建安3年(198年)に起こった曹操の呂布討伐戦の始まりから、徐州・下邳国・下邳県を水攻めにするところまでをまとめています。
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目次
劉備が呂布に敗れる
劉備が曹操を頼る
劉備から徐州を奪った呂布は、その後劉備の投降を受け入れて豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)に駐屯させました。
豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)
ですが、劉備が再び兵を集めて1万余人を手に入れると、これを忌まわしく思った呂布は自ら兵を出して劉備を攻め、敗走した劉備は曹操の元に身を寄せます。
曹操はそんな劉備を手厚く処遇して豫州牧(予州牧)に任命し、劉備と共に沛県(小沛)に行き、散り散りになった兵卒を受け入れ、さらに兵員を増加し、兵糧を補給して、東の呂布への具えとしました。建安元年(196年)のことです。
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沛県(小沛)の陥落
建安3年(198年)春、呂布は使者に司隷・河内郡に使者を派遣して馬を購入しようとしましたが、劉備の兵に奪い取られてしまいます。
司隷・河内郡の場所
これに対し呂布は、
- 中郎将・高順
- 北地太守*1・張遼
を派遣して劉備を攻めさせました。
これに曹操は、夏侯惇を派遣して劉備を救援させましたが救うことができず、高順に撃ち破られてしまいます。
そして秋9月、沛県(小沛)が陥落すると劉備は身ひとつで逃走したので、高順は再び劉備の妻子を捕虜にして呂布の元に送りました。
脚注
*1『資治通鑑』より。『魏書』張遼伝では魯相[豫州(予州)・魯国の太守]。
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曹操の呂布討伐
曹操の出陣
冬10月、劉備の敗北を知った曹操は、自ら呂布討伐に向かおうとします。
この時諸将は、
「劉表・張繡が背後にいるというのに遠く呂布を攻めれば、必ずや危機に陥るでしょう」
と言いましたが、ここで荀攸は、
「劉表・張繡は敗れたばかりなので、今ここで敢えて動くことはないでしょう。
呂布は勇猛なだけでなく袁術を恃みとしています。もし淮水と泗水の間で縦横無尽に振る舞えば、豪傑たちは必ずこれに応じます。
今、叛いたばかりで結束が固まっていないうちにこれを攻め、撃ち破るべきです」
と呂布討伐を勧めました。
曹操は「善し」と一言答えると、呂布討伐に出陣します。
建安3年(198年)10月の状勢
曹操が出陣すると、徐州*2の独立勢力、
- 臧覇
- 孫観
- 呉敦
- 尹礼(尹禮)
- 昌豨(別名:昌狶・昌務・昌覇)
らは、みな呂布に味方しました。
一方曹操は、豫州(予州)・梁国で劉備と出会って共に徐州に進軍し、徐州・彭城国に至ります。
呂布討伐戦関連地図
- 赤線:淮水
- 緑線:泗水
- 紫線:沂水
脚注
*2『資治通鑑』には「兗州・泰山郡の屯帥・臧覇〜」とありますが、『魏書』臧覇伝には、臧覇は「徐州・琅邪国・開陽県に駐屯した」とあります。
当時曹操は、将来起こるであろう袁紹との対決に際して、呂布が袁紹を救援することを警戒し、呂布を次の討伐対象としていました。
この時曹操は、劉備の救援を発端として、ついに本格的な呂布討伐に乗り出したのです。
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呂布を撃ち破る
曹操が東征の軍を起こすと、陳宮が呂布に言いました。
「これを迎え撃つのがよろしいと存じます。
自分は安楽な状態を保ちながら、遠方から到来して疲労した敵軍を迎え撃つ(逸を以て労を待つ)のですから、必ず勝利を得られましょう」
ですが呂布は、
「敵が攻めて来るのを待って、泗水の中まで追い詰めるに越したことはない」
と言って、陳宮の進言を聞き入れませんでした。
結果、曹操は徐州・彭城国・彭城県の住人を皆殺しにして彭城相(彭城県の太守)の侯諧を捕らえ、また、内応した広陵太守の陳登が曹操の先駆けとなって、徐州・下邳国・下邳県に攻め寄せます。
これに呂布は自ら兵を率いて迎え撃ちますが、曹操軍は大いにこれを撃ち破って勇将・成廉を捕虜にしました。
敗戦に懲りた呂布は、以降、城に籠もって敢えて出撃しなくなります。
呂布が袁術に救援を請う
下邳県の城下に迫った曹操が書簡を送って呂布に降伏を勧めると、呂布は恐れおののいて降伏を受け入れようとします。
すると陳宮は、次のような策を提示して、城を出て戦うことを勧めました。
「曹操の軍は遠方からやって来ておりますから、その勢いは長くは続きません。
将軍(呂布)は歩兵・騎兵を率いて城外に出て陣をお敷きください。私は残った兵を率いて城の守りを固めましょう。
もし敵が将軍(呂布)に向かって来ましたならば、私がその背後を攻撃いたします。もし敵が城を攻撃したならば、将軍(呂布)は外から敵を攻撃してください。
そうすれば、10日と経たないうちに曹操軍の兵糧は尽きてしまうでしょう。その時を待って攻勢に出れば、勝利は間違いありません」
この策に同意した呂布は、陳宮と高順に城を守らせて、自ら騎兵を率いて曹操軍の糧道(補給路)を断とうとします。
するとこの時、呂布の妻が呂布に言いました。
「陳宮と高順はかねてから仲が悪く、将軍(呂布)が一度出陣なされば、2人は必ずや心を1つにして城を守り抜こうとはしないでしょう。
もし城を失ってしまったら、将軍(呂布)はどこを根拠地となさるおつもりですか?
どうか将軍(呂布)には、充分にお考えくださり、陳宮らのために方針を誤られることのございませんように」
呂布の妻の言葉全文
この言葉を聞いた呂布は出陣を取りやめ、秘かに配下の許汜・王楷を派遣して袁術に救援を求めます。
すると袁術は言いました。
「呂布は以前、娘を儂の息子にくれなかったのだから、理屈から言って、敗れたとて儂には関係のないことだ。それをなぜ今頃、また知らせにやって来たのだ?」
これに許汜と王楷が、
「明上(袁術)、今我々を救わなければ、呂布はもう敗北するしかありません。呂布が敗れれば、明上(袁術)もまた後に破られることとなりましょう」
と答えると、袁術はやっと軍兵に戦闘準備をさせ、呂布のために救援する構えを示しました。
一方呂布は、娘を嫁に出さなかったために袁術が援軍を寄越さないのではないかと懸念して、娘の身体を綿にくるんで馬の背中に縛りつけると、夜に紛れて自ら袁術に差し出そうとします。
ですが、途中で曹操の見張りの兵と遭遇して矢を射かけられたため包囲を破ることができず、やむなく城に引き返しました。
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下邳県の水攻め
河内太守・張楊の動き
河内太守・張楊は、かねてから呂布と仲が良かったため、曹操が呂布を包囲したことを知ると、ずっと彼を救いたいと思っていました。そこで張楊は、司隷・河内郡・野王県の東の市場に出兵して、背後から曹操を牽制します。
ですが11月、張楊の将の楊醜が、張楊を殺害して曹操に味方してしまいました。
豆知識
張楊は慈悲深く温和な性格で、悪人に対しても威圧したり刑罰を加えることができず、奴僕(召使の男)が謀叛をくわだてて発覚した時も、彼に向かって涙を流すと、直ちに許して不問に付しました。
張楊は常にこのようであったので、楊醜に殺害されるという難にあってしまったのでした。
下邳県を水攻めにする
曹操は塹壕を掘って下邳県を包囲していましたが、これを陥落させることができず、士卒たちが疲弊していたため、撤退を考えるようになっていました。
すると、荀攸と郭嘉が言いました。
「呂布は勇猛ですが謀がありません。しかも呂布はこれまでしばしば戦って敗北を重ね、今は鋭気が衰えております。
三軍(全軍)は将を以て主と為し、主が衰えれば軍の奮意もなくなります。また、陳宮には智はあっても判断が遅い男です。
今、呂布の気が未だ回復せず、陳宮の謀が定まっていないうちにこれを攻撃すれば、呂布を除くことができます」
曹操は2人の進言を採用して包囲を続行することとし、沂水と泗水を決壊させてその水を下邳県の城内に灌ぎ込みました。
呂布討伐戦関連地図
- 赤線:淮水
- 緑線:泗水
- 紫線:沂水
呂布の弱気
曹操の水攻めから一月余りが経ち、ますます困迫(困りきること)した呂布は、白門楼*3の上から曹操の兵に向かって言いました。
「君たち、儂を苦しめないでくれ。儂は殿(曹操)のもとへ出頭するつもりなのだから…」
これに陳宮は驚いて、
「逆賊・曹操を、なんで『殿』などと呼ぶのですかっ!?
今奴に降伏するのは『石に向かって卵を投げつける』ようなもの。生命を全うできるはずはありませんぞっ!」
と言って、曹操に降伏しようとする呂布を押し止めました。
脚注
*3下邳城(下邳県)の南門の楼のこと。下邳城(下邳県)の南門を白門と呼びます。
建安3年(198年)春、呂布が豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)の劉備を攻撃しました。これに曹操は、夏侯惇を派遣して劉備を救援させますが、沛県(小沛)は陥落。
ついに自ら呂布討伐に出陣した曹操は、敗走した劉備と合流して下邳県に呂布を包囲し、荀攸・郭嘉の進言に従って沂水と泗水の水を城内に灌ぎ込みました。