191年2月、ついに孫堅が洛陽に向けて進軍を開始しました。反董卓連合の初勝利となった「陽人の戦い」から、孫堅が洛陽に入るまでをまとめています。
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目次
陽人の戦い
孫堅、徐栄に包囲される
191年2月、孫堅が司隷・河南尹に進軍して梁県の東部に軍営を築いたところ、迎撃に出た董卓配下の徐栄の大軍に包囲されてしまいます。
数十騎の兵とともに包囲を突破した孫堅ですが、徐栄の大軍に追いつかれるのも時間の問題でした。
そこで孫堅は、自分がいつも被っている赤い幘(頭巾)を側近の祖茂に被らせて別行動を取らせます。
すると、赤い幘を孫堅の目印にしていた敵兵は祖茂を追って行き、孫堅は無事逃げ延びることができました。
一方、徐栄軍の追っ手を振り切ることができないと悟った祖茂は、馬を降りて側にあった焼けた柱に孫堅の赤い幘をかけ、自分は草むらに身をひそめて様子をうかがいます。
追いついてきた徐栄の兵は、ただの柱に赤い幘がかけられていることに気づくと、そのまま引き返していきました。
豆知識
潁川太守・李旻は新たに豫州刺史となった孫堅に従軍していましたが、この時徐栄軍に捕らえられ、同じく捕らえられた張安と共に董卓のいる畢圭苑に送られました。
そして、見せしめのために煮殺されることになった2人は、
「生まれた日は違えども、同じ日に煮られることになるとはな…」
と語り合い、生きたまま煮えたぎる鼎の中に放り込まれました。
陽人の戦い
徐栄軍の追撃を逃れた孫堅は本拠地にしていた魯陽県には戻らずに、梁県の陽人聚に移って再び兵を集め、迎撃に来た董卓軍を破って都尉の華雄を討ち取りました。(『呉書』孫堅伝)
陽人の戦い
呂布の裏切り
董卓は陳郡太守の胡軫を大督護に、呂布を騎督に任命し、5,000の兵を与えて孫堅を迎え撃たせます。
胡軫軍が陽人聚の南・数十里の位置にある広成聚まで来ると、胡軫は董卓の命令通り広成聚で宿営して疲れた兵と軍馬を休ませ、夜陰に乗じて軍を進めて、翌早朝に攻撃を仕掛けるように作戦を伝えました。
すると、ここで呂布が進言します。
「陽人聚の敵兵が逃走しました。すぐに追わねば取り逃がしてしまいますぞっ!」
胡軫は呂布の進言に従ってすぐさま進軍を開始。強行軍で陽人聚に到着しますが、敵兵は逃亡どころかその守りは堅く、容易には攻め落とせそうにありません。
胡軫はせっかちで敵を軽く見るクセがあり、配下の部将たちの多くは彼に反感を持っていました。呂布たちは胡軫に手柄を立てさせまいと嘘の情報を進言したのです。
強行軍に疲労困憊した兵たちが甲冑を脱ぎ捨てて休憩していると、また呂布が言います。
「敵が打って出たぞっ!」
これを聞いた兵たちは大混乱に陥って、武器や防具もそのままに算を乱して逃げ出しました。
その後、敵兵がいないことに気づいた兵たちは元の場所に戻りましたが、陽人聚の守りは堅く、胡軫軍は有効な攻撃をかけられないまま撤退しました。
以上は『呉書』孫堅伝が注に引く『英雄記』に記されている「陽人の戦い」の様子です。
ここには華雄が討ち取られる場面は記されていませんが、おそらく胡軫軍が撤退する際に孫堅軍が打って出て大打撃を与え、華雄を討ち取ったものと思われます。
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袁術が兵糧の供給を止める
袁術への讒言
ある人が袁術に言いました。
「もし孫堅がこのまま攻め進んで洛陽を落としたら、孫堅はもはやあなたの命令を聞かなくなるでしょう。そうなれば、『狼を除いて虎を迎え入れる』ようなものです。
これを聞いた袁術は、警戒して孫堅への兵糧の供給を中止しました。
袁術からの補給がなくなると、孫堅は戦いを続けることができません。
孫堅は自ら馬を飛ばして魯陽県までの100里余りの距離を駆け抜けると、袁術に謁見して言いました。
「私が董卓と戦っているのは、上は国家のため、下はあなたの一族の仇を討つためです。
それなのにあなたは、根も葉もない陰口を信じて私を疑うと言うのですかっ!」
孫堅の剣幕に驚いた袁術は返す言葉もなく、すぐに兵糧を手配させました。
董卓、孫堅に使者を送る
董卓は以前孫堅と共に戦ったことがあり、かねてから孫堅の武勇を認めていました。
胡軫が敗れたことを知った董卓は、将軍の李傕を派遣して「孫堅の子弟を刺史や太守に任命すること」を条件に和睦を申し入れます。
これに孫堅は、
「董卓は天に背いて無道を成した。あやつの三族を皆殺しにして天下に示さなければ、死んでも死に切れん。董卓とよしみを結ぶことなどできるかっ!」
と一喝して李傕を追い返しました。
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孫堅、洛陽に入る
画像引用元:『三国志 Three Kingdoms』第6話
大谷関の戦い
陽人聚で胡軫軍を破った孫堅は、さらに大谷関に軍を進めます。
そこで、董卓は自ら軍を率いて迎え撃ちますが、敗北した董卓は澠池県まで退却し、兵を補充して陝県に移りました。
董卓は、長史・劉艾に以前見た孫堅の武勇(辺章・韓遂の乱)を語り、反董卓連合の中で孫堅だけが気がかりであることを漏らします。
「孫堅は今、これといった理由もなく袁術に従っています。無理に戦わずとも、そのうち自滅するでしょう」
この劉艾の言葉を聞いた董卓は、
東中郎将の董越を澠池県に、中郎将の段煨を華陰県に、中郎将の牛輔を安邑県に配置して反董卓連合からの攻撃に備えると、自身は長安に入りました。191年4月のことです。
大谷関の戦いに勝利した孫堅はそれ以上董卓を追わず、呂布が守る洛陽に向かいました。
董卓と孫堅の行軍経路
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孫堅、伝国璽を手に入れる
大谷関から洛陽に向かった孫堅は呂布を敗走させ、ついに董卓の手から洛陽を奪還します。
洛陽に入った孫堅は、董卓によって破壊された皇室の宗廟を掃除し、太牢(生贄)を捧げて祭祀を行いました。
また、この時孫堅は軍隊を洛陽城の南に駐めていたのですが、その側にあった甄官の井戸から5色の気が立ち昇っているのが見えました。
そして、兵から報告を受けた孫堅が井戸を探らせたところ、漢の伝国璽が見つかります。これは、中常侍・張譲たちが少帝を連れて洛陽から脱出した際に、ゆくえ知れずとなっていたものでした。
その後、孫堅は歴代皇帝の陵墓を修築すると、新安県と澠池県方面を警戒する兵を残して魯陽県に戻りました。
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洛陽への進撃を開始した孫堅は梁県で徐栄に敗れたものの、その後は勝利を重ね、ついに董卓の手から洛陽を奪還しました。
ですが、董卓によって破壊・略奪された洛陽は、もはや拠点としての機能を果たすことはできず、孫堅は歴代皇帝の陵墓を修築すると、拠点としていた魯陽県に戻ります。
また、この時孫堅は甄官の井戸から伝国璽を手に入れました。