三国時代の幕開けである後漢の末期、後漢の支配地は13の州に分割して統治されていました。
今回は、時代が進むにつれて新設・統廃合された州・郡の変遷を確認してみます。

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193年までの州区分

後漢末期地図

時代背景

193年までの後漢の統治区分です。

『三国志』の出来事では、184年の黄巾の乱から、董卓とうたくが殺され献帝けんていのいる長安ちょうあん李傕りかく郭汜かくしによって支配された頃までになります。

州区分

この頃、後漢の支配地は以下の13の州に分割されていました。


司隷しれい
幽州ゆうしゅう
幷州へいしゅう
冀州きしゅう
青州せいしゅう
兗州えんしゅう
徐州じょしゅう
豫州よしゅう
涼州りょうしゅう
益州えきしゅう
荊州けいしゅう
揚州ようしゅう
交州こうしゅう
詳しくはこちら

193年までの州・郡の詳細についてはこちらをご覧ください。

三国志の地名を覚えよう!後漢時代の州郡県マップ

州刺史(しゅうしし)と州牧(しゅうぼく)

それぞれの州はさらにいくつかの郡に分割され、太守たいしゅによって統治されていました。そして、州内の太守たいしゅの監察官として州刺史しゅうししが設置されています。

また、黄巾の乱の余波で地方の反乱が続いていたため、188年には州刺史しゅうししに変わって、兵権も含めた州内全般の統治権が与えられた州牧しゅうぼくが設置されました。



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194年から219年までの州区分

194年頃の州区分

194年の州区分

時代背景

194年は、涼州りょうしゅうでは馬騰ばとう韓遂かんすいが反乱を起こし、曹操そうそう徐州じょしゅうを攻め、手薄になった兗州えんしゅう呂布りょふが攻め込んだ年に当たります。

官渡の戦い、赤壁の戦いを経て劉備りゅうび益州えきしゅうに入り、漢中王かんちゅうおうを名乗った頃までになります。

州区分の変化

涼州りょうしゅうの分割と雍州ようしゅうの新設

涼州(りょうしゅう)・雍州(ようしゅう)


涼州りょうしゅうは、隴西ろうせい金城きんじょう武都ぶと漢陽かんよう安定あんてい北地ほくち武威ぶい張掖ちょうえき張掖ちょうえき張掖属国ちょうえきぞっこく張掖居延属国ちょうえききょえんぞっこく)、酒泉しゅせん敦煌とんこうの9郡に分割されていました。

194年、涼州りょうしゅう武威ぶいより北の4郡を分割して雍州ようしゅうが新設されます。

また、涼州りょうしゅう北地郡ほくちぐんは、後漢の支配地から除かれて放棄されました。

上庸郡じょうようぐんの新設

荊州(けいしゅう)


212年、益州えきしゅう漢中郡かんちゅうぐんから鍚県しゃくけん上庸県じょうようけんを分割して、上庸郡じょうようぐんが新設され、荊州けいしゅうに属することになりました。

当時、益州えきしゅう劉備りゅうびの治めるところとなっていましたが、益州えきしゅう上庸県じょうようけんを含む荊州けいしゅう北部は曹操そうそうが支配していました。

上庸郡じょうようぐんを新設して荊州けいしゅうに併合したのは、劉備りゅうびが治める益州えきしゅうから荊州けいしゅうに併合することで、支配者を明確にする意図があったのではないかと思われます。

幷州へいしゅう(并州)の再編

幷州(へいしゅう)


幷州へいしゅうは、上党じょうとう太原たいげん西河せいが雁門がんもん定襄ていじょう雲中うんちゅう五原ごげん朔方さくほう上郡じょうぐんの9郡に分割されていました。

215年、定襄ていじょう雲中うんちゅう五原ごげん朔方さくほう上党じょうとう上郡じょうぐん?)の5郡は後漢の支配地から除かれ放棄されています。

平原郡へいげんぐん冀州きしゅうに併合

冀州(きしゅう)


平原郡へいげんぐんが、青州せいしゅうから冀州きしゅうに併合されました。

この併合は、官渡の戦いで勝利した曹操そうそう冀州きしゅうを統治する際に行ったことから、時期については、200年以降だと思われます。



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220年以降の州区分

220年以降の州区分

220年の州区分

時代背景

220年は、曹操そうそうの跡を継いだ曹丕そうひ献帝けんていに禅譲を迫って皇帝の座についた年であり、の建国に際して州郡の再編が行われました。

州区分の変化

涼州りょうしゅう雍州ようしゅうの再編

涼州(りょうしゅう)と雍州(ようしゅう)の再編


220年、の建国に際して涼州りょうしゅう雍州ようしゅうの再編が行われました。

少しややこしいのですが、まず涼州りょうしゅう雍州ようしゅうを入れ替え、司隷しれい京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふう雍州ようしゅうに併合されました。

当時、しょく諸葛亮しょかつりょうによる北伐が行われ、涼州りょうしゅうの奪取を目的の1つに挙げていました。

涼州りょうしゅう雍州ようしゅうを入れ替えることで、しょく軍が多少侵攻したとしても涼州りょうしゅうは取られていないと言いたかったのではないでしょうか。

また、当時首都機能は完全に洛陽らくように移転していましたので、長安ちょうあん司隷しれいに属している必要はありませんでした。

しょくに侵攻される可能性のある郡を1つの州にまとめて雍州ようしゅうとすることで、防衛力の強化を狙ったのではないかと思われます。

漢陽郡かんようぐん天水郡てんすいぐん

同年、漢陽郡かんようぐん天水郡てんすいぐんに改称されます。

漢陽郡かんようぐんは74年に改称された名称で、もともと天水郡てんすいぐんと言いました。

を建国した曹丕そうひは、前王朝の「漢」の字を嫌って漢陽郡かんようぐん天水郡てんすいぐんに改称したのではないでしょうか。

益州えきしゅうの再編

益州


225年、益州えきしゅう南部の永昌郡えいしょうぐんが、諸葛亮しょかつりょうによって永昌郡えいしょうぐん雲南郡うんなんぐんに分割されました。

また、229年の第3次北伐において武都ぶとしょく軍に占領されたため、によって武都ぶと雍州ようしゅうから益州えきしゅうに所属が変更されました。

基本的に勢力図が塗り変わるたびに州の境界を変更することはありません。
武都ぶと益州えきしゅうに編入したのは、これまた自国の領土を侵されたのではないと主張するための処置だったのかもしれません。


後漢王朝の州・郡・県は、状況に合わせて新設、統廃合がなされてきました。

今回はその代表的なものをご紹介しましたが、郡・県については反映できていないものもあります。
今後も確かな資料を見つけ次第、随時加筆修正します。

変更のない州・郡・県の情報はこちら

三国志の地名を覚えよう!後漢時代の州郡県マップ