袁術(えんじゅつ)の天子(てんし)(皇帝(こうてい))僭称(せんしょう)と、陳珪(ちんけい)・陳登(ちんとう)父子の暗躍により始まった袁術(えんじゅつ)と呂布(りょふ)の戦いについてまとめています。

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袁術の皇帝僭称

袁術の即位

建安(けんあん)2年(197年)春、「天の意志を示す瑞兆(ずいちょう)(吉兆)が下った」という司隷(しれい)・河内郡(かだいぐん)出身の張烱(ちょうけい)の説を採用して、ついに袁術(えんじゅつ)が寿春(じゅしゅん)で天子(てんし)(皇帝(こうてい))を僭称(せんしょう)します。

袁術(えんじゅつ)は国号を「仲(ちゅう)」とし、九江太守(きゅうこうたいしゅ)を淮南尹(わいなんいん)と改め、公卿(こうけい)以下百官を置き、南郊(なんこう)・北郊(ほっこう)で祭祀(さいし)を行いました。

建安(けんあん)2年(197年)春の群雄勢力図

建安2年(197年)春の三国志群雄勢力図

建安2年(197年)春の凡例

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袁術の招聘(失敗)

沛相(はいしょう)・陳珪(ちんけい)

徐州(じょしゅう)・下邳国(かひこく)出身の沛相(はいしょう)[豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)の太守(たいしゅ)]・陳珪(ちんけい)は、元太尉(たいい)・陳球(ちんきゅう)の弟の子でした。

陳珪(ちんけい)と袁術(えんじゅつ)は、同じく三公(さんこう)を輩出した氏族の子弟として若い頃から互いに往(ゆ)き来していたので、袁術(えんじゅつ)は陳珪(ちんけい)を招(まね)く手紙を送りました。

袁術の手紙全文
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昔、秦(しん)が誤(あやま)った政治を行い、天下の群雄は競って政権を奪い合いまして、智恵と勇気を兼ね備えた者が最後にその果実を手に入れました。

現在、世の中は乱れに乱れ、再び瓦(かわら)の砕(くだ)け散る状況となりました。まことに英傑が行動を起こすべき時です。

足下(そっか)(あなた:陳珪(ちんけい))とは昔なじみですので、きっと私への援助を承知してくださるでしょう。もし大仕事を成し遂(と)げる時には、きっとあなたは私の腹心となってくれることと思っております。


また陳珪(ちんけい)の2番目の子の陳応(ちんおう)は、当時下邳国(かひこく)にいましたが、袁術(えんじゅつ)は同時に陳応(ちんおう)を脅(おど)して人質に取り、どうあっても陳珪(ちんけい)を呼び寄せようと謀(はか)りました。


そこで陳珪(ちんけい)は、返書を送って次のように言いました。


「曹将軍(そうしょうぐん)(曹操(そうそう))は神の如(ごと)き武勇をもって時代の要請に応(こた)え、過去の規範を復興されて凶悪な輩(やから)を平定・統治し、四海の内を清め安定させようとされております。

足下(そっか)(あなた:袁術(えんじゅつ))は曹将軍(そうしょうぐん)(曹操(そうそう))と力を合わせ、心を1つにして漢(かん)の王室を補佐し奉(たてまつ)るに違いないと思っておりましたのに、秘かに道ならぬ企(たくら)みを抱(いだ)いて我が身を禍(わざわい)に晒(さら)すとは、なんと痛ましいことではありませんか。

私利に目が眩(くら)んで迎合することを私にお望みになっても、たとえ死んでもさようなことはいたしかねます」

陳珪の手紙全文
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昔、秦(しん)の末期は欲望に任せて暴力を欲しいままにし、残虐は天下を覆(おお)い、害毒は民衆に降りかかりました。下民はその命令に耐えきれず、その結果、ついに雪崩(なだれ)を打って秦(しん)は崩壊したのでございます。

今は衰世(すいせい)(衰(おとろ)えた世の中)とは申しながら、まだ滅亡した秦(しん)のような苛酷(かこく)暴虐(ぼうぎゃく)による無秩序は存在しておりません。

曹将軍(そうしょうぐん)(曹操(そうそう))は神の如(ごと)き武勇をもって時代の要請に応(こた)え、過去の規範を復興されて凶悪な輩(やから)を平定・統治し、四海の内を清め安定させようとされております。

足下(そっか)(あなた:袁術(えんじゅつ))は曹将軍(そうしょうぐん)(曹操(そうそう))と力を合わせ、心を1つにして漢(かん)の王室を補佐し奉(たてまつ)るに違いないと思っておりましたのに、秘かに道ならぬ企(たくら)みを抱(いだ)いて我が身を禍(わざわい)に晒(さら)すとは、なんと痛ましいことではありませんか。

もし判断力を失っても理性に立ち戻ることをわきまえておられるならば、今からでも災難から逃れることができましょう。

私は昔なじみを忘れぬゆえ、心情を包み隠さず打ち明けました。たとえ耳が痛いことでも肉親の情愛であります。私利に目が眩(くら)んで迎合することを私にお望みになっても、たとえ死んでもさようなことはいたしかねます。

元東海相(とうかいしょう)・徐璆(じょきゅう)

豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・潁川郡(えいせんぐん)・許県(きょけん)に遷都(せんと)した時、献帝(けんてい)は徐璆(じょきゅう)を廷尉(ていい)に徴召(ちょうしょう)しましたが、徐璆(じょきゅう)が京師(けいし)(許県(きょけん))に向かう途中、袁術(えんじゅつ)によって身柄を拘束されてしまいました。


天子(てんし)(皇帝(こうてい))に即位した袁術(えんじゅつ)は、徐璆(じょきゅう)に上公(じょうこう)の位を授(さず)けようとしましたが、徐璆(じょきゅう)は、


「龔勝(きょうしょう)と鮑宣(ほうせん)だけが人というわけではありません。私は死んでも後漢(ごかん)への節義を守り通します」


と言って受けなかったので、袁術(えんじゅつ)も無理強(じ)いはしませんでした。


※龔勝(きょうしょう)と鮑宣(ほうせん)は共に、王莽(おうもう)による任官を断って前漢(ぜんかん)に殉(じゅん)じた人物です。

元兗州刺史(えんしゅうしし)・金尚(きんしょう)

袁術(えんじゅつ)は、元兗州刺史(えんしゅうしし)・金尚(きんしょう)を太尉(たいい)に任命しようとしました。

ですが、金尚(きんしょう)はこれを拒否して逃亡したので、袁術(えんじゅつ)は金尚(きんしょう)を殺害してしまいました。

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陳珪(ちんけい)の招聘(しょうへい)については『魏書(ぎしょ)』袁術伝(えんじゅつでん)の「興平(こうへい)2年(195年)冬」の直前に記述があります。

ですが、その頃まだ曹操(そうそう)は兗州(えんしゅう)で呂布(りょふ)と戦っている最中で、陳珪(ちんけい)の言うような影響力を持っていたとは思えませんので、『資治通鑑(しじつがん)』に従って袁術(えんじゅつ)の天子(てんし)(皇帝(こうてい))僭称(せんしょう)後のこととして扱っています。


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陳珪・陳登父子の暗躍

袁術と呂布の縁談

建安(けんあん)2年(197年)5月、袁術(えんじゅつ)は呂布(りょふ)と手を結びたいと思い「呂布(りょふ)の娘を自分の息子の嫁に欲しい」と申し込みました。

そして呂布(りょふ)の同意を得た袁術(えんじゅつ)は、韓胤(かんいん)を使者に立てて「自分が天子(てんし)(皇帝)に即位したこと」を伝え、嫁(呂布(りょふ)の娘)を迎えに行かせます。


これに沛相(はいしょう)[豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)の太守(たいしゅ)]の陳珪(ちんけい)は、


「袁術(えんじゅつ)と呂布(りょふ)が姻戚となれば、徐州(じょしゅう)と楊州(ようしゅう)が南北に連合することになって、国家の患(わずら)いになるだろう」


と心配し、これを阻止しようと呂布(りょふ)の元に赴(おもむ)いて言いました。


「曹公(そうこう)(曹操(そうそう))は天子(てんし)(献帝(けんてい))を迎(むか)えたてまつり、国政を補佐され、その輝かしい威光は当代を風靡(ふうび)し、四海の内を征伐されようとしておられます。

将軍(しょうぐん)(呂布(りょふ))には曹公(そうこう)(曹操(そうそう))と計画を共にされ、泰山(たいざん)のようにどっしりとした安定を得るようお考えになるべきです。

今、袁術(えんじゅつ)と婚姻を結ばれたならば、天下から不義の汚名を着せられ、積み重ねた卵のような危険な事態を招(まね)くに違いありません」


すると呂布(りょふ)は、以前袁術(えんじゅつ)が自分を受け入れてくれなかったことを思い出し、すでに出発していた娘を追いかけて連れ戻すと、婚約を破棄して、袁術(えんじゅつ)の使者・韓胤(かんいん)に枷(かせ)をつけて護送し、豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・潁川郡(えいせんぐん)・許県(きょけん)の市場でさらし首にしました。

陳珪・陳登父子の暗躍

この時、陳珪(ちんけい)は息子の陳登(ちんとう)を使者として曹操(そうそう)の元に派遣しようとしましたが、呂布(りょふ)は承知しませんでした。

ですが、ちょうど曹操(そうそう)の使者が到着して呂布(りょふ)を左将軍(さしょうぐん)に任命したので、呂布(りょふ)は大いに喜んで、すぐに陳登(ちんとう)の出発を許し、同時に表文を持たせて感謝の意を表明させました。


ですが陳登(ちんとう)は曹操(そうそう)に面会した際、


「呂布(りょふ)は武勇はあるが無計画で、軽々しく人についたり離れたりする者であるゆえ、早く滅ぼす手立てを考えるべきです」


と申し述べました。

すると曹操(そうそう)は、


「呂布(りょふ)は野蛮な心を持った狼の子だ。実際、いつまでも養っておくわけにはいくまい。君以外には、その事実を詳しく知らせてくれるものはいない」


と言って、すぐさま陳登(ちんとう)の扶持(ふち)(給料)を中二千石*1に引き上げて広陵太守(こうりょうたいしゅ)に任命し、別れるにあたっては、彼の手を取って、


「東方(徐州(じょしゅう))のことは任せたぞ」


と言い、内密に兵を取りまとめて内通するように命じました。

脚注

*1 通常、太守(たいしゅ)の官秩(かんちつ)は二千石。中二千石は九卿(きゅうけい)や河南尹(かなんいん)と同等の官秩(かんちつ)となります。

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陳登の詭弁(きべん)

呂布(りょふ)は陳登(ちんとう)を仲介として徐州牧(じょしゅうぼく)の地位を要求しましたが、任命されませんでした。

陳登(ちんとう)が戻って来ると、呂布(りょふ)は大いに怒って戟(げき)を抜き、机を叩き斬って言いました。


「お前の親父は儂(わし)に、曹公(そうこう)(曹操(そうそう))に協力し、袁公路(えんこうろ)(袁術(えんじゅつ))との結婚を破棄するように勧めておきながら、今、儂(わし)が要求したことは1つも手に入らない。

ところがお前たち親子は揃(そろ)って高い地位にのぼりおった。儂(わし)はお前たちに売られたのだな。お前は儂(わし)のためにどう言ってきたのかっ!?」


すると陳登(ちんとう)は、顔色一つ変えず、ゆっくりとさとすように言いました。


「私めは曹公(そうこう)(曹操(そうそう))にお目にかかってこう申し上げました。

『将軍(しょうぐん)(呂布(りょふ))を扱うのは、ちょうど虎を飼うのと同じで、たらふく肉をあてがっておかねばなりません。もし腹を空かしていたら人間を食らうでしょう。(ですから徐州(じょしゅう)をお与えください)』と。

すると曹公(そうこう)(曹操(そうそう))は、『いや、お前は間違っている。ちょうど鷹(たか)を飼うのと同じで、腹が空けば役に立つが、満腹になれば飛んでいってしまうのだ』とおっしゃいました。

私の申したことは、ざっとこんな内容です」


この話を聞いて、呂布(りょふ)の気持ちはやっとほぐれました。


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袁術と呂布の戦い

袁術軍(張勲・橋蕤)の大敗北

呂布(りょふ)が婚約を破棄し、韓胤(かんいん)が処刑されたことを知った袁術(えんじゅつ)は激怒します。

袁術(えんじゅつ)は大将(たいしょう)の張勲(ちょうくん)・橋蕤(きょうずい)らを派遣し、韓暹(かんせん)・楊奉(ようほう)らと連合して、歩騎数万を徐州(じょしゅう)・下邳国(かひこく)・下邳県(かひけん)に向かわせて、7つの道から呂布(りょふ)を攻めました。

この時、呂布(りょふ)の兵は3千、馬は4百頭しかいなかったため、敵(かな)わないのではないかと恐れ、陳珪(ちんけい)に向かって、


「今、袁術(えんじゅつ)軍の攻撃を招(まね)いたのはお前のせいだ。どうしたら良いのだっ!?」


と問います。すると陳珪(ちんけい)は、


「韓暹(かんせん)・楊奉(ようほう)と袁術(えんじゅつ)の軍は、即席の連合軍にすぎません。かねてから定めた計画があったわけではありませんし、協力関係を維持していくことは不可能です。

息子の陳登(ちんとう)が下した判断では、彼らは群れをなした鶏のようなもので、勢いから言って1つのとまり木に一緒に宿ることはありえず、きっと分裂させることができるということです」


と答えました。

そこで呂布(りょふ)は陳珪(ちんけい)の計略を採用し、韓暹(かんせん)と楊奉(ようほう)の元に使者を派遣して、自分と協力して袁術(えんじゅつ)軍を攻撃するように説得させ、ありったけの軍需品を提供する旨(むね)を申し入れます。

呂布の手紙全文
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2将軍(しょうぐん)(韓暹(かんせん)・楊奉(ようほう))には天子(てんし)(献帝(けんてい))の御車(みくるま)を脱出させて東へ移しまいらせ、国家に対して大いなる功績を立てておられます。その勲功は万世の後(のち)まで消滅せぬよう、記録に留(とど)めてしかるべきものです。

ただ今、袁術(えんじゅつ)が反逆に踏み切りましたからには、当然力を合わせて打倒すべきでありますのに、どうして逆賊と結託して反対に私を討とうとなさるのですか。

私には董卓(とうたく)を誅殺(ちゅうさつ)した手柄があり、2将軍(しょうぐん)(韓暹(かんせん)・楊奉(ようほう))と同じく国家に対して功績を立てた臣下であります。

今この時こそ力を合わせて袁術(えんじゅつ)を撃破し、天下に功業を樹立すべきです。この機を逃(のが)してはなりません。


韓暹(かんせん)と楊奉(ようほう)は手紙を受け取ると、直(ただ)ちに計画を変更して呂布(りょふ)に味方しました。


呂布(りょふ)が軍隊を前進させて、張勲(ちょうくん)の陣営から百歩のところに至った時、韓暹(かんせん)と楊奉(ようほう)の軍勢は時を合わせて一斉に行動を起こし、10人の将の首を斬り、殺害された者、負傷した者、川に落ちて溺死(できし)した者の数は数えきれませんでした。

呂布の手紙

その後呂布(りょふ)は、韓暹(かんせん)・楊奉(ようほう)の2軍と共に、袁術(えんじゅつ)の本拠地である揚州(ようしゅう)・九江郡(きゅうこうぐん)・寿春県(じゅしゅんけん)に向かって水陸両面から進軍を開始し、通過した地域で略奪を働きつつ鍾離国(しょうりこく)まで進むと、大量の戦利品を得て帰途につきます。


寿春県と鍾離国

寿春県(じゅしゅんけん)と鍾離国(しょうりこく)

赤線:淮水(わいすい)


呂布(りょふ)は淮水(わいすい)の北に渡ってしまってから、袁術(えんじゅつ)に手紙を残してこう述(の)べました。


「足下(そっか)(あなた:袁術(えんじゅつ))は軍隊の強大さを誇って、『勇猛な武将、勇敢な兵士が、敵を完全に破滅させようとするのを、常に抑制しているのだぞ』といつも言っておられた。

私は武勇なき者だが、淮南(わいなん)の地を虎のごとく歩きまわると、わずかの間にも拘(かか)わらず、足下(そっか)は寿春県(じゅしゅんけん)にネズミのようにコソコソと逃げ込み、頭を出す者さえいないありさま。足下(そっか)の勇猛な武将、勇敢な兵士は一体みんなどこに行ってしまったのか。

足下(そっか)は大言壮語して天下の人をたぶらかすのがお好きなようだが、天下の人を、どうしてことごとくたぶらかすことができようぞ。

昔は交戦状態にあっても、双方の間に使者が往(ゆ)き来したという。この文書を書いたのは私の発案ではないが、互いの距離はそう隔(へだ)たってはいないのだから、また手紙を差し上げましょう」


袁術(えんじゅつ)は自(みずか)ら歩兵・騎兵を率(ひき)いて淮水(わいすい)のほとりで気勢をあげましたが、呂布(りょふ)の騎兵はすべて淮水(わいすい)の北におり、大いに嘲笑(ちょうしょう)を浴びせかけながら帰途につきました。

琅邪相・蕭建

この時、徐州(じょしゅう)・東海郡(とうかいぐん)出身の琅邪相(ろうやしょう)(徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)の太守(たいしゅ))・蕭建(しょうけん)が莒県(きょけん)を治めていましたが、城の守備を固め、呂布(りょふ)と誼(よしみ)を通じようとしませんでした。


琅邪国(ろうやこく)の場所

徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)


徐州・琅邪国・莒県

徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・莒県(きょけん)


そこで呂布(りょふ)は蕭建(しょうけん)に手紙を送り、誼(よしみ)を通じるように説得します。

呂布の手紙全文
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天下の人が兵を挙(あ)げたのは、もともと董卓(とうたく)打倒が目的だったからだ。私は董卓(とうたく)を殺害して関東(かんとう)(広く函谷関(かんこくかん)より東の地域のこと)に至り、軍勢を募(つの)って西方から天子(てんし)(献帝(けんてい))の御車(みくるま)をお迎えして、洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))を復興させたいと念じていたが、関東(かんとう)の将軍(しょうぐん)たちは逆に互いに攻撃しあって、国家に思いをいたそうとする者はいなかった。

私は[幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・]五原郡(ごげんぐん)の人間だ。五原郡(ごげんぐん)は徐州(じょしゅう)から5千里(約2,150km)以上離れた、天の西北の隅(すみ)にあるのだから、何も今わざわざやって来て、天の東南にある土地を争い合おうとは思っていない。

莒県(きょけん)は下邳県(かひけん)からほど遠くない地点にあるゆえ、当然誼(よしみ)を通じてしかるべきであろう。

君がもし自分の意志を貫(つらぬ)くならば、郡はおのおの帝国、県はおのおの王国だと考えておられることになる。

昔、楽毅(がくき)が斉(せい)を攻撃した時、あっという間に斉(せい)の70余城を攻め落としたが、ただ莒県(きょけん)と(青州(せいしゅう)・北海国(ほっかいこく)・)即墨国(そくぼくこく)の2つの城だけは落ちなかった。その理由は、城中に田単(でんたん)がいたからである。

私は楽毅(がくき)ではないが、君(蕭建(しょうけん))もまた田単(でんたん)ではない(守り抜くことはできないだろう)。

この手紙を受け取ったなら、智恵者と共に十分に相談するがよろしかろう。


蕭建(しょうけん)は手紙を受け取ると、即刻呂布(りょふ)に主簿(しゅぼ)を遣(つか)わして返書を届(とど)け、へりくだった態度をとって良馬5頭を献上しました。


ちなみに、徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)の郡治所は、莒県(きょけん)ではなく開陽県(かいようけん)です。この時開陽県(かいようけん)には、後述する臧覇(ぞうは)が駐屯していました。

臧覇が莒県を奪う

蕭建(しょうけん)はその後、泰山賊(たいざんぞく)の帥(すい)・臧覇(ぞうは)に襲撃されて撃ち破られ、臧覇(ぞうは)は蕭建(しょうけん)が蓄(たくわ)えていた物資を手に入れました。

呂布(りょふ)はこのことを知ると、自(みずか)ら歩兵・騎兵を率(ひき)いて莒県(きょけん)に向かおうとします。

この時高順(こうじゅん)は、


「将軍(しょうぐん)(呂布(りょふ))はご自身で董卓(とうたく)を殺害され、その威光は戎(えびす)(西方異民族)どもにまで鳴り響いておられるのです。じっと座って辺りを見回しておられるだけで、遠くの者も近くの者も自然に恐れて服従いたします。

軽々しく自分から出兵されてはなりません。もし勝利を得られなかった場合には、少なからず名声を損(そこ)なうことになります」


と諫(いさ)めましたが、呂布(りょふ)は聞き入れませんでした。

案の定(じょう)、臧覇(ぞうは)は呂布(りょふ)の乱暴略奪を恐れて城を固く守ったので、呂布(りょふ)は攻め落とすことができず、何も得る物なく下邳県(かひけん)に引き揚(あ)げました。

後(のち)に臧覇(ぞうは)は、再び呂布(りょふ)と和睦(わぼく)します。


『資治通鑑(しじつがん)』では、呂布(りょふ)が臧覇(ぞうは)を攻めた理由として、

「臧覇(ぞうは)は奪った物資を呂布(りょふ)に贈(おく)ることを約束していたが、臧覇(ぞうは)が贈(おく)って来なかったので、呂布(りょふ)が自(みずか)ら要求しに行った」

とされています。

これによると、呂布(りょふ)は蕭建(しょうけん)と誼(よしみ)を通じておきながら臧覇(ぞうは)の襲撃を黙認していたことになり、呂布(りょふ)の出陣は「蕭建(しょうけん)の救援」ではなく、約束を守らない臧覇(ぞうは)への恫喝(どうかつ)ということになります。


また『資治通鑑(しじつがん)』には「泰山賊(たいざんぞく)の帥(すい)・臧覇(ぞうは)」とありますが、『魏書(ぎしょ)』臧覇伝(ぞうはでん)には、臧覇(ぞうは)は「徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・開陽県(かいようけん)に駐屯した」とあります。

豆知識

呂布と高順

高順(こうじゅん)は清廉潔白な人柄で威厳があり、酒を飲まず、贈り物を受け取りませんでした。

統率していた兵士は7百人余りでしたが、千人と公称し、鎧(よろい)・甲(かぶと)・武器はすべてよく鍛えられ、手入れが行き届いており、攻撃した相手を必ず撃ち破ったため「陥陣営(かんじんえい)」とあだ名されていました。


高順(こうじゅん)はいつも呂布(りょふ)を諫(いさ)めて、


「大体、家を破滅させ国を滅亡させる場合、忠義な臣下や秀(すぐ)れた知恵者がいないわけではありません。ただそれらの者を起用しないことが問題なのです。

将軍(しょうぐん)(呂布(りょふ))は行動なさる場合に熟慮なさらず、すぐに喜んで間違ったことを口に出されます。その誤りは数えきれないほどであります」


と言っていました。

呂布(りょふ)は彼の忠義を認めてはいましたが、その意見を採用することはできませんでした。


呂布(りょふ)は、郝萌(かくほう)が謀叛を起こしてから一層高順(こうじゅん)を疎(うと)んじるようになり、魏続(ぎぞく)とは姻戚関係であったために、高順(こうじゅん)が指揮していた軍兵をことごとく奪い取って魏続(ぎぞく)に与え、戦争になると、わざと高順(こうじゅん)に魏続(ぎぞく)の配下の軍隊を指揮させましたが、高順(こうじゅん)の方では最後まで恨(うら)みがましい気持ちを抱(いだ)きませんでした。

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建安(けんあん)2年(197年)春、ついに袁術(えんじゅつ)が寿春(じゅしゅん)で天子(てんし)(皇帝(こうてい))を僭称(せんしょう)しました。

また袁術(えんじゅつ)は呂布(りょふ)と手を結びたいと思い、「自分の息子と呂布(りょふ)の娘の婚姻」を進めますが、袁術(えんじゅつ)と呂布(りょふ)が手を結ぶことを危惧(きぐ)した陳珪(ちんけい)・陳登(ちんとう)の働きかけによって、呂布(りょふ)はこの婚約を破棄してしまいます。

これに激怒した袁術(えんじゅつ)は、献帝(けんてい)の元を追われた韓暹(かんせん)・楊奉(ようほう)らと連合して呂布(りょふ)を攻めますが、陳珪(ちんけい)の離間の計により、大敗北を喫(きっ)してしまいました。