『三国志(さんごくし)』を知らない人でもその名前を聞いたことがあるであろう、後漢(ごかん)末期最強の男・呂布(りょふ)とは、一体どんな人物だったのでしょうか。

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出自

呂布(りょふ)

出身地 / 生没年

字(あざな)

奉先(ほうせん)。

出身地

幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・五原郡(ごげんぐん)・九原県(きゅうげんけん)。


幷州・五原郡・九原県

幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・五原郡(ごげんぐん)・九原県(きゅうげんけん)

生没年

  • 生年不詳〜 建安(けんあん)3年(198年)没。
  • 『後漢書(ごかんじょ)』と『魏書(ぎしょ)』に列伝があります。

家族・親族

娘

袁術(えんじゅつ)の息子との結婚が成立し、袁術(えんじゅつ)の使者・韓胤(かんいん)と共に寿春(じゅしゅん)に向かいましたが、陳珪(ちんけい)の説得を受けて袁術(えんじゅつ)と結ぶことを思い直した呂布(りょふ)によって連れ戻されました。

ゲームでは呂布(りょふ)の娘として、呂玲綺(りょれいき)、呂姫(りょき)などの名が見えますが、史料で名前を確認することはできません。

丁原に仕える

呂布(りょふ)は弓馬の腕前と勇猛さを認められて幷州刺史(へいしゅうしし)の丁原(ていげん)に仕え、丁原(ていげん)が騎都尉(きとい)となって司隷(しれい)・河内郡(かだいぐん)に駐屯すると、主簿(しゅぼ)に任命されて寵愛(ちょうあい)されました。


中平(ちゅうへい)6年(189年)4月、霊帝(れいてい)が崩御(ほうぎょ)すると、丁原(ていげん)は大将軍(だいしょうぐん)・何進(かしん)と共謀して宦官(かんがん)たちの誅滅(ちゅうめつ)を計画し、呂布(りょふ)は何進(かしん)に召集された丁原(ていげん)に従って洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に向かいます。

ですが、洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))ではすでに何進(かしん)が宦官(かんがん)たちに殺害され、その宦官(かんがん)たちも、何進(かしん)の側近であった袁紹(えんしょう)らの報復により誅滅(ちゅうめつ)された後でした。


『後漢書(ごかんじょ)』や正史(せいし)『三国志(さんごくし)』には「丁原(ていげん)と呂布(りょふ)が父子の契(ちぎ)りを結んだ」という記述はなく、「呂布(りょふ)が丁原(ていげん)の養子」というのは『三国志演義(さんごくしえんぎ)』の創作になります。

また当時丁原(ていげん)の配下には、後に呂布(りょふ)や曹操(そうそう)に仕えることになる張遼(ちょうりょう)や、河内太守(かだいたいしゅ)となる張楊(ちょうよう)がいました。

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董卓に仕える

丁原(ていげん)を殺害する

丁原(ていげん)と同様に洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に向かっていた董卓(とうたく)は、その途上、袁紹(えんしょう)らの宦官(かんがん)誅滅(ちゅうめつ)の混乱から洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))を脱出していた少帝(しょうてい)と陳留王(ちんりゅうおう)を保護しました。

その後洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に入城した董卓(とうたく)は、敗死した何進(かしん)・何苗(かびょう)の兵を自軍に収(おさ)めると、丁原(ていげん)を殺害してその軍勢を手に入れたいと考え、丁原(ていげん)から信頼されていた呂布(りょふ)に目をつけます。

そして董卓(とうたく)の誘いを受けた呂布(りょふ)は、丁原(ていげん)の首を斬って軍勢と共に董卓(とうたく)の下(もと)に参上し、騎都尉(きとい)に任命されました。また董卓(とうたく)は、呂布(りょふ)に大いに目をかけ信頼して「父子の契(ちぎ)り」を結びます。

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「飛将(ひしょう)」と呼ばれる

呂布(りょふ)は弓術と馬術に優(すぐ)れ、抜群の腕力を有していたため「飛将(ひしょう)*1」と呼ばれ、次第に昇進して中郎将(ちゅうろうしょう)となり、都亭侯(とていこう)に取り立てられました。

脚注

*1前漢(ぜんかん)・武帝(ぶてい)の名将・李広(りこう)は、弓術と馬術をよくし、匈奴(きょうど)から「漢(かん)の飛将軍(ひしょうぐん)」と呼ばれて恐れられていました。呂布(りょふ)はこの李広(りこう)になぞらえられたのです。

陽人(ようじん)の戦い

初平(しょへい)元年(190年)春正月、袁紹(えんしょう)を盟主とする「反董卓(とうたく)連合」が決起しました。

そして翌初平(しょへい)2年(191年)2月、「反董卓(とうたく)連合」の1人・豫州刺史(よしゅうしし)の孫堅(そんけん)が司隷(しれい)・河南尹(かなんいん)に進軍を開始。董卓(とうたく)配下の徐栄(じょえい)がこれを撃ち破りましたが、孫堅(そんけん)は梁県(りょうけん)の陽人聚(ようじんしゅう)に移って再び兵を集めました。


陽人の戦い

陽人(ようじん)の戦い


すると董卓(とうたく)は、陳郡太守(ちんぐんたいしゅ)の胡軫(こしん)を大督護(だいとくご)に、呂布(りょふ)を騎督(きとく)に任命し、5,000の兵を与えて孫堅(そんけん)を迎え撃たせます。

ですが、この大将の胡軫(こしん)はせっかちで敵を軽く見るクセがあり、配下の部将たちの多くは彼に反感を持っていました。

この時呂布(りょふ)は、「胡軫(こしん)に手柄を立てさせたくない」がために嘘の情報を進言したため、胡軫(こしん)軍は敗北。この戦いで都尉(とい)の華雄(かゆう)が討ち取られてしまいます。

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董卓(とうたく)との軋轢(あつれき)

董卓(とうたく)は、自分が「他人に対して無礼な扱いをしている」ことを自覚していたので、他人に狙われることを恐れて、どんな時でも常に呂布(りょふ)に護衛をさせていました。

手戟を投げつけられる

董卓(とうたく)は気性が激しく短気で、後先構わず腹を立てることがあったので、ある時、ちょっと気にくわないことがあって、小さな戟(げき)を抜いて呂布(りょふ)に投げつけたことがありました。

呂布(りょふ)は腕力と敏捷(びんしょう)さで身をかわし、すぐさま謝罪したので董卓(とうたく)の気持ちは解(ほぐ)れましたが、このことがあってから呂布(りょふ)は、内心董卓(とうたく)を怨(うら)むようになります。

董卓の侍女と密通する

また、呂布(りょふ)は董卓(とうたく)の侍女(じじょ)と密通し、そのことが露見(ろけん)するのを恐れて内心落ち着かない様子で董卓(とうたく)に仕えていました。

『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する貂蝉(ちょうせん)は、この「董卓(とうたく)の侍女(じじょ)」がモデルになっていると言われています。

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董卓(とうたく)を誅殺(ちゅうさつ)する

ある時呂布(りょふ)は、自分を丁重に扱ってくれる同郷[幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))]出身の王允(おういん)を訪問し、「董卓(とうたく)に危(あや)うく殺されかけた」顛末(てんまつ)を話して聞かせました。

ちょうどこの時、王允(おういん)は僕射(ぼくや)の士孫瑞(しそんずい)と「董卓(とうたく)暗殺」の密計を巡(めぐ)らせていたところでしたので、呂布(りょふ)にこの計画を打ち明けて協力を求めます。

ですが呂布(りょふ)は「自分と董卓(とうたく)が親子の間柄」であることを挙(あ)げ、王允(おういん)らの計画に協力することを躊躇(ちゅうちょ)していました。

すると王允(おういん)は、


「あなたの苗字(みょうじ)は呂(りょ)であり、もともと董卓(とうたく)と血縁関係はありません。今はご自分の生命の方がご心配でしょう。父子の間柄などと言っておられる場合ですか」


と問いかけました。これを聞いた呂布(りょふ)はついに決心し、王允(おういん)らの計画に従って自(みずか)ら刀を振るって董卓(とうたく)を刺殺しました。

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流浪の日々

長安の陥落

李粛(りしゅく)を処刑する

董卓(とうたく)を誅殺(ちゅうさつ)した呂布(りょふ)は、同郡出身で董卓(とうたく)誅殺(ちゅうさつ)にも協力した李粛(りしゅく)を派遣して、勅命(ちょくめい)によって司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・陝県(せんけん)に駐屯する董卓(とうたく)の娘婿(むすめむこ)・牛輔(ぎゅうほ)を処刑しようとします。

ですが、牛輔(ぎゅうほ)の迎撃に遭(あ)った李粛(りしゅく)は弘農県(こうのうけん)に敗走。呂布(りょふ)は敗戦の責任を問(と)うて李粛(りしゅく)を処刑してしまいました。


董卓配下の配置

董卓(とうたく)配下の配置

李傕(りかく)・郭汜(かくし)らの逆襲

その後王允(おういん)は、呂布(りょふ)を奮武将軍(ふんぶしょうぐん)に任命し、部下の処罰権を示す節(せつ)を与えて三公(さんこう)と同じ儀礼を許し、爵位を温侯(おんこう)に昇進させて、一緒に朝廷の政治を取り仕切るようになりました。

ですがこの時王允(おういん)は、涼州(りょうしゅう)出身者(元董卓(とうたく)配下)を恐れて赦免(しゃめん)しなかったので、これを怨(うら)みに思った元董卓(とうたく)配下の李傕(りかく)・郭汜(かくし)らは、ついに結託して長安城(ちょうあんじょう)を包囲します。

郭汜(かくし)との一騎打ち

長安城(ちょうあんじょう)が包囲されると、呂布(りょふ)は城門を開いて城の北に布陣していた郭汜(かくし)に接近し、


「しばらく軍勢を遠ざけよ。1対1で勝負をつけよう」


と一騎打ちを申し込み、郭汜(かくし)と対決して彼に矛(ほこ)を突き刺しました。すると、郭汜(かくし)の背後に退(しりぞ)いていた騎兵が進み寄って郭汜(かくし)を助けたので、呂布(りょふ)も引き揚(あ)げました。

1人逃亡する

李傕(りかく)らが長安(ちょうあん)を包囲して8日目のこと、呂布(りょふ)の軍にいた蜀兵(しょくへい)(叟兵(そうへい))が離反して、李傕(りかく)らの軍勢を城内に招(まね)き入れてしまいました。

呂布(りょふ)はこれを城内で迎え撃ちますが、ついに支えきれず、数百騎を率(ひき)いて一緒に落ち延(の)びるよう王允(おういん)を誘いますが、王允(おういん)は承知しませんでした。

そこで呂布(りょふ)は、董卓(とうたく)の首を馬の鞍(くら)につないで武関(ぶかん)から荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)に落ち延(の)びました。

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袁術(えんじゅつ)を頼る

荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)の袁術(えんじゅつ)は、当初彼をたいそう厚遇しましたが、呂布(りょふ)は「袁術(えんじゅつ)の一族(袁隗(えんかい)・袁基(えんき)ら)を処刑した董卓(とうたく)を殺害したこと」を鼻にかけ、好き勝手に兵を掠(かす)め取ったので、袁術(えんじゅつ)は彼を拒否して受け入れませんでした。

そこで呂布(りょふ)は、今度は冀州(きしゅう)の袁紹(えんしょう)を頼ります。

袁紹(えんしょう)を頼る

黒山賊を破る

初平(しょへい)4年(193年)3月、冀州(きしゅう)・魏郡(ぎぐん)の軍勢が黒山賊(こくざんぞく)の于毒(うどく)と結んで袁紹(えんしょう)に謀叛(むほん)を起こし、鄴城(ぎょうじょう)を落として太守(たいしゅ)の栗成(りっせい)を殺害しました。

これに袁紹(えんしょう)は、司隷(しれい)・河内郡(かだいぐん)・朝歌県(ちょうかけん)で于毒(うどく)を撃ち破り、そのまま北に向かって黒山賊(こくざんぞく)の砦を打ち壊して数万の首級をあげます。


袁紹と黒山賊の戦い

袁紹(えんしょう)と黒山賊(こくざんぞく)の戦い


この時袁紹(えんしょう)の元に身を寄せていた呂布(りょふ)は、名馬・赤兎(せきと)*2にまたがって、側近の成廉(せいれん)・魏越(ぎえつ)らと共に黒山賊(こくざんぞく)の張燕(ちょうえん)と戦い、1万余の精鋭兵と数千の騎兵を撃ち破りました。

脚注

*2「呂布(りょふ)が赤兎馬(せきとば)欲しさに丁原(ていげん)を裏切った」というのは『三国志演義(さんごくしえんぎ)』の創作です。

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袁紹から闇討ちを受ける

呂布(りょふ)は袁氏(えんし)に対して功績があると自負しており、袁紹(えんしょう)配下の諸将は「自分のように天子(てんし)に任命されたのではなく、袁紹(えんしょう)によって勝手に役職につけられた」のだから尊重するまでもないと、尊大な態度をとっていました。

そんな中、呂布(りょふ)が洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に戻りたいと願い出た時、袁紹(えんしょう)は呂布(りょふ)を司隷校尉(しれいこうい)の官位につかせ、「表向きは洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に行かせることになった」と公表しつつ、内心では呂布(りょふ)を殺害しようと考えました。

そこで出発の前日、袁紹(えんしょう)は「呂布(りょふ)を見送る」という名目で武装兵・30人を派遣します。

ですが、薄々袁紹(えんしょう)に疎(うと)まれていることに気づいていた呂布(りょふ)は、彼らを帳(とばり)の外側に留(とど)め置き、帳(とばり)の中で鼓(つづみ)や琴を演奏させて注意をそらせ、袁紹(えんしょう)の兵が眠るのを待ってから立ち去りました。

そして、夜中になって目を覚ました兵たちは、呂布(りょふ)の寝台に掛けてあった布団を滅多切りにして帰還します。

翌日、呂布(りょふ)がまだ生存していることを知った袁紹(えんしょう)は、軍勢を派遣して彼を追撃させましたが、みな呂布(りょふ)を恐がって側(そば)による勇気のある者はいませんでした。

張楊(ちょうよう)を頼る

袁紹(えんしょう)の下(もと)を去った呂布(りょふ)は、以前共に丁原(ていげん)に仕えていた河内太守(かだいたいしゅ)の張楊(ちょうよう)を頼ります。

ですが、呂布(りょふ)の首には李傕(りかく)と郭汜(かくし)から賞金が掛けられていましたので、張楊(ちょうよう)とその配下の諸将は呂布(りょふ)を始末しようと共謀していました。

そのことを聞き知った呂布(りょふ)は、張楊(ちょうよう)に向かって、


「儂(わし)は君と同郷の人間だ。君が儂(わし)を殺せば、君にとって(同郷人を殺したということで)弱みとなる。儂(わし)を売るにこしたことはない。そうすれば、きっと李傕(りかく)と郭汜(かくし)から爵位と恩寵(おんちょう)を授(さず)けられるだろう」


と、自分を李傕(りかく)らに差し出すように言いました。

するとこの言葉に感じ入った張楊(ちょうよう)は、表向きは郭汜(かくし)と李傕(りかく)の言うことを聞き入れる振りをしながら、内実は呂布(りょふ)を保護するようになります。

郭汜(かくし)と李傕(りかく)はこれを気に病(や)んで、改めて封印した大型の詔勅(しょうちょく)を下し、呂布(りょふ)を潁川太守(えいせんたいしゅ)に任命しました。


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兗州から徐州へ

兗州の反乱

兗州牧(えんしゅうぼく)に推戴(すいたい)される

興平(こうへい)元年(194年)、兗州牧(えんしゅうぼく)・曹操(そうそう)が2度目の徐州(じょしゅう)侵攻を開始すると、留守居役の張邈(ちょうばく)・陳宮(ちんきゅう)らが兗州(えんしゅう)で反乱を起こし、呂布(りょふ)に使者を派遣して兗州牧(えんしゅうぼく)に推戴(すいたい)しました。

これを承知した呂布(りょふ)は、張楊(ちょうよう)と手を取り合って誓いを交(か)わすと、兗州(えんしゅう)に入って東郡(とうぐん)・濮陽県(ぼくようけん)に駐屯し、守りを固めます。

すると、荀彧(じゅんいく)、程昱(ていいく)らが守る、

  • 済陰郡(せいいんぐん)・鄄城県(けんじょうけん)
  • 東郡(とうぐん)・范県(はんけん)
  • 東郡(とうぐん)・東阿県(とうあけん)

の3県を除くすべての郡県が呂布(りょふ)らに呼応しました。


兗州の反乱関連地図

兗州(えんしゅう)の反乱関連地図

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曹操(そうそう)軍を撃ち破る

兗州(えんしゅう)で反乱が起こったことを知った曹操(そうそう)はすぐさま徐州(じょしゅう)から取って返し、呂布(りょふ)が駐屯する濮陽県(ぼくようけん)に攻撃を加えます。

この時、濮陽県(ぼくようけん)の豪族・田氏(でんし)が内通して曹操(そうそう)軍を城内に引き入れましたが、呂布(りょふ)は城内に侵入した曹操(そうそう)軍を撃ち破り、曹操(そうそう)をあわや捕らえるところまで追い立てました。

その後両軍は100余日の間対峙していましたが、にわかに蝗(いなご)が湧(わ)き起こり、兵糧が尽きた両軍は共に兵を退(ひ)きます。

呂布(りょふ)は済陰郡(せいいんぐん)・乗氏国(じょうしこく)に向かいましたが、県人の李進(りしん)に撃破され、東に向かって山陽郡(さんようぐん)に駐屯しました。興平(こうへい)元年(194年)9月のことです。


濮陽の戦い関連地図

濮陽(ぼくよう)の戦い関連地図


兗州(えんしゅう)の大半を奪われ、城を取り返すこともままならない曹操(そうそう)は、一時は袁紹(えんしょう)の配下になることも考えましたが、程昱(ていいく)の進言によってなんとか思いとどまっています。

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曹操(そうそう)の反撃

興平(こうへい)2年(195年)春、再び進撃を開始した曹操(そうそう)は、

  • 兗州(えんしゅう)・済陰郡(せいいんぐん)・定陶県(ていとうけん)の呉資(ごし)
  • 兗州(えんしゅう)・山陽郡(さんようぐん)・鉅野県(きょやけん)の薛蘭(せつらん)、李封(りほう)

を撃ち破り、済陰郡(せいいんぐん)・乗氏国(じょうしこく)に陣営を定めました。

これに呂布(りょふ)は、陳宮(ちんきゅう)と共に山陽郡(さんようぐん)・東緡県(とうびんけん)から1万余人を率(ひき)いて乗氏国(じょうしこく)に攻撃を仕掛けますが、曹操(そうそう)の伏兵に遭(あ)って大敗北を喫(きっ)してしまいました。

その後曹操(そうそう)は、再び済陰郡(せいいんぐん)・定陶県(ていとうけん)を攻めて攻略。山陽郡(さんようぐん)・鉅野県(きょやけん)で呂布(りょふ)を撃ち破り、反乱から2年のうちに、兗州(えんしゅう)の諸城はすべて曹操(そうそう)に奪い返されてしまいました。

曹操(そうそう)に敗れた呂布(りょふ)は、徐州(じょしゅう)の劉備(りゅうび)を頼ります。

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徐州を奪う

劉備(りゅうび)を裏切る

建安(けんあん)元年(196年)6月、揚州(ようしゅう)の袁術(えんじゅつ)が徐州(じょしゅう)に侵攻を開始しました。

これに劉備(りゅうび)は、司馬(しば)の張飛(ちょうひ)を後に残して徐州(じょしゅう)・下邳国(かひこく)・下邳県(かひけん)を守らせ、自(みずか)ら兵を率(ひき)いて盱眙県(くいけん)と淮陰県(わいいんけん)で袁術(えんじゅつ)の進撃を阻(はば)みます。


袁術の徐州侵攻

袁術(えんじゅつ)の徐州(じょしゅう)侵攻

※呂布(りょふ)の駐屯地は「下邳県(かひけん)の西」とあるだけですが、ここでは沛県(はいけん)(小沛(しょうはい))としています。


そして、両軍が膠着(こうちゃく)状態に入って1ヶ月が経過しようとした頃、袁術(えんじゅつ)は呂布(りょふ)に密書を送り、「呂布(りょふ)が下邳県(かひけん)を攻撃するならば兵糧を援助する」ことを約束します。

これを大いに喜んだ呂布(りょふ)は、軍勢を率(ひき)いて水陸両面から東方に下って下邳県(かひけん)を攻撃。張飛(ちょうひ)の軍勢を散々に撃ち破り、劉備(りゅうび)の妻子や軍需品、配下の将兵や官吏の家族などを捕虜にします。


ですが、その後本拠地を失った劉備(りゅうび)が呂布(りょふ)に和睦(わぼく)を求めると、「袁術(えんじゅつ)が兵糧を送ってこないこと」に怒りを覚えていた呂布(りょふ)は、捕らえていた劉備(りゅうび)の妻子を返還し、劉備(りゅうび)を豫州刺史(よしゅうしし)に任命して沛県(はいけん)(小沛(しょうはい))に駐屯させて、呂布(りょふ)自身は自(みずか)ら徐州牧(じょしゅうぼく)*3を称しました。

脚注

*3『後漢書(ごかんじょ)』呂布伝(りょふでん)では徐州牧(じょしゅうぼく)、『魏書(ぎじょ)』呂布伝(りょふでん)では徐州刺史(じょしゅうしし)となっています。

郝萌(かくほう)の反乱

6月のある日の夜更けのこと、呂布(りょふ)の大将・郝萌(かくほう)が叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)して下邳県(かひけん)の役所を攻撃。不意を突かれた呂布(りょふ)は、配下の高順(こうじゅん)の陣営に逃げ込みました。

高順(こうじゅん)はすぐさま下邳県(かひけん)の役所に攻め入って郝萌(かくほう)の軍勢を敗走させると、郝萌(かくほう)の将・曹性(そうせい)が郝萌(かくほう)に背(そむ)いて決闘を演じ、そこへ駆けつけた高順(こうじゅん)が郝萌(かくほう)の首を切り落とします。

曹性(そうせい)は、

  • 郝萌(かくほう)は袁術(えんじゅつ)の意向を受けていたこと
  • 陳宮(ちんきゅう)が共謀者であること

を伝えましたが、呂布(りょふ)は陳宮(ちんきゅう)を不問に付(ふ)し、曹性(そうせい)に元の郝萌(かくほう)の軍勢を統率させました。

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戟(げき)を射て戦(いくさ)を仲裁する

劉備(りゅうび)が沛県(はいけん)(小沛(しょうはい))に駐屯すると、袁術(えんじゅつ)は将軍(しょうぐん)の紀霊(きれい)らに歩兵・騎兵合わせて3万人を統率させて劉備(りゅうび)を攻撃しようとし、これを知った劉備(りゅうび)は呂布(りょふ)に救援を求めます。

この時呂布(りょふ)の将軍(しょうぐん)たちは「劉備(りゅうび)を見捨てて袁術(えんじゅつ)に手を貸すべき」と言いましたが、呂布(りょふ)は、


「それは違う。もし今 袁術(えんじゅつ)が劉備(りゅうび)を撃ち破れば、袁術(えんじゅつ)は北方泰山(たいざん)(太山(たいざん))の諸将軍(しょうぐん)(臧覇(ぞうは)ら)と連合戦線を結ぶだろう。そうなれば、儂(わし)は包囲網の中に封じ込められてしまう。そうならないためには、劉備(りゅうび)を救援しないわけにはいかないのだ」


と言い、すぐさま兵を整えさせて自(みずか)ら劉備(りゅうび)の元に駆けつけます。


そして呂布(りょふ)は、劉備(りゅうび)と紀霊(きれい)を宴会に招(まね)くと、門番の役人に命じて轅門(えんもん)(陣営の門)の中に1本の戟(げき)を掲(かか)げさせ、


「諸君、今から儂(わし)が戟(げき)の小枝を射るから見ていなさい。もし1発で命中したなら、諸君は戦闘を中止して引き揚(あ)げてくれ。もし命中しなかったなら、ここに留(とど)まって勝負を決するが良い」


と言い、弓を手に戟(げき)を目がけて射かけると、果たしてその矢は見事に戟(げき)の小枝に命中し、その場に居合わせた諸将はみな仰天して呂布(りょふ)の意向に従い、次の日も宴会を楽しんで、双方とも軍を引き揚(あ)げました。

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袁術(えんじゅつ)との縁談

建安(けんあん)2年(197年)5月、呂布(りょふ)と手を結びたいと思った袁術(えんじゅつ)は「呂布(りょふ)の娘を自分の息子の嫁に欲しい」と申し込み、これを承知した呂布(りょふ)は、娘を袁術(えんじゅつ)の使者・韓胤(かんいん)に預けました。

ですが、沛相(はいしょう)[豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)の太守(たいしゅ)]・陳珪(ちんけい)の説得を受けた呂布(りょふ)は心変わりをし、袁術(えんじゅつ)の元に向かう娘の後を追って連れ戻し、韓胤(かんいん)を許県(きょけん)*4に護送してさらし首にします。


これにより呂布(りょふ)は左将軍(さしょうぐん)に任命され、大いに喜んだ呂布(りょふ)は、陳珪(ちんけい)の子・陳登(ちんとう)を朝廷に派遣して感謝の意を表明しました。

脚注

*4豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・潁川郡(えいせんぐん)・許県(きょけん)。この時献帝(けんてい)は、曹操(そうそう)に保護されて許県(きょけん)を都(みやこ)としていました。

袁術(えんじゅつ)を撃ち破る

呂布(りょふ)が婚約を破棄し、韓胤(かんいん)が処刑されたことを知って激怒した袁術(えんじゅつ)は、7つの道から歩騎数万を向かわせて呂布(りょふ)を攻めました。

この時呂布(りょふ)は、兵は3千、馬は4百頭しか動員することができなかったのですが、陳珪(ちんけい)の計略により袁術(えんじゅつ)と連合していた韓暹(かんせん)、楊奉(ようほう)を味方にすることに成功します。

これにより袁術(えんじゅつ)の軍を散々に撃ち破った呂布(りょふ)は、大量の戦利品を得て帰途につきました。

蕭建(しょうけん)を手紙で帰順させる

この頃、琅邪相(ろうやしょう)(徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)の太守(たいしゅ))の蕭建(しょうけん)は莒県(きょけん)を治めていましたが、城の守備を固め、呂布(りょふ)と誼(よしみ)を通じようとしませんでした。

そこで呂布(りょふ)は、蕭建(しょうけん)に手紙を送って誼(よしみ)を通じるように説得したところ、即刻呂布(りょふ)に主簿(しゅぼ)を遣(つか)わして返書を届(とど)け、へりくだった態度をとって良馬5頭を献上しました。

臧覇(ぞうは)との和睦(わぼく)

その後、徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)の独立勢力・臧覇(ぞうは)が蕭建(しょうけん)を襲撃して、莒県(きょけん)に蓄(たくわ)えられていた物資を手に入れます。

このことを知った呂布(りょふ)は、自(みずか)ら歩兵・騎兵を率(ひき)いて莒県(きょけん)を包囲しましたが、これを攻め落とすことができず、何も得る物なく下邳県(かひけん)に引き揚(あ)げました。

後(のち)に臧覇(ぞうは)は、再び呂布(りょふ)と和睦(わぼく)します。

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曹操との戦い

劉備(りゅうび)を攻める

以前、劉備(りゅうび)と袁術(えんじゅつ)の戦(いくさ)を仲裁(ちゅうさい)した呂布(りょふ)ですが、劉備(りゅうび)が再び兵を集めて1万余人を手に入れると、これを忌(い)まわしく思った呂布(りょふ)は自(みずか)ら兵を出して劉備(りゅうび)を攻めました。

敗走した劉備(りゅうび)は、その後曹操(そうそう)の力を借りて沛県(はいけん)(小沛(しょうはい))を奪還しますが、建安(けんあん)3年(198年)春、呂布(りょふ)は再び高順(こうじゅん)、張遼(ちょうりょう)に命じて沛県(はいけん)(小沛(しょうはい))を攻撃し、曹操(そうそう)の援軍・夏侯惇(かこうとん)をも撃ち破り、劉備(りゅうび)を敗走させました。

曹操(そうそう)の出陣

冬10月、曹操(そうそう)は自(みずか)ら呂布(りょふ)討伐に出陣し、敗走した劉備(りゅうび)と合流して下邳県(かひけん)に進軍します。

この時陳宮(ちんきゅう)は、「曹操(そうそう)軍を領内深く誘い込み、敵が疲弊(ひへい)したところを討つ」作戦を献じますが、呂布(りょふ)がこれを聞き入れなかったため呂布(りょふ)軍は敗北し、敗戦に懲(こ)りた呂布(りょふ)は、以降、城に籠(こ)もって敢(あ)えて出撃しなくなりました。

袁術(えんじゅつ)に救援を請(こ)う

次に陳宮(ちんきゅう)は、「呂布(りょふ)が城外に陣を敷(し)いて敵の補給路を断ち、城の内外から牽制(けんせい)して敵の疲弊(ひへい)を待つ」作戦を立てました。

ですが、妻に反対された呂布(りょふ)は出陣を取りやめにし、秘かに配下の許汜(きょし)・王楷(おうかい)を派遣して袁術(えんじゅつ)に救援を求めます。

また呂布(りょふ)は、娘を嫁に出さなかったために袁術(えんじゅつ)が援軍を寄越さないのではないかと懸念して、娘の身体を綿にくるんで馬の背中に縛りつけると、夜に紛(まぎ)れて自(みずか)ら袁術(えんじゅつ)に差し出そうとしましたが、途中で曹操(そうそう)の見張りの兵と遭遇(そうぐう)して矢を射(い)かけられたため包囲を破ることができず、やむなく城に引き返しました。

水攻めを受ける

一方、一向に城を陥落させることができない曹操(そうそう)も撤退を考えるようになっていましたが、荀攸(じゅんゆう)と郭嘉(かくか)の献策に従って包囲を続けることにし、沂水(きすい)と泗水(しすい)を決壊させて、その水を下邳県(かひけん)の城内に灌(そそ)ぎ込みます。

そして水攻めを受けてから1ヶ月、ますます困迫(こんぱく)(困りきること)した呂布(りょふ)は、弱気になって「曹操(そうそう)に降伏したい」と口にし、驚いた陳宮(ちんきゅう)に説得されて思い止(とど)まりました。

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呂布(りょふ)の死

冬12月、呂布(りょふ)の将軍(しょうぐん)、

  • 侯成(こうせい)
  • 宋憲(そうけん)
  • 魏続(ぎぞく)

らは、陳宮(ちんきゅう)と高順(こうじゅん)を縛り上げ、配下の兵を引き連れて曹操(そうそう)に降伏してしまいます。

侯成(こうせい)らが降ったことを知った呂布(りょふ)はついに観念し、左右の者に「自分の首をもって曹操(そうそう)に降伏せよ」と言いますが、手を下そうとする者はおらず、結局、楼(ろう)を下りて曹操(そうそう)に降伏しました。


きつく縛られて曹操(そうそう)の前に引き出された呂布(りょふ)は、曹操(そうそう)に自分を用(もち)いるように懇願(こんがん)しますが、曹操(そうそう)はこれを許さず、呂布(りょふ)・陳宮(ちんきゅう)・高順(こうじゅん)の3人は縊殺(いさつ)(首をしめて殺すこと)され、共にさらし首にされて豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・潁川郡(えいせんぐん)・許県(きょけん)に送られて、その後埋葬されました。

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『三国志演義(さんごくしえんぎ)』では、劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)の3人の豪傑を同時に相手にして互角の戦いを演じるなど、作品中第1の武勇を誇る呂布(りょふ)ですが、例えば典韋(てんい)のように、個人の戦いぶりが具体的に史料に記載されているわけではありません。

ですが、

  • 董卓(とうたく)の護衛をつとめる
  • 自(みずか)ら郭汜(かくし)に一騎打ちを挑んで勝利する
  • 戟(げき)の小枝に矢を射当てる

など、その扱いに恥じない武勇を示しているほか、騎兵を率(ひき)いて黒山賊(こくざんぞく)や曹操(そうそう)軍を撃ち破っており、騎兵指揮官としても優秀な能力を有していたことは間違いないでしょう。

また呂布(りょふ)には「琅邪相(ろうやしょう)の蕭建(しょうけん)を手紙で帰順させる」という意外な一面もありました。


ちなみに正史(せいし)『三国志(さんごくし)』を編纂(へんさん)した陳寿(ちんじゅ)は、

「呂布(りょふ)は吠(ほ)え猛(たけ)る虎のごとき勇猛さを持ちながら、英雄の才略なく、軽はずみで狡猾(こうかつ)、裏切りを繰り返し、眼中にあるのは利益だけだった。古(いにしえ)から今に至るまで、こうした種類の人間で破滅しなかった試しはない」

と評しており、呂布(りょふ)の裏切り癖(ぐせ)は『三国志演義(さんごくしえんぎ)』の演出や誇張ではなく、史実そのままと言って良いでしょう。



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呂布データベース

呂布関連年表

西暦 出来事
不明
  • 幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・五原郡(ごげんぐん)・九原県(きゅうげんけん)に生まれる。
  • 幷州刺史(へいしゅうしし)の丁原(ていげん)に仕える。
  • 丁原(ていげん)の主簿(しゅぼ)に任命される。
189年

■ 中平(ちゅうへい)6年

  • 丁原(ていげん)に従って洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に入る。
  • 董卓(とうたく)の誘いを受け、丁原(ていげん)を殺害する。
  • 騎都尉(きとい)に任命される。
  • 董卓(とうたく)と「父子の契(ちぎ)り」を結ぶ。
  • 「飛将(ひしょう)」と呼ばれ、中郎将(ちゅうろうしょう)・都亭侯(とていこう)に取り立てられる。
191年

■ 初平(しょへい)2年

  • 騎督(きとく)に任命され、胡軫(こしん)の将として孫堅(そんけん)討伐に向かう。
  • 胡軫(こしん)に嘘の情報を進言し、味方を敗北に導く。
  • 董卓(とうたく)に手戟(しゅげき)を投げつけられる。
  • 董卓(とうたく)の侍女(じじょ)と密通する。
192年

■ 初平(しょへい)3年

  • 王允(おういん)らの「董卓(とうたく)暗殺」の密計に加わる。
  • 董卓(とうたく)を誅殺(ちゅうさつ)する。
  • 董卓(とうたく)の娘婿(むすめむこ)・牛輔(ぎゅうほ)に敗れた李粛(りしゅく)を処刑する。
  • 奮武将軍(ふんぶしょうぐん)・温侯(おんこう)に昇進し、儀同三司(ぎどうさんし)を加えられる。
  • 李傕(りかく)・郭汜(かくし)らが長安(ちょうあん)を包囲する。
  • 郭汜(かくし)と一騎打ちを演じる。
  • 長安(ちょうあん)を脱出し、荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)の袁術(えんじゅつ)を頼る。
193年

■ 初平(しょへい)4年

  • 袁紹(えんしょう)を頼る。
  • 側近の成廉(せいれん)・魏越(ぎえつ)らと黒山賊(こくざんぞく)の張燕(ちょうえん)を撃ち破る。
  • 袁紹(えんしょう)配下の諸将に尊大な態度を取るようになる。
  • 洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に戻りたいと願い出て、袁紹(えんしょう)に司隷校尉(しれいこうい)に任命される。
  • 袁紹(えんしょう)の「暗殺の企(たくら)み」に気づき、逃亡して河内太守(かだいたいしゅ)の張楊(ちょうよう)を頼る。
  • 李傕(りかく)・郭汜(かくし)に潁川太守(えいせんたいしゅ)に任命される。
194年

■ 興平(こうへい)元年

  • 曹操(そうそう)に叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)した張邈(ちょうばく)・陳宮(ちんきゅう)らに兗州牧(えんしゅうぼく)に推戴(すいたい)される。
  • 兗州(えんしゅう)に入り、東郡(とうぐん)・濮陽県(ぼくようけん)に駐屯する。
  • 兗州(えんしゅう)の郡県のほぼすべてが呼応する。
  • 兗州(えんしゅう)に帰還した曹操(そうそう)を撃ち破る。
  • 蝗害(こうがい)により停戦し、山陽郡(さんようぐん)に駐屯する。
195年

■ 興平(こうへい)2年

  • 再び進撃を開始した曹操(そうそう)に敗北を重ねる。
  • 徐州(じょしゅう)の劉備(りゅうび)を頼る。
196年

■ 建安(けんあん)元年

  • 袁術(えんじゅつ)が徐州(じょしゅう)に侵攻し、張飛(ちょうひ)を下邳県(かひけん)に残して劉備(りゅうび)が出陣する。
  • 袁術(えんじゅつ)の誘いに乗り、下邳県(かひけん)を奪って劉備(りゅうび)の妻子を捕らえる。
  • 劉備(りゅうび)を受け入れて妻子を返し、豫州刺史(よしゅうしし)に任命して沛県(はいけん)(小沛(しょうはい))に駐屯させる。
  • 徐州牧(じょしゅうぼく)(徐州刺史(じょしゅうしし))を自称する。
  • 郝萌(かくほう)が反乱を起こし、高順(こうじゅん)の陣営に逃げ込む。
  • 曹性(そうせい)が郝萌(かくほう)に背(そむ)いて決闘を演じ、高順(こうじゅん)が郝萌(かくほう)を斬る。
  • 反乱の共謀者・陳宮(ちんきゅう)を不問に付(ふ)し、曹性(そうせい)に元の郝萌(かくほう)の軍勢を統率させる。
  • 袁術(えんじゅつ)が沛県(はいけん)(小沛(しょうはい))を攻撃する。
  • 戟(げき)を射て戦(いくさ)を仲裁する。
197年

■ 建安(けんあん)2年

  • 袁術(えんじゅつ)が皇帝を僭称(せんしょう)する。
  • 袁術(えんじゅつ)の息子と自分の娘との結婚を承知する。
  • 心変わりをして娘を連れ戻し、袁術(えんじゅつ)の使者・韓胤(かんいん)を許県(きょけん)に送ってさらし首にする。
  • 朝廷(曹操(そうそう))から左将軍(さしょうぐん)に任命される。
  • 袁術(えんじゅつ)が韓暹(かんせん)、楊奉(ようほう)と結んで呂布(りょふ)を攻める。
  • 韓暹(かんせん)、楊奉(ようほう)を寝返らせ、袁術(えんじゅつ)の軍を散々に撃ち破る。
  • 琅邪相(ろうやしょう)・蕭建(しょうけん)を手紙で帰順させる。
  • 臧覇(ぞうは)が莒県(きょけん)の蕭建(しょうけん)を襲撃する。
  • 自(みずか)ら莒県(きょけん)を包囲するが、得る物なく引き揚(あ)げる。
  • 臧覇(ぞうは)と和睦(わぼく)する。
  • 沛県(はいけん)(小沛(しょうはい))の劉備(りゅうび)を敗走させる。
  • 曹操(そうそう)の助力を得た劉備(りゅうび)に沛県(はいけん)(小沛(しょうはい))を奪還される。
198年

■ 建安(けんあん)3年

  • 高順(こうじゅん)、張遼(ちょうりょう)に命じて沛県(はいけん)(小沛(しょうはい))を攻撃させる。
  • 曹操(そうそう)の援軍・夏侯惇(かこうとん)を撃ち破り、劉備(りゅうび)を敗走させる。
  • 臧覇(ぞうは)ら徐州(じょしゅう)の独立勢力が呂布(りょふ)に味方する。
  • 自(みずか)ら出陣した曹操(そうそう)を迎撃するが敗走し、下邳県(かひけん)に籠(こ)もる。
  • 袁術(えんじゅつ)に救援を求める。
  • 下邳県(かひけん)が水攻めを受ける。
  • 侯成(こうせい)、宋憲(そうけん)、魏続(ぎぞく)らが陳宮(ちんきゅう)と高順(こうじゅん)を縛り上げ、曹操(そうそう)に降伏する。
  • 曹操(そうそう)に降伏するも処刑される。

配下

袁渙(えんかん)、王楷(おうかい)、郝萌(かくほう)、魏越(ぎえつ)、魏种(ぎちゅう)、魏続(ぎぞく)、許汜(きょし)、許耽(きょたん)、侯諧(こうかい)、高雅(こうが)、高順(こうじゅん)、侯成(こうせい)、呉資(ごし)、蕭建(しょうけん)、章誑(しょうきょう)、徐翕(じょきゅう)、秦宜禄(しんぎろく)、成廉(せいれん)、薛蘭(せつらん)、宋憲(そうけん)、曹性(そうせい)、張弘(ちょうこう)、趙庶(ちょうしょ)、張超(ちょうちょう)、張邈(ちょうばく)、張遼(ちょうりょう)、陳紀(ちんき)、陳宮(ちんきゅう)、陳羣(ちんぐん)、陳珪(ちんけい)、陳登(ちんとう)、氾嶷(はんぎょく)、畢諶(ひつしん)、毛暉(もうき)、毛暉(もうき)、李鄒(りすう)(李鄒(りしゅう))、李封(りほう)、劉何(りゅうか)

同盟勢力

臧覇(ぞうは)、孫観(そんかん)、呉敦(ごとん)、尹礼(いんれい)(尹禮(いんれい))、昌豨(しょうき)(別名:昌狶(しょうき)・昌務(しょうぶ)・昌覇(しょうは))

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