長安に遷都を強行した董卓は、従来の五銖銭をつぶして新たに粗悪な小銭を鋳造しました。
董卓が五銖銭を改鋳した理由と、粗悪な董卓五銖が引き起こした影響について考えてみます。
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董卓が五銖銭を改鋳する
五銖銭を改鋳する
後漢の国庫に蓄えはなく、反董卓連合の決起によって地方からの税収も断たれた董卓は、深刻な財政難に陥ってしまいます。
190年6月、董卓はこれまで流通していた貨幣である五銖銭をつぶし、洛陽と長安の銅像類を溶かして、従来の五銖銭よりも薄く小さく、刻印も輪郭もなく、磨かれてもいない粗悪な貨幣を鋳造しました。
これを「董卓五銖」と言います。
五銖銭
董卓五銖
この時、銅を多く産出する益州の劉焉も独立の動きを見せていたため、貨幣の原材料である銅が手に入りませんでした。
限られた原材料で必要な額を用意するには、従来の五銖銭よりも薄く小さい粗悪な貨幣を鋳造するしか術はなかったのです。
郿県を要塞化する
反董卓連合を恐れた董卓は、司隷・右扶風・郿県(郿塢)の城壁を高くし、30年分の穀物と、洛陽の富豪や陵墓から没収した金、銀、布帛を山のように備蓄して、
「事がなればここから天下を支配する!ならざれば、ここを守って一生を終えることができるだろう」
と言いました。
「董卓五銖」はおそらく、この郿塢の建設費用に充てられたものと思われます。
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董卓五銖の影響
後漢末期の通貨
五銖銭とは、前漢の武帝の時代に採用された通貨で、王莽によって一時期廃止されましたが、後漢の光武帝によって再度通貨として採用されました。
当時通貨としての機能を担っていたものには、金・(銀)・銭・布帛があり、官僚の年俸である秩石も銭と穀物の両方で支給されており、すべての物が銭(五銖銭)で取引されていたわけではありませんでした。
横行していた私鋳銭
1981年に北京で発見された後漢末の窖蔵銭*1約100kgの内訳は、五銖銭が20%、剪輪五銖銭が50%、艇環五銖銭が30%というものでした。
1枚の五銖銭を丸く打ち抜いた内側を剪輪五銖銭、外側を艇環五銖銭と言い、後漢末期には董卓による改鋳以前にも、このような私鋳銭(悪銭)が流通していたことを教えてくれます。
剪輪五銖銭
艇環五銖銭
その80%が悪銭であることから、この窖蔵銭*1は富豪のものではなく、一般庶民のものであることが窺えます。
この頃からすでに、富豪が良銭を貯め込み、一般庶民の間には悪銭が流通するという貨幣の二元化が起こっていたのです。
脚注
*1 土中に人為的に埋められた貨幣のこと。
董卓五銖の影響
粗悪な董卓五銖の流通によって、貨幣の価値は下落し、『後漢書』董卓伝では1石数万銭、『魏書』董卓伝では1石数十万銭にまで上がり、これ以降、銅銭は流通しなくなったと記されています。
ですが、この貨幣価値の下落によるダメージを一番強く受けるのは、これまで五銖銭を資産として貯め込んでいた富裕層であり、元々悪銭しか持たない一般庶民にはそれほど大きな影響とはならなかったのではないでしょうか。
逆に、富裕層から借金をしているような貧困層にとっては、貨幣価値が下落することによって、実質的に借金の額が減るのと同じ効果を得ることができました。
董卓による悪行の1つに挙げられることが多い五銖銭の改鋳ですが、多くの財産を持たない一般庶民にとっては、救いとなった一面もあったと言えるでしょう。
家柄も決して良いとは言えず、貧しい農耕生活を経験したこともある董卓が標的にしたのは、一貫して富を独占している富豪たちでした。
そして、深刻な財政難にも関わらず、この時董卓が一般庶民から臨時徴収をしたという記録はありません。
董卓が行った五銖銭の改鋳によるハイパーインフレーションは、「銭がなければつくれば良いじゃない」という短絡的な政策の結果ではなく、度重なる不正蓄財によって富を得た特権階級の破壊にあったのではないでしょうか。
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参考資料
参考文献
山田勝芳「後漢・三国時代貨幣史研究 : 古代から中世への展開」
画像引用元
初心者のための古文銭(古代中国の古銭のページ) 五銖銭(東漢)
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kosen/sub/gosyu_3.html
初心者のための古文銭(古代中国の古銭のページ) 五銖銭(東漢末期)
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kosen/sub/gosyu_4.html
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