『三国志』を知らない人でもその名前を聞いたことがあるであろう、後漢末期最強の男・呂布とは、一体どんな人物だったのでしょうか。
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目次
出自
出身地 / 生没年
字
奉先。
出身地
幷州(并州)・五原郡・九原県。
幷州(并州)・五原郡・九原県
生没年
- 生年不詳〜 建安3年(198年)没。
- 『後漢書』と『魏書』に列伝があります。
家族・親族
娘
袁術の息子との結婚が成立し、袁術の使者・韓胤と共に寿春に向かいましたが、陳珪の説得を受けて袁術と結ぶことを思い直した呂布によって連れ戻されました。
ゲームでは呂布の娘として、呂玲綺、呂姫などの名が見えますが、史料で名前を確認することはできません。
丁原に仕える
呂布は弓馬の腕前と勇猛さを認められて幷州刺史の丁原に仕え、丁原が騎都尉となって司隷・河内郡に駐屯すると、主簿に任命されて寵愛されました。
中平6年(189年)4月、霊帝が崩御すると、丁原は大将軍・何進と共謀して宦官たちの誅滅を計画し、呂布は何進に召集された丁原に従って洛陽(雒陽)に向かいます。
ですが、洛陽(雒陽)ではすでに何進が宦官たちに殺害され、その宦官たちも、何進の側近であった袁紹らの報復により誅滅された後でした。
『後漢書』や正史『三国志』には「丁原と呂布が父子の契りを結んだ」という記述はなく、「呂布が丁原の養子」というのは『三国志演義』の創作になります。
また当時丁原の配下には、後に呂布や曹操に仕えることになる張遼や、河内太守となる張楊がいました。
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董卓に仕える
丁原を殺害する
丁原と同様に洛陽(雒陽)に向かっていた董卓は、その途上、袁紹らの宦官誅滅の混乱から洛陽(雒陽)を脱出していた少帝と陳留王を保護しました。
その後洛陽(雒陽)に入城した董卓は、敗死した何進・何苗の兵を自軍に収めると、丁原を殺害してその軍勢を手に入れたいと考え、丁原から信頼されていた呂布に目をつけます。
そして董卓の誘いを受けた呂布は、丁原の首を斬って軍勢と共に董卓の下に参上し、騎都尉に任命されました。また董卓は、呂布に大いに目をかけ信頼して「父子の契り」を結びます。
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「飛将」と呼ばれる
呂布は弓術と馬術に優れ、抜群の腕力を有していたため「飛将*1」と呼ばれ、次第に昇進して中郎将となり、都亭侯に取り立てられました。
脚注
*1前漢・武帝の名将・李広は、弓術と馬術をよくし、匈奴から「漢の飛将軍」と呼ばれて恐れられていました。呂布はこの李広になぞらえられたのです。
陽人の戦い
初平元年(190年)春正月、袁紹を盟主とする「反董卓連合」が決起しました。
そして翌初平2年(191年)2月、「反董卓連合」の1人・豫州刺史の孫堅が司隷・河南尹に進軍を開始。董卓配下の徐栄がこれを撃ち破りましたが、孫堅は梁県の陽人聚に移って再び兵を集めました。
陽人の戦い
すると董卓は、陳郡太守の胡軫を大督護に、呂布を騎督に任命し、5,000の兵を与えて孫堅を迎え撃たせます。
ですが、この大将の胡軫はせっかちで敵を軽く見るクセがあり、配下の部将たちの多くは彼に反感を持っていました。
この時呂布は、「胡軫に手柄を立てさせたくない」がために嘘の情報を進言したため、胡軫軍は敗北。この戦いで都尉の華雄が討ち取られてしまいます。
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董卓との軋轢
董卓は、自分が「他人に対して無礼な扱いをしている」ことを自覚していたので、他人に狙われることを恐れて、どんな時でも常に呂布に護衛をさせていました。
手戟を投げつけられる
董卓は気性が激しく短気で、後先構わず腹を立てることがあったので、ある時、ちょっと気にくわないことがあって、小さな戟を抜いて呂布に投げつけたことがありました。
呂布は腕力と敏捷さで身をかわし、すぐさま謝罪したので董卓の気持ちは解れましたが、このことがあってから呂布は、内心董卓を怨むようになります。
董卓の侍女と密通する
また、呂布は董卓の侍女と密通し、そのことが露見するのを恐れて内心落ち着かない様子で董卓に仕えていました。
『三国志演義』に登場する貂蝉は、この「董卓の侍女」がモデルになっていると言われています。
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董卓を誅殺する
ある時呂布は、自分を丁重に扱ってくれる同郷[幷州(并州)]出身の王允を訪問し、「董卓に危うく殺されかけた」顛末を話して聞かせました。
ちょうどこの時、王允は僕射の士孫瑞と「董卓暗殺」の密計を巡らせていたところでしたので、呂布にこの計画を打ち明けて協力を求めます。
ですが呂布は「自分と董卓が親子の間柄」であることを挙げ、王允らの計画に協力することを躊躇していました。
すると王允は、
「あなたの苗字は呂であり、もともと董卓と血縁関係はありません。今はご自分の生命の方がご心配でしょう。父子の間柄などと言っておられる場合ですか」
と問いかけました。これを聞いた呂布はついに決心し、王允らの計画に従って自ら刀を振るって董卓を刺殺しました。
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流浪の日々
長安の陥落
李粛を処刑する
董卓を誅殺した呂布は、同郡出身で董卓誅殺にも協力した李粛を派遣して、勅命によって司隷・弘農郡・陝県に駐屯する董卓の娘婿・牛輔を処刑しようとします。
ですが、牛輔の迎撃に遭った李粛は弘農県に敗走。呂布は敗戦の責任を問うて李粛を処刑してしまいました。
董卓配下の配置
李傕・郭汜らの逆襲
その後王允は、呂布を奮武将軍に任命し、部下の処罰権を示す節を与えて三公と同じ儀礼を許し、爵位を温侯に昇進させて、一緒に朝廷の政治を取り仕切るようになりました。
ですがこの時王允は、涼州出身者(元董卓配下)を恐れて赦免しなかったので、これを怨みに思った元董卓配下の李傕・郭汜らは、ついに結託して長安城を包囲します。
郭汜との一騎打ち
長安城が包囲されると、呂布は城門を開いて城の北に布陣していた郭汜に接近し、
「しばらく軍勢を遠ざけよ。1対1で勝負をつけよう」
と一騎打ちを申し込み、郭汜と対決して彼に矛を突き刺しました。すると、郭汜の背後に退いていた騎兵が進み寄って郭汜を助けたので、呂布も引き揚げました。
1人逃亡する
李傕らが長安を包囲して8日目のこと、呂布の軍にいた蜀兵(叟兵)が離反して、李傕らの軍勢を城内に招き入れてしまいました。
呂布はこれを城内で迎え撃ちますが、ついに支えきれず、数百騎を率いて一緒に落ち延びるよう王允を誘いますが、王允は承知しませんでした。
そこで呂布は、董卓の首を馬の鞍につないで武関から荊州・南陽郡に落ち延びました。
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流浪の日々
袁術を頼る
荊州・南陽郡の袁術は、当初彼をたいそう厚遇しましたが、呂布は「袁術の一族(袁隗・袁基ら)を処刑した董卓を殺害したこと」を鼻にかけ、好き勝手に兵を掠め取ったので、袁術は彼を拒否して受け入れませんでした。
そこで呂布は、今度は冀州の袁紹を頼ります。
袁紹を頼る
黒山賊を破る
初平4年(193年)3月、冀州・魏郡の軍勢が黒山賊の于毒と結んで袁紹に謀叛を起こし、鄴城を落として太守の栗成を殺害しました。
これに袁紹は、司隷・河内郡・朝歌県で于毒を撃ち破り、そのまま北に向かって黒山賊の砦を打ち壊して数万の首級をあげます。
袁紹と黒山賊の戦い
この時袁紹の元に身を寄せていた呂布は、名馬・赤兎*2にまたがって、側近の成廉・魏越らと共に黒山賊の張燕と戦い、1万余の精鋭兵と数千の騎兵を撃ち破りました。
脚注
*2「呂布が赤兎馬欲しさに丁原を裏切った」というのは『三国志演義』の創作です。
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袁紹から闇討ちを受ける
呂布は袁氏に対して功績があると自負しており、袁紹配下の諸将は「自分のように天子に任命されたのではなく、袁紹によって勝手に役職につけられた」のだから尊重するまでもないと、尊大な態度をとっていました。
そんな中、呂布が洛陽(雒陽)に戻りたいと願い出た時、袁紹は呂布を司隷校尉の官位につかせ、「表向きは洛陽(雒陽)に行かせることになった」と公表しつつ、内心では呂布を殺害しようと考えました。
そこで出発の前日、袁紹は「呂布を見送る」という名目で武装兵・30人を派遣します。
ですが、薄々袁紹に疎まれていることに気づいていた呂布は、彼らを帳の外側に留め置き、帳の中で鼓や琴を演奏させて注意をそらせ、袁紹の兵が眠るのを待ってから立ち去りました。
そして、夜中になって目を覚ました兵たちは、呂布の寝台に掛けてあった布団を滅多切りにして帰還します。
翌日、呂布がまだ生存していることを知った袁紹は、軍勢を派遣して彼を追撃させましたが、みな呂布を恐がって側による勇気のある者はいませんでした。
張楊を頼る
袁紹の下を去った呂布は、以前共に丁原に仕えていた河内太守の張楊を頼ります。
ですが、呂布の首には李傕と郭汜から賞金が掛けられていましたので、張楊とその配下の諸将は呂布を始末しようと共謀していました。
そのことを聞き知った呂布は、張楊に向かって、
「儂は君と同郷の人間だ。君が儂を殺せば、君にとって(同郷人を殺したということで)弱みとなる。儂を売るにこしたことはない。そうすれば、きっと李傕と郭汜から爵位と恩寵を授けられるだろう」
と、自分を李傕らに差し出すように言いました。
するとこの言葉に感じ入った張楊は、表向きは郭汜と李傕の言うことを聞き入れる振りをしながら、内実は呂布を保護するようになります。
郭汜と李傕はこれを気に病んで、改めて封印した大型の詔勅を下し、呂布を潁川太守に任命しました。
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兗州から徐州へ
兗州の反乱
兗州牧に推戴される
興平元年(194年)、兗州牧・曹操が2度目の徐州侵攻を開始すると、留守居役の張邈・陳宮らが兗州で反乱を起こし、呂布に使者を派遣して兗州牧に推戴しました。
これを承知した呂布は、張楊と手を取り合って誓いを交わすと、兗州に入って東郡・濮陽県に駐屯し、守りを固めます。
すると、荀彧、程昱らが守る、
- 済陰郡・鄄城県
- 東郡・范県
- 東郡・東阿県
の3県を除くすべての郡県が呂布らに呼応しました。
兗州の反乱関連地図
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曹操軍を撃ち破る
兗州で反乱が起こったことを知った曹操はすぐさま徐州から取って返し、呂布が駐屯する濮陽県に攻撃を加えます。
この時、濮陽県の豪族・田氏が内通して曹操軍を城内に引き入れましたが、呂布は城内に侵入した曹操軍を撃ち破り、曹操をあわや捕らえるところまで追い立てました。
その後両軍は100余日の間対峙していましたが、にわかに蝗が湧き起こり、兵糧が尽きた両軍は共に兵を退きます。
呂布は済陰郡・乗氏国に向かいましたが、県人の李進に撃破され、東に向かって山陽郡に駐屯しました。興平元年(194年)9月のことです。
濮陽の戦い関連地図
兗州の大半を奪われ、城を取り返すこともままならない曹操は、一時は袁紹の配下になることも考えましたが、程昱の進言によってなんとか思いとどまっています。
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曹操の反撃
興平2年(195年)春、再び進撃を開始した曹操は、
- 兗州・済陰郡・定陶県の呉資
- 兗州・山陽郡・鉅野県の薛蘭、李封
を撃ち破り、済陰郡・乗氏国に陣営を定めました。
これに呂布は、陳宮と共に山陽郡・東緡県から1万余人を率いて乗氏国に攻撃を仕掛けますが、曹操の伏兵に遭って大敗北を喫してしまいました。
その後曹操は、再び済陰郡・定陶県を攻めて攻略。山陽郡・鉅野県で呂布を撃ち破り、反乱から2年のうちに、兗州の諸城はすべて曹操に奪い返されてしまいました。
曹操に敗れた呂布は、徐州の劉備を頼ります。
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徐州を奪う
劉備を裏切る
建安元年(196年)6月、揚州の袁術が徐州に侵攻を開始しました。
これに劉備は、司馬の張飛を後に残して徐州・下邳国・下邳県を守らせ、自ら兵を率いて盱眙県と淮陰県で袁術の進撃を阻みます。
袁術の徐州侵攻
※呂布の駐屯地は「下邳県の西」とあるだけですが、ここでは沛県(小沛)としています。
そして、両軍が膠着状態に入って1ヶ月が経過しようとした頃、袁術は呂布に密書を送り、「呂布が下邳県を攻撃するならば兵糧を援助する」ことを約束します。
これを大いに喜んだ呂布は、軍勢を率いて水陸両面から東方に下って下邳県を攻撃。張飛の軍勢を散々に撃ち破り、劉備の妻子や軍需品、配下の将兵や官吏の家族などを捕虜にします。
ですが、その後本拠地を失った劉備が呂布に和睦を求めると、「袁術が兵糧を送ってこないこと」に怒りを覚えていた呂布は、捕らえていた劉備の妻子を返還し、劉備を豫州刺史に任命して沛県(小沛)に駐屯させて、呂布自身は自ら徐州牧*3を称しました。
脚注
*3『後漢書』呂布伝では徐州牧、『魏書』呂布伝では徐州刺史となっています。
郝萌の反乱
6月のある日の夜更けのこと、呂布の大将・郝萌が叛旗を翻して下邳県の役所を攻撃。不意を突かれた呂布は、配下の高順の陣営に逃げ込みました。
高順はすぐさま下邳県の役所に攻め入って郝萌の軍勢を敗走させると、郝萌の将・曹性が郝萌に背いて決闘を演じ、そこへ駆けつけた高順が郝萌の首を切り落とします。
曹性は、
- 郝萌は袁術の意向を受けていたこと
- 陳宮が共謀者であること
を伝えましたが、呂布は陳宮を不問に付し、曹性に元の郝萌の軍勢を統率させました。
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戟を射て戦を仲裁する
劉備が沛県(小沛)に駐屯すると、袁術は将軍の紀霊らに歩兵・騎兵合わせて3万人を統率させて劉備を攻撃しようとし、これを知った劉備は呂布に救援を求めます。
この時呂布の将軍たちは「劉備を見捨てて袁術に手を貸すべき」と言いましたが、呂布は、
「それは違う。もし今 袁術が劉備を撃ち破れば、袁術は北方泰山(太山)の諸将軍(臧覇ら)と連合戦線を結ぶだろう。そうなれば、儂は包囲網の中に封じ込められてしまう。そうならないためには、劉備を救援しないわけにはいかないのだ」
と言い、すぐさま兵を整えさせて自ら劉備の元に駆けつけます。
そして呂布は、劉備と紀霊を宴会に招くと、門番の役人に命じて轅門(陣営の門)の中に1本の戟を掲げさせ、
「諸君、今から儂が戟の小枝を射るから見ていなさい。もし1発で命中したなら、諸君は戦闘を中止して引き揚げてくれ。もし命中しなかったなら、ここに留まって勝負を決するが良い」
と言い、弓を手に戟を目がけて射かけると、果たしてその矢は見事に戟の小枝に命中し、その場に居合わせた諸将はみな仰天して呂布の意向に従い、次の日も宴会を楽しんで、双方とも軍を引き揚げました。
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袁術との縁談
建安2年(197年)5月、呂布と手を結びたいと思った袁術は「呂布の娘を自分の息子の嫁に欲しい」と申し込み、これを承知した呂布は、娘を袁術の使者・韓胤に預けました。
ですが、沛相[豫州(予州)・沛国の太守]・陳珪の説得を受けた呂布は心変わりをし、袁術の元に向かう娘の後を追って連れ戻し、韓胤を許県*4に護送してさらし首にします。
これにより呂布は左将軍に任命され、大いに喜んだ呂布は、陳珪の子・陳登を朝廷に派遣して感謝の意を表明しました。
脚注
*4豫州(予州)・潁川郡・許県。この時献帝は、曹操に保護されて許県を都としていました。
袁術を撃ち破る
呂布が婚約を破棄し、韓胤が処刑されたことを知って激怒した袁術は、7つの道から歩騎数万を向かわせて呂布を攻めました。
この時呂布は、兵は3千、馬は4百頭しか動員することができなかったのですが、陳珪の計略により袁術と連合していた韓暹、楊奉を味方にすることに成功します。
これにより袁術の軍を散々に撃ち破った呂布は、大量の戦利品を得て帰途につきました。
蕭建を手紙で帰順させる
この頃、琅邪相(徐州・琅邪国の太守)の蕭建は莒県を治めていましたが、城の守備を固め、呂布と誼を通じようとしませんでした。
そこで呂布は、蕭建に手紙を送って誼を通じるように説得したところ、即刻呂布に主簿を遣わして返書を届け、へりくだった態度をとって良馬5頭を献上しました。
臧覇との和睦
その後、徐州・琅邪国の独立勢力・臧覇が蕭建を襲撃して、莒県に蓄えられていた物資を手に入れます。
このことを知った呂布は、自ら歩兵・騎兵を率いて莒県を包囲しましたが、これを攻め落とすことができず、何も得る物なく下邳県に引き揚げました。
後に臧覇は、再び呂布と和睦します。
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曹操との戦い
劉備を攻める
以前、劉備と袁術の戦を仲裁した呂布ですが、劉備が再び兵を集めて1万余人を手に入れると、これを忌まわしく思った呂布は自ら兵を出して劉備を攻めました。
敗走した劉備は、その後曹操の力を借りて沛県(小沛)を奪還しますが、建安3年(198年)春、呂布は再び高順、張遼に命じて沛県(小沛)を攻撃し、曹操の援軍・夏侯惇をも撃ち破り、劉備を敗走させました。
曹操の出陣
冬10月、曹操は自ら呂布討伐に出陣し、敗走した劉備と合流して下邳県に進軍します。
この時陳宮は、「曹操軍を領内深く誘い込み、敵が疲弊したところを討つ」作戦を献じますが、呂布がこれを聞き入れなかったため呂布軍は敗北し、敗戦に懲りた呂布は、以降、城に籠もって敢えて出撃しなくなりました。
袁術に救援を請う
次に陳宮は、「呂布が城外に陣を敷いて敵の補給路を断ち、城の内外から牽制して敵の疲弊を待つ」作戦を立てました。
ですが、妻に反対された呂布は出陣を取りやめにし、秘かに配下の許汜・王楷を派遣して袁術に救援を求めます。
また呂布は、娘を嫁に出さなかったために袁術が援軍を寄越さないのではないかと懸念して、娘の身体を綿にくるんで馬の背中に縛りつけると、夜に紛れて自ら袁術に差し出そうとしましたが、途中で曹操の見張りの兵と遭遇して矢を射かけられたため包囲を破ることができず、やむなく城に引き返しました。
水攻めを受ける
一方、一向に城を陥落させることができない曹操も撤退を考えるようになっていましたが、荀攸と郭嘉の献策に従って包囲を続けることにし、沂水と泗水を決壊させて、その水を下邳県の城内に灌ぎ込みます。
そして水攻めを受けてから1ヶ月、ますます困迫(困りきること)した呂布は、弱気になって「曹操に降伏したい」と口にし、驚いた陳宮に説得されて思い止まりました。
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呂布の死
冬12月、呂布の将軍、
- 侯成
- 宋憲
- 魏続
らは、陳宮と高順を縛り上げ、配下の兵を引き連れて曹操に降伏してしまいます。
侯成らが降ったことを知った呂布はついに観念し、左右の者に「自分の首をもって曹操に降伏せよ」と言いますが、手を下そうとする者はおらず、結局、楼を下りて曹操に降伏しました。
きつく縛られて曹操の前に引き出された呂布は、曹操に自分を用いるように懇願しますが、曹操はこれを許さず、呂布・陳宮・高順の3人は縊殺(首をしめて殺すこと)され、共にさらし首にされて豫州(予州)・潁川郡・許県に送られて、その後埋葬されました。
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『三国志演義』では、劉備・関羽・張飛の3人の豪傑を同時に相手にして互角の戦いを演じるなど、作品中第1の武勇を誇る呂布ですが、例えば典韋のように、個人の戦いぶりが具体的に史料に記載されているわけではありません。
ですが、
- 董卓の護衛をつとめる
- 自ら郭汜に一騎打ちを挑んで勝利する
- 戟の小枝に矢を射当てる
など、その扱いに恥じない武勇を示しているほか、騎兵を率いて黒山賊や曹操軍を撃ち破っており、騎兵指揮官としても優秀な能力を有していたことは間違いないでしょう。
また呂布には「琅邪相の蕭建を手紙で帰順させる」という意外な一面もありました。
ちなみに正史『三国志』を編纂した陳寿は、
「呂布は吠え猛る虎のごとき勇猛さを持ちながら、英雄の才略なく、軽はずみで狡猾、裏切りを繰り返し、眼中にあるのは利益だけだった。古から今に至るまで、こうした種類の人間で破滅しなかった試しはない」
と評しており、呂布の裏切り癖は『三国志演義』の演出や誇張ではなく、史実そのままと言って良いでしょう。
呂布データベース
呂布関連年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
不明 |
|
189年 |
■ 中平6年
|
191年 |
■ 初平2年
|
192年 |
■ 初平3年
|
193年 |
■ 初平4年
|
194年 |
■ 興平元年
|
195年 |
■ 興平2年
|
196年 |
■ 建安元年
|
197年 |
■ 建安2年
|
198年 |
■ 建安3年
|
配下
袁渙、王楷、郝萌、魏越、魏种、魏続、許汜、許耽、侯諧、高雅、高順、侯成、呉資、蕭建、章誑、徐翕、秦宜禄、成廉、薛蘭、宋憲、曹性、張弘、趙庶、張超、張邈、張遼、陳紀、陳宮、陳羣、陳珪、陳登、氾嶷、畢諶、毛暉、毛暉、李鄒(李鄒)、李封、劉何
同盟勢力
臧覇、孫観、呉敦、尹礼(尹禮)、昌豨(別名:昌狶・昌務・昌覇)