206年【漢:建安11年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
スポンサーリンク
206年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 | 人物 |
---|---|
天子(皇帝) | 劉協(献帝) |
皇太后 | ー |
皇后 | 伏皇后(伏寿) |
朝廷
官職 | 人物 |
---|---|
大司馬 | ー |
太尉 | ー |
司徒 | 趙温 |
司空 | 曹操 |
執金吾 | 伏完 |
将作大匠 | 孔融 |
前将軍 | 馬騰 |
左将軍 | 劉備 |
輔国将軍 | 伏完 |
安降将軍 | 韓遂 |
伏波将軍 | 夏侯惇 |
地方官
官職 | 人物 |
---|---|
司隸校尉 | 鍾繇 |
冀州牧 | 曹操 |
豫州牧 | 劉備 |
兗州牧 | 曹操 |
荊州牧 | 劉表 |
益州牧 | 劉璋 |
揚州刺史 | 劉馥 |
遼東太守 | 公孫康 |
河内太守 | 魏种 |
河東太守 | 杜畿 |
会稽太守 | 孫権 |
スポンサーリンク
206年の主な出来事
月 | 出来事 |
---|---|
1月 |
|
3月 |
|
7月 |
|
8月 |
|
10月 |
|
不明 |
■曹操(10月以降)
■朝廷(曹操)
■揚州方面
|
スポンサーリンク
206年の三国志群雄勢力図
1月
建安11年(206年)1月の三国志群雄勢力図
※袁煕・袁尚は漢の塞外(国境の外)の烏丸族を頼っています。
曹操の幷州(并州)平定
この年の春正月、曹操は自ら幷州(并州)に逃走した高幹征伐に出陣します。
高幹は、自ら匈奴の単于(匈奴の首長)に救援を求めに行きますが、失敗。曹操が壺関城を包囲すること3ヶ月、城は陥落し、高幹は劉表を頼って荊州に逃走しましたが、上洛都尉の王琰に捕らえられ、斬り殺されました。
また、曹操に幷州刺史の代行を命ぜられた梁習は、南匈奴の単于を帰順させ、州内の名士を数多く推挙したので、曹操は梁習の行政を称賛し、関内侯の爵位を与えて改めて本官に任命しました。
各地の反乱
雍州(ようしゅう)
秋7月、たまたま武威太守の張猛が反逆して雍州刺史の邯鄲商を殺害しました。
青州(せいしゅう)
8月、曹操は東に進軍して青州・北海国・淳于県まで行き、楽進と李典を派遣して海賊の管承を征討します。管承は海中の島に逃げ込み、海岸地帯は平定されました。
また、徐州・東海郡では昌豨がまたも反逆。昌豨は旧知の于禁に降伏しますが、于禁は「曹操の常令」を守って涙を流しながら彼を斬りました。
12月
建安11年(206年)12月の三国志群雄勢力図
※袁煕・袁尚は漢の塞外(国境の外)の烏丸族を頼っています。
曹操の布令
10月、曹操が「治中従事・別駕従事に、毎月1日にそれぞれ政治の欠陥を進言するように命じる」布令を出しました。
州郡の再編
昌慮郡(しょうりょぐん)の廃止
この年、曹操が徐州・東海郡から、
- 襄賁県
- 郯県
- 戚県
の諸県を分割して琅邪郡に編入し、昌慮郡を廃止しました。
王国・侯国の再編
この年、曹操が元琅邪王・劉容の子・劉熙を立てて琅邪王とし、また、
- 青州・斉国
- 青州・北海国
- 揚州・九江郡・阜陵国
- 徐州・下邳国
- 冀州・常山国
- 冀州・清河国・甘陵国
- 兗州・済北国
- 青州・平原国
の8国を除き、漢の宗室の力を弱めました。
関連記事
孫権の山越討伐
この年、孫権が山越の不服住民の麻・保の2屯(拠点)を攻撃して平定しました。
この時孫権は、保屯を撃ち破るとそのまま軍を返し、麻屯の1万の敵はそのまま残されていました。
麻屯攻撃に残された破賊都尉の凌統は、督の張異らと共に屯に攻め寄せて包囲をし、日取りを決めて総攻撃をかけることにします。
その期日の来る前に、凌統は督の陳勤と一緒に酒を飲みました。
陳勤は、勇猛で自分の気持ちのままに振る舞う性格で、督の役目にあるということでその酒席の主人となっていましたが、一座の者たちを馬鹿にしたような行動を取り、献杯も罰杯も定めを無視して、酒席は無茶苦茶な状態になってしまいます。
凌統は、彼の人を人とも思わない振る舞いを憎んで面と向かって注意をし、彼の指示には従いませんでした。すると陳勤は腹を立てて凌統を罵倒し、彼の父親の凌操の悪口まで言い出します。凌統は涙を流すばかりでそれ以上口答えをしませんでしたが、座がしらけてしまってみな退出してしまいました。
陳勤は酒の勢いを借りて益々理不尽になり、外に出た後も凌統を侮辱し続けたため、凌統は堪えきれず、ついに刀を抜いて陳勤を斬りつけ、陳勤はその傷が原因となって数日後に死んでしまいました。
麻屯攻撃の日が来ると、凌統は「死んで罪を詫びるしかない」と言い、士卒たちを督励し、自ら敵の矢面に立ちました。彼が攻撃をかけた屯の一面はあっという間に崩れ去り、諸将たちはその勝ちに乗じて敵を完膚なきまでに撃ち破ります。
帰還すると、凌統は自ら軍正(軍目付)の元に出頭して縄目を受けましたが、孫権は彼の剛毅さを立派だと評価して直接罰することはせず、手柄を立ててその罪を贖えるように取りはからいました。
曹操は自ら幷州(并州)に逃走した高幹征伐に出陣し、3ヶ月の包囲の末、荊州に逃亡しようとした高幹を捕らえて斬りました。
その後曹操は、東に進軍して青州・北海国・淳于県まで行くと、楽進と李典を派遣して海賊の管承を征討。徐州・東海郡で反逆した昌豨には于禁を派遣して、これを討ちました。
またこの年、曹操は元琅邪王・劉容の子・劉熙を立てて琅邪王とし、また一方で8国の王国・侯国を除き、漢の宗室の力を弱めました。