建安13年(208年)当時、荊州侵攻の布石として豫州(予州)・潁川郡に配置されていた、于禁・楽進・張遼の3人の将軍についてまとめています。
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長社県の反乱と張遼
建安13年(208年)当時、荊州はまだ平定されていなかったので、曹操は盪寇将軍・張遼を豫州(予州)・潁川郡・長社県に駐屯させることにしました。
豫州(予州)・潁川郡・長社県
ですがその出発に際して、張遼の軍中に反乱を計画した者があって、夜間に騒ぎ立てて火を放ったので、軍全体が混乱してしまいます。
すると張遼は側にいる者に向かって、
「動く出ないぞ。これは陣営全体が反乱を起こしたのではない。必ず異変を引き起こした者があり、人を動揺・混乱させようとしているだけだ」
と言い、また軍中に「反乱と関係ない者は、落ち着いて座っておれ」と命令して、自らは親衛兵・数十人を率いて陣営の真ん中に堂々と立っていました。
しばらくして軍中が落ち着くと、すぐに首謀者は捕まって処刑されました。
タイトルを「長社県の反乱」としていますが、実際は「張遼が任地の長社県に出発する時」に反乱が発生していますので、長社県で反乱が起こった訳ではありません。
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于禁・楽進・張遼をまとめた趙儼
この頃、豫州(予州)・潁川郡には、
- 潁陰県には虎威将軍・于禁
- 陽翟県には折衡将軍・楽進
- 長社県には盪寇将軍・張遼
が駐屯していましたが、彼らは各々が気力に任せて思いのままに振るまい、互いに協調することがありませんでした。
于禁・楽進・張遼の配置
そこで曹操は、司空掾属主簿の趙儼に、同時に3つの軍の参軍を兼ねさせ、事あるごとに教え諭させた結果、于禁・楽進・張遼の3人の将軍は、互いに親しみ睦み合うようになりました。
前年の建安12年(207年)、曹操が塞外(国境の外)の烏丸族を征伐すると、幽州・遼東郡の公孫康は逃げ込んで来た袁煕・袁尚の首を斬り、曹操に送り届けました。
河北を平定し、袁紹の勢力を滅ぼした曹操は、次の攻略目標を荊州の劉表に定め、豫州(予州)・潁川郡・長社県に盪寇将軍・張遼を駐屯させます。
潁川郡に駐屯する于禁・楽進・張遼らは協調性を欠いていましたが、司空の主簿・趙儼の働きかけによって親睦を深めました。
注意
上記は『魏書』張遼伝と『魏書』趙儼伝を基にしています。どちらも年代を特定できる情報はありませんが、『資治通鑑』には「建安13年(208年)6月、三公が廃止されて曹操が丞相に就任した後」に記されています。
ですが、「司空の主簿・趙儼」とあることから、三公が廃止される前のことであると判断し、当サイトでは「曹操の丞相就任」前の出来事としています。