董卓とうたくによる袁隗えんかい袁基えんきの殺害と反董卓とうたく連合との和睦わぼく交渉の時期は、史料によって異なっています。それぞれの時期に応じて、董卓とうたく袁隗えんかい袁基えんきを殺害した理由を考えてみました。

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董卓の反董卓連合への和睦交渉

はじめに

董卓とうたくは、山東さんとうで反董卓とうたく連合の諸侯が決起すると、袁紹えんしょう叔父おじ袁隗えんかい従兄いとこ袁基えんきとその一族を殺害する一方で、反董卓とうたく連合に和睦わぼくの使者を送りました。

ですが1つ問題なのは、この時董卓とうたく袁隗えんかい袁基えんきを殺害する時期と和睦わぼくの使者を送る時期が、史料によって異なっているのです。

董卓とうたく袁隗えんかい袁基えんきを殺害する時期と、和睦わぼくの使者を送る時期が異なっているとなると、袁隗えんかい袁基えんきを殺害した理由、和睦わぼくの使者を送った理由も異なってくるはずです。それぞれのタイミングでの殺害理由、和睦わぼく理由について考察してみます。

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史料による相違

魏書ぎしょ袁紹伝えんしょうでん

初平しょへい2年(191年)、袁紹えんしょう韓馥かんふくから冀州きしゅうを奪うと、董卓とうたくは、執金吾しつきんご胡母班こぼはん将作大匠しょうさくたいしょう呉脩ごしゅう詔書しょうしょを持たせ、袁紹えんしょうに帰順をうながす使者を送ります。

ですが、袁紹えんしょうはこの申し出をはねつけて河内太守かだいたいしゅ王匡おうきょうに彼らを殺害させたため、董卓とうたくはその報復として、袁紹えんしょう叔父おじ袁隗えんかい従兄いとこ袁基えんきとその一族を殺害しました。

後漢書ごかんじょ袁紹伝えんしょうでん

初平しょへい元年(190年)1月、山東さんとうで反董卓とうたく連合の諸侯が決起すると、董卓とうたく袁紹えんしょう叔父おじ袁隗えんかい従兄いとこ袁基えんきとその一族を殺害する一方で、大鴻臚だいこうろ韓融かんゆう少府しょうふ陰脩いんしゅう執金吾しつきんご胡母班こぼはん将作大匠しょうさくたいしょう呉脩ごしゅう越騎校尉えっきこうい王瓌おうかいを反董卓とうたく連合の諸侯に派遣して、袁紹えんしょうらに帰順するように説得しました。

そして、胡母班こぼはん呉脩ごしゅう王瓌おうかい河内郡かだいぐんに到着すると、袁紹えんしょう河内太守かだいたいしゅ王匡おうきょうに命じて3人を殺害させ、南陽郡なんようぐん袁術えんじゅつ陰脩いんしゅうを殺害します。

董卓とうたくが派遣した和睦わぼくの使者の中で殺害されなかったのは、名声が高かった韓融かんゆうただ1人だけでした。

資治通鑑しじつがん

資治通鑑しじつがんでは、袁隗えんかい袁基えんきの殺害の時期を初平しょへい元年(190年)3月戊午ぼご(18日)、反董卓とうたく連合に和睦わぼくの使者を送った時期を同年6月としていること以外、後漢書ごかんじょ袁紹伝えんしょうでんと内容は同じです。


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董卓はなぜ袁隗・袁基を殺害したのか?

このように、史料によって董卓とうたく袁隗えんかい袁基えんきを殺害する時期と、和睦わぼくの使者を送る時期が異なっていると、その時期によって「袁隗えんかい袁基えんきを殺害すること」の意味合いが変わってきます。

ここでは、それぞれの時期で「董卓とうたくはなぜ袁隗えんかい袁基えんきを殺害したのか?」について考えてみます。

『魏書』袁紹伝

魏書ぎしょ袁紹伝えんしょうでんでは、初平しょへい2年(191年)、袁紹えんしょう韓馥かんふくから冀州きしゅうを奪った後、董卓とうたく袁紹えんしょうに帰順をうながす使者を送ります。

そしてこの交渉を断られた董卓とうたくは、袁隗えんかい袁基えんきとその一族を殺害しました。


逆に考えると、董卓とうたくは反董卓とうたく連合が決起しても、1年以上の間袁紹えんしょうの一族である袁隗えんかい袁基えんきに罪を問わなかったということです。これは、権力を握ったばかりの朝廷をまとめるためには、太傅たいふ袁隗えんかいの協力が必要だったということかもしれません。


このタイミングでの和睦わぼく交渉は、「勢力を拡大した袁紹えんしょうを脅威に感じた董卓とうたくが、袁紹えんしょう懐柔かいじゅうしようとした」ととらえることができます。

そして、交渉決裂に対する見せしめとして、袁隗えんかい袁基えんきとその一族を殺害したと言えるでしょう。

『後漢書』袁紹伝

後漢書ごかんじょ袁紹伝えんしょうでんでは、初平しょへい元年(190年)、反董卓とうたく連合が決起すると、董卓とうたくはすぐに袁隗えんかい袁基えんきとその一族を殺害し、袁紹えんしょうに帰順をうながす使者を送っています。


最初から和睦わぼくの使者を送る気があるのなら、その前に袁紹えんしょうを怒らせるような「袁隗えんかい袁基えんきの殺害」を行うのは不可解です。

つまりこの場合、「袁隗えんかい袁基えんきを殺害することで袁紹えんしょうが喜ぶ理由があった」ということになるはずです。


この時、汝南じょなん袁氏えんし宗主そうしゅ袁紹えんしょうでも袁術えんじゅつでもなく、太僕たいぼく袁基えんきでした。

つまり董卓とうたくは、袁隗えんかい袁基えんきを殺害することで、「これからは君(袁紹えんしょう)が汝南じょなん袁氏えんし宗主そうしゅだ!」という手土産を用意して、和睦わぼく交渉を有利に進めようとしたと考えることができます。

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信頼して地方官に任命した諸侯が一斉に決起したことで、董卓とうたくは驚き、なんとか穏便に済ませようと考えました。

そして、これまで特別待遇をしてきたにも関わらず反旗をひるがえした袁紹えんしょうに対し、董卓とうたくは「汝南じょなん袁氏えんし宗主そうしゅ」という立場を与えることで懐柔かいじゅうしようとしたのではないでしょうか。

ですが、董卓とうたくの風下に立つことを良しとしない袁紹えんしょうには、これも通用しませんでした。

『資治通鑑』

資治通鑑しじつがんでは、初平しょへい元年(190年)3月袁隗えんかい袁基えんきとその一族を殺害。そして、同年6月和睦わぼくの使者を送っており、後漢書ごかんじょ袁紹伝えんしょうでんと違って3ヶ月の間が空いています。


初平しょへい元年(190年)3月、反董卓とうたく連合の決起を受けて長安ちょうあん遷都せんとした董卓とうたくは、袁紹えんしょうに対する報復として袁隗えんかい袁基えんきとその一族を殺害しました。

では、和睦わぼくの使者を送る6月までの間に、何があったのでしょうか?

その時期は明記されていませんが、それはおそらく「汴水べんすいの戦い」です。「汴水べんすいの戦い」で、配下の徐栄じょえい曹操そうそうを打ち破ったことで、董卓とうたくは反董卓とうたく連合と和睦わぼくする方向にかじを切りました。

敵に大打撃を与えて優位に立った今こそ、和睦わぼく交渉を有利に進めることができる絶好の機会と言えるからです。

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董卓とうたく連合の決起を受けて、董卓とうたくは早々に長安ちょうあんに都をうつして守りを固めると、怒りに任せて袁隗えんかい袁基えんきとその一族を殺害します。

その後、徐栄じょえい曹操そうそうを打ち破ったことで、和睦わぼく交渉を有利に進める絶好の機会を得た董卓とうたくは、反董卓とうたく連合の諸侯に和睦わぼくの使者を送りました。

交渉が決裂したことを知らされた董卓とうたくは、袁隗えんかい袁基えんきを殺害してしまったことを後悔していたかもしれません。


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王匡と胡母班

魏書ぎしょ袁紹伝えんしょうでんの注に引かれている謝承しゃしょう後漢書ごかんじょには、袁紹えんしょうによって使者の殺害を命じられた河内太守かだいたいしゅ王匡おうきょうと、使者の1人である執金吾しつきんご胡母班こぼはんとのやり取りが詳細に記されています。


董卓とうたく河内太守かだいたいしゅ王匡おうきょうの元に、王匡おうきょう娘婿むすめむこである胡母班こぼはんを派遣して反董卓とうたく連合の解散を求めました。

そして、袁紹えんしょうの命令を受けた王匡おうきょう胡母班こぼはんを捕らえてろうに入れると、胡母班こぼはん王匡おうきょうに手紙を書きます。


董卓とうたくの元には幼い天子がおいでになるのに、どうして討伐などできるのですか?

あなたはただ、董卓とうたくに対する怒りを私に向けているだけです。あなたのような狂人に殺されるのは大変な恥辱です。

あなたとはこれまで一心同体でしたが、今は不倶戴天ふぐたいてんの敵となってしまいました。

私の2人の子、つまりあなたのおいには、どうか私のしかばねを見せないでください。



この手紙を読んだ王匡おうきょう胡母班こぼはんの2人の子供を抱いて涙を流し、ついに胡母班こぼはんは獄中で処刑されました。

胡母班こぼはんの親族は王匡おうきょうに深いうらみをいだき、のち曹操そうそうと協力して王匡おうきょうを殺害しましたが、その時期は分かっていません。


董卓とうたくによる袁隗えんかい袁基えんきとその一族の殺害、反董卓とうたく連合への和睦わぼく交渉について、異なる記述をそれぞれ検証してみました。

ですが、「袁隗えんかい袁基えんきとその一族の殺害」と「反董卓とうたく連合への和睦わぼく交渉」について、史料に董卓とうたくの意思は明記されていませんので、断言することはできません。

あなたはどの説が一番納得できましたでしょうか?