興平(こうへい)2年(195年)7月、献帝(けんてい)が長安(ちょうあん)を出て東に向かい、司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・安邑県(あんゆうけん)を都に定めたことを受け、袁紹(えんしょう)は使者として郭図(かくと)・・・
「何皇后」タグの記事一覧
【029】残虐さを増す董卓と司徒・王允の秘策
打倒董卓(とうたく)を掲(かか)げて集結した十八路諸侯(じゅうはちろしょこう)ですが、その目的を果たすことなく解散して、互いに争いを始めました。その頃、長安(ちょうあん)の董卓(とうたく)は…。
汝南袁氏の家系と「奔走の友」と雌伏した袁紹の青年期
黄巾の乱の際には名前も見えず、霊帝(れいてい)が崩御すると颯爽(さっそう)と現れて「反董卓(とうたく)連合」の盟主になってしまった袁紹(えんしょう)の青年期は、どのようなものだったのでしょうか。
【三国志年表詳細】189年の主な出来事と三国志群雄勢力図
189年【漢:中平(ちゅうへい)6年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。