興平こうへい2年(195年)春、先年の蝗害こうがいにより停戦していた曹操そうそうが再度兗州えんしゅう奪還に動きだし、兗州えんしゅうを平定するまでについてまとめています。

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兗州をめぐる戦い

興平こうへい元年(194年)、兗州牧えんしゅうぼく曹操そうそうが2度目の徐州じょしゅう侵攻を開始すると、張邈ちょうばく陳宮ちんきゅうらが呂布りょふまねき入れて反乱を起こし、

  • 済陰郡せいいんぐん鄄城県けんじょうけん
  • 東郡とうぐん范県はんけん
  • 東郡とうぐん東阿県とうあけん

の3県を除く兗州えんしゅうの郡県は、みな彼らに呼応してしまいました。


鄄城県・范県・東阿県

鄄城県けんじょうけん范県はんけん東阿県とうあけん


この知らせを受けた曹操そうそうは、すぐさま取って返して兗州えんしゅうの奪還をこころみますが、呂布りょふの武勇の前に苦戦をいられ、対陣すること100余日、蝗害こうがいいなごの大量発生)により兵糧不足となった両軍は、お互いに兵を退きました。


兗州えんしゅうの大半を奪われ、城を取り返すこともままならない曹操そうそうは、一時は袁紹えんしょうの配下になることも考えましたが、程昱ていいくの進言によってなんとか思いとどまります。

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曹操の快進撃

定陶県を攻める

興平こうへい2年(195年)春、兗州えんしゅう東郡とうぐん東阿県とうあけんに駐屯していた曹操そうそうが、兗州えんしゅう済陰郡せいいんぐん定陶県ていとうけんを襲撃します。


東阿県と定陶県

東阿県とうあけん定陶県ていとうけん


ですが、済陰郡せいいんぐん太守たいしゅ呉資ごし定陶県ていとうけん南城なんじょう(南の城?)にもって抵抗したため、陥落させることができずにいました。

その間に兗州えんしゅう山陽郡さんようぐんに駐屯していた呂布りょふの援軍が到着すると、曹操そうそう呂布りょふを攻撃してこれを撃ち破りました。

呂布の将・薛蘭を斬る

夏、曹操そうそう呂布りょふの将・薛蘭せつらん李封りほうが駐屯する兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん鉅野県きょやけんを攻撃します。

するとまた呂布りょふが救援に駆けつけますが、曹操そうそう呂布りょふを敗走させ、薛蘭せつらんを撃ち破って彼を斬りました。


鉅野県(きょやけん)

鉅野県きょやけん

豆知識

資治通鑑しじつがんには、この後「曹操そうそう兗州えんしゅう済陰郡せいいんぐん乗氏国じょうしこくに陣営を定めた」とあります。

徐州牧・陶謙の死

この頃、徐州牧じょしゅうぼく陶謙とうけんが亡くなったという知らせを受けた曹操そうそうは、先に徐州じょしゅうを奪い取り、その後で引き返して兗州えんしゅう呂布りょふ)を平定しようと考えました。

ですがこれに荀彧じゅんいくは、


「大業を成すには、まず何よりも根拠地(兗州えんしゅう)を固めることが重要です。

徐州じょしゅうを攻めたとしても、兗州えんしゅうの守りを重視すれば徐州じょしゅうを攻め取ることはできず、徐州じょしゅうへの攻撃を重視したならば、兗州えんしゅう呂布りょふに奪われてしまうでしょう。

そしてもし徐州じょしゅうを攻め取ることができたとしても、徐州じょしゅうを保ち続けることはできません」


さとしたので、曹操そうそう徐州じょしゅう侵攻を中止しました。

荀彧の進言全文
タップ(クリック)すると開きます。

昔、前漢ぜんかん高祖こうそ劉邦りゅうほう)は、関中かんちゅう函谷関かんこくかんの西の長安ちょうあんを中心とする地域)を保持し、後漢ごかん光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)は河内郡かだいぐんを根拠地としました。

どちらも根を深くおろし、基礎を固めることによって天下を制圧したのです。

進めば敵に勝つことができ、退けば堅い守りに頼ることができたお陰で、困難や敗北にいながらも、最後には大業を成しげました。


将軍しょうぐん曹操そうそう)は元々兗州えんしゅうを根拠地として事を起こされ、山東さんとう(東中国)の危難を平定されまして、民衆はみな心を寄せ、喜んで服従いたしております。

その上、黄河こうが済水せいすいの間(兗州えんしゅう)は天下の要衝に当たります。今は荒廃しきっていると申しましても、容易に自己を保全することができます。

ここ兗州えんしゅうは、将軍しょうぐん曹操そうそう)にとっての関中かんちゅう河内かだいなのですから、真っ先に安定させなければなりません。


今、李封りほう薛蘭せつらんを撃破しましたからには、もし東方の陳宮ちんきゅう攻撃に別軍を差し向けますれば、陳宮ちんきゅうは西方を振り返る余裕がないに違いありません。

その間に熟した麦を収穫し、食糧を節約して穀物を蓄えれば、1度の戦いで呂布りょふを撃ち破ることができましょう。

呂布りょふを撃破したその後で、南の揚州ようしゅう劉繇りゅうよう)と手を結び、協力して袁術えんじゅつって、淮水わいすい泗水しすいに進出します。


もし呂布りょふを放置して東(徐州じょしゅう)に向かわれた場合、後に多数の兵力を残せば目的をげる(徐州じょしゅうを手に入れる)のは無理でしょうし、後にわずかの兵力しか残さなければ、住民はみな城中に立てもり、城外に出てたきぎを取ることすらできないでしょう。

呂布りょふがその隙につけ込んで暴れ回れば、住民の心はますます動揺し、鄄城県けんじょうけん范県はんけん衛国えいこく濮陽県ぼくようけん)だけは守り通すことができましょうが、その他は我々のものではなくなってしまいます。つまりこれは、兗州えんしゅうを失うということです。

もし徐州じょしゅうを平定できなかった場合、将軍しょうぐん曹操そうそう)は一体どこにお帰りになるおつもりですか。


その上、陶謙とうけんは死んだとはいえ、徐州じょしゅうはまだ簡単には討ち滅ぼせません。彼らは先年の敗北にりておりますから、恐れおののいて誰かと同盟して、団結して戦うでしょう。

今、東方ではすべての麦を収穫し終わったところですから、必ず城壁を堅く守り、田野でんやを残らず刈り取って、将軍しょうぐん曹操そうそう)を待ち構えるでありましょう。

将軍しょうぐん曹操そうそう)がこれを攻撃しても攻め落とすことができず、略奪しようとしても収穫がなければ、10日とたず、10万の軍勢は戦いをまじえる前に困窮こんきゅうしてしまいます。

しかも、先の徐州じょしゅう討伐の際には、厳格な処罰(大量虐殺)を実施されておりますから、ばっせられた者たちの子弟は父兄の恥辱を思い、必ずみずから進んで守りにつき、降伏する気持ちなど持ち合わせていないでしょう。

たとえこれを撃破することができたとしても、なお保持し続けることは不可能です。


物事には「こちらをあきらめてその代償をあちらに求める」という考え方があります。

「大を選んで小をあきらめること」は差しつかえありません。

「安全を選んで危険をあきらめること」も差しつかえありません。

「根本が固まっていないことを懸念けねんせずに、その時の勢いを利用すること」これも差しつかえありません。

ですが今は、この3つの利点はございません。

どうか将軍しょうぐん曹操そうそう)にはこのことをよくお考えくださいますことを願います。

兗州を平定する

その後、呂布りょふが再び陳宮ちんきゅうと共に、兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん東緡県とうびんけんから1万余人をひきいて(乗氏国じょうしこくに)攻撃を仕掛けて来ました。


東緡県(とうびんけん)

東緡県とうびんけん


この時、曹操そうそうの兵はみな麦を奪いに出掛けていたので、残っていた兵は千人に満たず、その屯営は堅固ではありませんでした。


そこで曹操そうそうは、婦女子に命じて姫垣ひめがき(城壁の低い部分)を守らせるなど、すべての人員を動員して呂布りょふ軍を防がせました。

ちょうどこの時、曹操そうそうの屯営の西には大きなつつみ(土手)があり、その南には樹木が鬱蒼うっそうと茂っていたので、呂布りょふは伏兵がいるのではないかと疑い、


曹操そうそうたくらみが多い男だ。伏兵の中に入ってはならぬ」


と言って軍を引き、南十余里の所に駐屯しました。


翌日、再び呂布りょふがやって来ると、曹操そうそうは兵をつつみの内側に隠して半数の兵をつつみの外に出し、軽装の兵に命じて進軍して来る呂布りょふいどませます。

戦いが始まると、曹操そうそうは伏せていた歩兵騎兵を全員つつみの上に登らせ、一斉に進撃して大いに敵を撃ち破りました。

曹操そうそう軍は敵の鼓車こしゃ(陣太鼓をせた車)を鹵獲ろかくし、呂布りょふの陣営まで追撃して引き返しました。


呂布りょふはその夜のうちに逃走したため、曹操そうそうは再び兗州えんしゅう済陰郡せいいんぐん定陶県ていとうけんを攻めて攻略し、兵を分けて諸県を平定しました。


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呂布が徐州の劉備を頼る

呂布と劉備

曹操そうそうに敗れた呂布りょふは、徐州じょしゅう劉備りゅうびを頼って東にのがれました。

劉備りゅうびと面会すると、呂布りょふ劉備りゅうびに対して大変な敬意を払い、


「私とあなたは共に辺鄙へんぴな田舎の出身です。

私は関東かんとう(広く函谷関かんこくかんより東の地域のこと)で董卓とうたく打倒の兵が起ち上がるのを見ました。

ところが、私が董卓とうたくを殺害して東方に出て来ると、関東かんとうの諸将で私をこころよく迎えてくれる者はおらず、みな私を殺そうとしただけです」


と言って劉備りゅうびとばりの中へまねき入れ、自分の妻の寝台の上に座らせて、妻に命じて劉備りゅうびに丁寧に挨拶あいさつをさせ、酒をわし、食事を出してもてなして、劉備りゅうびを弟と呼びました。


劉備りゅうび呂布りょふの言葉に一貫性がないのを見て、表向きはその通りだと相槌あいづちを打っていましたが、内心では不愉快に思っていました。

張邈と張超の死

張邈ちょうばくの死

呂布りょふが逃亡した時、張邈ちょうばく自身は呂布りょふに付き従って劉備りゅうびの元に向かいましたが、弟の張超ちょうちょう兗州えんしゅうに残し、一族を引き連れて兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん雍丘県ようきゅうけんに駐屯させました。


雍丘県(ようきゅうけん)

雍丘県ようきゅうけん


8月、曹操そうそう雍丘県ようきゅうけんを包囲すると、張邈ちょうばく袁術えんじゅつの元に救援の要請に向かいますが、その途上で部下に殺害されてしまいました。

張超ちょうちょうの死

12月、曹操そうそうに包囲された雍丘県ようきゅうけんが陥落します。

張超ちょうちょうは自害し、張超ちょうちょうに預けられていた張邈ちょうばくの三族(父母・兄弟・妻子)は曹操そうそうに処刑されました。


また、雍丘県ようきゅうけんを包囲中の10月、曹操そうそうは朝廷から正式に兗州牧えんしゅうぼくに任命されます。

その後、兗州えんしゅうを平定した曹操そうそうは東方に向かい、豫州よしゅう予州よしゅう)・陳国ちんこくを攻略しました。


陳国(ちんこく)

陳国ちんこく


興平こうへい2年(195年)春、蝗害こうがいいなごの大量発生)により停戦を余儀なくされていた曹操そうそうは、兗州えんしゅう奪還のため再度侵攻を開始します。

曹操そうそうは少しずつ城を攻略し、駐屯していた乗氏国じょうしこくに攻めてきた呂布りょふを大いに撃ち破り、さらに追撃して呂布りょふ徐州じょしゅう劉備りゅうびの元に逃亡させました。