興平元年(194年)、兗州で反乱を起こした呂布・張邈・陳宮らと、兗州奪還のために徐州から引き返して来た曹操が戦った「濮陽の戦い」についてまとめています。
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目次
曹操の帰還
兗州の反乱
興平元年(194年)、兗州牧・曹操が2度目の徐州侵攻を開始すると、張邈・陳宮らが呂布を招き入れて反乱を起こし、
- 済陰郡・鄄城県
- 東郡・范県
- 東郡・東阿県
の3県を除く兗州の郡県は、みな彼らに呼応しました。
鄄城県・范県・東阿県
この時曹操は、徐州牧・陶謙に逃亡を考えさせるほど追い詰めていましたが、この反乱の報告を受け、すぐさま兗州に取って返しました。
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曹操が兗州に帰還する
兗州に入った呂布は、荀彧が守る済陰郡・鄄城県を攻撃しましたが、落とすことができず、西に向かって東郡・濮陽県に駐屯します。
兗州の反乱関連地図
徐州から帰還した曹操は、呂布が濮陽県に駐屯していることを知ると、
「呂布はわずかの間に1州を手に入れながら、東平を根拠地として亢父・泰山の街道を断ち切り、要害を利用して我が軍を迎撃することをせずに、なんと濮陽に駐屯しおった。儂には奴が無能であることが分かる」
と言って、まずは濮陽県の西50里(21.5km)に置かれた屯営に夜襲をかけ、明け方頃にこれを撃ち破りました。
典韋の武勇
その後、曹操軍がまだ帰り着かないうちに呂布の援軍が到着し、3方面から揺さぶりつつ攻撃をしかけてきました。
この時呂布は、自ら戟を振るって朝から日が傾く頃まで数十回に及ぶ激しい戦いをくり返します。
そこで曹操が「敵陣を落とす勇士」を募ったところ、典韋が真っ先に名乗り出て、募集に応じた数十人を指揮することになりました。
典韋らは全員二重の衣服に2枚の鎧を着込み、楯を立て、長い矛や戟を手に西の敵に当たります。
前方から弓と弩が雨のように乱射される中、(1人楯に身を隠して正面に待ち受けた)典韋は敵を確認することができないため、(道の脇に隠れた)配下に「敵が10歩の所まで来たら申せ」と命じました。
配下「10歩ですっ!」
典韋「5歩で申せっ!」
そして敵が5歩まで近づいた時、配下は早口に言いました。
「敵が来ましたっ!」
典韋は手に十数本の戟(手戟)を持ち、大声をあげて起ち上がり(敵に手戟を投げつけ)ます。戟(手戟)に当たった者で倒れない者はなく、恐れをなした呂布の軍勢は退却しました。
()で囲った部分は推測です。
雨のような矢で視界を奪われていたなら、典韋に見えない敵は配下にも見えないでしょう。この時の典韋の戦いの様子は、今ひとつよく分かりません。
典韋の部隊は小勢です。おそらく狭い道で敵と遭遇した典韋は、配下を道の脇に隠れさせ、自分1人が楯に身を隠して敵を待ち受けたのだと思われます。
矢はすべて典韋に向けて射かけられる中、道の脇に隠れた配下が敵との距離感を伝えたのでしょう。
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濮陽の戦い
田氏の内通
その後、曹操が濮陽県を包囲すると、城内から濮陽県の豪族・田氏が内通してきました。
そこで曹操は、青州兵を率いて城内に入り、引き返す意志がないことを示すため、入城してきた東門に火を放ちました。
曹操の危機
敵兵を騙して逃げる
自ら退路を断って挑んだ曹操ですが、城内の呂布軍に敗れた青州兵は混乱し、燃えさかる東門に殺到します。
するとこの時曹操は、運悪く呂布の騎兵に捕まって「曹操はどこだっ!?」と尋ねられました。
曹操が咄嗟に「黄色い馬に乗って逃げているのが曹操です!」と応えると、曹操の顔を知らない呂布の騎兵は、曹操本人を放置して黄色い馬に乗った者を追いかけて行きました。
九死に一生を得る
その後曹操は、東門の炎の中に突入して脱出を図りましたが、炎の勢いが強く、馬から落ちて左の手の平に火傷を負って倒れ込んでしまいます。
ちょうどその時、司馬の楼異がその様子に気づき、曹操を助け起こして馬に乗せたので、曹操は無事城外に脱出することができました。
先に城内から脱出した諸将は、曹操の姿が見えないので みな不安にかられていました。
そのため陣営に戻った曹操は、傷ついた体で無理を押して軍を労い、攻撃用の兵器をつくるように命じました。
両軍撤退する
体勢を立て直した曹操は再び前進して攻撃をしかけ、100余日の間呂布と対峙しましたが、にわかに蝗が湧き起こり、民衆は飢餓に苦しんでお互いを食い合うような有り様となりました。
兵糧が尽きた両軍は共に兵を退き、曹操は済陰郡・鄄城県に駐屯します。
一方呂布は済陰郡・乗氏国に向かいましたが、県人の李進に撃破され、東に向かって山陽郡に駐屯しました。
濮陽の戦い関連地図
興平元年(194年)9月のことです。
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弱気になった曹操
袁紹からの使者
この頃、袁紹が人を送って曹操に手を結ぼうと持ちかけ、曹操の家族を冀州・魏郡・鄴県(袁紹の本拠地)に住まわせるように言ってきます。
曹操は兗州を失ったばかりで兵糧も尽きていたため、この申し出を承知しようと思っていました。
程昱の進言
ちょうどその時、使者として出かけていた程昱が戻り、曹操の元に報告に来て言いました。
「秘かに聞くところによりますと、将軍(曹操)は家族を鄴県に住まわせて、袁紹と手を握るおつもりとか。本当にそのようにお考えなのでしょうか?」
曹操が「その通りだ」と答えると、程昱は続けて言いました。
「どうやら将軍(曹操)は今の劣勢に気後れなされたご様子。そうでなければどうして深く思慮を巡らされないのでしょうか。
そもそも袁紹は、燕・趙の地を根拠として天下を併呑する野心を抱いていますが、彼の智力では成し得ないでしょう。
よくご自身でお考えください。将軍(曹操)は彼(袁紹)の風下に立つことができますか?
将軍(曹操)は、龍虎の威を持ちながら高祖(劉邦)の臣となった韓信や彭越のような真似ができますか?
今、兗州を奪われたとは言え、なお3城が存在しております。戦闘に耐え得る兵士も1万人を下りません。
将軍(曹操)の神のごとき武勇に加え、文若(荀彧の字)や私(程昱)などを用いられますからには、覇者・王者の事業をきっと成就できましょう。願わくは改めてこのことをご考慮ください」
これを聞いた曹操は考えを改めました。
興平元年(194年)冬10月、曹操は兗州・東郡・東阿県に移ります。
豆知識
『魏書』武帝紀が注に引く『魏略』には、この時の程昱の進言として、次のような記述があります。
「昔、田横は斉の名家で、兄弟3人が代わる代わる王となり、千里四方の地を根拠とし、百万の軍勢をかかえ、諸侯と並んで南面して孤(諸侯の一人称)と称しました。
やがて高祖(劉邦)が天下を手に入れると、田横は状勢を考えて囚われ人となりました。
この時に当たって田横は平然としていたでしょうか?」
「そうだ。これは実際、男子最大の屈辱だ」
曹操が答えると、程昱は続けて言いました。
「私(程昱)は愚かなのでお気持ちは分かりかねますが、将軍(曹操)の望みは田横に及ばないように思えます。
田横は斉の一壮士に過ぎませんが、それでも高祖(劉邦)の臣下になることを恥じました。
今、将軍(曹操)には家族を鄴に行かせ、北面して袁紹に仕えようとなさっているとか。
将軍(曹操)の聡明さと神のごとき武勇をもって、袁紹なんぞの下位に立つのを恥辱と感じられないとは。
秘かに将軍(曹操)のためにそれを恥じる次第です」
興平元年(194年)、兗州の反乱を受け、すぐさま徐州から取って返した曹操ですが、呂布の武勇の前に苦戦を強いられていました。
そして対陣すること100余日、蝗害により兵糧不足となった両軍は、お互いに軍を退きます。
兗州の大半を奪われ、城を取り返すこともままならない曹操は、一時は袁紹の配下になることも考えましたが、程昱の進言によってなんとか思いとどまりました。