初平しょへい4年(193年)春、曹操そうそう袁術えんじゅつ袁紹えんしょう黒山賊こくざんぞくが戦った「匡亭きょうていの戦い」についてまとめています。

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袁術 vs 曹操

匡亭の戦いに至る経緯

初平しょへい3年(192年)冬、揚州刺史ようしゅうしし陳温ちんおん陳禕ちんい)が病死しました。

袁紹えんしょう袁術えんじゅつはお互いに新たな揚州刺史ようしゅうししを派遣しますが、袁術えんじゅつが派遣した鄭泰ていたいは任地に到着する前に病死。袁紹えんしょうが派遣した袁遺えんい揚州刺史ようしゅうししとなります。

すると袁術えんじゅつは、公孫瓚こうそんさん袁紹えんしょう攻撃を要請して袁紹えんしょうの援軍を封じ、袁遺えんいを攻撃して敗走させました。

これにより、袁術えんじゅつが新たに派遣した陳瑀ちんう揚州刺史ようしゅうししとなります。


一方袁術えんじゅつの要請を受けた公孫瓚こうそんさんは、劉備りゅうび単経ぜんけい陶謙とうけんを派遣して袁紹えんしょうに圧力をかけますが、袁紹えんしょう曹操そうそうに敗北し、幽州ゆうしゅうに撤退しました。(龍湊りゅうそうの戦い)

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開戦

初平しょへい4年(193年)春、曹操そうそう兗州えんしゅう済陰郡せいいんぐん鄄城けんじょうに陣を置き、荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうが、揚州ようしゅうに出陣中の袁術えんじゅつ糧道りょうどう(補給路)を断ちました。

もし袁術えんじゅつ糧道りょうどう(補給路)の確保に動けば、曹操そうそうに背後を突かれることは明白です。

袁術えんじゅつは、これまで本拠地としてきた荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんを放棄して兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐんに入り、封丘県ほうきゅうけんに駐屯します。

すると、これまで袁紹えんしょう曹操そうそうと争ってきた張燕ちょうえん黒山賊こくざんぞく)と南匈奴みなみきょうど単于ぜんう於夫羅おふら袁術えんじゅつに味方しました。


袁紹・曹操陣営と袁術・黒山賊陣営

袁紹えんしょう曹操そうそう陣営と袁術えんじゅつ黒山賊こくざんぞく陣営

匡亭の戦い

兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐんに入り封丘県ほうきゅうけんに駐屯した袁術えんじゅつは、将軍しょうぐん劉詳りゅうしょう平丘県へいきゅうけん匡亭きょうていに駐屯させていました。

曹操そうそうが、袁術えんじゅつが駐屯する封丘県ほうきゅうけんに攻撃を仕掛けたならば、その背後を突く位置にあたります。

ですが曹操そうそうは、まず匡亭きょうていに攻撃を仕掛け、救援に駆けつけた袁術えんじゅつと戦って大いに撃ち破りました。


匡亭の戦い

匡亭きょうていの戦い

豆知識

魏書ぎしょ曹仁伝そうじんでんに、

太祖たいそ曹操そうそう)が袁術えんじゅつを撃破した際、曹仁そうじんが斬り殺したり生け捕りにした者は、かなりの数にのぼった」

とあるのは、この「匡亭きょうていの戦い」のことだと思われます。

曹操の追撃

敗れた袁術えんじゅつ封丘県ほうきゅうけんに退却すると、曹操そうそう封丘県ほうきゅうけんを包囲にかかりますが、その包囲が完成する前に、袁術えんじゅつ襄邑県じょうゆうけんに逃げ込みました。

すると曹操そうそうは追撃の手をゆるめず襄邑県じょうゆうけんを攻撃、さらに袁術えんじゅつ太寿たいじゅに逃げ込むと、掘割りの水を決壊させて水攻めにします。

袁術えんじゅつはまた寧陵県ねいりょうけんに逃走しますが、さらに曹操そうそうの追撃を受け、揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐんに逃げ帰りました。

すると曹操そうそうはそれ以上袁術えんじゅつを追わず、引き返して定陶県ていとうけんに陣を置きました。この年の夏のことです。


袁術の逃走経路

袁術えんじゅつの逃走経路

太寿たいじゅ襄邑県じょうゆうけん寧陵県ねいりょうけんの間にあるようですが、正確な位置は分かりません。


袁術えんじゅつ軍は、劉表りゅうひょうによって荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんからの糧道りょうどう(補給路)を断たれており、揚州刺史ようしゅうししに着任したばかりの陳瑀ちんうからの補給も当てにはなりません。

袁術えんじゅつは、朝廷(李傕りかく郭汜かくし)が任命した兗州刺史えんしゅうしし金尚きんしょうを押し立てて自軍の正当性を強調しましたが、士気はふるわず敗北を重ねました。

これには、前年冬に曹操そうそうが手に入れた青州兵せいしゅうへいの力が大きかったことは、言うまでもないでしょう。

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陳瑀の離反

曹操そうそうに敗北した袁術えんじゅつ揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん陰陵県いんりょうけんに逃げ帰って来ると、南方の土着民たちは袁術えんじゅつを迎え入れようとしましたが、袁術えんじゅつ揚州刺史ようしゅうししに任命した、当の陳瑀ちんう袁術えんじゅつの受け入れをこばみました。

これに袁術えんじゅつは、時間かせぎのため言葉たくみにへりくだった態度で説得を試みます。

すると陳瑀ちんうは駆け引きが分からず臆病でもあったので、袁術えんじゅつに攻撃を仕掛けようとしませんでした。

その間に袁術えんじゅつは、淮北わいほく淮水わいすいの北岸)で兵を集めて寿春県じゅしゅんけんに軍を進めたため、これを恐れた陳瑀ちんうは弟の陳琮ちんそうを使者に立てて袁術えんじゅつ和睦わぼくを求めます。

ですが袁術えんじゅつは、陳琮ちんそうを捕らえてなおも軍を進めてきたので、陳瑀ちんう徐州じょしゅう下邳国かひこくに逃亡しました。

その後、寿春県じゅしゅんけんに入った袁術えんじゅつ徐州伯じょしゅうはくを自称します。

陳瑀ちんうはなぜ袁術えんじゅつを拒んだのか

これより以前、太傅たいふ馬日磾ばびつてい陶謙とうけんの元をおとずれ、陶謙とうけんは朝廷に帰順しました。

この時、陶謙とうけん別駕従事べつがじゅうじであった趙昱ちょういく徐州じょしゅう広陵太守こうりょうたいしゅに、治中従事ちちゅうじゅうじであった王朗おうろう揚州ようしゅう会稽太守かいけいたいしゅに任命されています。

これにより陶謙とうけんの勢力が揚州ようしゅうに及ぶようになると、陶謙とうけんが「袁術えんじゅつ揚州ようしゅうに入れたくない」と思うようになってもおかしくありません。


袁術えんじゅつ揚州刺史ようしゅうししに任命した陳瑀ちんうは、徐州じょしゅう下邳国かひこく淮浦県わいほけんの人で、陳珪ちんけいの従弟にあたります。陳瑀ちんう袁術えんじゅつの受け入れをこばんだ裏側には、陶謙とうけんの働きかけがあったものと思われます。

袁術えんじゅつこばんだ後の陳瑀ちんうの対応の不味まずさは、「陶謙とうけんに頼まれてこばんではみたものの、袁術えんじゅつ下手したてに出ているし、このまま攻めて良いものだろうか」という陳瑀ちんうの迷いの現れではないでしょうか。

そして袁術えんじゅつ寿春県じゅしゅんけんに軍を進め、和睦わぼくが決裂すると、陳瑀ちんう陶謙とうけんを頼って徐州じょしゅう下邳国かひこくに逃亡しました。


また、揚州ようしゅうに入った袁術えんじゅつ徐州伯じょしゅうはくを称したことは、袁術えんじゅつ徐州じょしゅうを狙っていることを表明したようなものです。このことからも、「陳瑀ちんうの離反」の裏に陶謙とうけんがいたことをうかがい知ることができます。

馬日磾を拘留する

この頃、天下を慰撫いぶするために派遣された馬日磾ばびつてい袁術えんじゅつの元をおとずれ、袁術えんじゅつ左将軍さしょうぐん陽翟侯ようてきこうに封じ、せつ(軍令違反者を処刑する権限を持つあかし)を与えようとしました。

すると袁術えんじゅつは、馬日磾ばびつていせつ(使者のあかし)を見せて欲しいと言い、そのまま奪い取って返さず、自分の配下の中から十数人を書き並べて示し、三公さんこうの属官に招聘しょうへいするように要求します。

これを聞いた馬日磾ばびつていは、袁術えんじゅつ叱責しっせきして立ち去ろうとしますが、袁術えんじゅつはこれを許さず、せつを失い屈辱を受けた馬日磾ばびつていは、うれいと怒りの中、亡くなってしまいました。


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黒山賊 vs 袁紹

公孫瓚との和睦

初平しょへい4年(193年)の初め、献帝けんてい李傕りかく郭汜かくし)が天下を慰撫いぶするために派遣した太僕たいぼく趙岐ちょうき袁紹えんしょうの元をおとずれ、公孫瓚こうそんさんとの和睦わぼくを命じます。

この時青州せいしゅうでは、公孫瓚こうそんさんが任命した青州刺史せいしゅうしし田楷でんかいに対して、袁紹えんしょうは子の袁譚えんたん青州刺史せいしゅうししに任命し、青州刺史せいしゅうししめぐる戦いは2年に及んでいました。

趙岐ちょうきを百里先まで出迎えた袁紹えんしょうは帝命をつつしんでうけたまわり、布令文を受け取った公孫瓚こうそんさん和睦わぼくを受け入れました。


趙岐ちょうきはこの後、南に向かい陳留郡ちんりゅうぐんに到着しますが、そこで重い病にかかってしまいます。

この年の春の時点では、陳留郡ちんりゅうぐんには曹操そうそう袁術えんじゅつの両人がいたわけですが、趙岐ちょうき陳留郡ちんりゅうぐんに向かう頃には袁術えんじゅつはすでに敗走していた可能性が高く、曹操そうそう袁術えんじゅつの追撃を中止して定陶県ていとうけんに引きげた裏には、この趙岐ちょうきの働きかけがあったのかもしれません。

冀州・魏郡の反乱

3月、袁紹えんしょう漳水しょうすい薄落津はくらくしんに諸将を集めて宴会を開いていた時のこと。

冀州きしゅう魏郡ぎぐんの軍勢が黒山賊こくざんぞく于毒うどくと結んで謀叛むほんを起こし、鄴城ぎょうじょうを落として太守たいしゅ栗成りっせいが殺害された」という報告が入ります。

宴会の参加者の中には鄴県ぎょうけんに家がある者もいて、心配と恐怖で泣き出す者もいましたが、袁紹えんしょうは顔色一つ変えず、斥丘県せききゅうけんに向かいました。


丁度その時、賊の1人で元は内黄県ないこうけんの下役人をしていた陶升とうしょうという者が、州の役所の門を閉鎖・守備して他の賊を中に入れず、袁紹えんしょうの家族や州内に残っていた官吏たちを馬車に乗せ、斥丘県せききゅうけんに送り届けて来ます。

袁紹えんしょう陶升とうしょう建義中郎将けんぎちゅうろうしょうに任命しました。

黒山賊との戦い

その後袁紹えんしょうは、朝歌県ちょうかけん鹿場山ろくじょうさん蒼厳谷そうげんこくに侵入。5日間包囲してこれを破り、于毒うどくと朝廷(李傕りかく郭汜かくし)が任命した冀州牧きしゅうぼく壺寿こじゅを斬り殺します。

その後、山中を探索しながら北へ向かって左髭丈八さしじょうはちを斬り、

  • 劉石りゅうせき
  • 青牛角せいぎゅうかく
  • 黄龍こうりょう
  • 左校さこう
  • 郭大賢かくたいけん
  • 李大目りたいもく
  • 壺寿こじゅ
  • 于氐根うていこん

らを攻撃してことごとく砦を打ち壊し、数万の首級をあげました。

袁紹えんしょうは引き返して鄴県ぎょうけんに駐屯します。

呂布の活躍

その後袁紹えんしょうは、黒山賊こくざんぞく張燕ちょうえん四営しえい屠各とかく雁門がんもん烏桓うがん冀州きしゅう常山郡じょうざんぐんで戦います。


この時呂布りょふは、長安ちょうあんを脱出して身を寄せた袁術えんじゅつの元を去り、袁紹えんしょうを頼っていました。

呂布りょふは名馬・赤兎せきとにまたがって、側近の成廉せいれん魏越ぎえつらと共に、張燕ちょうえん軍・1万余の精鋭兵と数千の騎兵を撃ち破ります。


連戦すること10日余り、袁紹えんしょう軍がやや優勢でしたが、お互いに疲弊ひへいしたため、それぞれ兵を引きげました。


この時袁紹えんしょうの部将・麴義きくぎは、自分の功績を頼みに傲慢ごうまんで命令に従わなかったため、袁紹えんしょう麴義きくぎは召し出して殺害し、その兵を吸収しました。


袁紹と黒山賊の戦い

袁紹えんしょう黒山賊こくざんぞくの戦い


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匡亭の戦いについて

この「匡亭きょうていの戦い」については、史料によって内容や時期が異なっており、解釈によって戦いの意味合いが変わってきます。

次に、上記のような結論に至った根拠をまとめておきます。

公孫瓚と陶謙の出陣について

初平しょへい3年(192年)冬の「龍湊りゅうそうの戦い(劉備りゅうび単経ぜんけい公孫瓚こうそんさん陣営+陶謙とうけんの出陣)」は、翌年春の「匡亭きょうていの戦い」の一部であると考えることもできます。

つまり、

  • 袁術えんじゅつ
  • 公孫瓚こうそんさん
  • 陶謙とうけん
  • 張燕ちょうえん黒山賊こくざんぞく

の4陣営によって袁紹えんしょう曹操そうそう陣営を包囲・攻撃する作戦です。

ですがこの作戦は、同時期に侵攻を開始することで最大限に効果を発揮する作戦であり、事実劉備りゅうび単経ぜんけい陶謙とうけんは、袁術えんじゅつ張燕ちょうえん黒山賊こくざんぞく)の参戦前に各個撃破されています。

4陣営の包囲作戦だったとしたらあまりにも稚拙ちせつ過ぎますので、「龍湊りゅうそうの戦い」と「匡亭きょうていの戦い」は、別々の目的を持った戦いであると結論づけました。

揚州刺史・陳温の死

魏書ぎしょ武帝紀ぶていぎには、

初平しょへい3年(192年)冬、「袁術えんじゅつ袁紹えんしょう仲違なかたがいをした。袁術えんじゅつ公孫瓚こうそんさんに救援を要請した」

とありますが、袁術えんじゅつ袁紹えんしょうはすでに前年から仲違なかたがいをしており、ここで改めて記述するからには、新たな火種が必要だと考えました。

その火種が、魏書ぎしょ袁術伝えんじゅつでんの注英雄記えいゆうき呉書ごしょ呂範伝りょはんでんの注九州春秋きゅうしゅうしゅんじゅうに記されている揚州刺史ようしゅうしし陳温ちんおん陳禕ちんい)の病死に始まった揚州刺史ようしゅうししめぐ袁術えんじゅつ袁紹えんしょうの対立です。

つまり袁術えんじゅつは、袁紹えんしょうによって揚州刺史ようしゅうししに任命された袁遺えんいを攻撃する間、袁紹えんしょうを足止めさせるために公孫瓚こうそんさんに救援を要請したのです。


ちなみに魏書ぎしょ袁術伝えんじゅつでん後漢書ごかんじょ袁術伝えんじゅつでん後漢書ごかんじょ献帝紀けんていぎの本文では、陳温ちんおん初平しょへい4年(193年)3月に「曹操そうそうに敗れて揚州ようしゅうに逃げてきた袁術えんじゅつによって殺害された」としるされています。

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どちらが先に仕掛けたのか

魏書ぎしょ武帝紀ぶていぎには、

初平しょへい4年(193年)春、(曹操そうそうは)鄄城けんじょうに陣を置いた。荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょう袁術えんじゅつ糧道りょうどうを断った。袁術えんじゅつは軍をひきいて陳留郡ちんりゅうぐんに入り、封丘県ほうきゅうけんに駐屯し、黒山賊こくざんぞくの残賊と於夫羅おふららが袁術えんじゅつを助けた」

とあります。

つまり、劉備りゅうび単経ぜんけい陶謙とうけんを撃退した曹操そうそうが、その黒幕である袁術えんじゅつつために、盟友である荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょう袁術えんじゅつ糧道りょうどうを断たせて鄄城けんじょうに陣を置いたため、仕方なく袁術えんじゅつ陳留郡ちんりゅうぐんに入り、封丘県ほうきゅうけんに駐屯したことになります。

これによると「匡亭きょうていの戦い」は、曹操そうそうによって仕掛けられた戦いであると言えますが、いくつか気になる点があります。

金尚と壺寿

魏書ぎしょ呂布伝りょふでんの注英雄記えいゆうきには、徐州じょしゅうに入ったばかりの呂布りょふ袁術えんじゅつに送った手紙に対する返書の中に、

「昔、大将の金元休きんげんきゅう金尚きんしょう)が兗州えんしゅうに向かい、封丘ほうきゅうに到着したばかりのところで、曹操そうそうに迎撃されて敗北をきっし、散り散りになって逃走し、ほとんど壊滅状態になったことがありました」

という袁術えんじゅつの言葉があります。

金尚きんしょうは朝廷(李傕りかく郭汜かくし)が任命した兗州刺史えんしゅうししで、すで曹操そうそう兗州えんしゅうを領有していたため任務にくことができず、袁術えんじゅつを頼っていました。

また、前述のように、黒山賊こくざんぞくの中には朝廷(李傕りかく郭汜かくし)が任命した冀州牧きしゅうぼく壺寿こじゅがいたことが分かっています。


そうなると「匡亭きょうていの戦い」は、袁術えんじゅつ張燕ちょうえん黒山賊こくざんぞく)が、金尚きんしょう壺寿こじゅのために、袁紹えんしょう曹操そうそうから冀州きしゅう兗州えんしゅうを奪還するために起こした戦いであるとも思えます。

ですがそれならば、袁術えんじゅつ張燕ちょうえん黒山賊こくざんぞく)は朝廷(李傕りかく郭汜かくし)と連絡を取り合っていそうなものですが、朝廷(李傕りかく郭汜かくし)が派遣した趙岐ちょうき馬日磾ばびつていは、公孫瓚こうそんさん陶謙とうけんに、袁紹えんしょう曹操そうそうへの攻撃ではなく和睦わぼくを命じています。

これはむしろ袁紹えんしょう曹操そうそうに利する行為であり、趙岐ちょうき馬日磾ばびつていの目的は、単純に天下の戦乱を収拾することに他なりません。


また、袁術えんじゅつは自分の元をおとずれた馬日磾ばびつていからせつ(使者のあかし)を奪い取り、長安ちょうあんに帰ることを許さず、自分の元にとどめ置きました。

つまり袁術えんじゅつは、士気高揚のために金尚きんしょうを利用しただけであって、朝廷(李傕りかく郭汜かくし)のために動いていた訳ではないことが分かります。


これらのことを総合すると「匡亭きょうていの戦い」は、公孫瓚こうそんさん劉備りゅうび単経ぜんけい陶謙とうけんを破った袁紹えんしょう曹操そうそうが、荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうと連携して、その黒幕である袁術えんじゅつつ目的で起こされた戦いであると言えます。

劉表りゅうひょう糧道りょうどうを断たれた袁術えんじゅつは、しかたなく封丘県ほうきゅうけんに駐屯して曹操そうそうを迎え撃ち、これまで袁紹えんしょう曹操そうそうと争ってきた張燕ちょうえん黒山賊こくざんぞく)は、これに便乗して袁術えんじゅつに味方しました。

また、袁術えんじゅつには金尚きんしょうのために兗州えんしゅうを取り戻す気などありませんでしたが、呂布りょふへの返書では、自分に大義名分があったことを主張するために、金尚きんしょうの名前を出したものと思われます。

そして曹操そうそうに大敗した袁術えんじゅつは、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんを失いましたが、かろうじて揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん寿春県じゅしゅんけんに地盤を得ることができました。