前漢・成帝②時代の匈奴、復株累若鞮単于・搜諧若鞮単于・車牙若鞮単于についてまとめています。
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匈奴・前漢時代⑫復株累若鞮単于

匈奴(前漢時代)
若鞮について
匈奴では「孝」のことを「若鞮」と言います。
呼韓邪単于の時代以降、匈奴は漢と親密になり、漢の皇帝の諡に「孝」の字をつけるのを見てこれを慕い、みな「若鞮」の字をつけるようになりました。
漢の皇帝の「孝」の字が省略されるように、多くの場合、単于の「若鞮」の字も省略して記述されています。
復株累若鞮単于の即位【前漢:成帝】
王昭君は寧胡閼氏*1と号し、1人の男子・伊屠智牙師を生み、右日逐王となっていました。
呼韓邪単于は左伊秩訾王の兄・呼衍王の女2人を寵愛し、長女の顓渠閼氏*1は且莫車と囊知牙斯の2人の男子を生み、少女は大閼氏となって4人の男子を生み、長子の雕陶莫皋と次子の且麋胥は且莫車より年長で、弟の咸と楽の2人は囊知牙斯より年少でした。また、他の閼氏*1にも10余人の子がありました。
呼韓邪単于は閼氏*1の中でも顓渠閼氏*1を貴び、その長子の且莫車を愛していたので、病となり死に臨んで且莫車を(世継ぎに)立てようとします。
すると顓渠閼氏*1は、
「匈奴は10余年にわたって乱れ、髪の毛のように細々と命脈を保ってきましたが、漢の力を頼って再び安らかになることができました。
今はまだ国内は安定して間がなく、民は戦闘に懲り恐れております。また、且莫車は年少で百姓はまだ懐いておらず、再び国が危うくなることを恐れます。
我と大閼氏は家族であり、その子は我が子同然です。(大閼氏の長子の)雕陶莫皋を立てた方がよろしいかと存じます」
と言い、大閼氏は、
「且莫車は年少と雖も、大臣たちが共同して国事を保持しますので問題ありません。今、貴を捨てて賎を立てれば、後世、必ず乱れるに違いありません」
と言いました。
結局、呼韓邪単于は顓渠閼氏*1の言葉に従って(大閼氏の長子の)雕陶莫皋を立て、その後は国を弟(の且麋胥)に伝えるように約束させます。
漢の建始2年(紀元前31年)、呼韓邪単于は立って28年で亡くなりました。
呼韓邪単于が亡くなると、雕陶莫皋が立って復株累若鞮単于(復株絫若鞮単于)となりました。
脚注
*1単于の后妃の称号。匈奴部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。
漢に入朝する【前漢:成帝】
復株累単于が立つと、子の右致盧児王・醯諧屠奴侯を漢に遣わして入侍*2させ、且麋胥を左賢王とし、且莫車を左谷蠡王とし、囊知牙斯を右賢王としました。
復株累単于はまた王昭君を妻とし、2人の女を得て、長女の云を須卜居次*3、次女を当于居次としました。
漢の河平元年(紀元前28年)、単于は右皋林王・伊邪莫演らを漢に遣わして貢物を献上し、正月の朝見に参賀させました。
朝見が終わり、漢が使者に伊邪莫演を送らせて蒱反県まで来た時、伊邪莫演は、
「漢に帰服させてください。もし我を受け入れていただけないのなら、我は自害いたします。最後まで、どうあっても帰国いたしません」
と言いました。
使者がこのことを上聞し、公卿に下げ渡されて評議したところ、ある者は「前例の通り、帰服を受け入れるべきです」と言いましたが、光禄大夫の谷永と議郎の杜欽は、理由を挙げて伊邪莫演の投降を受け入れることに反対し、成帝は谷永・杜欽の意見に従いました。
脚注
*2諸侯王や帰服した非漢人の王が「天子(皇帝)の側近くに侍らせる」という名目で漢の都に子息を送ること。人質の一種。
*3居次は漢の公主に同じ。単于の女の号。
谷永と杜欽の主張・全文
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漢が興って以降、匈奴がたびたび辺境を侵害してきたため、「金爵の賞」を設けて投降者を待遇してきたのである。
ところが現在、単于は身を屈して臣と称し、列侯のように北藩(北方の護衛者)となり、使者を遣わして朝賀させている。
そこに二心はなく、漢家の接し方は、(匈奴が害をなしてきた)これまでとは異なるべきである。
今すでに単于から「聘貢(貢納)の質」を享受しておきながら、逃亡者の臣を受け入れることは、一夫の得を貪って一国の心を失い、「罪ある臣」を擁して「義を慕うの君」との関係を絶つものである。
仮に立ったばかりの単于が、まだ「漢に身を委ねることの利害」が分からず、伊邪莫演を遣わして詐りの投降をさせ、吉凶を卜おうとしているのならば、投降を受け入れることは徳を欠き善を損なう行いであり、単于に漢を疎んじさせ、辺吏(辺境の役人)と親しませないようにする行いである。
もし単于が「反間(間諜)を設けて漢との間に隙(不和)を生じさせようとしている」のなら、投降を受け入れることは単于の術中に陥ることになり、「曲」を漢に帰し「直」をもって漢を責める口実を与えることになる。
これは誠に「辺境安危の源」・「師旅動静の首(兵戦治乱の首)」となる判断であり、軽く考えてはならない。
投降を受け入れないに越したことはなく、受け入れないことによって日月(太陽と月)のように信義を昭らかにし、詐諼(騙し討ち)の謀を抑え、(単于に)漢に親しむ心を懐かせる方が得策である。
そこで中郎将の王舜を遣わして、伊邪莫演に投降のことを問うたところ、「狂気を病んで妄言してしまっただけです」と答えたので、そのまま去らせました。
匈奴に帰り着いた後も伊邪莫演の官位は元と変わらず、これ以降、単于は彼を漢の使者に会わせようとしませんでした。
翌年、単于は漢に上書して「漢の河平4年(紀元前25年)正月に朝賀する」ことを願うと、ついに自ら入朝し、漢の竟寧元年(紀元前33年)に呼韓邪単于が入朝した際に下賜された物に加え、錦・繡(刺繍)・繒帛2万匹、絮(綿)2万斤を増し加えて下賜されました。*4
脚注
*4関連記事参照
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復株累若鞮単于の死
漢の鴻嘉元年(紀元前20年)、復株累単于は立って10年で亡くなり、弟の且麋胥が立って搜諧若鞮単于となりました。
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搜諧若鞮単于
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搜諧若鞮単于の死【前漢:成帝】
漢の元延元年(紀元前12年)、搜諧単于は翌年正月の朝賀のために出発しましたが、まだ塞(長城)に入らないうちに病死してしまいました。立って8年目でした。
搜諧単于が亡くなると、弟の且莫車が立って車牙若鞮単于となりました。
脚注
*2諸侯王や帰服した非漢人の王が「天子(皇帝)の側近くに侍らせる」という名目で漢の都に子息を送ること。人質の一種。
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脚注
*2諸侯王や帰服した非漢人の王が「天子(皇帝)の側近くに侍らせる」という名目で漢の都に子息を送ること。人質の一種。
【後漢・三国時代の異民族】目次