董卓の残党に対する王允・呂布政権の対応と、長安陥落までの流れをまとめています。
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目次
董卓の娘婿・牛輔を攻める
牛輔討伐の失敗
呂布が董卓を誅殺した時[初平3年(192年)4月]、董卓の娘婿・牛輔は軍勢を率いて司隷・弘農郡・陝県に駐屯し、校尉の李傕・郭汜・張済らに朱儁を討伐させると、その後彼らに兗州・陳留郡と豫州・潁川郡の諸県を略奪させていました。
董卓配下の配置
呂布は勅命を奉じて李粛に牛輔を攻めさせますが、李粛は牛輔の迎撃を受け弘農県に敗走してしまいます。呂布はこの敗戦の責任を問うて李粛を処刑しました。
この李粛は、呂布と同郷の幷州(并州)・五原郡の出身で、董卓誅殺の際に董卓の入門を阻んだ人物の1人です。
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牛輔が配下に殺害される
牛輔が董越を殺害する
李粛の軍を撃退したものの、牛輔は誅殺されることを恐れて常に兵士を召集する割符を握りしめ、刑罰用の斧と首斬り台を側に引き寄せて警戒していました。
また客に会う時には、まず人相を占わせて「反逆の気」の有無を判断し、筮竹(易占において使われる50本の細い竹の棒)を用いて吉凶を占ってから会うという念の入れようです。
中郎将の董越が牛輔の元に身を寄せて来た時のこと。
彼を筮竹で占わせると、「外から来たものが内にいる者に企みを持つ」という卦が出たため、牛輔はすぐさま董越を処刑しました。
この時董越を占った占者は、ことあるごとに董越に鞭打たれていたので、この占いを利用して復讐を遂げたのだと言われています。
牛輔の死
ある時、夜間に反乱を起こして逃亡する者が出たため、牛輔の陣営は大きな騒ぎとなりました。
これを「陣営すべてが反乱した」と思い込んだ牛輔は、厚遇していた攴胡赤児ら5、6人だけを連れ、金や宝物を持って城を抜け出して、黄河を渡るため北に逃亡します。
ですが、金品に目がくらんだ攴胡赤児らは、牛輔を殺害してその首を長安に送りました。
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王允政権に立ち込める暗雲
呂布との不和
呂布が王允に、董卓の部曲(私兵)を許すように勧めました。
当初王允も呂布と同じように考えていましたが、
「彼らに罪はなく、ただ主(董卓)に従ったまでのこと。だが、すでに我らは彼らを悪逆と呼んでしまった。その上で特別に許すとなれば、彼らに疑いを抱かせるだけで、安心させることはできないだろう」
と言い、彼らを許すことはありませんでした。
また、呂布が「董卓が貯め込んだ財物」を公卿や将校に分け与えるように提案した時も、王允は従いませんでした。
呂布は、董卓を誅殺した功績を誇って得意になっていたので、王允が「自分(呂布)が政治に関与すること」を嫌い、一剣客(武人)としてしか扱おうとしないことに不満を抱くようになりました。
1つ目の董卓の部曲(私兵)の処遇について、『後漢書』王允伝では呂布と協議したことになっていますが、袁宏『後漢紀』献帝紀では、士孫瑞と協議したことになっています。
董卓の部曲を解散させる
董卓の将校や董卓に仕えて官位のある者の多くは涼州出身の者たちでした。王允は彼ら董卓の部曲(私兵)を解散させる協議をします。
この時、ある人が言いました。
「涼州人はもともと袁氏や関東軍(反董卓連合)を恐れておりましたから、いま一度に軍勢を解散させれば、必ずや彼らは身の危険を感じるでしょう。
皇甫嵩を将軍に任じて彼らを統率させ、陝西に留めて慰撫し、それからゆっくり関東軍と通じて情勢の変化を窺うのがよろしいでしょう」
すると王允は、
「そうではない。関東で董卓討伐の義兵を挙げた者たちはみな私の味方だ。
今もし要害を固めて陝西に駐屯させたならば、涼州人を安心させたとしても、関東が疑心を抱くであろう。それは避けねばならぬ」
と言って、董卓の部曲(私兵)を解散させることを決定しました。
王允の性格は剛毅(意志が強固なこと)で常に悪を憎んでいましたが、かつては董卓を恐れたため節義を曲げて従い、ついには殺害を企てました。
董卓が誅殺されると、漢を建て直す機会に巡り会いながら、その行いは温情と潤いに乏しく、正しいことに こだわる ばかりで臨機応変な計略に従わなかったため、多くの部下たちの心は王允から離れて行きました。
王允はまた、蔡邕を断罪して獄死させています。
その時期は明記されていませんが、この涼州人の処遇を巡る協議の際に、他人の意見を聞こうとしない王允に失望した蔡邕が、つい口をすべらせたと考えると つじつま が合います。
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李傕と郭汜の逆襲
討虜校尉・賈詡の進言
李傕・郭汜らが司隷・弘農郡・陝県に帰還した頃には、牛輔はすでに敗れた後でした。
兵士たちはみな故郷に帰ることを願いましたが、未だ赦免状は出されず、民衆たちはみな「涼州人は皆殺しになるぞ」と噂しあっています。
李傕らは恐れ戦き、長安に使者を派遣して赦免を求めましたが、王允は「1年に再度大赦を行うべきではない」と考え、これを許しませんでした。
すると、牛輔の軍中にいた討虜校尉の賈詡が言いました。
「聞けば長安では、涼州人を皆殺しにしようと議論しているとのこと。
もし、今ここで兵を手放したならば、亭長が1人いれば、あなた方を捕らえることができるのです。
ここはこのまま軍勢を率いて行く先々で軍兵を集め、長安を攻撃して董公(董卓)の復讐をするべきです。
うまく事が運んだ暁には、天子を奉じて天下を征伐するも良し。もし事がうまく運ばなかったならば、その時改めて逃亡を考えても遅くはないでしょう」
これを聞いた李傕らは納得して互いに盟約を結び、数千の軍を率いて西の長安を目指しました。
兵を糾合する
董卓の元将校たちは、みな兵を擁して守りを固め、
「丁彦思や蔡伯喈(蔡邕)は、ただ董公(董卓)に厚遇されただけで、共に罪に問われて処刑された。
今、王允は我々を許すことなく兵を解散させようといているが、もし兵を解散したら、明日には無抵抗のまま殺される魚肉のようになってしまうだろう」
と言い合っていたので、彼らはみなこぞって李傕らの軍に加わりました。
和睦の失敗
李傕らが軍勢を率いて長安に迫っていることを知った王允は、涼州の大人・胡文才と楊整脩を呼んでこう言いました。
「関東のネズミどもが何をするつもりなのか。お前たちが行って呼んで来いっ!」
2人は東に向かいましたが、逆に李傕らの軍勢を呼び込んで長安に戻って来ました。
長安の陥落と王允の死
迎撃軍の敗北
王允は元董卓配下の胡軫と徐栄を派遣して新豊県で迎撃させますが、徐栄は戦死し、胡軫は兵と共に敵に降ってしまいます。
司隷・京兆尹・新豊県
迎撃軍を撃破した李傕らが長安に到着する頃には、その軍勢は10万以上にふくれ上がっていました。
呂布と郭汜の一騎打ち
李傕らは、さらに元董卓配下の樊稠・李蒙・王方らと合流して長安を包囲しますが、城壁が高く攻めあぐねていました。
すると呂布は城門を開き、軍勢を率いて城の北にいる郭汜に接近して、「しばらく軍勢を遠ざけよ。1対1で勝負をつけよう」と、郭汜に一騎打ちを挑みます。
呂布が郭汜に矛を突き立てた時、郭汜の背後に控えていた騎兵が進み出て郭汜を助けたため、呂布もそれ以上深追いせず、その場は両軍共に引き揚げました。
長安の陥落
李傕らが長安を包囲して8日目のこと、呂布の軍にいた蜀兵(叟兵)が離反して、李傕らの軍勢を城内に招き入れてしまいます。
李傕らは兵を放って略奪を行い、死者は1万人に上りました。
呂布は城内で迎え撃ちますが ついに支えきれず、青瑣門の外に馬を止めて、
「公(王允)、行きましょうっ!」
と、王允を誘います。ですが王允は、
「国家を安定させることこそが私の願い。もしそれが叶わぬのなら、この身を奉じて死ぬだけだ。
幼いご主君(献帝)は、私だけを頼りにされている。危難を前にして逃げるなど できようはずがない。
どうか関東の諸侯によろしく伝え、国家のことを忘れぬように言ってくれっ!」
と言って逃げようとしません。呂布は逃亡し、長安は陥落しました。
王允の降伏
長安に入城した李傕と郭汜は、南宮の掖門に駐屯すると、
- 衛尉・种拂
- 太僕・魯馗
- 大鴻臚・周奐
- 城門校尉・崔烈
- 越騎校尉・王頎
らはみな戦死し、その他殺された官吏や民衆は数え切れないほどでした。
王允が戦場を避け、天子(献帝)を抱いて宣平門の楼に立て籠もると、李傕らは門の下で地面にひれ伏します。
これを見た献帝は、李傕らに問いました。
「お前たちは刑罰や恩賞の権限を持たぬはず。それなのに、兵を放って勝手な真似をするとは、いかなる了見であるか?」
すると李傕らはこう答えます。
「董卓は陛下に忠誠を尽くしておりましたのに、故(理由)もなく呂布に殺されました。私どもは董卓のために復讐をしただけで、謀叛を起こした訳ではございません。
事が終わりましたら、廷尉のもとに出頭して処罰を受ける覚悟にございます」
王允は反論することができず、楼から降りて降伏しました。
王允の死
当時、司隷の左馮翊と右扶風は、それぞれ王允が任命した宋翼と王宏が太守を務めており、三輔(京兆尹・左馮翊・右扶風の3郡)の人々は活気に溢れ、兵糧となる穀物の蓄えも豊かにありました。
左馮翊と右扶風
李傕らは すぐにでも王允を処刑したいと考えていましたが、王允を処刑することにより宋翼と王宏が兵を挙げることを恐れていました。
そこで一計を案じ、宋翼と王宏を長安に呼び出す使者を派遣します。
李傕らの使者を迎えた王宏は、宋翼に使者を派遣して相談しました。
「郭汜と李傕は、我々2人が長安の外にいることを恐れているので、まだ王公(王允)に危害を加えていないのです。
もし我々が李傕らの呼び出しに応じれば、王公(王允)も我々も、一族皆殺しとなるでしょう。この上は、どのように返答すべきでしょうか?」
すると宋翼は、
「禍福は推測することは難しいですが、それでも王命(王の命令)は避けることのできないものです」
と、李傕らの呼び出しに応じる意志を伝えてきました。
これに王宏は、
「義兵が続々と決起したのは、董卓を討伐せんがため。董卓の一味である李傕たちは尚更のことです。
今我々が兵を挙げて、共に君主の側にいる悪人(李傕・郭汜)を討てば、山東の者たち(反董卓連合)は必ずやこれに呼応するでしょう。これぞ、禍転じて福となすの計です」
と、宋翼に共に兵を挙げることを勧めますが、結局宋翼は、王宏の計に従おうとはしませんでした。
王宏も1人で決起することはできず、ついに宋翼と共に長安に赴き、王允・宋翼と共に処刑されました。
一方、王允と共に董卓誅殺の中心人物であった士孫瑞は、王允が功績を独占したため封侯されておらず、そのお陰で難を逃れています。
豆知識
その後李傕らは、司隷・右扶風・郿県(郿塢)に董卓を埋葬しました。
この時暴風雨が董卓の墓を振るわせ、雨水が墓の内部に流れ込んで柩を浮き上がらせたと言います。
董卓を誅殺し、漢の建て直しを夢見た王允ですが、小さな悪も見逃すことができない性格から人心を得ることができず、朝廷の外に無用の反乱を招くことになりました。
『魏書』呂布伝が注に引く『英雄記』には、呂布が董卓を殺害したのが4月23日。6月1日には敗走したとあり、その政権は非常に短命に終わってしまいました。