興平元年(194年)から建安13年(208年)までの馬騰・韓遂の動きと、曹操が荊州を征討する際に気がかりとなる、後方の馬騰への対処についてまとめています。
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馬騰・韓遂の動き
互いに戦闘を繰り返す
興平元年(194年)の「長平観の戦い」で李傕らに敗北した馬騰は、2度と東方へは行かず、韓遂と結託して義兄弟となりました。最初は極めて親しくしていましたが、後に一転して配下の兵をもってお互いに侵略し合うようになります。
ある時、馬騰が韓遂を攻撃したところ、敗走した韓遂は軍勢を糾合して立ち戻り、馬騰を攻撃してその妻子を殺したため、仇敵の間柄となって、2人の間にはいつまでも戦闘が継続していました。
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曹操に帰順する
建安2年(197年)
建安2年(197年)、国家の綱紀(国を治める上での規律)が弛みきっていたので、曹操は司隸校尉の鍾繇と涼州牧の韋端を使者に立てて、馬騰と韓遂を和解させます。
さらに、馬騰を召し返して司隷・右扶風・槐里県に駐屯させると、前将軍・仮節に転任させ、槐里侯に封じました。
馬騰は、北方は胡(匈奴)の侵略に備え、東方は白(鮮卑)の騎兵に備え、士人を厚遇し賢者を引き立て、民衆の生命を救うことに努めたので、三輔*1はとても安定し、人々は彼を敬愛するようになりました。
脚注
*1長安県を中心とする地域。京兆尹・左馮翊・右扶風の3郡。
建安7年(202年)
建安7年(202年)、袁尚が勝手に任命した河東太守・郭援が司隷・河東郡に侵攻した時のこと。
馬騰は、鍾繇が派遣した新豊令(司隷・京兆尹・新豊県の県令)・張既の要請に従い、子の馬超に1万人余りの精鋭と韓遂らの兵を指揮させて鍾繇の元に派遣します。
この時、高幹・郭援の軍を迎え撃った馬超軍の先鋒・龐悳(龐徳)は自ら郭援の首を斬る戦功を挙げました。
建安10年(205年)
建安10年(205年)、幷州(并州)の高幹が曹操に叛旗を翻すと、司隷・河東郡の独立勢力、張晟・張琰らが兵を挙げ、河東郡の官吏である衛固・范先がこれに呼応しました。
曹操は、張既を議郎に任命して鍾繇の軍事行動に参画させ、馬騰らに出兵を要請します。馬騰の将軍たちはみな兵を引き連れて張晟らを攻撃し、これを撃ち破りました。
建安2年(197年)以降、何度も曹操の要請に応じてきた馬騰ですが、建安7年(202年)に郭援が河東郡に侵攻した当初は、秘かに敵方の郭援と通じていました。
曹操にとって馬騰は、完全に信頼できる味方ではなく、隙を見せればいつ襲ってきても不思議ではない危険な存在でした。
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曹操の馬騰対策
張既の説得
建安13年(208年)、曹操は荊州を征討しようとしていましたが、馬騰らが関中(函谷関の西側の地域)に割拠していることが気がかりでした。
そこで曹操は、再び馬騰の元に張既を派遣して「部下を解散して帰郷せよ」と要求しますが、馬騰は1度はこれに同意したものの、後に態度を変えてなかなか実行に移そうとしませんでした。
馬騰が反乱を起こすことを恐れた張既は、諸県に布告して「食糧などの蓄え」をするように急き立てる一方で、馬騰に対しては二千石(太守)を派遣して郊外まで出迎えさせます。
二千石(太守)の出迎えを受けた馬騰は、仕方なく東に向かって出発しました。
馬騰を衛尉に任命する
曹操は上奏して馬騰を衛尉に任命しました。
また、馬騰の子・馬超を偏将軍に任命して馬騰の軍勢を統率させ、馬騰の家族全員を冀州・魏郡・鄴県に移住させました。
河北を平定し、袁紹の勢力を滅ぼした曹操は、次の攻略目標を荊州の劉表に定めますが、荊州征討に赴いている間に、その背後を馬騰らに攻撃されることを恐れました。
そこで曹操は、以前 見事に使者の任を果たした張既を再度馬騰への使者に立て、「部下を解散して帰郷する」ように要求します。その結果、馬騰は朝廷に出頭して衛尉を拝命し、馬騰の軍勢は馬騰の子・馬超が率いることになりました。
これにより曹操は、馬騰とその軍勢を引き離し、人質を取ることで、軍勢を率いることになった馬超の動きを封じることに成功しました。