三国志さんごくしを知らない人でもその名前を聞いたことがあるであろう、後漢ごかん末期最強の男・呂布りょふとは、一体どんな人物だったのでしょうか。

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出自

呂布(りょふ)

出身地 / 生没年

あざな

奉先ほうせん

出身地

幷州へいしゅう并州へいしゅう)・五原郡ごげんぐん九原県きゅうげんけん


幷州・五原郡・九原県

幷州へいしゅう并州へいしゅう)・五原郡ごげんぐん九原県きゅうげんけん

生没年

  • 生年不詳〜 建安けんあん3年(198年)没。
  • 後漢書ごかんじょ魏書ぎしょに列伝があります。

家族・親族

袁術えんじゅつの息子との結婚が成立し、袁術えんじゅつの使者・韓胤かんいんと共に寿春じゅしゅんに向かいましたが、陳珪ちんけいの説得を受けて袁術えんじゅつと結ぶことを思い直した呂布りょふによって連れ戻されました。

ゲームでは呂布りょふの娘として、呂玲綺りょれいき呂姫りょきなどの名が見えますが、史料で名前を確認することはできません。

丁原に仕える

呂布りょふは弓馬の腕前と勇猛さを認められて幷州刺史へいしゅうしし丁原ていげんに仕え、丁原ていげん騎都尉きといとなって司隷しれい河内郡かだいぐんに駐屯すると、主簿しゅぼに任命されて寵愛ちょうあいされました。


中平ちゅうへい6年(189年)4月、霊帝れいてい崩御ほうぎょすると、丁原ていげん大将軍だいしょうぐん何進かしんと共謀して宦官かんがんたちの誅滅ちゅうめつを計画し、呂布りょふ何進かしんに召集された丁原ていげんに従って洛陽らくよう雒陽らくよう)に向かいます。

ですが、洛陽らくよう雒陽らくよう)ではすでに何進かしん宦官かんがんたちに殺害され、その宦官かんがんたちも、何進かしんの側近であった袁紹えんしょうらの報復により誅滅ちゅうめつされた後でした。


後漢書ごかんじょ正史せいし三国志さんごくしには「丁原ていげん呂布りょふが父子のちぎりを結んだ」という記述はなく、「呂布りょふ丁原ていげんの養子」というのは三国志演義さんごくしえんぎの創作になります。

また当時丁原ていげんの配下には、後に呂布りょふ曹操そうそうに仕えることになる張遼ちょうりょうや、河内太守かだいたいしゅとなる張楊ちょうようがいました。

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董卓に仕える

丁原ていげんを殺害する

丁原ていげんと同様に洛陽らくよう雒陽らくよう)に向かっていた董卓とうたくは、その途上、袁紹えんしょうらの宦官かんがん誅滅ちゅうめつの混乱から洛陽らくよう雒陽らくよう)を脱出していた少帝しょうてい陳留王ちんりゅうおうを保護しました。

その後洛陽らくよう雒陽らくよう)に入城した董卓とうたくは、敗死した何進かしん何苗かびょうの兵を自軍におさめると、丁原ていげんを殺害してその軍勢を手に入れたいと考え、丁原ていげんから信頼されていた呂布りょふに目をつけます。

そして董卓とうたくの誘いを受けた呂布りょふは、丁原ていげんの首を斬って軍勢と共に董卓とうたくもとに参上し、騎都尉きといに任命されました。また董卓とうたくは、呂布りょふに大いに目をかけ信頼して「父子のちぎり」を結びます。

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飛将ひしょう」と呼ばれる

呂布りょふは弓術と馬術にすぐれ、抜群の腕力を有していたため「飛将ひしょう*1」と呼ばれ、次第に昇進して中郎将ちゅうろうしょうとなり、都亭侯とていこうに取り立てられました。

脚注

*1前漢ぜんかん武帝ぶていの名将・李広りこうは、弓術と馬術をよくし、匈奴きょうどから「かん飛将軍ひしょうぐん」と呼ばれて恐れられていました。呂布りょふはこの李広りこうになぞらえられたのです。

陽人ようじんの戦い

初平しょへい元年(190年)春正月、袁紹えんしょうを盟主とする「反董卓とうたく連合」が決起しました。

そして翌初平しょへい2年(191年)2月、「反董卓とうたく連合」の1人・豫州刺史よしゅうしし孫堅そんけん司隷しれい河南尹かなんいんに進軍を開始。董卓とうたく配下の徐栄じょえいがこれを撃ち破りましたが、孫堅そんけん梁県りょうけん陽人聚ようじんしゅうに移って再び兵を集めました。


陽人の戦い

陽人ようじんの戦い


すると董卓とうたくは、陳郡太守ちんぐんたいしゅ胡軫こしん大督護だいとくごに、呂布りょふ騎督きとくに任命し、5,000の兵を与えて孫堅そんけんを迎え撃たせます。

ですが、この大将の胡軫こしんはせっかちで敵を軽く見るクセがあり、配下の部将たちの多くは彼に反感を持っていました。

この時呂布りょふは、「胡軫こしんに手柄を立てさせたくない」がために嘘の情報を進言したため、胡軫こしん軍は敗北。この戦いで都尉とい華雄かゆうが討ち取られてしまいます。

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董卓とうたくとの軋轢あつれき

董卓とうたくは、自分が「他人に対して無礼な扱いをしている」ことを自覚していたので、他人に狙われることを恐れて、どんな時でも常に呂布りょふに護衛をさせていました。

手戟を投げつけられる

董卓とうたくは気性が激しく短気で、後先構わず腹を立てることがあったので、ある時、ちょっと気にくわないことがあって、小さなげきを抜いて呂布りょふに投げつけたことがありました。

呂布りょふは腕力と敏捷びんしょうさで身をかわし、すぐさま謝罪したので董卓とうたくの気持ちはほぐれましたが、このことがあってから呂布りょふは、内心董卓とうたくうらむようになります。

董卓の侍女と密通する

また、呂布りょふ董卓とうたく侍女じじょと密通し、そのことが露見ろけんするのを恐れて内心落ち着かない様子で董卓とうたくに仕えていました。

三国志演義さんごくしえんぎに登場する貂蝉ちょうせんは、この「董卓とうたく侍女じじょ」がモデルになっていると言われています。

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董卓とうたく誅殺ちゅうさつする

ある時呂布りょふは、自分を丁重に扱ってくれる同郷[幷州へいしゅう并州へいしゅう)]出身の王允おういんを訪問し、「董卓とうたくあやうく殺されかけた」顛末てんまつを話して聞かせました。

ちょうどこの時、王允おういん僕射ぼくや士孫瑞しそんずいと「董卓とうたく暗殺」の密計をめぐらせていたところでしたので、呂布りょふにこの計画を打ち明けて協力を求めます。

ですが呂布りょふは「自分と董卓とうたくが親子の間柄」であることをげ、王允おういんらの計画に協力することを躊躇ちゅうちょしていました。

すると王允おういんは、


「あなたの苗字みょうじりょであり、もともと董卓とうたくと血縁関係はありません。今はご自分の生命の方がご心配でしょう。父子の間柄などと言っておられる場合ですか」


と問いかけました。これを聞いた呂布りょふはついに決心し、王允おういんらの計画に従ってみずから刀を振るって董卓とうたくを刺殺しました。

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流浪の日々

長安の陥落

李粛りしゅくを処刑する

董卓とうたく誅殺ちゅうさつした呂布りょふは、同郡出身で董卓とうたく誅殺ちゅうさつにも協力した李粛りしゅくを派遣して、勅命ちょくめいによって司隷しれい弘農郡こうのうぐん陝県せんけんに駐屯する董卓とうたく娘婿むすめむこ牛輔ぎゅうほを処刑しようとします。

ですが、牛輔ぎゅうほの迎撃にった李粛りしゅく弘農県こうのうけんに敗走。呂布りょふは敗戦の責任をうて李粛りしゅくを処刑してしまいました。


董卓配下の配置

董卓とうたく配下の配置

李傕りかく郭汜かくしらの逆襲

その後王允おういんは、呂布りょふ奮武将軍ふんぶしょうぐんに任命し、部下の処罰権を示すせつを与えて三公さんこうと同じ儀礼を許し、爵位を温侯おんこうに昇進させて、一緒に朝廷の政治を取り仕切るようになりました。

ですがこの時王允おういんは、涼州りょうしゅう出身者(元董卓とうたく配下)を恐れて赦免しゃめんしなかったので、これをうらみに思った元董卓とうたく配下の李傕りかく郭汜かくしらは、ついに結託して長安城ちょうあんじょうを包囲します。

郭汜かくしとの一騎打ち

長安城ちょうあんじょうが包囲されると、呂布りょふは城門を開いて城の北に布陣していた郭汜かくしに接近し、


「しばらく軍勢を遠ざけよ。1対1で勝負をつけよう」


と一騎打ちを申し込み、郭汜かくしと対決して彼にほこを突き刺しました。すると、郭汜かくしの背後に退しりぞいていた騎兵が進み寄って郭汜かくしを助けたので、呂布りょふも引きげました。

1人逃亡する

李傕りかくらが長安ちょうあんを包囲して8日目のこと、呂布りょふの軍にいた蜀兵しょくへい叟兵そうへい)が離反して、李傕りかくらの軍勢を城内にまねき入れてしまいました。

呂布りょふはこれを城内で迎え撃ちますが、ついに支えきれず、数百騎をひきいて一緒に落ちびるよう王允おういんを誘いますが、王允おういんは承知しませんでした。

そこで呂布りょふは、董卓とうたくの首を馬のくらにつないで武関ぶかんから荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんに落ちびました。

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流浪の日々

袁術えんじゅつを頼る

荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん袁術えんじゅつは、当初彼をたいそう厚遇しましたが、呂布りょふは「袁術えんじゅつの一族(袁隗えんかい袁基えんきら)を処刑した董卓とうたくを殺害したこと」を鼻にかけ、好き勝手に兵をかすめ取ったので、袁術えんじゅつは彼を拒否して受け入れませんでした。

そこで呂布りょふは、今度は冀州きしゅう袁紹えんしょうを頼ります。

袁紹えんしょうを頼る

黒山賊を破る

初平しょへい4年(193年)3月、冀州きしゅう魏郡ぎぐんの軍勢が黒山賊こくざんぞく于毒うどくと結んで袁紹えんしょう謀叛むほんを起こし、鄴城ぎょうじょうを落として太守たいしゅ栗成りっせいを殺害しました。

これに袁紹えんしょうは、司隷しれい河内郡かだいぐん朝歌県ちょうかけん于毒うどくを撃ち破り、そのまま北に向かって黒山賊こくざんぞくの砦を打ち壊して数万の首級をあげます。


袁紹と黒山賊の戦い

袁紹えんしょう黒山賊こくざんぞくの戦い


この時袁紹えんしょうの元に身を寄せていた呂布りょふは、名馬・赤兎せきと*2にまたがって、側近の成廉せいれん魏越ぎえつらと共に黒山賊こくざんぞく張燕ちょうえんと戦い、1万余の精鋭兵と数千の騎兵を撃ち破りました。

脚注

*2呂布りょふ赤兎馬せきとば欲しさに丁原ていげんを裏切った」というのは三国志演義さんごくしえんぎの創作です。

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袁紹から闇討ちを受ける

呂布りょふ袁氏えんしに対して功績があると自負しており、袁紹えんしょう配下の諸将は「自分のように天子てんしに任命されたのではなく、袁紹えんしょうによって勝手に役職につけられた」のだから尊重するまでもないと、尊大な態度をとっていました。

そんな中、呂布りょふ洛陽らくよう雒陽らくよう)に戻りたいと願い出た時、袁紹えんしょう呂布りょふ司隷校尉しれいこういの官位につかせ、「表向きは洛陽らくよう雒陽らくよう)に行かせることになった」と公表しつつ、内心では呂布りょふを殺害しようと考えました。

そこで出発の前日、袁紹えんしょうは「呂布りょふを見送る」という名目で武装兵・30人を派遣します。

ですが、薄々袁紹えんしょううとまれていることに気づいていた呂布りょふは、彼らをとばりの外側にとどめ置き、とばりの中でつづみや琴を演奏させて注意をそらせ、袁紹えんしょうの兵が眠るのを待ってから立ち去りました。

そして、夜中になって目を覚ました兵たちは、呂布りょふの寝台に掛けてあった布団を滅多切りにして帰還します。

翌日、呂布りょふがまだ生存していることを知った袁紹えんしょうは、軍勢を派遣して彼を追撃させましたが、みな呂布りょふを恐がってそばによる勇気のある者はいませんでした。

張楊ちょうようを頼る

袁紹えんしょうもとを去った呂布りょふは、以前共に丁原ていげんに仕えていた河内太守かだいたいしゅ張楊ちょうようを頼ります。

ですが、呂布りょふの首には李傕りかく郭汜かくしから賞金が掛けられていましたので、張楊ちょうようとその配下の諸将は呂布りょふを始末しようと共謀していました。

そのことを聞き知った呂布りょふは、張楊ちょうように向かって、


わしは君と同郷の人間だ。君がわしを殺せば、君にとって(同郷人を殺したということで)弱みとなる。わしを売るにこしたことはない。そうすれば、きっと李傕りかく郭汜かくしから爵位と恩寵おんちょうさずけられるだろう」


と、自分を李傕りかくらに差し出すように言いました。

するとこの言葉に感じ入った張楊ちょうようは、表向きは郭汜かくし李傕りかくの言うことを聞き入れる振りをしながら、内実は呂布りょふを保護するようになります。

郭汜かくし李傕りかくはこれを気にんで、改めて封印した大型の詔勅しょうちょくを下し、呂布りょふ潁川太守えいせんたいしゅに任命しました。


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兗州から徐州へ

兗州の反乱

兗州牧えんしゅうぼく推戴すいたいされる

興平こうへい元年(194年)、兗州牧えんしゅうぼく曹操そうそうが2度目の徐州じょしゅう侵攻を開始すると、留守居役の張邈ちょうばく陳宮ちんきゅうらが兗州えんしゅうで反乱を起こし、呂布りょふに使者を派遣して兗州牧えんしゅうぼく推戴すいたいしました。

これを承知した呂布りょふは、張楊ちょうようと手を取り合って誓いをわすと、兗州えんしゅうに入って東郡とうぐん濮陽県ぼくようけんに駐屯し、守りを固めます。

すると、荀彧じゅんいく程昱ていいくらが守る、

  • 済陰郡せいいんぐん鄄城県けんじょうけん
  • 東郡とうぐん范県はんけん
  • 東郡とうぐん東阿県とうあけん

の3県を除くすべての郡県が呂布りょふらに呼応しました。


兗州の反乱関連地図

兗州えんしゅうの反乱関連地図

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曹操そうそう軍を撃ち破る

兗州えんしゅうで反乱が起こったことを知った曹操そうそうはすぐさま徐州じょしゅうから取って返し、呂布りょふが駐屯する濮陽県ぼくようけんに攻撃を加えます。

この時、濮陽県ぼくようけんの豪族・田氏でんしが内通して曹操そうそう軍を城内に引き入れましたが、呂布りょふは城内に侵入した曹操そうそう軍を撃ち破り、曹操そうそうをあわや捕らえるところまで追い立てました。

その後両軍は100余日の間対峙していましたが、にわかにいなごき起こり、兵糧が尽きた両軍は共に兵を退きます。

呂布りょふ済陰郡せいいんぐん乗氏国じょうしこくに向かいましたが、県人の李進りしんに撃破され、東に向かって山陽郡さんようぐんに駐屯しました。興平こうへい元年(194年)9月のことです。


濮陽の戦い関連地図

濮陽ぼくようの戦い関連地図


兗州えんしゅうの大半を奪われ、城を取り返すこともままならない曹操そうそうは、一時は袁紹えんしょうの配下になることも考えましたが、程昱ていいくの進言によってなんとか思いとどまっています。

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曹操そうそうの反撃

興平こうへい2年(195年)春、再び進撃を開始した曹操そうそうは、

  • 兗州えんしゅう済陰郡せいいんぐん定陶県ていとうけん呉資ごし
  • 兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん鉅野県きょやけん薛蘭せつらん李封りほう

を撃ち破り、済陰郡せいいんぐん乗氏国じょうしこくに陣営を定めました。

これに呂布りょふは、陳宮ちんきゅうと共に山陽郡さんようぐん東緡県とうびんけんから1万余人をひきいて乗氏国じょうしこくに攻撃を仕掛けますが、曹操そうそうの伏兵にって大敗北をきっしてしまいました。

その後曹操そうそうは、再び済陰郡せいいんぐん定陶県ていとうけんを攻めて攻略。山陽郡さんようぐん鉅野県きょやけん呂布りょふを撃ち破り、反乱から2年のうちに、兗州えんしゅうの諸城はすべて曹操そうそうに奪い返されてしまいました。

曹操そうそうに敗れた呂布りょふは、徐州じょしゅう劉備りゅうびを頼ります。

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徐州を奪う

劉備りゅうびを裏切る

建安けんあん元年(196年)6月、揚州ようしゅう袁術えんじゅつ徐州じょしゅうに侵攻を開始しました。

これに劉備りゅうびは、司馬しば張飛ちょうひを後に残して徐州じょしゅう下邳国かひこく下邳県かひけんを守らせ、みずから兵をひきいて盱眙県くいけん淮陰県わいいんけん袁術えんじゅつの進撃をはばみます。


袁術の徐州侵攻

袁術えんじゅつ徐州じょしゅう侵攻

呂布りょふの駐屯地は「下邳県かひけんの西」とあるだけですが、ここでは沛県はいけん小沛しょうはい)としています。


そして、両軍が膠着こうちゃく状態に入って1ヶ月が経過しようとした頃、袁術えんじゅつ呂布りょふに密書を送り、「呂布りょふ下邳県かひけんを攻撃するならば兵糧を援助する」ことを約束します。

これを大いに喜んだ呂布りょふは、軍勢をひきいて水陸両面から東方に下って下邳県かひけんを攻撃。張飛ちょうひの軍勢を散々に撃ち破り、劉備りゅうびの妻子や軍需品、配下の将兵や官吏の家族などを捕虜にします。


ですが、その後本拠地を失った劉備りゅうび呂布りょふ和睦わぼくを求めると、「袁術えんじゅつが兵糧を送ってこないこと」に怒りを覚えていた呂布りょふは、捕らえていた劉備りゅうびの妻子を返還し、劉備りゅうび豫州刺史よしゅうししに任命して沛県はいけん小沛しょうはい)に駐屯させて、呂布りょふ自身はみずか徐州牧じょしゅうぼく*3を称しました。

脚注

*3後漢書ごかんじょ呂布伝りょふでんでは徐州牧じょしゅうぼく魏書ぎじょ呂布伝りょふでんでは徐州刺史じょしゅうししとなっています。

郝萌かくほうの反乱

6月のある日の夜更けのこと、呂布りょふの大将・郝萌かくほう叛旗はんきひるがえして下邳県かひけんの役所を攻撃。不意を突かれた呂布りょふは、配下の高順こうじゅんの陣営に逃げ込みました。

高順こうじゅんはすぐさま下邳県かひけんの役所に攻め入って郝萌かくほうの軍勢を敗走させると、郝萌かくほうの将・曹性そうせい郝萌かくほうそむいて決闘を演じ、そこへ駆けつけた高順こうじゅん郝萌かくほうの首を切り落とします。

曹性そうせいは、

  • 郝萌かくほう袁術えんじゅつの意向を受けていたこと
  • 陳宮ちんきゅうが共謀者であること

を伝えましたが、呂布りょふ陳宮ちんきゅうを不問にし、曹性そうせいに元の郝萌かくほうの軍勢を統率させました。

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げきを射ていくさを仲裁する

劉備りゅうび沛県はいけん小沛しょうはい)に駐屯すると、袁術えんじゅつ将軍しょうぐん紀霊きれいらに歩兵・騎兵合わせて3万人を統率させて劉備りゅうびを攻撃しようとし、これを知った劉備りゅうび呂布りょふに救援を求めます。

この時呂布りょふ将軍しょうぐんたちは「劉備りゅうびを見捨てて袁術えんじゅつに手を貸すべき」と言いましたが、呂布りょふは、


「それは違う。もし今 袁術えんじゅつ劉備りゅうびを撃ち破れば、袁術えんじゅつは北方泰山たいざん太山たいざん)の諸将軍しょうぐん臧覇ぞうはら)と連合戦線を結ぶだろう。そうなれば、わしは包囲網の中に封じ込められてしまう。そうならないためには、劉備りゅうびを救援しないわけにはいかないのだ」


と言い、すぐさま兵を整えさせてみずか劉備りゅうびの元に駆けつけます。


そして呂布りょふは、劉備りゅうび紀霊きれいを宴会にまねくと、門番の役人に命じて轅門えんもん(陣営の門)の中に1本のげきかかげさせ、


「諸君、今からわしげきの小枝を射るから見ていなさい。もし1発で命中したなら、諸君は戦闘を中止して引きげてくれ。もし命中しなかったなら、ここにとどまって勝負を決するが良い」


と言い、弓を手にげきを目がけて射かけると、果たしてその矢は見事にげきの小枝に命中し、その場に居合わせた諸将はみな仰天して呂布りょふの意向に従い、次の日も宴会を楽しんで、双方とも軍を引きげました。

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袁術えんじゅつとの縁談

建安けんあん2年(197年)5月、呂布りょふと手を結びたいと思った袁術えんじゅつは「呂布りょふの娘を自分の息子の嫁に欲しい」と申し込み、これを承知した呂布りょふは、娘を袁術えんじゅつの使者・韓胤かんいんに預けました。

ですが、沛相はいしょう豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく太守たいしゅ]・陳珪ちんけいの説得を受けた呂布りょふは心変わりをし、袁術えんじゅつの元に向かう娘の後を追って連れ戻し、韓胤かんいん許県きょけん*4に護送してさらし首にします。


これにより呂布りょふ左将軍さしょうぐんに任命され、大いに喜んだ呂布りょふは、陳珪ちんけいの子・陳登ちんとうを朝廷に派遣して感謝の意を表明しました。

脚注

*4豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけん。この時献帝けんていは、曹操そうそうに保護されて許県きょけんみやことしていました。

袁術えんじゅつを撃ち破る

呂布りょふが婚約を破棄し、韓胤かんいんが処刑されたことを知って激怒した袁術えんじゅつは、7つの道から歩騎数万を向かわせて呂布りょふを攻めました。

この時呂布りょふは、兵は3千、馬は4百頭しか動員することができなかったのですが、陳珪ちんけいの計略により袁術えんじゅつと連合していた韓暹かんせん楊奉ようほうを味方にすることに成功します。

これにより袁術えんじゅつの軍を散々に撃ち破った呂布りょふは、大量の戦利品を得て帰途につきました。

蕭建しょうけんを手紙で帰順させる

この頃、琅邪相ろうやしょう徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく太守たいしゅ)の蕭建しょうけん莒県きょけんを治めていましたが、城の守備を固め、呂布りょふよしみを通じようとしませんでした。

そこで呂布りょふは、蕭建しょうけんに手紙を送ってよしみを通じるように説得したところ、即刻呂布りょふ主簿しゅぼつかわして返書をとどけ、へりくだった態度をとって良馬5頭を献上しました。

臧覇ぞうはとの和睦わぼく

その後、徐州じょしゅう琅邪国ろうやこくの独立勢力・臧覇ぞうは蕭建しょうけんを襲撃して、莒県きょけんたくわえられていた物資を手に入れます。

このことを知った呂布りょふは、みずから歩兵・騎兵をひきいて莒県きょけんを包囲しましたが、これを攻め落とすことができず、何も得る物なく下邳県かひけんに引きげました。

のち臧覇ぞうはは、再び呂布りょふ和睦わぼくします。

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曹操との戦い

劉備りゅうびを攻める

以前、劉備りゅうび袁術えんじゅついくさ仲裁ちゅうさいした呂布りょふですが、劉備りゅうびが再び兵を集めて1万余人を手に入れると、これをまわしく思った呂布りょふみずから兵を出して劉備りゅうびを攻めました。

敗走した劉備りゅうびは、その後曹操そうそうの力を借りて沛県はいけん小沛しょうはい)を奪還しますが、建安けんあん3年(198年)春、呂布りょふは再び高順こうじゅん張遼ちょうりょうに命じて沛県はいけん小沛しょうはい)を攻撃し、曹操そうそうの援軍・夏侯惇かこうとんをも撃ち破り、劉備りゅうびを敗走させました。

曹操そうそうの出陣

冬10月、曹操そうそうみずか呂布りょふ討伐に出陣し、敗走した劉備りゅうびと合流して下邳県かひけんに進軍します。

この時陳宮ちんきゅうは、「曹操そうそう軍を領内深く誘い込み、敵が疲弊ひへいしたところを討つ」作戦を献じますが、呂布りょふがこれを聞き入れなかったため呂布りょふ軍は敗北し、敗戦にりた呂布りょふは、以降、城にもってえて出撃しなくなりました。

袁術えんじゅつに救援を

次に陳宮ちんきゅうは、「呂布りょふが城外に陣をいて敵の補給路を断ち、城の内外から牽制けんせいして敵の疲弊ひへいを待つ」作戦を立てました。

ですが、妻に反対された呂布りょふは出陣を取りやめにし、秘かに配下の許汜きょし王楷おうかいを派遣して袁術えんじゅつに救援を求めます。

また呂布りょふは、娘を嫁に出さなかったために袁術えんじゅつが援軍を寄越さないのではないかと懸念して、娘の身体を綿にくるんで馬の背中に縛りつけると、夜にまぎれてみずか袁術えんじゅつに差し出そうとしましたが、途中で曹操そうそうの見張りの兵と遭遇そうぐうして矢をかけられたため包囲を破ることができず、やむなく城に引き返しました。

水攻めを受ける

一方、一向に城を陥落させることができない曹操そうそうも撤退を考えるようになっていましたが、荀攸じゅんゆう郭嘉かくかの献策に従って包囲を続けることにし、沂水きすい泗水しすいを決壊させて、その水を下邳県かひけんの城内にそそぎ込みます。

そして水攻めを受けてから1ヶ月、ますます困迫こんぱく(困りきること)した呂布りょふは、弱気になって「曹操そうそうに降伏したい」と口にし、驚いた陳宮ちんきゅうに説得されて思いとどまりました。

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呂布りょふの死

冬12月、呂布りょふ将軍しょうぐん

  • 侯成こうせい
  • 宋憲そうけん
  • 魏続ぎぞく

らは、陳宮ちんきゅう高順こうじゅんを縛り上げ、配下の兵を引き連れて曹操そうそうに降伏してしまいます。

侯成こうせいらが降ったことを知った呂布りょふはついに観念し、左右の者に「自分の首をもって曹操そうそうに降伏せよ」と言いますが、手を下そうとする者はおらず、結局、ろうを下りて曹操そうそうに降伏しました。


きつく縛られて曹操そうそうの前に引き出された呂布りょふは、曹操そうそうに自分をもちいるように懇願こんがんしますが、曹操そうそうはこれを許さず、呂布りょふ陳宮ちんきゅう高順こうじゅんの3人は縊殺いさつ(首をしめて殺すこと)され、共にさらし首にされて豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんに送られて、その後埋葬されました。

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三国志演義さんごくしえんぎでは、劉備りゅうび関羽かんう張飛ちょうひの3人の豪傑を同時に相手にして互角の戦いを演じるなど、作品中第1の武勇を誇る呂布りょふですが、例えば典韋てんいのように、個人の戦いぶりが具体的に史料に記載されているわけではありません。

ですが、

  • 董卓とうたくの護衛をつとめる
  • みずか郭汜かくしに一騎打ちを挑んで勝利する
  • げきの小枝に矢を射当てる

など、その扱いに恥じない武勇を示しているほか、騎兵をひきいて黒山賊こくざんぞく曹操そうそう軍を撃ち破っており、騎兵指揮官としても優秀な能力を有していたことは間違いないでしょう。

また呂布りょふには「琅邪相ろうやしょう蕭建しょうけんを手紙で帰順させる」という意外な一面もありました。


ちなみに正史せいし三国志さんごくし編纂へんさんした陳寿ちんじゅは、

呂布りょふたける虎のごとき勇猛さを持ちながら、英雄の才略なく、軽はずみで狡猾こうかつ、裏切りを繰り返し、眼中にあるのは利益だけだった。いにしえから今に至るまで、こうした種類の人間で破滅しなかった試しはない」

と評しており、呂布りょふの裏切りぐせ三国志演義さんごくしえんぎの演出や誇張ではなく、史実そのままと言って良いでしょう。



呂布データベース

呂布関連年表

西暦 出来事
不明
  • 幷州へいしゅう并州へいしゅう)・五原郡ごげんぐん九原県きゅうげんけんに生まれる。
  • 幷州刺史へいしゅうしし丁原ていげんに仕える。
  • 丁原ていげん主簿しゅぼに任命される。
189年

中平ちゅうへい6年

  • 丁原ていげんに従って洛陽らくよう雒陽らくよう)に入る。
  • 董卓とうたくの誘いを受け、丁原ていげんを殺害する。
  • 騎都尉きといに任命される。
  • 董卓とうたくと「父子のちぎり」を結ぶ。
  • 飛将ひしょう」と呼ばれ、中郎将ちゅうろうしょう都亭侯とていこうに取り立てられる。
191年

初平しょへい2年

  • 騎督きとくに任命され、胡軫こしんの将として孫堅そんけん討伐に向かう。
  • 胡軫こしんに嘘の情報を進言し、味方を敗北に導く。
  • 董卓とうたく手戟しゅげきを投げつけられる。
  • 董卓とうたく侍女じじょと密通する。
192年

初平しょへい3年

  • 王允おういんらの「董卓とうたく暗殺」の密計に加わる。
  • 董卓とうたく誅殺ちゅうさつする。
  • 董卓とうたく娘婿むすめむこ牛輔ぎゅうほに敗れた李粛りしゅくを処刑する。
  • 奮武将軍ふんぶしょうぐん温侯おんこうに昇進し、儀同三司ぎどうさんしを加えられる。
  • 李傕りかく郭汜かくしらが長安ちょうあんを包囲する。
  • 郭汜かくしと一騎打ちを演じる。
  • 長安ちょうあんを脱出し、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん袁術えんじゅつを頼る。
193年

初平しょへい4年

  • 袁紹えんしょうを頼る。
  • 側近の成廉せいれん魏越ぎえつらと黒山賊こくざんぞく張燕ちょうえんを撃ち破る。
  • 袁紹えんしょう配下の諸将に尊大な態度を取るようになる。
  • 洛陽らくよう雒陽らくよう)に戻りたいと願い出て、袁紹えんしょう司隷校尉しれいこういに任命される。
  • 袁紹えんしょうの「暗殺のたくらみ」に気づき、逃亡して河内太守かだいたいしゅ張楊ちょうようを頼る。
  • 李傕りかく郭汜かくし潁川太守えいせんたいしゅに任命される。
194年

興平こうへい元年

  • 曹操そうそう叛旗はんきひるがえした張邈ちょうばく陳宮ちんきゅうらに兗州牧えんしゅうぼく推戴すいたいされる。
  • 兗州えんしゅうに入り、東郡とうぐん濮陽県ぼくようけんに駐屯する。
  • 兗州えんしゅうの郡県のほぼすべてが呼応する。
  • 兗州えんしゅうに帰還した曹操そうそうを撃ち破る。
  • 蝗害こうがいにより停戦し、山陽郡さんようぐんに駐屯する。
195年

興平こうへい2年

  • 再び進撃を開始した曹操そうそうに敗北を重ねる。
  • 徐州じょしゅう劉備りゅうびを頼る。
196年

建安けんあん元年

  • 袁術えんじゅつ徐州じょしゅうに侵攻し、張飛ちょうひ下邳県かひけんに残して劉備りゅうびが出陣する。
  • 袁術えんじゅつの誘いに乗り、下邳県かひけんを奪って劉備りゅうびの妻子を捕らえる。
  • 劉備りゅうびを受け入れて妻子を返し、豫州刺史よしゅうししに任命して沛県はいけん小沛しょうはい)に駐屯させる。
  • 徐州牧じょしゅうぼく徐州刺史じょしゅうしし)を自称する。
  • 郝萌かくほうが反乱を起こし、高順こうじゅんの陣営に逃げ込む。
  • 曹性そうせい郝萌かくほうそむいて決闘を演じ、高順こうじゅん郝萌かくほうを斬る。
  • 反乱の共謀者・陳宮ちんきゅうを不問にし、曹性そうせいに元の郝萌かくほうの軍勢を統率させる。
  • 袁術えんじゅつ沛県はいけん小沛しょうはい)を攻撃する。
  • げきを射ていくさを仲裁する。
197年

建安けんあん2年

  • 袁術えんじゅつが皇帝を僭称せんしょうする。
  • 袁術えんじゅつの息子と自分の娘との結婚を承知する。
  • 心変わりをして娘を連れ戻し、袁術えんじゅつの使者・韓胤かんいん許県きょけんに送ってさらし首にする。
  • 朝廷(曹操そうそう)から左将軍さしょうぐんに任命される。
  • 袁術えんじゅつ韓暹かんせん楊奉ようほうと結んで呂布りょふを攻める。
  • 韓暹かんせん楊奉ようほうを寝返らせ、袁術えんじゅつの軍を散々に撃ち破る。
  • 琅邪相ろうやしょう蕭建しょうけんを手紙で帰順させる。
  • 臧覇ぞうは莒県きょけん蕭建しょうけんを襲撃する。
  • みずか莒県きょけんを包囲するが、得る物なく引きげる。
  • 臧覇ぞうは和睦わぼくする。
  • 沛県はいけん小沛しょうはい)の劉備りゅうびを敗走させる。
  • 曹操そうそうの助力を得た劉備りゅうび沛県はいけん小沛しょうはい)を奪還される。
198年

建安けんあん3年

  • 高順こうじゅん張遼ちょうりょうに命じて沛県はいけん小沛しょうはい)を攻撃させる。
  • 曹操そうそうの援軍・夏侯惇かこうとんを撃ち破り、劉備りゅうびを敗走させる。
  • 臧覇ぞうは徐州じょしゅうの独立勢力が呂布りょふに味方する。
  • みずから出陣した曹操そうそうを迎撃するが敗走し、下邳県かひけんもる。
  • 袁術えんじゅつに救援を求める。
  • 下邳県かひけんが水攻めを受ける。
  • 侯成こうせい宋憲そうけん魏続ぎぞくらが陳宮ちんきゅう高順こうじゅんを縛り上げ、曹操そうそうに降伏する。
  • 曹操そうそうに降伏するも処刑される。

配下

袁渙えんかん王楷おうかい郝萌かくほう魏越ぎえつ魏种ぎちゅう魏続ぎぞく許汜きょし許耽きょたん侯諧こうかい高雅こうが高順こうじゅん侯成こうせい呉資ごし蕭建しょうけん章誑しょうきょう徐翕じょきゅう秦宜禄しんぎろく成廉せいれん薛蘭せつらん宋憲そうけん曹性そうせい張弘ちょうこう趙庶ちょうしょ張超ちょうちょう張邈ちょうばく張遼ちょうりょう陳紀ちんき陳宮ちんきゅう陳羣ちんぐん陳珪ちんけい陳登ちんとう氾嶷はんぎょく畢諶ひつしん毛暉もうき毛暉もうき李鄒りすう李鄒りしゅう)、李封りほう劉何りゅうか

同盟勢力

臧覇ぞうは孫観そんかん呉敦ごとん尹礼いんれい尹禮いんれい)、昌豨しょうき(別名:昌狶しょうき昌務しょうぶ昌覇しょうは

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