正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧②。太原郡・祁県王氏(王宏・王允・王晨・王淩・王蓋・王景・王定・王宏・王飛梟・王金虎・王明山・王黒)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
太原郡王氏系図
太原郡・祁県王氏系図
この記事では太原郡・祁県王氏の人物、
についてまとめています。
その他の太原王氏
- 【三国志人物伝】お③太原(晋陽)王氏①(王柔・王沢・王機・王昶・王黙・王沈・王渾・王深・王俊・王淪・王湛)
- 【三国志人物伝】お④太原(晋陽)王氏②(王浚・王尚・王済・王澄・王汶・王承・王卓・王聿・王述)
- 【三国志人物伝】お⑤太原(晋陽)王氏③(王坦之・王愷・王愉・王国宝・王忱・王綏)
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お②(太原郡王氏)
第1世代
王宏・長文
生年不詳〜初平3年(192年)没。幷州(并州)・太原郡・祁県の人。弟は王允。子に王晨、王淩。
若い頃から気骨があり、細かなことにこだわらない性格だった。
はじめ弘農太守となり、弘農郡に「宦官に仕えて爵位を金で買った者」がいれば、その位が二千石に至る者であっても、みな拷問し引っ捕らえてついに数十人を殺し、その威名は隣郡まで鳴り響いた。
王允によって王宏が右扶風*1、宋翼が左馮翊*2に任命されると、三輔*3の人々は活気に溢れ、兵糧となる穀物も豊かであった。
その後長安は陥落。王允を捕らえた李傕らは「王允を殺すことで王宏と宋翼が謀叛する」ことを恐れ、先に2人を殺そうと長安に呼び寄せた。
この時、李傕らの企みを見破っていた王宏は長安に行くことを拒んだが、宋翼は従わず、「1人で決起することはできない」と王宏もこのお召しに応じてしまう。
かくして王宏が獄に下されると、平素より王宏と不和だった司隷校尉の胡种は、ついに追い詰めて王宏を殺した。
王宏は死に臨み罵って「宋翼は卑しく愚かな青二才で、大計を相談するに足る男ではなかった。胡种は人の禍を楽しむ下劣な男で、きっと禍が自身に及ぶであろう」と言った。
後に胡种は、「王宏に杖で殴られる」夢を見たことが原因で病となり、数日して死んだ。
脚注
*1司隷・右扶風の太守。
*2司隷・左馮翊の太守
*3司隷の京兆尹、左馮翊、右扶風の3郡。
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王允・子師
生没年 | 137年〜192年 |
---|---|
出身地 | 幷州・太原郡・祁県 |
所属勢力 | 桓帝→霊帝→少帝→献帝 |
若くから経典を手放さず節義を重んじ、名儒の郭泰に「王佐の才」と評された。
誰に対しても臆さず諫めたために任官と解任を繰り返していたが、洛陽に入って権力を握った董卓によって司徒に任命された。
董卓の傍若無人な振る舞いを憂慮した王允は、董卓配下の呂布らと共に董卓の誅殺に成功するが、李傕・郭汜らの降伏を退けたため逆に攻められて処刑されてしまった。
第2世代
王晨
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・祁県の人。父は王宏。弟に王淩。叔父に王允。
初平3年(192年)6月、王允と彼の宗族10人余りはみな李傕らに誅殺された。
王允の兄の子・王晨と王淩は共に年少であったが、城壁を乗り越えて脱出する事に成功し、郷里に逃げ帰ることができた。
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王淩・彦雲
172年〜魏の嘉平3年(251年)没。幷州(并州)・太原郡・祁県の人。父は王宏。兄に王晨。妹は郭淮の妻。子に王広、王飛梟、王金虎、王明山。叔父に王允。
初平3年(192年)6月、王允と彼の宗族10人余りはみな李傕らに誅殺されが、王淩は逃れて郷里に帰ることができた。
その後、曹操の辟召*4を受け丞相府の掾属となり、文帝(曹丕)期には兗州刺史として対孫呉戦で功績を挙げる。
正始年間(240年〜249年)には司空、太尉にまでのぼったが、曹芳に代えて曹彪を擁立しようと企てたことが露見。司馬懿の討伐を受けて降伏し、都に送られる途上、毒薬を飲んで自害した。
脚注
*4大将軍や三公九卿、太守や県令などの地方長官が行うことが出来る人材登用制度のこと。
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王蓋
生年不詳〜初平3年(192年)没。幷州(并州)・太原郡・祁県の人。父は王允。弟に王景、王定。
初平3年(192年)6月、王允と共に李傕らに誅殺された。この時王蓋は侍中だった。
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第3世代
王広・公淵
生年不詳〜魏の嘉平3年(251年)没。幷州(并州)・太原郡・祁県の人。父は王淩。弟に王飛梟、王金虎、王明山。
学業に優れ高い志を持っていた。
父・王淩が曹芳に代えて曹彪を擁立しようと企てた時、王淩が派遣した舎人の労精から計画を聞いた王広は、「天子の廃立は大事件です。真っ先に災難を受ける羽目にならないように」とこれに反対したが、王淩は聞き入れなかった。
結果、王淩は司馬懿の討伐を受けて降伏し、都に送られる途上に毒薬を飲んで自害。王広は父の罪に連座して処刑された。享年40余歳だった。
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王飛梟
生年不詳〜魏の嘉平3年(251年)没。幷州(并州)・太原郡・祁県の人。父は王淩。兄に王広。弟に王金虎、王明山。
弟の王金虎と共に人並み外れた才能・武勇を持っていたが、父・王淩の罪に連座して処刑された。
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王金虎
生年不詳〜魏の嘉平3年(251年)没。幷州(并州)・太原郡・祁県の人。父は王淩。兄に王広、王飛梟。弟に王明山。
兄の王飛梟と共に人並み外れた才能・武勇を持っていたが、父・王淩の罪に連座して処刑された。
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王明山
生年不詳〜魏の嘉平3年(251年)没。幷州(并州)・太原郡・祁県の人。王淩の末子。兄に王広、王飛梟、王金虎。兄弟の中で一番有名だった。
書が上手で多彩な技芸の持ち主だった。彼の書を手に入れた人は、みなそれを手本とした。
父・王淩が自害すると、逃亡して幷州(并州)・太原郡に向かったが、追手の軍に追いつかれたが、ちょうどその時、飛んできた鳥が桑の木に止まって枝の揺れるに任せて上下していた。
王明山が弓を取り上げて即座にこれを射貫いてみせると、それを見た追手は立ち止まり、それ以上進まなかった。
その後王明山は、親しい家に立ち寄って食事をとったが、その家の者が役人に密告したので、結局捕らえられてしまった。
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王黒
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・祁県の人。王允の孫。父は不明。
豫州(予州)・潁川郡・許県に遷都した献帝は、王允の忠節を思って改めて葬儀を行い、司徒の印綬を送って本郡に帰葬させた。
この時、王允の孫の王黒は安楽亭侯に封ぜられ、食邑3百戸を与えられた。
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