207年【漢:建安けんあん12年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。

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207年の主な人員配置

後宮

天子・皇后 人物
天子(皇帝) 劉協りゅうきょう献帝けんてい
皇太后
皇后 伏皇后ふくこうごう伏寿ふくじゅ

朝廷

官職 人物
大司馬だいしば
太尉たいい
司徒しと 趙温ちょうおん
司空しくう 曹操そうそう
執金吾しつきんご 伏完ふくかん
将作大匠しょうさくたいしょう 孔融こうゆう
前将軍ぜんしょうぐん 馬騰ばとう
左将軍さしょうぐん 劉備りゅうび
輔国将軍ほこくしょうぐん 伏完ふくかん
安降将軍あんこうしょうぐん 韓遂かんすい
伏波将軍ふくはしょうぐん 夏侯惇かこうとん

地方官

官職 人物
司隸校尉しれいこうい 鍾繇しょうよう
冀州牧きしゅうぼく 曹操そうそう
豫州牧よしゅうぼく 劉備りゅうび
兗州牧えんしゅうぼく 曹操そうそう
荊州牧けいしゅうぼく 劉表りゅうひょう
益州牧えきしゅうぼく 劉璋りゅうしょう
揚州刺史ようしゅうしし 劉馥りゅうふく
遼東太守りょうとうたいしゅ 公孫康こうそんこう
河内太守かだいたいしゅ 魏种ぎちゅう
河東太守かとうたいしゅ 杜畿とき
会稽太守かいけいたいしゅ 孫権そんけん

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207年の主な出来事

出来事
2月
  • 曹操そうそう青州せいしゅう北海郡ほっかいぐん淳于県じゅんうけんから冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに帰還する。
  • 曹操そうそうが功臣に爵位を与える。
3月
  • 曹操そうそう万歳亭侯ばんざいていこう荀彧じゅんいく領邑りょうゆうを千戸加増する。
不明
  • 曹操そうそう烏丸うがん征伐に出陣する。
  • 劉備りゅうび劉表りゅうひょう豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんの襲撃を進言する。
  • 劉表りゅうひょう劉備りゅうびの進言を採用せず。
  • 曹操そうそう軍が冀州きしゅう河間国かかんこく易県えきけんに到達する。
5月
  • 曹操そうそう軍が幽州ゆうしゅう右北平郡ゆうほくへいぐん無終県むしゅうけんに到達する。
不明
  • 曹操そうそう田疇でんちゅう招聘しょうへいする。
  • 曹操そうそう田疇でんちゅうを先導に幽州ゆうしゅう遼西郡りょうせいぐん柳城りゅうじょうを目指す。
8月
  • 曹操そうそう軍が白狼山はくろうざんに登ったところで突然敵と遭遇する。
  • 張遼ちょうりょうを先鋒として敵を破る。
  • 袁尚えんしょう袁煕えんき幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんに逃亡する。
9月
  • 曹操そうそう幽州ゆうしゅう遼西郡りょうせいぐん柳城りゅうじょうから帰途につく。
10月
  • 箒星ほうきぼし鶉尾宿じゅんびしゅくに現れた。
  • 黄巾賊こうきんぞく済南王せいなんおう劉贇りゅういんを殺した。
11月
  • 曹操そうそう易水えきすいに到達する。
  • 幽州ゆうしゅう代郡だいぐん烏丸うがん族の単于ぜんう代行・普富盧ふふろ幷州へいしゅう并州へいしゅう)・上郡じょうぐん烏丸うがん族の単于ぜんう代行・那楼なろうが祝賀に来る。
  • 遼東太守りょうとうたいしゅ公孫康こうそんこう袁尚えんしょう袁煕えんきを殺害する。
不明
  • 曹操そうそう冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに帰還する。
  • 公孫康こうそんこうが送ってきた袁尚えんしょうらの首を馬市にける。
  • 今回の烏丸うがん征伐の行軍が苛烈かれつであったことを反省し、曹操そうそうが出陣をいさめた者に恩賞を与える。
不明

揚州ようしゅう方面

  • 孫権そんけんが西に向かって黄祖こうそち、住民を奪ってかえる。

荊州けいしゅう方面

  • 劉備りゅうび司馬徽しばきに「臥竜がりょう鳳雛ほうすうの存在」を聞く。
  • 徐庶じょしょ劉備りゅうび諸葛亮しょかつりょうを推薦する。
  • 劉備りゅうび諸葛亮しょかつりょう三度みたびたずねて配下にむかえる。

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207年の群雄勢力図

1月

建安12年(207年)1月の三国志群雄勢力図

建安12年(207年)1月の凡例

207年1月の群雄勢力図

袁煕えんき袁尚えんしょうかん塞外さいがい(国境の外)の烏丸うがん族を頼っています。

曹操そうそうが功臣に報いる

2月、幷州へいしゅう并州へいしゅう)の高幹こうかんを討ち、青州せいしゅう徐州じょしゅうの反乱を平定した曹操そうそうは、冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに帰還すると、それぞれ功績の順序に従って爵位を与え、功臣にむくいました。

荊州けいしゅう江夏郡こうかぐんに侵攻する

盪寇将軍とうこうしょうぐん張遼ちょうりょうが、別軍をひきいて荊州けいしゅうに侵攻し、江夏郡こうかぐんの諸県を平定しました。

曹操そうそう烏丸うがん征伐

田疇を招く

諸将が反対する中、北方の国境の外で袁煕えんき袁尚えんしょうかくまう3郡の烏丸うがん蹋頓とうとつ蘇僕延そぼくえん烏延うえん)の征討に出陣した曹操そうそうは、郭嘉かくかの進言に従い、輜重しちょうめ置いて軽装の兵のみで急行します。

夏5月、幽州ゆうしゅう右北平郡ゆうほくへいぐん無終県むしゅうけんに到着した曹操そうそうは、徐無山じょむさんに勢力をたもっていた田疇でんちゅうまねくと、彼に先導させて幽州ゆうしゅう遼西郡りょうせいぐん柳城りゅうじょうを目指しました。

白狼山の戦い

8月、白狼山はくろうざんに登ったところで突然敵と遭遇しますが、高みに登って敵陣が整っていないことを確認した曹操そうそうは、張遼ちょうりょうを先鋒として攻撃をしかけ、蹋頓とうとつ名王めいおう以下のおもった者を斬りました。

蛮族ばんぞく漢族かんぞくの降伏者は20余万人にのぼり、逃亡する者を追いかけて柳城りゅうじょうまで迫ります。敗北した袁煕えんき袁尚えんしょうらは、遼東太守りょうとうたいしゅ公孫康こうそんこうが治める幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんに逃亡しました。


白狼山の戦い

白狼山はくろうざんの戦い

  • 盧龍塞ろりょうさい
  • 徐無山じょむさんの位置は中国歴史地図集ちゅうごくれきしちずしゅうによる。資治通鑑しじつがん胡三省こさんせい注によると「徐無山じょむさん徐無県じょむけんの西北」とあり、上記地図では無終県むしゅうけんの中間にあたる。
袁煕・袁尚の死

9月、烏丸うがんを撃ち破った曹操そうそうはそれ以上深追いせず、そのまま兵をひきいて柳城りゅうじょうから帰途につきます。

曹操そうそう冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに帰還すると、幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐん公孫康こうそんこう)から袁尚えんしょうの首を送ってきました。

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12月

建安12年(207年)12月の三国志群雄勢力図

建安12年(207年)12月の凡例

207年12月の群雄勢力図

孫権そんけん黄祖こうそ討伐

この年、孫権そんけん建安けんあん8年(203年)に続いて黄祖こうそ討伐に出陣し、その配下の民衆をとりこにして連れ帰りました。

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三顧さんこの礼

この年、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん新野県しんやけんに駐屯していた劉備りゅうびは、司馬徽しばきから「この辺りに諸葛亮しょかつりょう龐統ほうとうの2人の賢人がいること」を聞きました。

その後劉備りゅうびは、諸葛亮しょかつりょうと親交を結んでいた徐庶じょしょと出会い、彼の助言を受けてみずか諸葛亮しょかつりょうたずね、3度目にしてようやく会うことができました。

この時諸葛亮しょかつりょうは、「東方の孫権そんけんと手を結び、劉備りゅうび荊州けいしゅう益州えきしゅうを手に入れて、変事が起こるのを待って曹操そうそうを討つ」という方略を披露ひろうして、劉備りゅうびに仕えました。

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この年、河北かほくを平定し冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに帰還した曹操そうそうは、これまでの功績に応じて功臣たちに封爵ほうしゃくを行うと、塞外さいがい(国境の外)で袁尚えんしょう袁煕えんき兄弟をかくま烏丸うがんの征伐に出陣。白狼山はくろうざんで敵を撃ち破ると、袁尚えんしょう袁煕えんき兄弟は幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんに逃亡しましたが、遼東太守りょうとうたいしゅ公孫康こうそんこうによって斬られ、曹操そうそうの元に首が届けられました。これにより、袁紹えんしょうの勢力は滅亡したことになります。

一方荊州けいしゅうでは、3度の訪問のすえ、ついに劉備りゅうび諸葛亮しょかつりょうを配下に迎えました。

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三国志年表