建安3年(198年)11月、下邳県を水攻めにされた呂布が曹操に降伏するまでと、呂布とその配下たちの処遇についてまとめています。
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目次
呂布が曹操に降伏する
曹操の呂布討伐戦
建安3年(198年)、呂布が豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)の劉備を攻撃しました。
これに曹操は、夏侯惇を派遣して劉備を救援させますが、沛県(小沛)は陥落。
ついに自ら呂布討伐に出陣した曹操は、敗走した劉備と合流して徐州・下邳国・下邳県に呂布を包囲し、荀攸・郭嘉の進言に従って沂水と泗水の水を城内に灌ぎ込みました。
呂布討伐戦関連地図
- 赤線:淮水
- 緑線:泗水
- 紫線:沂水
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呂布が曹操に降伏する
以前、呂布の騎将・侯成は、食客に15頭の馬を飼育させていましたが、食客はそれらの馬を駆り立てて逃走し、沛城(小沛)の劉備の下に身を寄せようとしました。
そこで侯成は、自ら騎兵を率いて彼の後を追い、盗まれた馬を取り戻して来ます。
侯成が盗まれた馬を取り戻したことを知ると、諸将はみな贈り物をして侯成を祝いました。
侯成はその返礼のため、5、6石の酒を醸造し、狩猟をして10頭余りの猪を捕まえると、真っ先に呂布の御前にまかり出て跪き、猪半頭分と5斗の酒を差し出して言いました。
「最近、将軍(呂布)のお陰をもちまして、失った馬を追いかけ取り戻すことができました。諸将がお祝いに来てくれましたので、自分で些か酒を醸造し、狩りをして猪を捕まえました。
まだ口には入れておりません。まずほんのお口汚しに献上させていただきます」
すると呂布は、
「儂が酒を禁止しているのに、お前は酒を醸造しただと?
諸将と共に飲み食いして兄弟の契りを結び、共謀して儂を殺そうというのかっ!?」
と激怒します。
侯成は恐れおののいて退出し、醸造した酒を棄て、諸将からの贈り物を返しました。
このようなことがあって諸将が呂布に対して疑心暗鬼になっていたところへ、ちょうど曹操が徐州・下邳国・下邳県を包囲したのでした。
12月、呂布の将軍、
- 侯成
- 宋憲
- 魏続
らは、陳宮と高順を縛り上げ、配下の兵を引き連れて曹操に降伏してしまいました。
侯成らが降ったことを知った呂布が、直属の部下と共に白門楼*1の上に登ってみると、曹操軍の包囲は一段と厳しくなっています。
観念した呂布は、左右の者に「自分の首をもって曹操に降伏せよ」と言いましたが、手を下そうとする者はおらず、結局、楼を下りて曹操に降伏しました。
脚注
*1下邳城(下邳県)の南門の楼のこと。下邳城(下邳県)の南門を白門と呼びます。
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降伏した者たちの処遇
徐州・下邳国・下邳県が陥落すると、曹操は生け捕りにされた者たち全員と顔を合わせて昔のことを語り合いました。
呂布
「これで天下は定まりましたな…」
曹操の前に引き出された呂布が声をかけると曹操は、
「それはどういう意味だ?」
と問いました。すると呂布は、
「明公(曹操)が恐れていたのはこの呂布だけ。その私が今こうして降伏したのです。
もしこの呂布に騎兵を率いさせ、明公(曹操)が歩兵を率いたならば、天下は平定されたも同然です」
と言い、今度は劉備の方を向いて、
「玄徳(劉備の字)よ、私は捕虜となり、卿(あなた)は今上座にいる。私を縛る縄がきつ過ぎるのだ。一言、私を気にかける言葉をかけてくれても良いのではないか?」
と言います。これを聞いた曹操は笑いながら、
「虎を縛るのだから、きつくしないわけにはいかなかったのだ」
と言って呂布の縄を緩めるように命じました。すると劉備は、
「いけません。明公(曹操)は、呂布が丁建陽(丁原)と董太師(董卓)に仕えていたことをお忘れですか?」
と言ってこれを制止したので、曹操は頷いて命令を取り消します。
呂布は劉備を睨みつけ、
「大耳児(劉備)が最も信用できんっ!」
と言いました。
豆知識
以上は『資治通鑑』を基にしていますが、呂布降伏後の曹操・劉備とのやり取りには、複数の異なる記録があります。
『魏書』武帝紀
かくして呂布は生け捕りにされた。
呂布が、
「縄目がきつすぎる。少し緩めてくれ」
と言うと太祖(曹操)は、
「虎を縛るのだから、きつくしないわけにいくまい」
と言った。呂布が、
「殿(曹操)が気にされているのは私1人に過ぎないでしょう。今はもう降伏したのですから、天下のことは心配する必要はありますまい。殿(曹操)が歩兵を率い、私に騎兵を率いさせたならば、天下を平定するのはわけのないこと」
と頼み込むと、太祖(曹操)はためらいの色を見せた。
劉備が進み出て、
「殿(曹操)は呂布が丁建陽(丁原)と董太師(董卓)に仕えながら裏切った事実をお忘れか?」
と言うと、太祖(曹操)は頷いた。呂布はそこで劉備を指して、
「この男こそ一番信用できないのだぞっ!」
と言った。
『英雄記』
呂布は太祖(曹操)に向かって、
「私は諸将を手厚く待遇しておりましたが、諸将は危機に臨んでみな私に背きました」
と言うと、太祖(曹操)は、
「お主は妻を裏切り、諸将の妻を寵愛した。どうして手厚いと言えるのだ」
と答えた。呂布は黙ってしまった。
『献帝春秋』
呂布は太祖(曹操)に向かって、
「殿はどうしてお痩せになったのか?」
と尋ねた。太祖(曹操)が、
「君はどうして儂を知っているのだ?」
と言うと、呂布は、
「昔、洛陽(雒陽)にいた頃、温氏の庭園でお目にかかったことがあります」
と答えた。太祖(曹操)が、
「そうだ。儂は忘れていた。痩せたのは、もっと早く捕まえられなかったのが残念だからだ」
と言うと、呂布は、
「斉の桓公は、(管仲が)鉤(帯金)に矢を当てたことを不問に付し(『春秋左氏伝』僖公二十四年)、管仲を大臣にしました。今、私に手足(臣下)として力を尽くさせ、殿の先駆けとされてはいかがか」
と言った。呂布は縄目がきつかったので、劉備に対し、
「玄徳(劉備の字)よ、あなたは賓客だし、儂は捕虜だ。ちょっと一言言って緩めてはもらえまいか」
と言ったところ、太祖(曹操)は笑いながら、
「どうしてこちらに話しかけずに玄徳(劉備の字)殿に訴えるのだ?」
と言い、内心呂布を生かしておきたいと思い、縄目を緩めるよう命じた。
すると主簿の王必が走り出てきて、
「呂布は手強い奴です。彼の軍勢がすぐ外にいるのですから、緩めてはなりません」
と言った。太祖(曹操)は言った。
「儂は本当は緩くしてやりたいのだが、主簿(王必)が許さないのだ。どうしようもないな」
陳宮
曹操が陳宮に言いました。
「公台(陳宮の字)よ、君は常々あり余る知謀の持ち主と自認していたのに、今は一体どうなったのだね?」
すると陳宮は、振り返って呂布を指して言いました。
「この男が、儂の言うことを聞かなかったためにこんなことになったのだ。もし言うことを聞いていたなら、必ずしも生け捕りになるとは限らなかったものを」
曹操が笑いながら、
「今日の事態をどうするつもりかな?」
と言うと、陳宮は、
「臣下としては不忠者であり、子供としては親不孝者だったのだから、殺されるのは自業自得だ」
と答えます。そして曹操が、
「君はそれで良いだろうが、君の年老いた母親をどうするつもりか?」
と問うと、陳宮は、
「私は『孝』の倫理をもって天下を治める者は人の親を害さない、と聞いています。
老母の生命は殿(曹操)の心にかかっています」
と言いました。曹操がまた、
「君の妻子はどうするのか?」
と問うと、陳宮は、
「私は『仁』による政治を天下に行う者は、人の祭祀を断絶しない、と聞いております。妻子の生命は殿(曹操)の心にかかっています」
と言いました。
そして、曹操がそれ以上口を開かないうちに、陳宮は、
「どうか早く表で処刑して、軍法を明らかにしていただきたい」
と言い、そのまま表へ走り出て行き、引き止めることができませんでした。曹操は涙ながらにこれを見送りましたが、陳宮は振り返ろうともしませんでした。
呂布・陳宮・高順の処刑
結果、呂布・陳宮・高順の3人は縊殺(首をしめて殺すこと)され、共にさらし首にされて豫州(予州)・潁川郡・許県に送られ、その後埋葬されました。
豆知識
曹操は陳宮の母を召し寄せて死ぬまで世話をし、彼の娘を嫁がせるなど、陳宮の家族全員を、以前にも増して手厚く処遇しました。
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その他の者たちの処遇
陳紀・陳羣・袁渙
呂布の軍中に、かつての尚書令・陳紀と、その子・陳羣がいました。曹操は2人を礼遇して配下に加えました。
この時、陳紀と陳羣は曹操に会うと平伏しましたが、袁渙だけは対等の挨拶をして「敗者の礼」を取りませんでした。
豆知識
曹操は人々にそれぞれ数代の公用車を支給し、呂布の軍中にあった物資を思いのままに取らせました。この時、人々はみな車一杯に積み込みましたが、袁渙だけは書籍数百巻を取り、後は兵糧の助けとします。
このことがあってから曹操は、そんな袁渙に対して慎み深い態度で応対し、彼を尊重するようになりました。
張遼
処刑された高順と共に劉備を攻めた張遼は、配下の軍勢を率いて曹操に投降し、中郎将に任命されました。
臧覇・呉敦・尹礼・孫観・孫康
呂布に味方した徐州*2の独立勢力・臧覇は、呂布が捕らえられると、逃亡して身を隠していました。
曹操は懸賞金を出して彼を捕らえましたが、会ってみると彼をとても気に入り、臧覇に命じて、
- 呉敦
- 尹礼(尹禮)
- 孫観
- 孫観の兄・孫康
らを招かせると、彼らはみな曹操に投降しました。
また曹操は、徐州の琅邪郡と東海郡を分割して、
- 城陽郡
- 利城郡
- 昌慮郡
の3郡を設置すると、次のようにみな守相に任命し、青州の一部と徐州北部を臧覇に委任しました。
- 琅邪相*3・臧覇
- 利城太守・呉敦
- 徐州・東莞太守・尹礼(尹禮)
- 青州・北海太守*3・孫観
- 城陽太守・孫康
- 昌慮太守:不明
脚注
*2『資治通鑑』には「兗州・泰山郡の屯帥・臧覇」とありますが、『魏書』臧覇伝には、臧覇は「徐州・琅邪郡・開陽県に駐屯した」とあります。
*3初平4年(193年)に琅邪王・劉容が亡くなったことから、琅邪国は断絶していましたので、臧覇は琅邪太守。北海は国ですので、孫観は北海相となりますが、原文に合わせています。
徐翕・毛暉
曹操は以前、徐翕と毛暉を将軍として任用していましたが、兗州が乱れた時、2人は曹操に反逆し、後に兗州が平定されると、亡命して臧覇を頼っていました。
曹操はこのことを劉備に話して、臧覇に2人の首を送り届けるように伝えさせます。
ですが臧覇は、劉備に次のように言ってそれを断りました。
「私がこうして独立していられる理由は、そのような(信頼を裏切る)ことをしないからです。
私は曹公(曹操)より生命保全の恩を受けておりまして、命令に背く勇気はございません。
しかしながら、王者・覇者となられる君主には道義を述べても良いとか。どうか将軍(劉備)には、彼らのために弁明していただくことを望みます」
劉備がこの臧覇の言葉を曹操に語って聞かせると、曹操はため息をついて、臧覇に、
「これ(頼って来た者をかばうこと)は古人(古の賢人)の行ったことだが、君(臧覇)がそれを行ったことは、儂の願望でもあった」
と言い、徐翕と毛暉の両名を郡守(太守)に任命しました。
畢諶
曹操が兗州牧になった時、兗州・東平国出身の畢諶を別駕従事に任命しました。
その後、曹操の留守を狙って呂布・張邈らが反乱を起こすと、張邈は畢諶の母・弟・妻子を人質に取って脅迫します。
すると曹操は、畢諶に君臣の関係を断って家族の元に行くことを許しました。
これに畢諶は、額突いて「二心がないこと」を誓ったので、曹操は涙を流して彼を褒め称えましたが、結局畢諶は退出した後、故郷に逃げ帰ってしまいます。
生け捕りにされた畢諶が引き出されてくると、人々は畢諶がどのような処分を受けるのか心配していましたが、曹操は、
「親に孝行な者に、主君に忠義でない者があろうか。儂の必要とする者じゃ」
と言って、彼を魯相[豫州(予州)・魯国の太守]に任命しました。
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陳登・劉備
陳登
広陵太守・陳登は、曹操に内応した功績によって伏波将軍を加えられました。
劉備
劉備は呂布に捕らえられていた妻子を取り戻し、曹操に従って豫州(予州)・潁川郡・許県に帰還します。
また、曹操は上表して劉備を左将軍に任命すると、劉備に対する扱いをますます丁重にし、外出する時には同じ輿に乗り、座る時には席を同じくするようになりました。
豆知識
秦宜禄の妻
『蜀書』関羽伝が注に引く『蜀記』には、次のようなエピソードが記載されています。
「曹公(曹操)が劉備と共に下邳県にいる呂布を包囲した時、関羽は曹公(曹操)に言上した。
『呂布は秦宜禄を使者として援助を求めに行かせております。私は彼(秦宜禄)の妻を娶りたいと存じます*4』
曹公(曹操)はこれを許可した。
呂布が敗れた際に、関羽はまた何度も曹公(曹操)に言上した。
曹公(曹操)は秦宜禄の妻がきっと美人だろうと思い、先に使者を送って迎え入れ、その顔を見ると、そのまま彼女を手許に置いたので、関羽の心は落ち着かなかった」
脚注
*4秦宜禄は袁術の所へ行き、袁術より漢の宗室の娘を与えられました。この時、秦宜禄の前妻の杜氏が下邳県に留まっていたので、関羽は彼女を求めたのだと言われています。
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建安3年(198年)11月、曹操が呂布が立て籠もる下邳県を水攻めにすると、呂布配下の侯成らが陳宮と高順を縛り上げ、配下の兵を引き連れて曹操に降伏してしまいました。
ついに観念した呂布は曹操に降伏し、曹操に仕えることを申し出ますが、劉備の反対もあって受け入れられず、処刑されてしまいました。
また一方で曹操は、張遼をはじめとする呂布の配下を陣営に加え、呂布に味方した徐州の独立勢力・臧覇らの所領を安堵して徐州北部の統治を任せました。