建安13年(208年)、「赤壁の戦い」の後のこと。曹操の封侯を辞退し続けた田疇と、曹操の子・曹沖の死についてまとめています。
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田疇の節義
田疇が封侯を辞退する
建安13年(208年)、荊州遠征(赤壁の敗戦)から帰還した曹操は、烏丸征伐における田疇の功績が殊に見事だったことを思い出し、以前、田疇が封侯を辞退を許したことを悔やんで、
「あの時は1人の意志を全うさせたが、国家の大法制度を無視したことになる」
と言い、ここでまた田疇に前の爵位(亭侯)を与えようとしました。
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曹操の命令・全文
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蓨令*1の田疇は、意志節操ともに高尚な人物である。郷里において蛮族・漢民入り乱れての混乱に遭遇し、深山(幽州・右北平郡の徐無山)に身を隠し、心を磨き道義に親しんだ。民衆は彼について行き、そのため都市ができあがった。
袁賊の勢力が盛んな時でもその命令・召請に屈従せず、気概をもって意志を貫き、真の君主を待ち望んだ。
儂は詔を畏み、河北を征討・平定し、幽州の州都(広陽郡・薊県)を服従させてから、さらに蛮族の乱暴を鎮めようとした。
その時に礼を尽くした命令を与えると、田疇はすぐさま任命を受けた。蛮族攻撃のための道筋を健策してくれ、山民たちをまとめ統率して、一時に教化に向かわせてくれた。
塞がっている道を切り開き、先導と輸送を受け持ち、労務を引き受け提供してくれたが、その道路は近くて便利であり、敵の予想もしないものだった。
白狼山で蹋頓(蹋頓)を斬り、そのまま柳城(幽州・遼西郡の柳城)までの長距離を追撃できたのは、田疇の働きがあったからである。
軍が国境に戻った時、その功績を考え、上表して亭侯に取り立て、食邑5百戸を与えようとしたが、田疇は真心から何度も賞を辞退した。
3年間、都から外へ出たり入ったりしたが、年月を経過してもまだ賞を賜っていない。これは1人の高潔さを成就することにはなるが、国家の法典には甚だしく違うものであって、そのための損失は大きい。
上表に従って侯に取り立て、儂の過失を長く放置しないでくれ。
脚注
*1冀州・勃海郡・蓨県(脩県)の県令。
曹操から封侯の意を受けた田疇は上疏して、誠意をもって爵位を受けない旨を包み隠さず打ち明け、死の決意を示して自ら誓いを立てました。
ですが、曹操はこれを聞き入れず、彼を呼び寄せて封侯しようとすること3、4度に及びましたが、田疇はあくまでも受けませんでした。
田疇が弾劾される
田疇が弾劾される
田疇があくまでも封侯を受けないでいると、所管の役人が、
「田疇は頑なで道に外れ、いたずらに小さな節義にこだわっている。免職して刑罰を加えるのが当然である」
と弾劾しました。
曹丕・荀彧・鍾繇の主張
田疇が役人に弾劾されても、曹操は彼に刑罰を加えることを躊躇って長い間決断することができず、曹丕と大臣たちに命じて田疇の処分について広く議論させました。
すると曹丕は、
「田疇の場合、子文が俸禄を辞退し*2、申胥が恩賞から逃れたこと*3と同じです。その意志を尊重してその節義を大事にしてやるのが良い」
と主張し、尚書令の荀彧と司隷校尉の鍾繇もまた「田疇の願いを聞き入れてやるべきだ」と主張しました。
これを受け、曹操は「田疇の扱いについて、もう1度司隷校尉が判断するように」という布令を出しました。
当時の司隷校尉は、「田疇の願いを聞き入れてやるべきだ」と主張した鍾繇ですので、曹操は間接的に、田疇への弾劾を棄却したのでした。
曹操の布令
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昔、伯夷・叔斉は爵位を棄てた上、武王を非難した*4。道理を知らないと言うべきであるが、孔子はそれでも『仁を求めて仁を獲得した』と判断している。
田疇の取った態度は道理に合致しないとは申せ、ただ清廉高潔を望んでいるに過ぎない。
もし、天下の人々がすべて田疇の気持ちのようであったならば、それこそ無差別の愛と平等を主張する墨翟(墨子)の政治となり、民衆を体制の存在しない古代に復帰させようとする老聃(老子)の道を取ることになる。
朝議では『善し』としているが、もう一度司隷校尉に命じて、このことを決定させることにする。
脚注
*4孤竹君の王子であった伯夷、叔斉の兄弟は、位を継ぐことを避けて隠遁者となった。後に周の文王の元に身を寄せたが、その子・武王の「殷の紂王打倒の暴力革命」を諫言して聞き入れられず、首陽山に隠れて薇を採って食物とし、最後に餓死した。古来、高潔の士の代表とされる。
脚注
*2春秋時代、楚国の令尹(宰相)だった闘穀於菟(字は子文)が楚の国難に自己の財産をなげうって対処したこと。『春秋左氏伝』荘公30年にみえる話。
*3春秋末期、呉に攻め込まれ、滅亡寸前に追い込まれた楚のために、申包胥は秦に出掛け、援軍を得て楚を救った後、「私は主君のためにしたのであって、我が身のためにしたのではありません」と言って恩賞を逃れた。『春秋左氏伝』定公5年にみえる話。
夏侯惇の説得
曹操はそれでも「田疇を侯に封じたい」と思い、かねてから田疇と仲が良かった夏侯惇に言いました。
「とにかく出掛けて、真情(真心)でもって彼を説得してくれ。君の気持ちから出た話として、決して儂の意向を告げないように」
夏侯惇が田疇の元に出掛けて宿泊し、曹操の言った通りにすると、田疇はその趣意を推し量り、それ以上発言しませんでした。
夏侯惇は去る時になって、田疇の背中を軽く叩いて言いました。
「田君(田疇)、主君(曹操)のご意向は殷勤(心を込めて念入りなさま)なものだ。まったく無視するわけにはいかんぞっ!」
すると田疇は、
「なんとおかしな事を言われるっ!
私は道義に背いて逃げ隠れした人間です。目をかけていただいて、生きているだけで非常な幸運なのです。盧龍県の砦を売って賞禄と交換することなどできません。たとえ国が私を贔屓にしてくれたとしましても、私自身は心中引け目を感じずにおられましょうか。
将軍(夏侯惇)は元から私を理解してくださっている方なのに、それでもこんな風でいらっしゃいます。もしどうしても仕方がないのならば、御前に首を刎ね、死を捧げたいと存じます」
と言いましたが、言葉が終わらないうちに涙があふれ出ました。
戻った夏侯惇は、詳しく曹操に報告しました。
曹操は「ふぅ…」とため息をつくと、田疇を自分の意のままにできないことを悟って、彼を議郎に任命しました。
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曹沖の死
鄧哀王・曹沖
曹操の子・曹沖は字を倉舒と言い、年少ながら聡明で理解力があり、5、6歳にして智恵の働きは成人にも引けを取りませんでした。
曹沖は刑罰に該当する者を見る度に、いつもその者の無実の事情を探知して、こっそりとそれを処置し、勤勉な官吏が過失のため罪に触れた場合には、常に父・曹操に「その者を大目にみてやるべきだ」と進言しました。
曹沖には、生まれながらに是非(良いことと悪いこと)の判断力と仁愛の情が具わっており、容姿容貌が美しかったので、曹操はたびたび群臣に称揚し、自分の後を継がせたいと思っていました。
曹沖の死
曹沖の死
建安13年(208年)、曹沖は病気にかかりました。
これより以前、曹操は自分の主治医としていた名医・華佗を処刑していましたが、曹沖が危篤になった時、曹操は嘆息して、
「華佗を殺してしまったことが残念でならない。そのために、この子を死なせることになってしまった」
と言いました。
曹操は自ら曹沖のために命乞いの祈りをしましたが、祈りも虚しく、曹沖は13歳で亡くなってしまいます。
曹丕が、ひどく悲しんでいる曹操の気持ちを宥めると、曹操は、
「儂にとっては不幸だが、お前たちにとっては幸いだろう…」
と言いました。
曹沖と甄氏の娘を合葬する
ちょうどこの頃、司空掾(司空の属官)の邴原の娘が、若くして亡くなっていました。
曹操は「曹沖と邴原の娘を合葬したい」と望みましたが、邴原は、
「合葬は礼に外れております。
私が明公(曹操)に認められております理由、明公(曹操)が私を処遇しておられます理由は、私がよく聖賢の教えを守って改めないからでございます。
もし明公(曹操)のご命令を承りますれば、私は凡俗となってしまいます。明公(曹操)は、どうしてそんなことをお考えになるのですか」
と言って、それを断りました。
曹操は「邴原の娘との合葬」を取りやめましたが、結局、甄氏(曹丕の夫人)の亡くなった娘を娶って曹沖と一緒に葬り、騎都尉の印綬を贈って、宛侯・曹拠の子・曹琮に曹沖の後を継がせました。