正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(114)(娥皇がこう蛾遮塞がしゃさい餓何がかがい海陽哀侯かいようあいこう開方かいほう)です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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か(114)

娥皇・蛾遮塞・餓何・艾・海陽哀侯・開方

娥皇がこう

生没年不詳。神話時代の三皇五帝さんこうごていの帝王の1人・ぎょうむすめ娥黄がこう娥肓がもう娥娙がけい倪皇げいこう后肓こうもうとも。妹に女英じょえい女瑩じょえい女匽じょえん)。

ぎょうの時代、しゅん歴山れきざんで耕すと民はみなあぜゆずるようになり、雷沢らいたくりょうをすると人はみな漁場りょうばゆずるようになり、黄河こうがほとりで陶器を作ると、誰も粗悪なものを作らなくなった。しゅんがいる所は1年でしゅう(部落)となり、2年でゆう(村)となり、3年で都(町)となった。

ぎょうしゅんが聡明であると聞いて畎畝けんぽ(田舎)から抜擢ばってきすると、娥皇がこう女英じょえいの2人のむすめに婚礼の支度を整えさせ、しゅんのいる媯水ぎすいの北に降嫁こうかさせた。

しゅん天子てんしに即位すると娥皇がこうこう女英じょえいとなり、しゅん蒼梧そうごで死ぬと、2人は湘水しょうすいに身を投げたという。

備考

魏書ぎしょ文徳郭皇后伝ぶんとくかくこうごうでんに、聡明な女性の例として登場する。


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蛾遮塞がしゃさい

生没年不詳。に反乱を起こした羌族きょうぞくの1人。

正始せいし8年(247年)、隴西郡ろうせいぐん南安郡なんあんぐん金城郡きんじょうぐん西平郡せいへいぐんの諸羌族きょうぞく餓何がか焼戈しょうか伐同ばつどう蛾遮塞がしゃさいらが結託して反乱を起こし、城邑じょうゆうを攻撃・包囲して南方からしょくの兵をまねくと、涼州りょうしゅう胡人こじんの名族・治無戴ちぶたいもまた反乱を起こしてこれに呼応した。

この反乱の鎮圧に当たった討蜀護軍とうしょくごぐん夏侯霸かこうは前将軍ぜんしょうぐん郭淮かくわいは、為翅いしを攻撃して来たしょく姜維きょういを敗走させると、軍を進めて餓何がか焼戈しょうかち、1万余の部落を降伏させた。

正始せいし9年(248年)、蛾遮塞がしゃさいらは河関かかん白土はくど故城こじょうに駐屯して河を頼りに夏侯霸かこうは郭淮かくわいの軍を防いだが、郭淮かくわいは河の上流に向かったように見せかけて、秘かに下流から兵を渡らせて白土城はくどじょうを占拠すると、攻撃してこれを大いに破った。

これ以後の蛾遮塞がしゃさいの消息は不明。


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餓何がか

生没年不詳。に反乱を起こした羌族きょうぞくの1人。

正始せいし8年(247年)、隴西郡ろうせいぐん南安郡なんあんぐん金城郡きんじょうぐん西平郡せいへいぐんの諸羌族きょうぞく餓何がか焼戈しょうか伐同ばつどう蛾遮塞がしゃさいらが結託して反乱を起こし、城邑じょうゆうを攻撃・包囲して南方からしょくの兵をまねくと、涼州りょうしゅう胡人こじんの名族・治無戴ちぶたいもまた反乱を起こしてこれに呼応した。

この反乱の鎮圧に当たった討蜀護軍とうしょくごぐん夏侯霸かこうは前将軍ぜんしょうぐん郭淮かくわいは、為翅いしを攻撃して来たしょく姜維きょういを敗走させると、軍を進めて餓何がか焼戈しょうかち、1万余の部落を降伏させた。

正始せいし9年(248年)、蛾遮塞がしゃさいらは河関かかん白土はくど故城こじょうに駐屯して河を頼りに夏侯霸かこうは郭淮かくわいの軍を防いだが、郭淮かくわいは河の上流に向かったように見せかけて、秘かに下流から兵を渡らせて白土城はくどじょうを占拠すると、攻撃してこれを大いに破った。

これ以後の餓何がかの消息は不明。


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がい

生没年不詳。王朝の旧臣。

の子・けい夏后帝啓かこうていけい)が崩御すると、子の太康たいこうが位にいたが、太康たいこうほうぼうめぐり遊ぶことに夢中でみやこかえらなかった。

そこで有窮后羿ゆうきゅうこうげいは、太康たいこうの弟・仲康ちゅうこう中康ちゅうこう)を立てて王朝の政事を専横したが、の2人が「君臣の義」を守って服従しなかったため、羿げいおうの命令といつわって胤侯いんこうに2人を征伐させた。

その後、仲康ちゅうこう中康ちゅうこう)が崩御すると、その子・しょうが位にいたが、羿げいしょう放逐ほうちくしてみずから立ち、そしてまた羿げい寵臣ちょうしん寒浞かんさく羿げいを殺害してみずから立った。

この時、有仍国ゆうじょうこくの国君のむすめであるしょうこう皇后こうごう)はすでに妊娠しており、有仍国ゆうじょうこくに逃亡して少康しょうこうを生んだ。

その後 少康しょうこうは、10里四方の田地と5百人の軍隊(原文:有田一成,有衆一旅)を有するようになると、王朝の旧臣・がいの力を借りて兵をげ、寒浞かんさくを滅ぼしての業績を取り戻した。


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海陽哀侯かいようあいこう

生没年不詳。曹操そうそうの弟。

海陽哀侯かいようあいこうの娘は、夏侯淵かこうえんの長子・夏侯衡かこうこうの妻となった。


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開方かいほう

生没年不詳。春秋しゅんじゅう時代・せいの臣下。えい公子こうし

せい桓公かんこうの41年(紀元前645年)、宰相さいしょう管仲かんちゅうやまいに倒れると、せい桓公かんこう病床びょうしょう管仲かんちゅううて言った。

桓公かんこう「(あなたの死後、)群臣の中で宰相さいしょう相応ふさわしい者は、誰であろうか?」

管仲かんちゅう「ご主君ほど、臣下のことを知っている者はおりません」

桓公かんこう易牙えきが雍巫ようふ)はどうだろうか?」

管仲かんちゅう「(易牙えきがは)我が子を煮殺にころし料理してご主君の舌を喜ばせました。人の情に欠けており、相応ふさわしくありません」

桓公かんこう「(えい公子こうし・)開方かいほうはどうだろうか?」

管仲かんちゅう「(開方かいほうは)親にそむいてご主君に仕えました。彼もまた人の情に欠けており、近づけるべきではありません」

桓公かんこう豎刁じゅちょうはどうだろうか?」

管仲かんちゅうみずから去勢してご主君に仕えました。彼もまた人の情に欠けており、親しむべきではありません」


管仲かんちゅうの死後、桓公かんこう管仲かんちゅうの忠告に従わずにこの3人を重用し、易牙えきが雍巫ようふ)・開方かいほう豎刁じゅちょうの3人は権勢をもっぱらとするようになった。


桓公かんこうには10余人の子がいたが、母親の異なる無詭むきげんしょうはん商人しょうじんようの中から、管仲かんちゅうと相談し、そう襄公じょうこうを後ろだてとしてしょう太子たいしとすることに決めていた。

ところが管仲かんちゅうが亡くなると、衛共姫えいきょうき*1寵愛ちょうあいされた雍巫ようふ易牙えきが)は、宦官かんがん豎刁じゅちょうに取り入って桓公かんこうに手厚い献上物をおくり、無詭むき太子たいしとすることを承知させた。


その後、5人の公子こうしはみな競って太子たいしに立とうとし、せい桓公かんこうの43年(紀元前643年)冬10月に桓公かんこうが亡くなると、易牙えきが雍巫ようふ)は(宮中に)入って豎刁じゅちょうと共に衛共姫えいきょうき*1と結んで群吏を殺害し、公子こうし無詭むきを立てて国君とした。

太子たいししょうそうに逃亡し、残った公子こうしたちはみな国君の座をめぐって攻め合ったため、宮中には納棺する者もおらず、桓公かんこうの遺体は67日間も寝台の上に放置され、むしいて戸からい出るような有り様で、12月に無詭むきが立って初めて納棺され、斂殯れんぴん*2された。


せい孝公こうこうの元年(紀元前642年)3月、そう襄公じょうこうは、諸侯しょこうの兵をひきいてせい太子たいししょうを送り、せいを攻撃した。

するとせいの人々は恐れ、国君となった無詭むきを殺害して太子たいししょうを国君に立てようとしたが、4人の公子こうしの徒党が太子たいししょうを攻めたので、太子たいししょうそうに逃亡し、そうはついにせいの4人の公子こうしと戦うこととなった。

5月、そうせいの4人の公子こうしの兵を破って太子たいししょうを立てた。これがせい孝公こうこうである。ここに内乱は終結し、この年の8月になってようやく桓公かんこうほうむることができた。

せい孝公こうこうの10年(紀元前633年)に孝公こうこうが亡くなると、孝公こうこうの弟・はんは、えい公子こうし開方かいほうせい大夫たいふ)を頼って孝公こうこうの子を殺害し、せいの国君に立った。これがせい昭公しょうこうである。

脚注

*1長衛姫ちょうえいき衛公えいこうむすめ:姉)は無詭むきを生み、少衛姫しょうえいき衛公えいこうむすめ:妹)は恵公けいこうげんを生んだ。無詭むき太子たいしとしていることから衛共姫えいきょうきとは長衛姫ちょうえいきを指すと思われるが、衛姫えいき姉妹の可能性もある?

*2死者を埋葬まいそうするまでひつぎおさめてしばらく安置すること。かりもがり


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【三国志人物伝】総索引