208年【漢:建安13年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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208年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 |
人物 |
天子(皇帝) |
劉協(献帝) |
皇太后 |
ー |
皇后 |
伏皇后(伏寿) |
朝廷
官職 |
人物 |
丞相 |
曹操 |
御史大夫 |
郗慮 |
執金吾 |
伏完 |
太中大夫 |
孔融 → ー |
前将軍 |
馬騰 |
左将軍 |
劉備 |
輔国将軍 |
伏完 |
安降将軍 |
韓遂 |
伏波将軍 |
夏侯惇 |
偏将軍 |
馬超 |
地方官
官職 |
人物 |
司隸校尉 |
鍾繇 |
冀州牧 |
曹操 |
豫州牧 |
劉備 |
荊州刺史 |
劉琦 |
益州牧 |
劉璋 |
揚州刺史 |
劉馥 |
遼東太守 |
公孫康 |
河内太守 |
魏种 |
河東太守 |
杜畿 |
会稽太守 |
孫権 |
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208年の主な出来事
月 |
出来事 |
1月 |
- 司徒の趙温が曹操の子・曹丕を召聘する。
- 司徒の趙温が罷免される。
- 曹操が鄴県に帰還する。
- 曹操が鄴県の玄武苑に玄武池を作り、そこで水軍の訓練をする。
- 孫権が荊州・江夏郡の黄祖を討伐する。
|
6月 |
- 三公を廃し、丞相と御史大夫を設置する。
- 曹操が丞相に就任する。
- 張遼が長社県に駐屯する。
- 曹操が馬騰を衛尉に任命する。
- 曹操が馬超を偏将軍に任命する。
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7月 |
- 曹操が南征して劉表を攻める。
|
不明 |
- 孫権配下の賀斉が揚州・丹楊郡(丹陽郡)南部の不服住民を討伐する。
|
8月 |
- 光禄勲の郗慮が御史大夫に任命される。
- 曹操が太中大夫の孔融を処刑し、その一族を皆殺しとする。
- 劉表が病死する。
- 劉表の少子・劉琮が劉表の後を継ぐ。
|
9月 |
- 曹操軍が荊州・南陽郡・襄陽県に到達する。
- 劉琮が荊州を挙げて曹操に降伏する。
- 樊城にいた劉備が南に逃走する。
- 曹操が劉備軍を追撃する。
- 劉備軍が長坂で曹操軍に敗れる。(長坂の戦い)
- 徐庶が劉備の下を去る。
- 孫権の使者・魯粛が劉備と会見する。
- 劉備が諸葛亮を孫権の元に派遣する。
- 曹操が荊州・南郡・江陵県に到達する。
- 曹操が劉琮を青州刺史に任命する。
- 曹操が荊州人の人事を行う。
- 益州牧・劉璋が曹操に張松を派遣する。
- 慢心した曹操が、張松をぞんざいに扱う。
- 張松が劉璋に劉備と手を結ぶことを進言する。
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10月 |
- 孫権が曹操との決戦を決意する。
- 周瑜が率いる水軍3万が劉備と合流する。
- 周瑜が長江を遡り、赤壁で曹操軍と遭遇する。
- 黄蓋が火計をもって曹操軍を敗走させる。
- 周瑜と劉備が水陸から曹操を追撃して荊州・南郡に入る。
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11月 |
- 周瑜・劉備が長江の南岸で江陵県の曹仁と対峙する。
- 劉備が周瑜に張飛と千人の兵を従わせ、兵2千人を借り受ける。
- 劉備が劉表の長子・劉琦を荊州刺史に任命する。
- 劉備が江南4郡の平定に向かう。
- 甘寧が夷陵県を占拠する。
- 周瑜が長江を渡り、江陵県を包囲する。
- 周瑜が矢傷を負う。
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12月 |
- 孫権が揚州・九江郡・合肥国を包囲する。
- 劉備が江南4郡を平定する。
- 雷緒が数万人を率いて劉備に帰順する。
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不明 |
- 曹操が田疇を封侯することを諦め、議郎に任命する。
- 曹操の子・曹沖(曹倉舒)が亡くなる。
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208年の群雄勢力図
1月
208年1月の群雄勢力図
孫権が黄祖を討伐する
春正月、孫権が甘寧の献策を受け容れて、荊州・江夏郡の黄祖の討伐に出陣しました。
この時孫権は甘寧に軍事行動のすべてを委任し、董襲・凌統・呂蒙らの活躍により黄祖を敗走させます。
その後、騎士の馮則が黄祖の首級を挙げ、孫権は、孫策の代から数えて 3度目にして、宿敵・黄祖を討つことができました。
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張遼が長社県に駐屯する
河北を平定し、袁紹の勢力を滅ぼした曹操は、次の攻略目標を荊州の劉表に定め、豫州(予州)・潁川郡・長社県に盪寇将軍・張遼を駐屯させます。
潁川郡に駐屯する于禁・楽進・張遼らは協調性を欠いていましたが、司空の主簿・趙儼の働きかけによって親睦を深めました。
于禁・楽進・張遼の配置
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三公の廃止と丞相の設置
6月、後漢王朝は三公の官を廃止して再び丞相と御史大夫を設置し、曹操が丞相に就任しました。これにより、朝廷の権力が曹操 1人に集中するようになります。
一方、御史大夫には光禄勲の郗慮が任命されました。
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後方の馬騰への対処
次の攻略目標を荊州の劉表に定めた曹操ですが、荊州征討に赴いている間に、その背後を馬騰らに攻撃されることを恐れました。
そこで曹操は、以前 見事に使者の任を果たした張既を再度馬騰への使者に立て、「部下を解散して帰郷する」ように要求します。その結果、馬騰は朝廷に出頭して衛尉を拝命し、馬騰の軍勢は馬騰の子・馬超が率いることになりました。
これにより曹操は、馬騰とその軍勢を引き離し、人質を取ることで、軍勢を率いることになった馬超の動きを封じることに成功しました。
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孔融の死
袁譚に敗れ、曹操に拾われて朝廷に入った孔融は、その名声を頼りに、いつも正論をかざして議場の主導権を握っていました。
その態度は曹操に対しても例外ではなかったので、曹操は孔融の議論を忌み嫌うようになり、この年の8月、ついに曹操は孔融の罪を捏造して処刑してしまいました。
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孫権の揚州・丹楊郡(丹陽郡)南部の不服住民討伐
この頃、孫権は平東校尉の賀斉を威武中郎将に昇進させ、揚州・丹楊郡(丹陽郡)の黟県(黝県)と歙県を討伐させました。
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12月
208年12月の群雄勢力図
劉琮の降伏
荊州では荊州牧・劉表の後妻・蔡氏と蔡瑁、張允らが少子・劉琮を後継者とするように画策し、劉表も長子・劉琦を遠ざけるようになっていました。身の危険を感じた劉琦は諸葛亮に助言を請い、孫権との戦いで戦死した黄祖の後任として江夏太守となることで中央から離れ、身の安全を図ります。
劉琦の逃亡
8月、曹操軍がまだ到来しないうちに、劉表は背中に疽(悪性のできもの)を発症して亡くなると、蔡瑁らは劉琮に荊州牧を継がせ、その後曹操軍が荊州・南郡・襄陽県に到着すると、劉琮は戦わずに降伏してしまいました。
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長坂の戦い
劉琮が曹操に降伏したことを知った劉備は、当時駐屯していた樊城を棄て、旧知の呉巨を頼って交州・蒼梧郡を目指し、その途上、荊州の人々の多くが彼に従いました。
曹操はすぐさま劉備の追撃を開始。南郡・当陽県の長坂で追いついた曹操軍は、劉備軍を散々に撃ち破ります。
長坂の戦い・関連地図
赤字:漢水
その後、長坂で孫権の使者・魯粛と会見した劉備は目的地を夏口に変更。途中、劉表の長子・劉琦と合流した劉備は、夏口に到着すると、孫権と手を結ぶべく諸葛亮を派遣しました。
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曹操の荊州人に対する処遇
長坂で劉備を撃ち破った曹操は、荊州・南郡・江陵県に軍を進めると、「荊州の官民と共に過去を洗い流し、新たに出発すること」を布告し、降伏した劉琮を青州刺史に任命し、列侯に封じました。
またこの時、蒯越をはじめ侯となった者は15人。荊州人の優劣を品によって表現し、みな抜擢して登用しました。
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益州牧・劉璋の使者
9月、曹操が荊州牧・劉琮を降伏させると、益州牧・劉璋は2度にわたって使者を派遣して役夫の徴集を受け容れ、兵を派遣して軍に提供します。
ですが、劉璋が3度目に別駕従事の張松を派遣した時には、曹操はすでに荊州を平定し、長坂で劉備を敗走させていたため、慢心して劉璋の使者である張松をぞんざいに扱いました。
そして、これに怨みを抱いた張松は「曹操と絶交し、劉備と手を結ぶ」よう劉璋に勧め、劉璋は彼の進言を受け容れます。
曹操はその慢心により、労せずして益州を手に入れる好機を逃してしまいました。
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孫権の決断
当時、呉には曹操の南征に怯え、降伏を唱える者が多かったのですが、諸葛亮、魯粛、周瑜らの説得により、孫権は「曹操との決戦」を決意。力を合わせて曹操を防ぐべく、劉備の元に周瑜・程普・魯粛ら水軍3万を派遣しました。
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劉備軍と孫権軍の合流
劉備は魯粛の計に従って、軍を進めて荊州・江夏郡・鄂県の樊口に駐屯していました。
諸葛亮が呉に行ったまま、まだ帰還しない間、劉備は「曹操の軍が攻め下ってくる」と聞いて恐れおののき、毎日見廻りの役人を水辺に遣って、孫権の軍を待ち望んでいました。
周瑜の軍船が到着したとの報告を受けた劉備は、自ら周瑜に会いに出かけ、ここに周瑜率いる水軍3万と、劉備は率いる2千の兵が合流しました。
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赤壁の戦い
10月、周瑜が長江を遡って進軍すると、曹操軍と遭遇。この時曹操の軍勢の中にはすでに疫病が発生していたため、最初の交戦で曹操軍は敗退しました。
その後、曹操軍は兵を引いて長江の北岸(烏林)に軍営を置き、周瑜軍は長江の南岸(赤壁)に軍営を置きます。
赤壁の戦い
この時、周瑜麾下の黄蓋は、
「現在、敵は多勢、味方は少数ですので、持久戦になると不利でございます。見ますに曹操軍の船艦は、お互いに船首と船尾とが相接していますので、焼き討ちをかければ敗走させることができます」
と周瑜に進言し、前もって曹操に手紙を送って降伏したい旨の偽りの申し入れ、投降を装って曹操の水軍に近づくと、敵の軍船に火を放ちました。
ちょうど東南の風が猛り狂い、火の勢いは激しく風も吹きつのって、火の粉が飛び火焔が盛んに上がり、すべての船に火が移って曹操軍の船を焼き尽くし、岸辺にある軍営にまで火災が及びます。やがて煙と焔は天にみなぎり、人や馬の焼死したり溺死したりする者はおびただしい数にのぼりました。
曹操は華容道を通って江陵県に逃走しましたが、この時また流行病が広がって多数の死者が出たため、豫州(予州)・潁川郡・許県に還りました。
曹操の逃走経路
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江陵の戦い
逃走する曹操を追って荊州・南郡に入った周瑜・劉備連合軍は、江陵県を守る曹仁と長江を隔てて対峙しました。
そして、甘寧の別働隊が荊州・南郡・夷陵県を奪取すると、勢いづいた周瑜軍は長江を渡って江陵県を包囲しますが、曹仁の守りは固く、周瑜は流れ矢に当たって負傷してしまいました。
江陵の戦い
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劉備の江南平定
「張飛と千人の兵」と引き替えに周瑜から「2千人の兵」を借り受けた劉備は、劉表の長子・劉琦を荊州刺史に任命すると、兵を率いて荊州の江南4郡の征討に赴き、
- 武陵太守・金旋
- 長沙太守・韓玄
- 桂陽太守・趙範
- 零陵太守・劉度(劉度)
らをすべて降伏させました。
荊州の江南4郡
※桂陽太守が趙範であったのは劉備平定前。平定後の桂陽太守は趙雲。
荊州の江南4郡を平定した劉備は、引き返して周瑜と共に曹仁が守る江陵県を包囲します。
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田疇の節義と曹操の子・曹沖の死
南征(赤壁の敗戦)から帰還した曹操は、烏丸征伐における田疇の功績が殊に見事だったことを思い出し、以前、田疇が封侯を辞退を許したことを悔やんで、ここでまた田疇に前の爵位(亭侯)を与えようとしました。
ですが、田疇は頑なに固持して聞かなかったので、曹操は田疇を封侯することを諦めて、彼を議郎に任命しました。
またこの年、曹操の子・曹沖(字は倉舒)が病気にかかりました。
これより以前、曹操は自分の主治医としていた名医・華佗を処刑していましたが、曹沖が危篤になった時、曹操は嘆息して、
「華佗を殺してしまったことが残念でならない。そのために、この子を死なせることになってしまった」
と言いました。
曹操は自ら曹沖のために命乞いの祈りをしましたが、祈りも虚しく、曹沖は13歳で亡くなってしまいました。
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この年、荊州牧・劉表討伐のため南征を開始した曹操は、劉表の死後その後を継いだ劉琮を降伏させ、南に逃走した劉備を長坂で撃ち破りましたが、その後、長江を下った赤壁で周瑜・劉備連合軍と遭遇。黄蓋の火計により軍船を焼き尽くされてしまいました。
曹操は華容道を通って江陵県に逃走しましたが、この時また流行病が広がって多数の死者が出たため、豫州(予州)・潁川郡・許県に還ります。
その後、逃走する曹操を追って荊州・南郡に入った周瑜・劉備連合軍は、曹仁が守る江陵県を包囲。この時劉備は、周瑜から2千の兵を借り受けると、劉表の長子・劉琦を荊州刺史に任命し、兵を率いて荊州の江南4郡を平定しました。
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