設置した年は明記されていませんので、孫策そんさく豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)を平定した建安けんあん4年(199年)としています。

建安けんあん6年(201年)

巴東郡・巴西郡・巴東属国の設置
  • 建安けんあん6年(201年)、(固陵郡こりょうぐん・)魚復県ぎょふくけん出身の蹇胤ちょうい劉璋りゅうしょうに「」の郡名を求めた。そこで劉璋りゅうしょうは、永寧郡えいねいぐん巴郡はぐん固陵郡こりょうぐん巴東郡はとうぐんと改め、(元の巴郡はぐん巴西郡はせいぐんとして)龐羲ほうぎ巴西太守はせいたいしゅに任命し、これをもって「三巴さんは」とした。
    また、涪陵郡ふりょうぐん出身の謝本しゃほん劉璋りゅうしょうに「丹興県たんこうけん漢髪県かんぱつけんの2県を郡とする」ことを求め、劉璋りゅうしょうはこれにこたえて巴東属国はとうぞっこくを建てたが、後に涪陵郡ふりょうぐんとした」《華陽国志かようこくし巴志はし

三巴と巴東属国

三巴さんは巴東属国はとうぞっこく

建安けんあん8年(203年)

交趾刺史部を交州とする
  • 建安けんあん8年(203年)、張津ちょうしんは(交趾こうし刺史ししとなり、士燮ししょう交趾太守こうしたいしゅとなった。2人は州を立てることを上表し、張津ちょうしん交州牧こうしゅうぼくはいした。《しんじょこうしゅう

建安けんあん11年(206年)

徐州の再編
  • 建安けんあん11年(206年)8月、(曹操そうそう徐州じょしゅう・)東海郡とうかいぐんのうち、襄賁県じょうひけん郯県たんけん戚県せきけんの諸県をいて琅邪郡ろうやぐんに編入し、昌慮郡しょうりょぐんはぶいた」《しょてい

徐州の再編

徐州じょしゅうの再編

けんあん13年(208年)

揚州に蘄春郡を設置
  • 建安けんあん13年(208年)、そんけんこうぐんこうぐんを分割してしゅんぐんを置いた。管轄はしゅんけんしゅけんじんようけんの3県。郡治はしゅんけんようしゅうに属す」《Baidu百科#蕲春郡

蘄春郡(きしゅんぐん)

揚州ようしゅう蘄春郡きしゅんぐん


出典不明。おそらくそんけんが、この年にこうを攻めて得た領土をしゅんぐんとして編入したものと思われます。

揚州に新都郡を設置
  • 「この歳[けんあん13年(208年)]、せいを派遣してけんゆうけん)としょうけんを討伐させ、しょうけんを分割してしんけんしんていけんようけんきゅうようけんを立て、これら6県を合わせてしんぐんを作った」《しょしゅでん
  • せいは再び『しょうけんを分割して、しんけんしんていけんれいようけんきゅうようけんけんゆうけん)・しょうけんの6つの県を立てる』ように上表した。そんけんはその意見をれてしょうけんを分割し、それらをまとめてしんぐんを立てると、せいたいしゅに任命してその役所をしんけんに置かせ、へんしょうぐんを加官した」《しょせいでん
  • そんけんしょうけんを分割してしんけんしんていけんきゅうようけんれいようけんとし、けんゆうけん)と合わせた6県をしんぐんとした」《がんさんせい注》

揚州・新都郡

揚州ようしゅう新都郡しんとぐん

荊州に襄陽郡を設置
  • かんけんてい期のけんあん13年(208年)、そうそう)はけいしゅうを得ると、なんぐん以北を分割してじょうようぐんを立て、またなんようぐんの西部を分割してなんきょうぐんを立て、(なんぐんの)こうけん以西を分割してりんこうぐんを立てた」《しんじょ
  • かんけんてい期のけんあん13年(208年)、そうそう)はけいしゅうを得ると、なんぐんなんようぐんを分割してじょうようぐんを立てた。治所はじょうようけんにあり、けいしゅうに属す」《維基百科#襄阳郡

荊州・襄陽郡

荊州けいしゅう襄陽郡じょうようぐん

荊州に南郷郡を設置
  • かんけんてい期のけんあん13年(208年)、そうそう)はけいしゅうを得ると、なんぐん以北を分割してじょうようぐんを立て、またなんようぐんの西部を分割してなんきょうぐんを立て、(なんぐんの)こうけん以西を分割してりんこうぐんを立てた」《しんじょ
  • けんあん年間(196年〜220年)、そうそうけいしゅうなんようぐんの西部を分割してなんきょうぐんとした」《どくほう輿ようなん6
  • けんあん13年(208年)、そうそうけいしゅうを奪うと、けいしゅうなんようぐんの西部を分割してなんきょうぐんとした」《維基百科#南乡郡

荊州・南郷郡

荊州けいしゅう南郷郡なんきょうぐん

荊州に臨江郡を設置
  • かんけんてい期のけんあん13年(208年)、そうそう)はけいしゅうを得ると、なんぐん以北を分割してじょうようぐんを立て、またなんようぐんの西部を分割してなんきょうぐんを立て、(なんぐんの)こうけん以西を分割してりんこうぐんを立てた」《しんじょ
  • そうそう)はけいしゅうを平定すると、なんぐんを分割してこうけん以西をりんこうぐんとした」《そうしょしゅうぐん3
  • けんあん13年(208年)、そうそうなんぐんこうけん以西を分割してりんこうぐんを置いた。管轄はこうけんりょうけんけんけんの4県。けいしゅうに属す。そうそうせきへきの戦いで敗れて以降、りんこうぐんは空虚となった」《維基百科#臨江郡

荊州・臨江郡

荊州けいしゅう臨江郡りんこうぐん

けんあん14年(209年)

彭澤郡の設置(仮)
  • そうこうそうそう)がせきへきまでやって来ると、りょはんしゅうらと共にこれを防ぎ止めて撃ち破った。(この功により)しょうぐんの官をさずけられ、ほうたくたいしゅの任にあたり、ほうたくさいそうれきようほうゆうとしてさずかった」《しょりょはんでん

ほうたくぐんの設置年、領県は不明。りょはんほうゆうとされたほうたくけんさいそうけんの2県か?(しょうぐんの北部)。領県が不明な上、ほどなくして廃止されたため地図には反映させません。

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けんあん15年(210年)

臨江郡を宜都郡に改名
  • けんあん15年(210年)、りゅうが旧りんこうぐんぐんを設置した」《維基百科#臨江郡
揚州に鄱陽郡を設置
  • けんあん15年(210年)、(ようしゅう・)しょうぐんを分割してようぐんを作った」《しょしゅでん

揚州・鄱陽郡

ようしゅうようぐん

荊州に漢昌郡を設置
  • けんあん15年(210年)、(けいしゅう・)ちょうぐんを分割してかんしょうぐんを作り、しゅくをそのたいしゅとし、りくこうに駐留させた」《しょしゅでん
  • けんあん15年(210年)、そんけんちょうぐん北部のしゅんけんけんかんしょうけんを分割してかんしょうぐんを設置した。郡治はかんしょうけん。《維基百科#漢昌郡

揚州・漢昌郡

けいしゅうかんしょうぐん


かんしょうけんの境界線については、領県から推測したものになります。

上庸郡じょうようぐんの新設

荊州(けいしゅう)


212年、益州えきしゅう漢中郡かんちゅうぐんから鍚県しゃくけん上庸県じょうようけんを分割して、上庸郡じょうようぐんが新設され、荊州けいしゅうに属することになりました。

当時、益州えきしゅう劉備りゅうびの治めるところとなっていましたが、益州えきしゅう上庸県じょうようけんを含む荊州けいしゅう北部は曹操そうそうが支配していました。

上庸郡じょうようぐんを新設して荊州けいしゅうに併合したのは、劉備りゅうびが治める益州えきしゅうから荊州けいしゅうに併合することで、支配者を明確にする意図があったのではないかと思われます。

幷州へいしゅう(并州)の再編

幷州(へいしゅう)


幷州へいしゅうは、上党じょうとう太原たいげん西河せいが雁門がんもん定襄ていじょう雲中うんちゅう五原ごげん朔方さくほう上郡じょうぐんの9郡に分割されていました。

215年、定襄ていじょう雲中うんちゅう五原ごげん朔方さくほう上党じょうとう上郡じょうぐん?)の5郡は後漢の支配地から除かれ放棄されています。

平原郡へいげんぐん冀州きしゅうに併合

冀州(きしゅう)


平原郡へいげんぐんが、青州せいしゅうから冀州きしゅうに併合されました。



220年以降の州区分

220年以降の州区分

220年の州区分

時代背景

220年は、曹操そうそうの跡を継いだ曹丕そうひ献帝けんていに禅譲を迫って皇帝の座についた年であり、の建国に際して州郡の再編が行われました。

州区分の変化

涼州りょうしゅう雍州ようしゅうの再編

涼州(りょうしゅう)と雍州(ようしゅう)の再編


220年、の建国に際して涼州りょうしゅう雍州ようしゅうの再編が行われました。

少しややこしいのですが、まず涼州りょうしゅう雍州ようしゅうを入れ替え、司隷しれい京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふう雍州ようしゅうに併合されました。

当時、しょく諸葛亮しょかつりょうによる北伐が行われ、涼州りょうしゅうの奪取を目的の1つに挙げていました。

涼州りょうしゅう雍州ようしゅうを入れ替えることで、しょく軍が多少侵攻したとしても涼州りょうしゅうは取られていないと言いたかったのではないでしょうか。

また、当時首都機能は完全に洛陽らくように移転していましたので、長安ちょうあん司隷しれいに属している必要はありませんでした。

しょくに侵攻される可能性のある郡を1つの州にまとめて雍州ようしゅうとすることで、防衛力の強化を狙ったのではないかと思われます。

漢陽郡かんようぐん天水郡てんすいぐん

同年、漢陽郡かんようぐん天水郡てんすいぐんに改称されます。

漢陽郡かんようぐんは74年に改称された名称で、もともと天水郡てんすいぐんと言いました。

を建国した曹丕そうひは、前王朝の「漢」の字を嫌って漢陽郡かんようぐん天水郡てんすいぐんに改称したのではないでしょうか。

益州えきしゅうの再編

益州(えきしゅう)


225年、益州えきしゅう南部の永昌郡えいしょうぐんが、諸葛亮しょかつりょうによって永昌郡えいしょうぐん雲南郡うんなんぐんに分割されました。

また、229年の第3次北伐において武都ぶとしょく軍に占領されたため、によって武都ぶと雍州ようしゅうから益州えきしゅうに所属が変更されました。

基本的に勢力図が塗り変わるたびに州の境界を変更することはありません。
武都ぶと益州えきしゅうに編入したのは、これまた自国の領土を侵されたのではないと主張するための処置だったのかもしれません。


後漢王朝の州・郡・県は、状況に合わせて新設、統廃合がなされてきました。

今回はその代表的なものをご紹介しましたが、郡・県については反映できていないものもあります。
今後も確かな資料を見つけ次第、随時加筆修正します。


後漢末〜三国時代の州・郡の変遷一覧

西暦 変遷
148年
  • 冀州きしゅう清河国せいがこく甘陵国かんりょうこくと改名しました。
158年
  • 6月、冀州きしゅう中山国ちゅうざんこくが分割され、博陵郡はくりょうぐんが新設されました。
168年
  • 益州えきしゅう蜀郡しょくぐんの北部が分割され、汶山郡ぶんざんぐんに戻されました。(仮)
184年
  • 益州えきしゅう蜀郡属国しょくぐんぞっこくが廃止され、漢嘉郡かんかぐんが新設されました。(仮)
188年
  • 涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐんが分割され、南安郡なんあんぐんが新設されました。
  • 益州えきしゅう漢嘉郡かんかぐんが廃止され、蜀郡属国しょくぐんぞっこくに戻されました。(仮)
189年
  • 扶風都尉ふふうといが廃止され、漢安郡かんあんぐんが新設されました。
190年
  • 荊州けいしゅう章陵郡しょうりょうぐんの存在を確認することができます。
192年
  • 汝南郡じょなんぐんから2県が分割され、陽安都尉ようあんといが新設されました。(仮)
  • 交趾刺史部こうしししぶ交阯刺史部こうしししぶ)・日南郡じつなんぐん象林県しょうりんけん功曹こうそう占族せんぞく(チャム族)の区連くれん(別名:区達くたつ区逵おうき)が反乱を起こし、日南郡じつなんぐん南部に林邑国りんゆうこくを建国しました。
193年
  • 12月、涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐんが分割され、永陽郡えいようぐんが新設されました。
194年
  • 6月、涼州りょうしゅうの河西5郡(きんじょうぐんぐんしゅせんぐんとんこうぐんちょうえきぐん)が分割され、ようしゅうようしゅう)が新設されました。
  • 12月、司隷しれい右扶風ゆうふふう漆県しつけん安定郡あんていぐん鶉觚県じゅんこけんが分割され、新平郡しんぺいぐんが新設されました。
195年
  • 益州えきしゅう巴郡はぐん巴郡はぐん固陵郡こりょうぐん永寧郡えいねいぐんの3つの郡に分割されました。
196年
  • 雍州ようしゅう金城郡きんじょうぐんが分割されて、西平郡せいへいぐんが新設されました。[建安けんあん年間(196年〜220年)]
198年
  • 徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく青州せいしゅう斉国せいこく兗州えんしゅう泰山郡たいざんぐんが分割され、東莞郡とうかんぐんが新設されました。(仮)
  • 徐州じょしゅう城陽郡じょうようぐん利城郡りじょうぐん昌慮郡しょうりょぐんが新設されました。
  • 青州せいしゅう北海国ほっかいこく東萊郡とうらいぐん徐州じょしゅう琅邪国ろうやこくが分割され、城陽郡じょうようぐんが新設されました。
  • 兗州えんしゅう泰山郡たいざんぐんが分割され、嬴郡えいぐんが新設されました。
199年
  • 揚州ようしゅう豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)が分割され、廬陵郡ろりょうぐんが新設されました。
201年
  • 益州えきしゅう巴郡はぐん巴西郡はせいぐんに改称されました。
  • 益州えきしゅう固陵郡こりょうぐん巴東郡はとうぐんに改称されました。
  • 益州えきしゅう永寧郡えいねいぐん巴郡はぐんに改称されました。
203年
  • 交趾刺史部こうしししぶ交州こうしゅうに改称されました。
205年
  • 揚州ようしゅう豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)の上饒県じょうじょうけんが分割され建平県けんぺいけんが新設されました。
206年
  • 徐州じょしゅう昌慮郡しょうりょぐん東海郡とうかいぐん東海国とうかいこく)に編入されました。
208年
  • 荊州けいしゅう江夏郡こうかぐんの東部と揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐんの西部が分割され、揚州ようしゅう蘄春郡きしゅんぐんが新設されました。
  • 揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)が分割され、新都郡しんとぐんが新設されました。
  • 荊州けいしゅう南郡なんぐん南陽郡なんようぐんが分割され、襄陽郡じょうようぐんが新設されました。
  • 荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんの西部が分割され、南郷郡なんきょうぐんが新設されました。
  • 荊州けいしゅう南郡なんぐん枝江県しこうけん以西が分割され、臨江郡りんこうぐんが新設されました。
209年
  • この年、呂範りょはん彭澤太守ほうたくたいしゅに任命されいる。
210年
  • 荊州けいしゅう臨江郡りんこうぐん宜都郡ぎとぐんに改称されました。
  • 荊州けいしゅう長沙郡ちょうさぐんの北部が分割され、漢昌郡かんしょうぐんが新設されました。
  • 揚州ようしゅう豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)が分割され、鄱陽郡はようぐんが新設されました。
212年
  • 益州えきしゅう漢中郡かんちゅうぐんから錫県ようけん上庸県じょうようけんが分割され、荊州けいしゅう上庸郡じょうようぐんが新設されました。
213年
  • 青州せいしゅう平原郡へいげんぐん冀州きしゅうに編入されました。
  • 益州えきしゅう犍為郡けんいぐんが分割され、江陽郡こうようぐんが新設されました。
  • 涼州りょうしゅう雍州ようしゅうに併合されました。
  • 幷州へいしゅう并州へいしゅう)の上郡じょうぐん冀州きしゅうに編入されました。
214年
  • 益州えきしゅう蜀郡しょくぐんの北部が分割され、汶山郡ぶんざんぐんが新設されました。
  • 涼州りょうしゅう永陽郡えいようぐんが廃止されました。
215年
  • 益州えきしゅう漢中郡かんちゅうぐんが分割され、荊州けいしゅう西城郡せいじょうぐんが新設されました。
  • 幷州へいしゅう并州へいしゅう)の雲中郡うんちゅうぐん定襄郡ていじょうぐん五原郡ごげんぐん朔方郡さくほうぐんの4郡をそれぞれ1県にまとめ、4県を管轄する新興郡しんこうぐんが新設されました。
  • 幷州へいしゅう并州へいしゅう)の上党郡じょうとうぐんが分割され、楽平郡らくへいぐんが新設されました。
  • 幷州へいしゅう并州へいしゅう)の上郡じょうぐんが廃止されました。
216年
  • 益州えきしゅう巴東属国はとうぞっこく涪陵郡ふりょうぐんに改称されました。
217年
  • 益州えきしゅう広漢郡こうかんぐんが分割され、梓潼郡しとうぐんが新設されました。
220年
  • 司隷校尉部しれいこういぶ司隷しれい)から京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふうの3郡が分割され雍州ようしゅうに編入されました。
  • 後漢ごかん司隷校尉部しれいこういぶ司隷しれい)から京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふうの3郡を除いた地域が司州ししゅうとして設置されました。
  • 豫州よしゅう予州よしゅう)の沛国はいこくが分割され、譙郡しょうぐんが新設されました。
  • 豫州よしゅう予州よしゅう)の汝南郡じょなんぐんの一部と荊州けいしゅう江夏郡こうかぐんの一部が分割・統合され、弋陽郡よくようぐんが新設されました。
  • 揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐんの一部が分割・統合され、安豊郡あんほうぐんが新設されました。
  • 冀州きしゅう平原郡へいげんぐんが分割され、楽陵国らくりょうこくが新設されました。
  • 荊州けいしゅう房陵郡ぼうりょうぐん上庸郡じょうようぐん西城郡せいじょうぐんが合併され、新城郡しんじょうぐんが新設されました。
  • 雍州ようしゅう張掖居延属国ちょうえききょえんぞっこく西海郡せいかいぐんに改称されました。[建安けんあん年間(196年〜220年)の末]
  • 雍州ようしゅう廱州ようしゅう)・張掖郡ちょうえきぐんが分割され、西郡せいぐんが新設されました。(献帝けんてい期)
  • 雍州ようしゅうが分割され、旧雍州ようしゅうの地域が涼州りょうしゅう、旧涼州りょうしゅうの地域が雍州ようしゅうとされました。
  • 雍州ようしゅう漢陽郡かんようぐん天水郡てんすいぐんに改称されました。
  • 交州こうしゅう合浦郡がっぽぐんが分割され、高涼郡こうりょうぐんが新設されました。
221年
  • 冀州きしゅう魏郡ぎぐん鉅鹿郡きょろくぐん趙国ちょうこくが分割され、広平郡こうへいぐんが新設されました。
  • 冀州きしゅう魏郡ぎぐん兗州えんしゅう東郡とうぐんが分割され、陽平郡ようへいぐんが新設されました。
  • 荊州けいしゅう江夏郡こうかぐん南部が分割され、武昌郡ぶしょうぐんが新設されましたが、ほどなくして江夏郡こうかぐんに戻されました。
  • 益州えきしゅう蜀郡属国しょくぐんぞっこく漢嘉郡かんかぐんに改称されました。
  • 益州えきしゅう犍為属国けんいぞっこく朱提郡しゅていぐんに改称されました。
222年
  • 荊州けいしゅう江北こうほくの諸郡が分割され、郢州えいしゅうが新設されましたが、その年の内に荊州けいしゅうに戻されました。
  • 冀州きしゅう甘陵郡かんりょうぐん清河国せいがこくと改名する。
224年
  • 益州えきしゅう広漢属国こうかんぞっこく陰平郡いんぺいぐんに改称されました。
225年
  • 徐州じょしゅう利城郡りじょうぐん東海郡とうかいぐん東海国とうかいこく)に編入されました。
  • 益州えきしゅう広漢郡こうかんぐんが分割され、東広漢郡とうこうかんぐんが新設されました。
  • 益州えきしゅう益州郡えきしゅうぐん建寧郡けんねいぐんに改称されました。
  • 益州えきしゅう建寧郡けんねいぐん牂牁郡そうかぐんが分割され、興古郡こうこぐんが新設されました。
  • 益州えきしゅう永昌郡えいしょうぐん建寧郡けんねいぐんが分割され、雲南郡うんなんぐんが新設されました。
226年
  • 交趾刺史部こうしししぶ蒼梧郡そうごぐんが分割され、荊州けいしゅう臨賀郡りんがぐんが新設されました。
  • 揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)・呉郡ごぐん会稽郡かいけいぐんの3郡から民情不穏な10県が分割され、東安郡とうあんぐんが新設されました。
  • 司州ししゅう馮翊郡ひょうよくぐん羌陽県きょうようけんが廃止され撫夷護軍ぶいごぐんが設置されました。[明帝めいてい曹叡そうえい)期(在位:226年〜239年)]
  • 幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん范陽郡はんようぐんに改称されました。
  • 交州こうしゅう蒼梧郡そうごぐんの北東部を分割して臨賀郡りんがぐんを新設し、荊州けいしゅうに属させました。
  • 交州こうしゅうが分割され広州こうしゅうが新設されましたが、間もなく元に戻されました。
228年
  • 荊州けいしゅう新城郡しんじょうぐんが分割され、鍚郡ようぐん上庸郡じょうようぐんが新設されました。
  • 揚州ようしゅう東安郡とうあんぐんが廃止されました。
229年
  • 雍州ようしゅう武都郡ぶとぐん益州えきしゅうに編入されました。
230年
  • 荊州けいしゅう上庸郡じょうようぐん鍚郡ようぐんに編入されました。
234年
  • 揚州ようしゅう呉郡ごぐんが分割され、毗陵典農校尉ひりょうてんのうこういが新設されました。
235年
  • 幷州へいしゅう并州へいしゅう)に朔方郡さくほうぐんが再び設置されました。(魏書ぎしょ明帝紀めいていきに記載があるのみで詳細は不明)
237年
  • 荊州けいしゅう鄀葉県じゃくようけん襄陽郡じょうようぐんから義陽郡ぎようぐんに編入されました。
238年
  • 益州えきしゅう南広郡なんこうぐんが置かれ、9年後に廃止されました。[蜀漢しょくかん延熙えんき年間(238年〜257年)]
  • 雍州ようしゅうの旧永陽郡えいようぐんの地域に広魏郡こうぎぐんが新設されました。
242年
  • 交州こうしゅう朱崖郡しゅがいぐん珠崖郡しゅがいぐん)が新設されました。
244年
  • 幽州ゆうしゅう遼東属国りょうとうぞっこくが復活され、ほどなく昌黎郡しょうれいぐんに改称されました。
247年
  • 司州ししゅう河東郡かとうぐんが分割されて平陽郡へいようぐんが設置されました。
251年
  • 揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん淮南郡わいなんぐんに改称されました。
257年
  • 荊州けいしゅう長沙郡ちょうさぐん桂陽郡けいようぐんが分割され、湘東郡しょうとうぐんが新設されました。
  • 荊州けいしゅう長沙郡ちょうさぐん零陵郡れいりょうぐんが分割され、衡陽郡こうようぐんが新設されました。
  • 揚州ようしゅう豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)が分割され、臨川郡りんせんぐんが新設されました。
  • 揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐんが分割され、臨海郡りんかいぐんが新設されました。
259年
  • 荊州けいしゅう新城郡しんじょうぐんが分割され、上庸郡じょうようぐんが新設されました。
260年
  • 荊州けいしゅう宜都郡ぎとぐんが分割され、建平郡けんぺいぐんが新設されました。
  • 揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐんの南部が分割され、建安郡けんあんぐんが新設されました。
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