呂布・劉備・袁術の徐州を巡る争いから、劉備が曹操を頼るまでをまとめています。
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呂布、轅門に戟を射る
呂布の裏切り
建安元年(196年)6月、劉備が治める徐州に袁術が侵攻すると、この時劉備を頼って徐州にいた呂布は、
「下邳県を攻撃するならば兵糧を援助する」
という袁術の密書を受け、張飛が留守を守る徐州・下邳国・下邳県を奪い取り、劉備の妻子や軍需品、配下の将兵や官吏の家族などを捕虜にしました。
袁術の徐州侵攻
そして、本拠地を失い袁術に敗北を重ねて飢餓に陥った劉備は、なんと自分から下邳県を奪った呂布に和睦を求めます。
すると「袁術が兵糧を送ってこないこと」に怒りを覚えていた呂布は、劉備の妻子を返して豫州刺史に任命し、豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)に駐屯させて、力を合わせて袁術を討つことにしました。
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呂布が劉備を救援する
劉備が沛県(小沛)に駐屯すると、袁術は将軍の紀霊らに歩兵・騎兵合わせて3万人を統率させて劉備を攻撃しようとし、これを知った劉備は呂布に救援を求めます。
すると呂布の将軍たちは、
「将軍(呂布)はつねづね劉備を殺そうと思っておいでなのですから、ここは袁術に手を貸すべきです」
と言いました。ですが呂布は、
「それは違う。もし今 袁術が劉備を撃ち破れば、袁術は北方泰山(太山)の諸将軍(臧覇ら)と連合戦線を結ぶだろう。そうなれば、儂は包囲網の中に封じ込められてしまう。
そうならないためには、劉備を救援しないわけにはいかないのだ」
と言って、すぐさま歩兵千人・騎兵2百人に武装を整えさせて、自ら劉備の元に駆けつけます。
すると、呂布が到着したことを知った紀霊らはみな軍勢を取りまとめ、それ以上思い切って攻撃をかけようとはしませんでした。
呂布、轅門に戟を射る
沛県(小沛)に到着した呂布は、沛県(小沛)の西南1里(約430m)の地点に陣営を置きます。
そして、呂布が護衛の兵卒を遣って紀霊らを招待すると、紀霊らの方でも「呂布と食事を共にしたい」と申し入れてきます。
そこで呂布は宴席を設け、紀霊らに向かって言いました。
「劉玄徳(劉備)は儂の弟だ。弟が諸君らのために苦しめられていると聞き、助けに来たのだ。
儂は争いごとが嫌いで、揉め事の仲裁をするのが大好きなんだ」
そして呂布は、門番の役人に命じて轅門(陣営の門)の中に1本の戟を掲げさせ、
「諸君、今から儂が戟の小枝を射るから見ていなさい。もし1発で命中したなら、諸君は戦闘を中止して引き揚げてくれ。もし命中しなかったなら、ここに留まって勝負を決するが良い」
と言い、弓を手に戟を目がけて射かけると、果たしてその矢は見事に戟の小枝に命中しました。
「将軍(呂布)は天のご威光を具えておいでですっ!」
その場に居合わせた諸将はみな仰天して呂布の意向に従い、次の日も宴会を楽しんで、その後双方とも引き揚げました。
この『三国志演義』の名シーンの1つである「呂布が轅門に立てた戟を射る」エピソードは、一見、呂布の武勇を印象づけるための創作のように思えますが、実は『魏書』呂布伝の本文に記されています。
もしかしたら呂布は、本当に戟を射当てたのかもしれません。現代のライフルならまだしも、まさに神業ですね。
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劉備が曹操を頼る
劉備が曹操を頼る
劉備は沛県(小沛)に戻ってから、再び兵を集めて1万余人を手に入れていました。
すると、これを忌まわしく思った呂布は、自ら兵を出して劉備を攻め、敗走した劉備は曹操の元に身を寄せます。
曹操はそんな劉備を手厚く処遇して、豫州牧(予州牧)に任命しました。
その後曹操は、劉備と共に沛県(小沛)に行き、散り散りになった兵卒を受け入れ、さらに兵員を増加し、兵糧を補給して、東の呂布への具えとしました。
曹操陣営の反応
郭嘉
『魏書』郭嘉伝 注 『魏書』
ある人が太祖(曹操)に言いました。
「備(劉備)は英雄としての志を持っております。今のうちに早く始末しなければ、後に必ず災いをなすでしょう」
太祖(曹操)がこれを郭嘉に問うと、郭嘉はこう答えました。
「確かにその通りです。
しかしながら公(曹操)は、剣を引っ提げて正義の兵を起こされ、民衆のために暴虐を取り除かれているのです。誠意を貫き信義に頼って英傑を招いても、まだ不十分かと心配されます。
今、劉備には英雄の評判があり、追い詰められて我が方に身を寄せた彼を殺害するとなると、それこそ賢者を殺害したと評判になるでしょう。
そうなれば、智謀の士は猜疑心を抱き、心を変えて別の主君を選ぶようになるでしょう。
公(曹操)は誰と一緒に天下を平定するのですか。そもそも1人の心配な男を除くことによって、かえって四海の内の期待を挫くことになるのです。安危の切っ掛けになることを察知しなければなりません」
すると太祖(曹操)は笑いながら「君はよく分かっているな」と言いました。
『魏書』郭嘉伝 注 『傅子(ふし)』
郭嘉が太祖(曹操)に進言しました。
「劉備は人並みはずれた才能を持っている上に、人々の心を大変よく掴んでおり、またその部下の張飛や関羽は、万人を相手に出来る英雄であり、彼のために決死の働きをします。
私の観察によると、劉備は結局人の下位に立つようなことはせず、その計略は予測できません。
古の人は『1日敵を野放しにすれば、数代の災いである』と申しております。早く処置をなさるがよろしいでしょう」
ですがこの時太祖(曹操)は、天子(献帝)を奉戴して天下に号令しており、英雄を味方に招き寄せ、それによって大いなる信義を明らかにしようとしているところでしたので、郭嘉の計略に従うことができませんでした。
後に太祖(曹操)が劉備に命じて袁術を迎撃させようとした時、郭嘉は程昱と共に車で駆けつけて、
「劉備を自由にすれば、変事が起こりますぞっ!」
と太祖(曹操)を諫めました。
ですがこの時、劉備はすでに立ち去っており、2人の言った通り兵を挙げて背いたので、太祖(曹操)は郭嘉の進言を採用しなかったことを後悔しました。
『魏書』と『傅子』では、郭嘉の意見が正反対になっています。
程昱
『魏書』武帝紀
程昱は公(曹操)に進言しました。
「劉備を観察しますに、ずば抜けた才能を持っている上に甚だ人心を掴んでおります。最後まで人の下にいる人物ではありません。早く始末されるが良いと存じますが」
公(曹操)、
「今は英雄を収攬(うまくとらえること)する時期である。1人を殺して天下の人心を失うのはいかん」
『魏書』程昱伝
程昱は太祖(曹操)に劉備殺害を進言したが太祖(曹操)は聞き入れませんでした。
後にまた、劉備を徐州に派遣して袁術を迎え撃たせると、程昱と郭嘉は太祖(曹操)に進言しました。
「公(曹操)には先日劉備に手を下されず、昱(程昱)たちは実際理解に苦しみました。
今、彼に兵を貸されましたが、彼は必ずや異心を抱きましょう」
太祖(曹操)は後悔して彼を追いかけさせましたが、間に合いませんでした。
たまたま袁術が病死し、劉備は徐州に行き着くと結局車冑を殺し、兵を挙げて太祖(曹操)に背きました。
陳郡(陳国)の袁渙
以前、劉備が豫州(予州)にいた時のこと。劉備は陳郡(陳国)出身の袁渙を茂才に推挙していました。
劉備が敗走すると、袁渙は呂布に留められ、劉備を罵辱(罵り辱めること)する文書を書かせようとしましたが、袁渙はこれを拒否し、呂布が再三に渡って強制しても従いませんでした。
激怒した呂布は、
「儂に従うならば良し。従わぬのなら、死ぬことになるぞっ!」
と、兵をもって袁渙を脅します。
ですが袁渙は、少しも顔色を変えることなく、笑いながら言いました。
「私は、『ただ徳のみが人を辱めることができる』と聞いております。罵りをもって人を辱めることができるなど、聞いたことがありません。
もしも彼(劉備)が真の君子ならば、将軍(呂布)の言葉を恥とすることはありません。逆にもし彼(劉備)が小人ならば、将軍(呂布)の真似をして罵り返してくるでしょう。
『辱』はこちらにあるのであって、あちらにあるのではありません。
私が以前、劉将軍(劉備)に仕えていたのは、今日、将軍(呂布)に仕えているのと同じことです。
もし私が一旦ここを去り、将軍(呂布)を罵ったならば、将軍(呂布)はそれを許されますか?」
これを聞いた呂布は、自らを恥じて劉備を罵辱(罵り辱めること)する文書を書かせることをやめました。
建安元年(196年)6月、袁術の徐州侵攻の際に劉備から徐州・下邳国・下邳県を奪った呂布は、和睦を求めてきた劉備を受け入れ、豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)に駐屯させました。
また、劉備の次は自分が狙われることを恐れた呂布は、なおも劉備を攻めようとする袁術と劉備の間に立って仲裁しますが、結局劉備を信頼することができず、自ら劉備を攻めて敗走させてしまいます。
これにより劉備は曹操の元に身を寄せ、呂布は曹操という強大な敵を呼び込むことになってしまいました。