朝廷で権力を握った董卓とうたくの討伐に立ち上がった諸侯たちは、どのようにして反董卓とうたく連合を結成したのでしょうか。

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董卓による朝廷支配

霊帝れいていの崩御に端を発した後継者争いは、大将軍だいしょうぐん何進かしんの死と宦官の一掃をまねき、朝廷は大混乱におちいりました。

何進かしんの召集に応じて洛陽らくように向かっていた董卓とうたくは、混乱により洛陽らくようから脱出していた少帝しょうてい陳留王ちんりゅうおうを保護。またたく間に軍権を掌握し、その軍事力を背景に天子の廃立を強行します。

そして、この董卓とうたくによる朝廷支配に反対する袁紹えんしょう袁術えんじゅつ曹操そうそうらは洛陽らくようから逃亡しました。

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反董卓連合結成への動き

反董卓連合結成への動き

酸棗(さんそう)方面

まず、広陵太守こうりょうたいしゅ張超ちょうちょう功曹こうそう臧洪ぞうこうが、董卓とうたく討伐の軍を起こすことを進言します。

張超ちょうちょうがこの進言に従って兄で陳留太守ちんりゅうたいしゅ張邈ちょうばくに相談を持ちかけると、かねてから同じ事を考えていた張邈ちょうばくも賛同し、張超ちょうちょう張邈ちょうばく兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん酸棗県さんそうけんに軍を集結させました。

この動きに、臧洪ぞうこうと親しい兗州刺史えんしゅうしし劉岱りゅうたい豫州刺史よしゅうしし孔伷こうちゅう東郡太守とうぐんたいしゅ橋瑁きょうぼうらが合流し、臧洪ぞうこうみなを代表して董卓とうたくを討つ誓いを立てます。

そして橋瑁きょうぼうは、董卓とうたく弾劾だんがいし、義兵の決起を願う三公さんこうの公文書を偽造して州郡にばらまきました。


一方、洛陽らくようから逃亡した曹操そうそう兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん己吾県きごけんに至ると、衛茲えいじの援助を受けて5,000の兵を集めて挙兵しました。

その後曹操そうそうは、山陽太守さんようたいしゅ袁遺えんい済北相せいほくしょう鮑信ほうしんと共に酸棗県さんそうけんの軍勢に加わります。

冀州(きしゅう)・河内(かだい)方面

洛陽らくようから逃亡した袁紹えんしょうは、董卓とうたく懐柔かいじゅう策により勃海太守ぼっかいたいしゅに任命されていましたが、董卓とうたくはまた、勃海郡ぼっかいぐん管轄かんかつする冀州きしゅうぼく韓馥かんふくを任命して袁紹えんしょうの動きを監視させていました。

そんな時、韓馥かんふくのところに橋瑁きょうぼうが偽造した三公さんこうの公文書が届きます。

公文書を読んだ韓馥かんふくが「袁氏えんしを助けるべきか、董卓とうたくに従うべきか」で悩んでいると、治中従事ちちゅうじゅうじ劉子恵りゅうしけいが言いました。

「今は袁氏えんし董卓とうたくかで迷っている時ではありません。ただ国難のために挙兵するべきです」

この言葉を聞いた韓馥かんふくは悩んでいたことを恥じ入り、袁紹えんしょうに使者を送って董卓とうたく討伐の兵をげることを許可しました。


韓馥かんふくはまた、「冀州きしゅう肥沃ひよくで人口が多く兵糧のたくわえも十分です。こうをあせらず他州の動きを見てから動いても遅くはありません」との劉子恵りゅうしけいの進言を受け入れ、冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに駐屯して後方支援にあたることにします。

また、兵をげた袁紹えんしょうは、河内太守かだいたいしゅ王匡おうきょう、元何進かしんの部下・張楊ちょうよう南匈奴みなみきょうど単于ぜんう於夫羅おふらと合流して司隷しれい河内郡かだいぐんに駐屯しました。

そして、袁紹えんしょうみずか車騎将軍しゃきしょうぐんを自称し、反董卓とうたく連合の盟主となります。

南陽(なんよう)方面

洛陽らくようから逃亡した後将軍こうしょうぐん袁術えんじゅつは、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん魯陽県ろようけんを拠点として挙兵します。


一方、荊州刺史けいしゅうしし王叡おうえい董卓とうたく討伐の兵をげると、なぜか仲が悪かった武陵太守ぶりょうたいしゅ曹寅そういんを攻撃目標に定めました。これに気づいた曹寅そういんは、公文書を偽造して長沙太守ちょうさたいしゅ孫堅そんけん王叡おうえいの討伐に向かわせます。

孫堅そんけんは計略を用いて王叡おうえいを自害に追い込むと、董卓とうたく討伐のためにそのまま北上を続け、南陽郡なんようぐんに至る頃にはその軍勢は数万人にふくれ上がりました。

孫堅そんけん兵糧ひょうろうの供出をこばんだ南陽太守なんようたいしゅ張咨ちょうしを殺害すると、魯陽県ろようけん袁術えんじゅつと合流します。

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その他

青州刺史せいしゅうしし焦和しょうか

各地で反董卓とうたく連合が決起した当時、青州せいしゅうでは黄巾賊が猛威を振るっていましたが、青州刺史せいしゅうしし焦和しょうかは反董卓とうたく連合に参加するべく軍勢をひきいて西方に向かいました。

その結果、黄巾賊のために青州せいしゅうは荒れ果ててしまうことになります。

荊州刺史けいしゅうしし劉表りゅうひょう

荊州刺史けいしゅうしし王叡おうえい孫堅そんけんによって自害に追い込まれたため、北軍中候ほくぐんちゅうこう劉表りゅうひょう荊州刺史けいしゅうししに任命されました。

魏書ぎしょ劉表伝りゅうひょうでんには「劉表りゅうひょうもまた軍勢を集めて襄陽じょうように陣をしいた」とありますが、これは董卓とうたく討伐のためではなく、任地の荊州けいしゅうの平定のためだと思われます。

劉備りゅうび

『三国志演義』では反董卓とうたく連合に参加して大活躍する劉備りゅうびですが、正史『三国志』には反董卓とうたく連合に参加したという記録はありません。

当時劉備りゅうび青州せいしゅうにいましたので、青州刺史せいしゅうしし焦和しょうかに従軍した可能性はありますが、焦和しょうか自体、反董卓とうたく連合と合流することなく逃げ帰っています。


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反董卓連合諸侯一覧

反董卓連合関連地図

反董卓連合諸侯一覧

凡例

董卓とうたく連合に参加した諸侯の本拠地

反董卓連合諸侯の駐屯地

反董卓連合の駐屯地

董卓とうたく連合の駐屯地

冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけん

  • 冀州牧きしゅうぼく韓馥かんふく

司隷しれい河内郡かだいぐん

  • 車騎将軍しゃきしょうぐん勃海太守ぼっかいたいしゅ袁紹えんしょう
  • 河内太守かだいたいしゅ王匡おうきょう
  • 南匈奴みなみきょうど単于ぜんう於夫羅おふら
  • 張楊ちょうよう

兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん酸棗県さんそうけん

  • 陳留太守ちんりゅうたいしゅ張邈ちょうばく
  • 広陵太守こうりょうたいしゅ張超ちょうちょう
  • 兗州刺史えんしゅうしし劉岱りゅうたい
  • 東郡太守とうぐんたいしゅ橋瑁きょうぼう
  • 山陽太守さんようたいしゅ袁遺えんい
  • 済北相せいほくしょう鮑信ほうしん
  • 奮武将軍ふんぶしょうぐん曹操そうそう

豫州よしゅう潁川郡えいせんぐん

  • 豫州刺史よしゅうしし孔伷こうちゅう

荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん魯陽県ろようけん

  • 後将軍こうしょうぐん袁術えんじゅつ
  • 長沙太守ちょうさたいしゅ孫堅そんけん

『三国志演義』での反董卓とうたく連合は、一堂に会して汜水関しすいかんを攻めたように描かれています。

ですが実際には、河内郡かだいぐん酸棗県さんそうけん潁川郡えいせんぐん魯陽県ろようけんと、董卓とうたくがいる洛陽らくようを東側から包囲するように布陣していました。