建安元年(196年)6月、徐州に侵攻した袁術と劉備の戦いと呂布の裏切り(張飛と曹豹の諍いによる下邳県の失陥)、呂布の将・郝萌の反乱についてまとめています。
スポンサーリンク
目次
袁術の徐州侵攻と呂布の裏切り
袁術の徐州侵攻
建安元年(196年)6月、ついに袁術が、以前から狙っていた徐州に侵攻を開始しました。
すると劉備は、司馬の張飛を後に残して徐州・下邳国・下邳県を守らせ、自ら兵を率いて盱眙県と淮陰県で袁術の進撃を阻みます。
劉備は袁術と淮陰県の石亭で戦いましたが、なかなか決着がつかず、膠着状態に入って1ヶ月が経過しようとしていました。
袁術の徐州侵攻
豆知識
『蜀書』先主伝(劉備の列伝)には、
「先主(劉備)は、盱眙・淮陰で(袁術の進撃を)阻んだ。曹公(曹操)は上表して先主(劉備)を鎮東将軍とし、宜城亭侯に封じた」
とあります。
この時曹操はまだ献帝を迎えておらず、おそらく自分と同じく袁紹派に属し、共通の敵である袁術と戦っている劉備に箔をつけるために上表したものと思われます。
またその後、楊奉らの上表によって曹操が鎮東将軍に任命されることになります。
呂布が下邳を奪う
この時袁術は、曹操に敗れ劉備を頼って下邳県の西[おそらく豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)]に駐屯していた呂布に密書を送り、「呂布が下邳県を攻撃するならば兵糧を援助する」ことを約束しました。
呂布は大いに喜んで、軍勢を率いて水陸両面から東方へ下り、下邳県の西・40里(17.2km)の地点に到達します。
そこへ、劉備の中郎将・許耽が 夜陰に紛れて司馬の章誑を遣わして、
「張益徳(張飛)と下邳相*1・曹豹が諍いを起こして、益徳(張飛)が曹豹を殺しました。城中は大混乱に陥り、互いに疑心暗鬼になっています。
(揚州・)丹楊郡の兵・千人は西の城門・白門の内側に駐屯しておりますが、将軍(呂布)が東方へ来られたと聞いて、こぞって小躍りして喜び、生き返ったかのようでございます。
将軍(呂布)の軍勢が城の西門に向かわれましたならば、丹楊郡の軍勢は即刻門を開いて将軍(呂布)を迎え入れるでありましょう」
と言ってきました。これを聞いた呂布は夜中に進軍して夜明け頃に下邳県の城下に到着。夜が明けきると丹楊郡の軍兵はこぞって門を開け放ち、呂布の軍勢を城内に導き入れます。
呂布は門の上にどっかと腰を下ろし、歩兵・騎兵は火を放って張飛の軍勢を散々に撃ち破り、劉備の妻子や軍需品、配下の将兵や官吏の家族などを捕虜にしました。
以上は『魏書』呂布伝の注に引かれている『英雄記』を基にまとめていますが、
『蜀書』先主伝(劉備の列伝)には、
「先主(劉備)と袁術が睨み合ったまま1ヶ月が経過した時、呂布がその隙につけ込んで下邳を襲撃した。下邳の守将である曹豹は寝返って、秘かに呂布を迎え入れた」
とあり、その『蜀書』先主伝(劉備の列伝)の注に引かれている『英雄記』では、
「陶謙の元将軍・曹豹が下邳におり、張飛は彼を殺そうとした。曹豹の軍勢は陣営を固めて守備しつつ、人をやって呂布を招き寄せた。呂布は下邳を奪取し、張飛は敗走した」
とあり、これらによると曹豹は張飛に殺されていません。
脚注
*1 下邳国の太守または下邳県の県令。ここではおそらく下邳県の県令だと思われます。
スポンサーリンク
呂布と劉備が再び手を握る
劉備が海西県に逃れる
徐州・下邳国・下邳県が呂布に奪われたことを聞いた劉備は、兵を引き揚げて帰途につきましたが、下邳県に到着する頃には、軍は散り散りになっていました。
劉備は散り散りになった兵卒を集めて東に向かい、徐州・広陵郡・広陵県に入って再び袁術と戦いを交えましたが敗北し、海西県に移って駐屯します。
広陵郡
広陵県と海西県
『蜀書』先主伝(劉備の列伝)ではここで、
「楊奉・韓暹が徐州・揚州の辺りを荒らしたので、先主(劉備)は彼らを迎え撃ってことごとく斬り殺した」
とありますが、この年の7月、楊奉と韓暹は献帝につき従って洛陽(雒陽)に入り、8月には、楊奉は車騎将軍に、韓暹は大将軍・司隸校尉に任命されていますので、『蜀書』先主伝の誤りだと思われます。
劉備が呂布に降る
東海郡の人・麋竺
海西県に移った劉備軍ですが、食糧がなく、飢餓のため官吏や兵士たちがお互いに食い合うような有り様でした。
この時、徐州・東海郡・胊県出身の麋竺は、自分の妹を劉備の夫人として差し上げ、家財の奴僕(召使いの男)2千人と金銀貨幣を提供して軍費を助けました。
呂布との和睦
ここに至って、劉備は呂布に使者を送って和睦を求めます。
すると呂布の方でも「袁術が兵糧を送ってこないこと」に怒りを覚えていたので、力を合わせて袁術を討つことを考えました。
そこで呂布は、劉備の妻子を返して豫州刺史に任命し、豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)に駐屯させ、呂布自身は自ら徐州牧を称しました。
『蜀書』先主伝(劉備の列伝)ではここで、
「先主(劉備)は関羽を派遣して下邳県を守備させた」
とありますが、この時点で下邳県は呂布が拠点としており、関羽が下邳県を守備するのはまだ後のことです。
スポンサーリンク
郝萌の反乱
郝萌の反乱
6月のある日の夜更けのこと、呂布の大将で司隷・河内郡出身の郝萌が叛旗を翻し、兵を率いて呂布の政庁である下邳県の役所に侵入して、政堂に入る小門を攻撃しました。
すると呂布は、反乱者が誰かも確認しないうちに、頭巾もつけず肩も露わな服装のまま、妻を連れて厠(トイレ)の天井から壁をつたって脱出し、都督の高順の陣営に逃げ込みます。
すると、呂布の「(敵兵の言葉に)河内郡の訛りがあった」という証言から、反乱を起こしたのは郝萌だと見抜いた高順は、すぐさま軍兵を武装させて下邳県の役所に攻め入ると、一斉に弓や弩を射かけて郝萌の軍勢を敗走させました。
曹性が郝萌に背く
夜が明けた頃、郝萌の将・曹性が郝萌に背いて決闘し、郝萌は曹性に斬りつけて傷を負わせ、曹性は郝萌の片腕を切り落とします。
そこへ駆けつけた高順は郝萌の首を切り落とし、曹性を寝台に乗せて担がせ、呂布の元に送り届けました。
反乱の首謀者
呂布が問い質すと曹性は、
- 郝萌は袁術の意向を受けていたこと
- 陳宮が共謀者であること
を伝えます。
この時、その場にいた陳宮の顔が真っ赤になっていたため、側にいた者はみな陳宮の変化に気づいていましたが、呂布は陳宮を不問に付しました。
また曹性が、
「郝萌は何度もこの計画について意見を求めてきましたが、私は『呂将軍(呂布)は総大将として神のご加護がございますゆえ、攻撃することは不可能だ』と申しておりました。
郝萌がここまで愚かだとは、思いもよりませんでした」
と言うと、呂布は曹性に向かって、
「卿(あなた)は健児(勇気のある強い男)だ」
と言って曹性を手厚く看護するように命じ、傷が癒えると元の郝萌の軍勢を統率させました。
建安元年(196年)6月、ついに袁術が、以前から狙っていた徐州に侵攻を開始します。
これに劉備が迎撃に出ると、袁術は呂布に「兵糧を援助すること」を約束して、背後の下邳県への攻撃を要請。張飛と曹豹の諍いにより、下邳県があっけなく呂布の手に落ちると、劉備軍は総崩れとなり、敗北を重ねて広陵郡・海西県に落ちのびました。
そして、進退が極まった劉備が敢えて呂布に投降を申し出ると、袁術が「兵糧の援助」の約束を果たさないことに怒りを覚えていた呂布は再び劉備と手を結び、劉備を豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)に駐屯させました。