正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧③。太原郡たいげんぐん晋陽県しんようけん王氏おうし王柔おうじゅう王沢おうたく王機おうき王昶おうちょう王黙おうもく王沈おうしん王渾おうこん王深おうしん王俊おうしゅん王淪おうりん王湛おうたん)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

太原(晋陽)王氏系図

太原(晋陽)王氏系図

太原郡たいげんぐん晋陽県しんようけん王氏おうし系図

赤字がこの記事でまとめている人物。

王俊おうしゅんについて:史料には「王淪おうりんの兄」とあるだけで、王渾おうこん王深おうしんとの兄弟の順は不明です。


この記事では太原郡たいげんぐん晋陽県しんようけん王氏おうしの人物、

についてまとめています。

その他の太原王氏

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お③(太原郡晋陽県王氏)

第1世代

王柔おうじゅう叔優しゅくゆう

生没年不詳。幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐん晋陽県しんようけんの人。弟に王沢おうたく。夫人に宋氏そうし李氏りし

王柔おうじゅうと弟の王沢おうたくは幼少の頃、郭林宗かくりんそうが人を見分ける見識を持っていると聞いて、一緒に彼の元をおとずれ、才能・品行に相応ふさわしい職務について意見を聞き、自分の進む道を決めようと思った。

すると郭林宗かくりんそうは、笑って「おんみら2人はどちらも二千石にせんせき太守たいしゅ)の才である。しかしながら、叔優しゅくゆう王柔おうじゅう)は仕官によって名をげるべきだし、季道きどう王沢おうたく)は経術(儒家じゅかの経典を研究する学問)によって進むのが良いであろう。もし才能に反して職務を軽んずれば、出世できぬこともあろう」と言った。

2人はその言葉に従い、王柔おうじゅう護匈奴中郎将ごきょうどちゅうろうしょう雁門太守がんもんたいしゅとなった。


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王沢おうたく季道きどう

生没年不詳。幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐん晋陽県しんようけんの人。兄に王柔おうじゅう

王沢おうたくと兄の王柔おうじゅうは幼少の頃、郭林宗かくりんそうが人を見分ける見識を持っていると聞いて、一緒に彼の元をおとずれ、才能・品行に相応ふさわしい職務について意見を聞き、自分の進む道を決めようと思った。

すると郭林宗かくりんそうは、笑って「おんみら2人はどちらも二千石にせんせき太守たいしゅ)の才である。しかしながら、叔優しゅくゆう王柔おうじゅう)は仕官によって名をげるべきだし、季道きどう王沢おうたく)は経術(儒家じゅかの経典を研究する学問)によって進むのが良いであろう。もし才能に反して職務を軽んずれば、出世できぬこともあろう」と言った。

2人はその言葉に従い、王沢おうたく代郡太守だいぐんたいしゅとなった。


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第2世代

王機おうき産平さんぺい

生没年不詳。幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐん晋陽県しんようけんの人。父は王柔おうじゅう。子に王黙おうもく王沈おうしん。母は李氏りし

東郡太守とうぐんたいしゅとなった。

王機の続柄について
  • 魏書ぎしょ王昶伝おうちょうでんには、王昶おうちょうの兄の子として王機おうきの子・王黙おうもく王沈おうしんの名前が登場する。
  • 通典つてんかん一○二には「王柔おうじゅうの夫人・李氏りし王沈おうしんの祖母。李氏りし王機おうきの生母」とある。
  • 晋書しんじょ王沈伝おうしんでんには「司空しくう王昶おうちょうは父のごと王沈おうしんを養った」とある。

以上のことから、王機おうき王柔おうじゅうの子・王沈おうしんの父であることが分かる。

王沈おうしん王昶おうちょうの兄のように育てられたことから、魏書ぎしょ王昶伝おうちょうでんでは「従兄の子」ではなく「兄の子」となっているものと思われる。


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王昶おうちょう文舒ぶんよ

生年不詳〜甘露かんろ4年(259年)没。幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐん晋陽県しんようけんの人。父は王沢おうたく伯父おじ王柔おうじゅう。従兄に王機おうき。子に王渾おうこん王深おうしん王湛おうたん

若い頃から同郡出身の王淩おうりょうと共に名を知られ、王淩おうりょうが年長であったことから、王昶おうちょうは彼を兄として仕えた。

文帝ぶんてい曹丕そうひ)が東宮とうぐう皇太子こうたいしの居所)にいた時、王昶おうちょう太子文学たいしぶんがくとなり、太子たいし中庶子ちゅうしょしに昇進した。文帝ぶんてい曹丕そうひ)が帝位に登ると散騎侍郎さんきじろうに移り、洛陽らくよう典農てんのうとなった。当時、畿内では樹木が生い茂って林を成していたが、王昶おうちょうは荒れ地を切りひらき、民衆にねんごろに勧めて大変多くの田を開墾させた。

兗州刺史えんしゅうししに昇進し、明帝めいてい曹叡そうえい)が即位すると、揚烈将軍ようれつしょうぐんの称号を加えられ関内侯かんだいこうの爵位をたまわった。

王昶おうちょうは地方にありながらも朝廷のことを心に掛けており、しんかん弊政へいせい(悪政)の後を受け、法律制度が苛酷かこくで細かいから、大いに国の法典を改正し先王(曹操そうそう)の風にならわなくては、政治の教化が復興することを願っても不可能であると考えた。

そこで治論ちろんあらわし、ほぼ古代の制度に沿いつつ現在の状況に合致した論文20余篇を書き、また、兵書へいしょ10余篇をあらわし、奇策と正攻法の働きについて述べ、青龍せいりゅう年間(233年〜237年)にそれらを上奏した。

正始せいし年間、転任して徐州じょしゅうに行き、武観亭侯ぶかんていこうに取り立てられ、征南将軍せいなんしょうぐん仮節都督かせつととく荊豫諸軍事けいよしょぐんじに昇進した。

嘉平かへい年間(249年〜254年)の初め、曹爽そうそう誅滅ちゅうめつした太傅たいふ司馬懿しばいが広く大臣の得失について下問した時、王昶おうちょうは政治の方策5箇条を具申した。

嘉平かへい2年(250年)、王昶おうちょうは「孫権そんけんが良臣を駆逐くちくし、嫡子ちゃくしと庶子が争っている隙に乗じてしょくを制圧すべき」と上奏。の大将・施績しせきを追撃して鍾離茂しょうりぼう許旻きょびんを斬り、征南大将軍せいなんだいしょうぐん儀同三司ぎどうさんしに昇進し、京陵侯けいりょうこうに爵位を進められた。

また、毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)と文欽ぶんきんの反乱で功績をげ、2人の子は亭侯ていこう関内侯かんだいこうに取り立てられ、王昶おうちょう自身は驃騎将軍ひょうきしょうぐんに登り、諸葛誕しょかつたんが反逆した時には、施績しせき全煕ぜんきと対峙して彼らが東へ向かうことを許さなかった。

諸葛誕しょかつたん誅殺ちゅうさつされると、千戸を加増され、前と合わせて4,700戸となり、司空しくうに昇進し、持節じせつ都督ととくは以前通りとされたが、甘露かんろ4年(259年)に亡くなり、穆公ぼくこうおくりなされた。


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第3世代

王黙おうもく処静しょせい

生没年不詳。幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐん晋陽県しんようけんの人。父は王機おうき。弟に王沈おうしん。祖父は王柔おうじゅう叔父おじ王昶おうちょう。従兄弟に王渾おうこん王深おうしん王淪おうりん王湛おうたん

謙虚と質実を備えたものを選んで、叔父おじ王昶おうちょうに名とあざなをつけられた。

尚書しょうしょとなった。


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王沈おうしん処道しょどう

生年不詳〜泰始たいし2年(266年)没。幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐん晋陽県しんようけんの人。父は王機おうき。兄に王黙おうもく。祖父は王柔おうじゅう叔父おじ王昶おうちょう。従兄弟に王渾おうこん王深おうしん王淪おうりん王湛おうたん

謙虚と質実を備えたものを選んで、叔父おじ王昶おうちょうに名とあざなをつけられた。

幼い時に父を亡くし、叔父おじ司空しくう王昶おうちょうに養われた。王昶おうちょうが実父のように王沈おうしんを養ったので、王沈おうしんも継母や未亡人(実母)に孝行を尽くした。読書を好み、文章が上手かった。

大将軍だいしょうぐん曹爽そうそうえん(属官)から中書ちゅうしょ門下もんか侍郎じろううつり、曹爽そうそう誅殺ちゅうさつされると罷免ひめんされたが、後に治書ちしょ侍御史じぎょし秘書監ひしょかんとして復帰する。

正元せいげん年間(254年〜256年)に散騎常侍さんきじょうじ侍中じちゅう典著作てんちょさくとなって荀顗じゅんぎ阮籍げんせきと共に魏書ぎしょを編纂した。

の第4代皇帝・曹髦そうぼう高貴郷公こうききょうこう)はいつも中護軍ちゅうごぐん司馬望しばぼう侍中じちゅう王沈おうしん散騎常侍さんきじょうじ裴秀はいしゅう黄門侍郎こうもんじろう鍾会しょうかいらと東御殿でくつろいだ討論会をもよおし、同時に文学論を書きつづった。

高貴鄉公こうききょうこう曹髦そうぼう)は裴秀はいしゅう儒林丈人じゅりんじょうじん王沈おうしん文籍先生ぶんせきせんせいと名づけ、司馬望しばぼう鍾会しょうかいにもそれぞれ呼び名がつけられていた。

甘露かんろ5年(260年)、の第4代皇帝・曹髦そうぼう高貴郷公こうききょうこう)は、日に日に権力が王室から離れて行くのを見て怒りにえず、

  • 侍中じちゅう王沈おうしん
  • 尚書しょうしょ王経おうけい
  • 散騎常侍さんきじょうじ王業おうぎょう

そばに呼んで、「このまま座して太尉の恥辱を受けることはできない。司馬昭しばしょうを討ち取るべきだ」と告げ、王経おうけいいさめても聞かなかった。

王沈おうしん王業おうぎょうはこの事を真っ先に司馬昭しばしょうに報告に走ったので、司馬昭しばしょうは備えを強化することができ、兵をげた曹髦そうぼう高貴郷公こうききょうこう)は太子舎人たいししゃじん成済せいせいに刺殺された。

この功績により、王沈おうしん安平侯あんぺいこうに封ぜられ食邑しょくゆう2千戸を与えられたが、一方で不忠者として大いに批判された。

司馬炎しばえん晋王しんおうに即位すると御史大夫ぎょしたいふ守尚書令しゅしょうしょれい給事中きゅうじちゅうをつとめ、羊祜ようこ荀勗じゅんきょく荀勖じゅんきょく)、裴秀はいしゅう賈充かじゅうと共に中心的役割を果たし、武帝ぶてい司馬炎しばえん)が即位すると、驃騎将軍ひょうきしょうぐん録尚書事ろくしょうしょじ散騎常侍さんきじょうじ統城外諸軍事とうじょうがいしょぐんじとなったが、博陵郡公はくりょうぐんこうに封ぜられることは固辞して受けなかった。

泰始たいし2年(266年)に亡くなった。げんおくりなされ、咸寧かんねい年間に郡公ぐんこうと追封された。


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王渾おうこん玄沖げんちゅう

黄初こうしょ4年(223年)〜西晋せいしん元康げんこう7年(297年)没。幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐん晋陽県しんようけんの人。父は王昶おうちょう。弟に王深おうしん王淪おうりん王湛おうたん。子に王尚おうしょう王済おうせい王澄おうちょう王汶おうぶん。孫は王卓おうたく王聿おういつ。妻は鍾繇しょうよう曾孫ひまご鍾琰しょうえん

優雅で落ち着きがあり、才能と徳を備えていた。父の爵位である京陵侯けいりょうこうを継承し、大将軍だいしょうぐん曹爽そうそう招聘しょうへいを受けたが、曹爽そうそう誅殺ちゅうさつされると免職となった。

後に司州ししゅう河内郡かだいぐん懐県かいけん県令けんれいとして復帰し、司馬昭しばしょう参軍事さんぐんじ黄門侍郎こうもんじろう散騎常侍さんきじょうじ咸熙かんき年間(264年〜265年)に越騎校尉えっきこういとなる。

その後、王渾おうこん越騎校尉えっきこうい身分でしんの時代に入り、地方の首長を歴任しての平定に勲功くんこうを立てた。


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王深おうしん道沖どうちゅう

生没年不詳。幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐん晋陽県しんようけんの人。父は王昶おうちょう。兄は王渾おうこん。弟に王淪おうりん王湛おうたん

冀州刺史きしゅうししとなった。


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王俊おうしゅん太原たいげん晋陽しんよう王氏おうし

生没年不詳。幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐん晋陽県しんようけんの人。父は王昶おうちょう。弟に王淪おうりん王湛おうたん

王淪おうりんの兄・王俊おうしゅん*1は、表徳淪ひょうとくりんあらわして王淪おうりんが残した徳行を書き残した。

史料には「王淪おうりんの兄」とあるだけで、王渾おうこん王深おうしんとの兄弟の順は不明である。

脚注

*1宋書そうしょかん十五・だい:魏高貴郷公甘露二年,大将軍参軍太原王淪卒,淪兄作表徳淪,以述淪遺美,云「祗畏王典,不得為銘,乃撰錄行事,就刊于墓之陰云爾」


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王淪おうりん太沖たいちゅう

太和たいわ7年(青龍せいりゅう元年・233年)〜甘露かんろ2年(257年)没。幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐん晋陽県しんようけんの人。父は王昶おうちょう。兄に王渾おうこん王深おうしん。弟は王湛おうたん

王淪おうりんは簡素で奥深く物静かな人物で、老庄学ろうそうがくを尊重し老子例略ろうしれつりゃく周紀しゅうきあらわした。

20歳を過ぎて孝廉こうれんに推挙された。大将軍だいしょうぐん司馬昭しばしょう参軍さんぐんとなり、甘露かんろ2年(257年)に諸葛誕しょかつたんが反乱を起こすと、司馬昭しばしょう寿春じゅしゅん征伐に従軍したが、病気で亡くなった。

享年きょうねん25歳。当時の人はみな彼の死を残忍に思い、司馬昭しばしょうは涙を流して悲しんだと言う。


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王湛おうたん処沖しょちゅう

生没年不詳。幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐん晋陽県しんようけんの人。父は王昶おうちょう。兄に王渾おうこん王深おうしん王淪おうりん

汝南太守じょなんたいしゅとなった。


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【三国志人物伝】総索引