朝廷で権力を握った董卓は、天子の廃立に始まり数々の略奪・暴行を働いたために、袁紹を盟主とする反董卓連合が結成されました。では、なぜ董卓は諸侯の反感を買うようなことをしたのでしょうか?
ではまず、朝廷で権力を握った董卓の思惑を理解するために、洛陽に入った董卓が行ったことを確認してみましょう。
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目次
入洛後の董卓の動き
軍権の掌握
少帝と陳留王を保護して洛陽に入った董卓は、まず所属不明となっていた何進と何苗の兵を自軍に取り込み、猛将・呂布を調略して強力なライバルとなり得る丁原を殺害させます。
これによって、洛陽には董卓に対抗することができる軍事力を持つ者はいなくなりました。
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少帝を廃位して献帝を即位させる
袁紹に天子の廃立を相談する
董卓は袁紹を呼び寄せ、少帝を廃位して献帝を天子に即位させたいと思っていることを打ち明けます。これを聞いた袁紹は、「事は重大なことなので、叔父の太傅・袁隗に相談します」と言ってその場を退出すると、そのまま冀州に逃亡してしまいました。
この時董卓は、名門の家柄である袁紹の下に反対勢力が結集することを恐れ、袁紹に追っ手を差し向けるのではなく、逆に勃海太守に任命して懐柔する方針をとりました。
少帝を廃位して献帝を即位させる
董卓は百官を集め、古の伊尹と霍光に倣って暗愚な少帝を廃し、陳留王を即位させることを提案しました。
すると、公卿以下皆恐れて口をつぐむ中、尚書の盧植が口を開きます。
「伊尹に廃された商の太甲も、霍光に廃された前漢の昌邑王も悪行を重ねたために廃されました。ですが少帝には何の失態もありません。伊尹・霍光の時とは状況が違います!」
これを聞いた董卓は怒って盧植を殺そうとしますが、蔡邕と議郎の彭伯が止めに入ったため、その場は思いとどまって盧植を罷免するだけに留めました。
ですが、盧植が病を理由に洛陽を去ると董卓は盧植に追っ手を差し向け、追っ手を逃れた盧植は幽州・上谷郡で潜伏生活を送ることになりました。
その後、太傅・袁隗が董卓の天子廃立に同意したため、ついに少帝は廃位されて弘農王とされ、陳留王が献帝として即位します。
さらに董卓は、董太后(霊帝の母)を死に追いやった何太后の行いは「婦姑の礼(嫁と姑の礼)」に反するとして永安宮に幽閉し、間もなく酖毒を勧めて無理矢理自害させてしまいました。
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位人臣を極める
董卓は、189年8月に自ら司空に就任。同年9月には太尉に就任すると、兵権の証しである鈇鉞(斧鉞)と虎賁兵を与えられました。これにより、董卓は名実ともに軍権を掌握したことになります。
同年11月、董卓はさらに相国に就任すると、剣履上殿、入朝不趨、謁讚不名の特権を許され、母を池陽君に取り立てました。
相国とは、前漢建国の功臣・䔥何と曹参以来任命されたことのない永久欠番のような官職でしたが、ついに董卓がその位に就いたのです。
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名士を採用する
蔡邕を信任する
元議郎・蔡邕の名声を聞きつけた董卓は彼を幕下に招き、3日のうちに侍御史、治書御史(治書侍御史)、尚書へと昇進させ、巴郡太守に任命した上で侍中として洛陽に留め、多大な信頼を寄せます。
蔡邕は、178年に朝廷の政争に敗れて朔方郡に流刑された後、すぐに大赦で許されますが、讒言を恐れて呉郡に隠棲していました。董卓の招聘を受けた蔡邕は病を理由にこれを断りましたが、董卓の「従わぬなら一族皆殺しにするぞっ!」という脅しに屈して仕えることになったのです。
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人事の刷新
董卓は、司徒・黄琬を太尉に、司空・楊彪を司徒に、光禄勳・荀爽を司空に任じるなど、朝廷の人事を刷新します。
董卓はまた、名士として名高い尚書の周毖、城門校尉の伍瓊、議郎の何顒、尚書の鄭泰らを身近において信任し、能力がなかったり不正を働いている人物を糾弾させて、彼らの推薦する人物を地方官に任命しました。
董卓が任命した地方官
- 韓馥 → 冀州牧
- 劉岱 → 兗州刺史
- 孔伷 → 豫州刺史
- 張邈 → 陳留太守
- 張咨 → 南陽太守
また董卓は、元太傅・陳蕃、元大将軍・竇武らを祀り、党錮の禁を受けた党人の爵位を回復し、処刑された者の墓に弔問の使者を送ってその子孫に官職を与えるなど、宦官たちによって虐げられた清流派の人材の復権を積極的に行いました。
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董卓の残忍な行い
擾龍宗を撲殺
侍御史・擾龍宗が董卓に業務上の報告をした際、剣を外していなかったことを咎めて殴り殺しました。
何苗の墓を暴く
董卓は何太后の母・舞陽君を殺害し、袁紹による宦官誅殺の際に殺された何苗の墓を暴いて遺体に辱めを与えました。
貴族の財産を没収する
董卓は洛陽の貴族や皇族から財産を没収し、兵士に婦女を略奪することを許しました。
村祭りの住民を虐殺する
董卓は2月の春祭りに参加している住民を襲って、男性は皆殺しにし、女性は兵士に与えて、賊を討ったと宣伝しました。
元号を「中平」に戻す
董卓は、この1年間のうちに改元された光熹、昭寧、永漢の元号を排し、中平6年に戻す詔を発しました。
当時の元号は、良いことが起こった時や悪いことが起こった時、そして皇帝が代替わりした時に改元が行われ、皇帝が代替わりした時に行われる改元は「称元」と言って、特別な意味がありました。
「光熹」と「永漢」は、少帝の即位と献帝の即位にともなって行われた称元であり、「光熹」と「永漢」の元号を排することは、少帝と献帝の即位を認めないと捉えることもできます。
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朝廷で権力を握った董卓の思惑
宦官や特権階級への憎悪
董卓は若い頃から羌族と親交を結び、貧しい農耕生活を送っていたため、異民族や民衆がどれだけ虐げられてきたかを身を持って知っていました。
また、『後漢書』董卓伝には、董卓は「天下が乱れているのは、宦官たちが忠義心のある善良な官僚を誅殺したためであると思っていた」とあることから、何進の招聘を受けた董卓には、本心から宦官の誅殺に協力する意志があったように思えます。
そして、洛陽で異変が起こったことを知った時、董卓は自らの手で朝廷を支配し、腐敗した政治を正そうと決意したのではないでしょうか。
何太后の殺害
洛陽で軍権を掌握した董卓がまず始めに行ったのは、天子の廃立でした。
このような董卓の行いに対して、当時最高権力者であった何太后は何の対抗措置も講じていません。これは、目の前で宦官たちが殺され、自身も身の危険にさらされた何太后は、当時茫然自失の状態で正常な判断ができなかったからだと思われます。
董卓は少帝廃位の理由を「少帝は素行が悪く暗愚であり、天子の重責を果たすことができない。聡明な陳留王こそ天子に相応しい」としましたが、天子廃立の真意は、朝廷腐敗の元凶である宦官を重用した最高権力者・何太后を失脚させることにあったのです。
董卓にとって、何太后は宦官たちを擁護して彼らの専横を許した張本人であり、何太后が皇太后として最高権力者の座にいる限り、朝廷の腐敗を正すことはできません。
そのため、何太后が正気を取り戻す前に、何よりも早く少帝を廃位して失脚させる必要があったのです。
名士の採用
董卓は蔡邕をはじめとする名士を採用し、弾圧を受けていた清流派の復権を行いました。
もし、董卓が権力を握ることだけを狙っているのであれば、自分の近親者を高い官位に就けるはずですが、董卓はそれをしていません。
董卓は暴君だったのか?
暗殺を恐れた董卓
家柄も低く上官に対して不敬な態度を取ってきた董卓の朝廷での評判はすこぶる悪く、朝廷には董卓のことを心から支持していた者はほとんどいませんでした。
そのため、董卓は常に反乱や暗殺の危険を抱えており、厳しい刑罰で反乱分子を押さえつける必要があったのです。剣を外していなかった侍御史・擾龍宗に過敏に反応したのはそのためです。
貴族や皇族からの略奪
いざ洛陽で権力を握ってみると、後漢の国庫には董卓の権力基盤である軍兵を養うだけの蓄えがありませんでした。
霊帝時代には、賄賂(=民衆への増税)で国庫の充実が行われてきましたが、董卓は宦官誅殺、賄賂・不正の撲滅を掲げていますので、間接的に民衆の負担となる賄賂によって財政再建を行うことは本意ではありません。
董卓にとって民衆から搾取して財産を貯め込んだ貴族や皇族は腐敗の象徴であり、彼らが不正に蓄財していた財産を没収して、枯渇していた国庫の充実に充てていたのではないでしょうか。
また、董卓が兵士に婦女を陵辱することを許したのは、董卓の唯一の権力基盤である軍兵の不満を解消させる意図があったのだと思われます。これは褒められたことではありませんが、なにも董卓だけが行った特別な残虐行為というわけではありません。
村祭りの住民を虐殺する
『魏書』董卓伝には、董卓は2月の春祭りに参加している住民を襲って、男性は皆殺しにし、女性は兵士に与えて、賊を討ったと宣伝したと記されています。
董卓が洛陽に入ったのは189年の8月。そしてその翌年の1月には、各地で「反董卓連合」が決起します。つまり、董卓が春祭りを襲わせたのは「反董卓連合」が決起した後と言うことになりますが、『魏書』董卓伝はこのことを「反董卓連合」の前に記述しています。
また当時の後漢では、3人以上集まって群飲することや、許可なく祭祀を行うことを禁じていますので、各地で「反董卓連合」が決起している非常時に祭りを開いていた住人を、董卓が賊とみなしたとしても不思議ではありません。
相国の位に就く
董卓は自ら永久欠番となっていた相国の位に就きました。これはいかにも董卓の権力欲の強さを表しているように見えます。
少帝が即位したときに幼い天子の代わりに政権を担う録尚書事に任命されたのは、大将軍・何進と太傅・袁隗で、何進はすでに亡くなっていました。
董卓が他の名士を従わせることができたのも、袁隗が董卓の天子廃立に賛成したことが大きいと言えます。
そのため、董卓が太傅である袁隗の上位に立つためには、どうしても相国の位に就く必要があったのではないでしょうか。
『後漢書』董卓伝、『魏書』董卓伝、『資治通鑑』などを読み比べてみると、董卓が行った残虐行為について時系列があやふやになっています。
董卓について記されている歴史書は、最終的に董卓と敵対した勢力によって編纂されているため、ことさらに董卓の残虐性を強調し、反董卓連合は残忍な董卓を討つための義挙であるという印象操作がなされているのです。
ですが、こうして改めて洛陽での董卓の行いを確認してみると、董卓がやろうとしていた事は、不正をなくし、特権階級を解体して困窮する民衆を救うことだったのではないかと言えるかもしれません。
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暴君となった董卓
董卓の誤算
後漢13代皇帝・少帝は、霊帝の死後に起こった何太后・何進派と董太后・董重派の争いの結果即位した天子です。そのため董卓は「自分は陳留王を養育していた董太后と同族である」と主張して、自分が献帝の正統な保護者であることを強調しました。
つまり献帝の即位は、1度は敗北した董太后・董重派が逆転し、何太后・何進派が敗北したことを意味します。董太后を死に追いやった何太后とその母・舞陽君を殺害し、何苗の墓を暴いて遺体を辱めたのはこのためです。
霊帝周辺の人間関係
董卓は、董太后の後継者として献帝を補佐する立場をとりました。このことは、少帝を擁立した何太后・何進派の反発を招くことは想像に難くありません。
このような場合、危険分子である何太后・何進派の人材を排除するのが常道ですが、董卓は彼らに要職を与えました。
その結果、董卓の天子廃立に反対する袁紹と盧植、董卓が驍騎校尉に任命した曹操と後将軍に任命した袁術は洛陽から逃亡し、董卓が信任した周毖、伍瓊、何顒らが推薦した地方官の多くは董卓に反旗を翻しました。
つまり反董卓連合とは、董卓の残忍な行いに対する反発ではなく、献帝を擁立した董卓に対する少帝派(何太后・何進派)の反発であると言うことができます。
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なぜ何進は董卓を洛陽に呼び寄せたのか?霊帝の崩御と朝廷の混乱
董卓は長年、朝廷の外で武官として異民族の討伐に従事してきました。
そのため朝廷内での派閥闘争に疎く、たとえ何太后・何進派の人材であっても、然るべき官職を与えれば、簡単に自分に従うと思っていたのかもしれません。
董卓にとって、袁紹を筆頭とする旧何太后・何進派の人材を粛清しなかったことが、最大の失敗であったと言えます。
残忍化した董卓
各地で反董卓連合が決起すると、董卓は彼らの旗頭となるのを恐れて弘農王(少帝)を殺害。反乱を起こした地方官たちを推挙した周毖、伍瓊らも殺害し、長安への遷都を強行しました。
董卓にしてみれば、せっかく目をかけて取り立ててやった面々に反乱を起こされた訳で、極度の人間不信に陥っていたものと思われます。
長安に遷都した後の董卓は、郿県の城壁を高くし、砦を築いて30年分の穀物を蓄えると、宴席で北地郡からの降伏者数百人の手足を切り落とし、舌を切り目をくり抜いて大鍋で煮殺すなどの残虐行為をするようになります。
また、派閥に関わらず優秀な人材を登用してきた董卓は方針を一転させ、反りの合わない張温に罪を着せ笞で打ち殺すなど、危険分子を排除するようになりました。
反董卓連合の決起によって人間不信に陥った董卓には、もはや恐怖政治によって人を従えるしか方法は残されていなかったのです。
支配地域も縮小し、反董卓連合の決起によって地方からの収入もなくなった董卓は、その財源として五銖銭を改鋳し「董卓五銖」と呼ばれる粗悪な貨幣を流通させたため、貨幣経済が成り立たなくなるほど貨幣価値が下落しました。
この五銖銭の改鋳も董卓の悪行として挙げられますが、裏を返せばこの危機的状況に際しても、董卓は民衆からの搾取をしなかったと言うことができます。
董卓による支配が続いていたら…
反董卓連合の決起によって、董卓の改革は人事の刷新に留まってしまったため、董卓の真意を知ることはできません。
ですがもし反董卓連合が決起せず、袁紹をはじめとする諸侯が董卓に協力していたら…
董卓ならば親しい羌族と結んで西域の支配を確立し、廃れていたシルクロードによる交易を復活させることができたかもしれません。
そして、シルクロードによる交易で得た利益を財源として、貴族や皇族の特権を縮小し、不正のない民衆が豊かになる政策を実現することができたのではないでしょうか。
ですが、目的達成のために躊躇することなく天子の廃立を行い、改元を行った董卓には、天子に対する畏敬の念はありません。
董卓の支配が続いていても、反董卓連合が決起して群雄割拠の時代になったとしても、どちらにせよ献帝は後漢最後の天子となっていたことは間違いないでしょう。