204年【漢:建安9年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
スポンサーリンク
204年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 |
人物 |
天子(皇帝) |
劉協(献帝) |
皇太后 |
ー |
皇后 |
伏皇后(伏寿) |
朝廷
官職 |
人物 |
大司馬 |
ー |
太尉 |
ー |
司徒 |
趙温 |
司空 |
曹操 |
執金吾 |
伏完 |
将作大匠 |
孔融 |
前将軍 |
馬騰 |
左将軍 |
劉備 |
輔国将軍 |
伏完 |
安降将軍 |
韓遂 |
伏波将軍 |
夏侯惇 |
地方官
官職 |
人物 |
司隸校尉 |
鍾繇 |
冀州牧 |
曹操 |
豫州牧 |
劉備 |
兗州牧 |
曹操 |
荊州牧 |
劉表 |
益州牧 |
劉璋 |
青州刺史 |
袁譚 |
揚州刺史 |
劉馥 |
遼東太守 |
公孫度 → 公孫康 |
河内太守 |
魏种 |
河東太守 |
王邑 |
丹楊太守 |
孫翊 |
会稽太守 |
孫権 |
スポンサーリンク
204年の主な出来事
月 |
出来事 |
1月 |
- 曹操が黄河を渡り、淇水を堰き止めて白溝(運河)に水を入れ、糧道を通じる。
|
2月 |
- 袁尚が審配と蘇由に冀州・魏郡・鄴県を守らせて、再び青州・平原国・平原県の袁譚を攻める。
- 曹操が洹水に至る。
- 蘇由が曹操に内応しようとし、失敗して曹操の下に逃げ込む。
- 曹操が地下道を掘って鄴県を攻撃するも、審配に防がれる。
|
4月 |
- 曹操が冀州・魏郡・毛城の尹楷を撃ち破る。
- 曹操が沮鵠が守る冀州・趙国・邯鄲県を陥落させる。
- (冀州・趙国の)易陽県令・韓範と(冀州・魏郡の)渉県長・梁岐が降伏する。
- 曹操が韓範と梁岐に関内侯の爵位を与える。
- 黒山賊の張燕が曹操に「官軍に助力したい」と申し入れる。
- 曹操が張燕を平北将軍に任命する。
|
5月 |
- 曹操が冀州・魏郡・鄴県の周囲に塹壕を掘り、漳水の水を注ぎ込む。
|
不明 |
- 袁譚が冀州の諸郡を奪取する。
|
7月 |
- 袁尚が冀州・魏郡・鄴県の救援に引き返す。
- 袁尚が先に主簿の李孚を鄴県に派遣して援軍を知らせる。
- 李孚が無事任務を果たす。
- 袁尚が鄴県に到着する。
- 袁尚が曹操に敗れ、冀州・中山国に逃走する。
- 審配が曹操に矢を射かける。
|
8月 |
- 審配の兄の子・審栄が冀州・魏郡・鄴県の東門を開く。
- 審配が捕らえていた辛評の家族を殺害する。
- 審配が捕らえられ、処刑される。
- 曹操が袁紹の墓を祭り、哭して涙を流す。
|
9月 |
- 曹操が布令を下す。
- 曹操が冀州牧に任命される。
- 曹操が兗州牧を(形式上だけ)辞退する。
- 牽招が曹操に降伏する。
- 曹操が崔琰を召し寄せて別駕従事とする。
- 曹操が勲功を恃んで無礼な態度を取り続ける許攸を処刑する。
|
10月 |
- 幷州刺史・高幹が曹操に降伏する。
- 袁譚が冀州・中山国に逃走した袁尚を攻め、その軍勢をすべて手中に収める。
- 袁尚が袁煕を頼って幽州・涿郡・故安県に逃走する。
- 曹操が袁譚が「約束に背いたこと」を責め、彼との縁戚関係を絶つ。
- 箒星が東井宿に現れた。
|
12月 |
- 曹操が龍湊に駐屯する袁譚を攻撃する。
- 袁譚が冀州・勃海郡・南皮県に逃走する。
- 曹操が青州・平原国・平原県に入城し、諸県を攻略して平定する。
- 曹操が柳城に牽招を派遣して烏丸族を従える。
- 三公以下に差をつけて金帛を賜った。
|
不明 |
■幽州方面
- 公孫度が亡くなり、子の公孫康が位を継ぐ。
■揚州方面
- 孫権の弟で丹楊太守の孫翊が嬀覧・戴員らに殺害される。
- 丹楊郡・宛陵県に駆けつけた将軍・孫河が嬀覧・戴員らに殺害される。
- 孫翊の夫人・徐氏の計により嬀覧・戴員らが誅殺される。
- 孫権が宛陵県に到着し、残党をすべて根絶やしにする。
- 孫権が嬀覧・戴員らの誅殺に協力した孫高と傅嬰を牙門将に抜擢する。
- 孫権が孫河の甥の孫韶に孫河の部曲(私兵)を統率させる。
- 殺害された孫翊の後任として、従兄の孫瑜が丹楊太守に任命される。
- 孫権が自分を非難した沈友を殺害する。
|
スポンサーリンク
204年の群雄勢力図
1月
建安9年(204年)1月の三国志群雄勢力図
曹操の鄴県攻略
緒戦の敗北
袁譚の降伏を受け入れて冀州・魏郡・鄴県に向け進軍を開始した曹操は、この年の春正月、黄河を渡って淇水の流れを堰き止め、白溝(運河)に水を入れて糧道を通じました。
2月*1、袁尚は、冀州・魏郡・鄴県の守備に審配と蘇由を残して、再び青州・平原国・平原県の袁譚を攻撃します。
鄴県を守る審配は、蘇由や馮礼の内応がありながらも城を固守。曹操は力攻めを諦めて周辺の諸城を攻略すると、鄴県の周囲に塹壕を掘って漳水の水を注ぎ込み、鄴県を孤立させました。
一方袁尚は、平原県の包囲を解いて鄴県の救援に向かうと、主簿の李孚を派遣して援軍の存在を伝えました。
関連記事
鄴県の陥落
7月、袁尚の援軍を撃破した曹操がそのまま袁尚軍を追って包囲すると、袁尚の将・馬延、張顗らが戦闘を前にして降伏。軍勢は総崩れとなり、袁尚は冀州・中山国に逃走します。
8月、審配の兄の子・審栄が、夜中に守備していた東門を開け曹操の兵を城内に引き入れたので、ついに冀州・魏郡・鄴県は陥落し、捕らえられた審配は処刑されました。審配は城中で迎え撃って戦いますが、敗れて曹操の兵に生け捕りにされてしまいました。
鄴県が平定されると、張遼は別軍を連れて冀州の趙国と常山国を攻め落とし、山沿いの賊たちと黒山賊の孫軽らを誘って降伏させました。
関連記事
12月
建安9年(204年)12月の三国志群雄勢力図
曹操の冀州平定
曹操の人事
冀州・魏郡・鄴県を陥落させた曹操は、河北に「租税を軽減する」布告を下し、冀州の領民を安心させました。
その後、袁尚配下の牽招と袁尚の外兄の幷州刺史・高幹が降伏。袁紹の下で騎都尉をつとめていた崔琰を召し寄せて別駕従事とするなど、曹操は袁尚配下を取り込んでいきます。
また「官渡の戦い」での功績を鼻にかけ、無礼な態度を取り続けていた許攸を処刑したのもこの頃です。
袁譚の裏切り
一方、曹操に降伏した袁譚は、曹操が鄴県を包囲すると、曹操との約定を破って冀州の諸郡を奪取。さらに冀州・中山国の袁尚を幽州・涿郡・故安県に逃走させ、袁尚の軍勢をすべて手中に収めていました。
袁譚の冀州侵攻
12月、曹操は袁譚との縁戚関係を絶ち、龍湊に駐屯していた袁譚を攻撃して冀州・勃海郡・南皮県に逃走させると、青州・平原国・平原県に入城して青州の諸県を平定します。
曹操の反撃
烏丸族を従える
その後曹操は、幽州に逃走した袁譚を討伐するつもりでしたが、柳城(幽州・遼西郡)の烏丸族が騎兵を繰り出して袁譚を援助していました。
柳城
そこで曹操は、以前督軍従事として烏丸突騎を兼任していた牽招を柳城に派遣し、言葉巧みに峭王(烏丸族の有力者・蘇僕)を説き伏せて烏丸族を従えました。
関連記事
孫権の弟・孫翊暗殺事件
この年、揚州・丹楊郡では、孫権が黄祖討伐に出陣した隙を突いて、孫権に殺害された盛憲の配下であった嬀覧・戴員らが孫権の弟で丹楊太守の孫翊を暗殺し、さらに丹楊郡に駆けつけた孫河を殺害しました。
その後、殺害された孫翊の夫人・徐氏の美人計によって嬀覧・戴員らは誅殺され、孫権は孫翊の後任として孫河の甥の孫韶を丹楊太守に任命しました。
関連記事
この年、曹操が冀州・魏郡・鄴県を陥落させると、袁尚の外兄の幷州刺史・高幹が降伏しました。
この時、袁譚は曹操との約定を破って冀州の諸郡に侵攻。曹操に敗れて冀州・中山国に逃走していた袁尚は、袁煕を頼ってさらに幽州・涿郡・故安県に逃走します。
その後曹操は、袁譚との縁戚関係を絶って袁譚を冀州・勃海郡・南皮県に逃走させると、青州・平原国・平原県に入城して青州の諸県を平定しました。
一方揚州では、孫権の弟で丹楊太守の孫翊と孫河が殺害され、孫翊の後任として孫河の甥の孫韶が丹楊太守に任命されました。
他の年を見る場合はこちら
三国志年表
タグ : 韓範, 正史, 曹操, 韓遂, 袁紹, 袁譚, 袁尚, 袁煕, 王邑, 尹楷