190年2月、董卓が長安に遷都を強行しました。その翌月、これを好機と見て取った酸棗の諸将が、ついに進軍を開始します。
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目次
反董卓連合の動向
董卓による長安遷都
190年2月、董卓は反董卓連合の攻撃を避けるため、洛陽を焼き払い、長安に遷都を強行します。
これは、いくら董卓の兵が実戦経験豊富な強兵とは言え、兵数で勝る反董卓連合に洛陽と長安を同時に攻撃された場合、兵力を分散させていては守りきるのが困難だと考えたためです。
そして董卓自身は、長安遷都後も洛陽郊外の畢圭苑に駐屯していました。
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なぜ反董卓連合は動かなかったのか
190年1月に決起した反董卓連合は、董卓の支配地域を取り囲むように布陣しておきながら、この間一度も董卓に攻撃を仕掛けていません。
その理由には、異民族の討伐に明け暮れてきた董卓に比べ、反董卓連合には盟主である袁紹をはじめ、まともに戦闘経験がある者は曹操と孫堅くらいしかおらず、内心では董卓軍を恐れていたこと。また、反董卓連合の諸将がお互いに牽制し合い、自軍に損害が出ることを嫌っていたことが挙げられます。
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汴水(べんすい)の戦い
曹操の出陣
董卓が長安に遷都をしても、反董卓連合の諸将は一向に攻撃を仕掛ける素振りを見せません。
兗州・陳留郡・酸棗県に駐屯していた曹操は、業を煮やして諸将に言いました。
「我々が義兵を起こしたのは董卓の暴乱を鎮めるためです。すでに大軍が集結しているのに、諸君らは何をためらっているのかっ!
もし董卓が朝廷の権威を利用して、洛陽周辺の要害を守りつつ天下を支配していたら、攻略することは難しかった。
だが今っ!董卓は宮室を焼き、天子を脅して長安に遷都をした。これこそ天が与えた董卓を滅ぼす絶好の機会だっ!」
この曹操の大演説を聞いた陳留太守・張邈は、曹操に董卓への攻撃を許可すると、配下の衛茲*1に兵を与えて曹操の寄騎とし、済北相・鮑信は自ら曹操の軍に加わりました。
脚注
*1 衛茲は曹操が挙兵する際に援助した人物です。
酸棗県に駐屯していた諸将
- 陳留太守・張邈
- 広陵太守・張超
- 兗州刺史・劉岱
- 東郡太守・橋瑁
- 山陽太守・袁遺
- 済北相・鮑信
- 奮武将軍・曹操
曹操、徐栄に敗れる
曹操はまず、司隷・河南尹・成皋県の要害の占拠を目標にして進軍を始めますが、滎陽県の汴水を渡ったところで、董卓配下の徐栄の軍に遭遇します。
汴水の戦い
緒戦で徐栄軍に敗れた曹操軍は多数の死傷者を出してしまいました。
そして、徐栄軍の追撃が始まると曹操自身も矢傷を受け、馬も傷を負ってしまいます。これを見た曹操の従弟・曹洪が馬を譲ろうとしますが、曹操は「先に逃げよ!」とこれを断ります。
「天下に私がいなくても何も変わりません。今、天下はあなたを必要としているのです!」
曹洪はこう言って曹操に馬を譲ると自分は徒歩で付き従い、夜陰に紛れて汴水を渡って2人とも逃げのびることができました。
その後、曹操軍は少数ながらも奮戦したため、徐栄は「酸棗県はまだ容易には攻め落とせない」と判断して兵を引きました。
豆知識
『武帝紀集解』曹洪伝には、この時曹洪が曹操に譲った馬は「白鵠」という名馬で、曹操と曹洪の2人を乗せて汴水を渡り、自陣までの数百里の距離を駆け抜けたという話があります。
また、汴水を渡ったにも関わらず白鵠の足は湿っておらず「空気に乗って躍る曹家の白鵠」と噂されました。
ちなみに『魏書』曹洪伝では「曹洪が岸辺を探し回って見つけた船で汴水を渡った」とされています。
曹操軍のこの敗北の代償は大きく、済北相・鮑信も傷を受け、鮑信の弟・鮑韜と陳留太守・張邈の配下・衛茲は討ち死にしてしまいました。
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酸棗諸将の解散
曹操の離脱
徐栄に敗れた曹操が酸棗県にたどり着いた時、諸将は十数万の兵を擁していながら、毎日ただ宴会を開いているだけでした。
これを見た曹操は、諸将を一喝して次の作戦計画を披露します。
「まず、袁紹どのは河内郡の兵で孟津に進み、我々は成皋県に出て敖倉*1を占領し、轘轅関*2と太谷関*2の街道を封鎖する。そして、袁術どのが南陽郡の兵を率いて丹水と析県に陣を敷き、武関から侵入して三輔地方を揺るがせば、たちどころに董卓を滅ぼすことができるだろう!」
曹操の進軍計画
この曹操の提案のように、反董卓連合の諸将が連携して洛陽と長安を同時に攻撃することは董卓が最も恐れていたことであり、董卓軍を壊滅させることができる可能性の高い作戦でした。
ですが、緒戦の敗北で気後れした諸将は、この曹操の作戦を却下してしまいます。
呆れ果てた曹操は、もうそれ以上何も言いませんでした。
脚注
*1 滎陽県の西北にある食料の貯蔵庫があった場所。
*2 洛陽の南側に設置されていた関所。
曹操、袁紹と合流する
曹操は失った兵を補充するために、夏侯惇らと共に揚州に向かいます。
この時、揚州太守・陳温と親しかった曹洪は、揚州・廬江郡の精鋭2,000人を与えられ、丹楊太守・周昕からも数千人の兵を得て、豫州・沛国・龍亢県で待つ曹操と合流しました。
ですが、曹洪が龍亢県に着いた時、募兵した兵が反乱を起こして多数の兵を失ってしまいます。
仕方なく曹操は、銍県と建平県で兵を募って千人余りの兵を得ると、酸棗県ではなく司隷・河内郡に駐屯している袁紹の元に向かうことにしました。
曹操の募兵経路
酸棗諸将の解散
曹操が去った後、酸棗県に集まった諸将たちは、兵糧が乏しくなったため陣を払ってそれぞれの任地に撤兵を始めます。
そして、兗州刺史・劉岱は仲が悪かった東郡太守・橋瑁を殺害し、後任として王肱を太守に任命するなど、すでに彼らに連帯意識はなくなっていました。
またこの時、青州刺史・焦和も董卓討伐の兵を挙げ、酸棗諸将と合流すべく西に向かっていましたが、青州で黄巾賊が蜂起したために任地に引き返しています。
190年1月に決起した反董卓連合ですが、いち早く行動を起こした曹操は董卓配下の徐栄に惨敗。ついには兵糧が底をつき、酸棗県の諸将は何の成果も上げぬまま、約3ヶ月という短い期間で解散してしまいます。
一方、徐栄に惨敗した曹操は揚州で新たに兵を募り、河内郡の袁紹と合流しました。