建安けんあん13年(208年)、孫権そんけん配下の賀斉がせいによる揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)南部の不服従民討伐と、孫権そんけんによる新都郡しんとぐんの設置についてまとめています。

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丹楊郡の不服従民討伐

威武中郎将・賀斉

建安けんあん13年(208年)、孫権そんけん平東校尉へいとうこうい賀斉がせい威武中郎将いぶちゅうろうしょうに昇進させ、揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)の黟県いけん黝県ゆうけん)と歙県しょうけんを討伐させました。


黟県(黝県)と歙県

黟県いけん黝県ゆうけん)と歙県しょうけん


賀斉がせいが軍を進めると、

  • 武彊ぶきょう
  • 葉郷ようきょう
  • 東陽とうよう
  • 豊浦ほうほ

の4つのきょうが降伏したので、賀斉がせいは上表して「葉郷ようきょうを昇格させて始新県ししんけんを立てる」ことを具申して、認められました。

ですがこの時まだ、歙県しょうけんの不服従民の頭目とうもく金奇きんきは、1万戸を配下におさめて安勒山あんろくざんに立てもり、同じく毛甘もうかんも1万戸を配下におさめて烏聊山うりょうざんに立てもり、黟県いけん黝県ゆうけん)の頭目とうもく陳僕ちんぼく祖山そざんらも2万戸を集めて林歴山りんれきざんに立てもっていました。


安勒山と林歴山

安勒山あんろくざん林歴山りんれきざん

烏聊山うりょうざんの位置は不明。


要害・林歴山の攻略

陳僕ちんぼく祖山そざんらが立てもる林歴山りんれきざんは四面が切り立っていて、その高さは数十じょう(1じょうは約2.31m)、そこに通じる小道はけわしくせまいためかたなたてもちいることができず、しかも叛徒はんとたちが高みから石を落とすので、攻撃を加えることができませんでした。

軍をとどめたまま数日がち、部将や兵士の中には不満がつのってくると、賀斉がせいみずから山のまわりを1周して攻撃を加えやすそうな場所を見つけました。

すると賀斉がせいはまず、秘かに身軽で敏捷びんしょうな兵士をつのり、彼らに持たせる鉄製のよくを作らせて、叛徒はんとたちも見張りを置いていない場所から、作らせたよくを使って山を切り開きます。そして、夜闇やあんまぎれてそこを登ると、上からたくさんの布をらして下にいる者たちを引っ張り上げさせました。

そうして百数十人を上に登らせることに成功すると、四方に散らばって一斉に太鼓とつのぶえを鳴らさせ、賀斉がせいは自身は兵士たちに出動準備を整えさせたまま、成り行きを見守ります。


叛徒はんとたちは、夜中に四方から太鼓が一斉に鳴らされているのを聞いて、てっきり「大軍がすべて登ってしまったのだ」と思い、おそまどってすべもなく登り道の守りにあたり、要害に配置されていた者たちも、みな逃げ戻って合流しようとました。

これにより、賀斉がせいの軍は大挙して山上に登ることができ、陳僕ちんぼくらを大敗させました。残った者たちはみな降伏し、斬った首級しゅきゅうは7千にのぼりました。

新都郡の設置

その後賀斉がせいは、歙県しょうけんを分割して、

  • 始新県ししんけん
  • 新定県しんていけん
  • 犁陽県りようけん
  • 休陽県きゅうようけん
  • 黟県いけん黝県ゆうけん
  • 歙県しょうけん

の6つの県*1を立てるように上表します。

孫権そんけん賀斉がせいの意見をれて歙県しょうけんを分割し、それらをまとめて新都郡しんとぐんを立てると、賀斉がせいをその太守たいしゅに任命してその役所を始新県ししんけんに置かせ、偏将軍へんしょうぐんを加官しました。

脚注

*1呉書ごしょ呉主伝ごしゅでんより。呉書ごしょ賀斉伝がせいでんでは、犁陽県りようけん黎陽県れいようけんとなっており、資治通鑑しじつがん胡三省こさんせい注では、さらに始新県ししんけん徙新県としんけんとなっている。


建安けんあん13年(208年)、孫権そんけん賀斉がせいを派遣して揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)の黟県いけん黝県ゆうけん)と歙県しょうけんの不服従民を討伐させ、丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)の南部を分割して新都郡しんとぐんを設置し、賀斉がせいをその太守たいしゅに任命しました。

呉書ごしょ呉主伝ごしゅでんでは、建安けんあん13年(208年)8月の「劉表りゅうひょうの死」の前に、「このとし賀斉がせいって黟県いけん黝県ゆうけん)と歙県しょうけんを討伐させ、〜」と賀斉がせいによる丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)南部の討伐が記述されていますが、資治通鑑しじつがんでは建安けんあん13年(208年)の最後に記述されています。