赤壁の戦いで曹操を敗走させた建安13年(208年)冬、劉備が荊州の江南4郡(武陵郡・長沙郡・桂陽郡・零陵郡)を平定した経緯についてまとめています。
スポンサーリンク
目次
赤壁の戦いとその後
赤壁の戦い
建安13年(208年)冬10月*1、曹操の南征軍と周瑜が率いる水軍3万・劉備軍2千の連合軍が長江の赤壁で激突。周瑜麾下・黄蓋の献策による「偽投降の計」と「火計」により、曹操軍は大敗しました。
赤壁の戦い
脚注
*1『後漢書』献帝紀より。『魏書』武帝紀では12月。
関連記事
江陵の戦い
赤壁で大敗した曹操を追った周瑜・劉備連合軍は、数万の軍勢を率いて荊州・南郡まで軍を進め、甘寧を西の夷陵県に派遣して奪取すると、長江を渡って曹仁が守る荊州・南郡・江陵県を包囲しました。
江陵の戦い
関連記事
スポンサーリンク
劉備の江南平定
劉琦を荊州刺史に任命する
周瑜と共に長江を隔てて荊州・南郡・江陵県を守る曹仁と対峙した劉備は「張飛と千人の兵」と引き替えに周瑜から2千人の兵を借り受けます。
劉備は、劉表の長子・劉琦を荊州刺史に任命すると、兵を率いて荊州の江南4郡の征討に赴き、
- 武陵太守・金旋
- 長沙太守・韓玄
- 桂陽太守・趙範
- 零陵太守・劉度(劉度)
らをすべて降伏させました。
荊州の江南4郡
※桂陽太守が趙範であったのは劉備平定前。平定後の桂陽太守は趙雲。
荊州の江南4郡を平定した劉備は、引き返して周瑜と共に曹仁が守る江陵県を包囲します。
武陵太守・金旋
『蜀書』先主伝には、上記のように「劉備に降伏した」とありますが、『蜀書』先主伝が注に引く『三輔決録』の注には、次のような記述があります。
「金旋は字を元機と言い、司隷・京兆尹の人で、黄門郎と漢陽太守を歴任し、中央に召されて議郎に任命され、中郎将に昇進して武陵太守を兼ねたが、劉備に攻撃されて死亡した」
金旋の子・金禕は建安23年(218年)、漢の大医令・吉本、少府・耿紀、司直・韋晃らと許県で反乱を起こしていますが、この時の計画は「天子(献帝)を擁して魏を攻め、南方の劉備に援助を求める」というものでした。
金禕らが「劉備に援助を求める」ことを前提としていることから、劉備が武陵郡に侵攻した当時、金禕は郷里の京兆尹にいて後に献帝に仕え、父の金旋は『蜀書』先主伝本文の通り、劉備に降伏していたと考えるのが自然なように思えます。
長沙太守・韓玄
長沙太守・韓玄については、『蜀書』先主伝に「降伏した」とある他は、『蜀書』黄忠伝に、
「曹公(曹操)は荊州を撃ち破ると、(黄忠を)仮に裨将軍の官につけてそのまま元の任務を執り行わせ、長沙太守の韓玄の統制下に置いた。先主(劉備)が南方の諸郡を平定すると、黄忠は臣下の礼をとり、つき従って蜀に入国した」
とあるのみです。
おそらく黄忠は、韓玄の降伏と同時に劉備に臣下の礼をとったものと思われます。
桂陽太守・趙範
桂陽太守・趙範については、『蜀書』趙雲伝が注に引く『趙雲別伝』に、
「(趙雲は、劉備の)江南平定につき従い、偏将軍に任命され、桂陽太守を兼務することとなり、趙範と太守を交代した。
趙範の寡婦(未亡人)の兄嫁は樊氏と言い、非常な美人であった。趙範は彼女を趙雲に縁づけようとしたが、趙雲は辞退して『(趙範殿とは)同姓ですので、あなたの兄上なら私の兄と同じことになります』と言い、固辞して承知しなかった。
この時、趙雲に樊氏を娶るよう勧める者があったが、趙雲は『趙範は切羽詰まって降伏したに過ぎないから、彼の心の底は未だ測りかねる。天下に女は大勢いるのだから』と言い、彼女を娶らなかった。
結局、趙範は逃亡したが、趙雲は何の未練も持たなかった」
とあります。
零陵太守・劉度
零陵太守・劉度(劉度)については、『蜀書』先主伝に「降伏した」とある他は、正史『三国志』に記述はありません。
『三国志演義』に登場する劉度(劉度)の子・劉賢や、劉備軍を迎え撃った邢道栄は、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物です。
スポンサーリンク
劉備の江南統治
雷緒の帰順
劉備が江南4郡を平定すると、揚州・廬江郡の雷緒らが、配下の数万人を率いて帰順しました。
関連記事
諸葛亮を軍師中郎将に任命する
江南4郡を平定した劉備は、諸葛亮を軍師中郎将に任命し、
- 零陵郡
- 桂陽郡
- 長沙郡
の3郡を治めさせ、その賦税を調達して軍事費に充てました。
この時諸葛亮は、荊州・長沙郡・臨烝県に居住して任務に当たりました。
諸葛亮の統治範囲
豆知識
『資治通鑑』胡三省注に、軍師中郎将について、
「軍師は古の将軍号である。曹操が初めに軍師祭酒を置き[建安3年(198年)]、劉備は軍師中郎将を置いた。みな一時的に、軍事のために創設された官名なり。
軍師祭酒は軍の謀を決し、(軍師)中郎将は兵柄(兵権)を有す。後に諸葛亮は、軍師将軍に位を進めた」
とあります。
赤壁の戦い後の劉備の動き
劉備が荊州の江南4郡を平定した時期は明記されておらず、『資治通鑑』では、周瑜の荊州・南郡・江陵県攻撃、建安13年(208年)12月の孫権の揚州・九江郡・合肥国攻撃に続いて、建安13年(208年)内に劉備の荊州・江南4郡の平定が記されています。
ですが、江陵県が陥落したのは建安14年(209年)の末頃ですので、江陵県が陥落してから荊州・江南4郡の平定に向かったのでは、時系列が合いません。
周瑜の荊州・南郡・江陵県攻撃における劉備の記述を基に、赤壁の戦い後の劉備の動きを整理しておきます。
赤壁の戦い後の情勢
年代 | 事跡 |
---|---|
建安13年 (208年) |
■10月
■12月
|
建安14年 (209年) |
|
関連記事
建安13年(208年)冬10月、赤壁で曹操軍を破った周瑜・劉備連合軍は、逃走する曹操を追って荊州・南郡に入ると、そのまま長江を隔てて、曹操が江陵県に残した曹仁と対峙しました。
この時劉備は、「張飛と千人の兵」と引き替えに周瑜から2千人の兵を借り受け、荊州の江南4郡を平定します。
荊州の江南4郡を平定した劉備は、諸葛亮を軍師中郎将に任命して零陵郡・桂陽郡・長沙郡の3郡の統治を任せ、趙雲を桂陽太守に任命すると、引き返して周瑜の江陵県包囲に加わりました。
周瑜を相手に善戦していた曹仁が撤退したのは、荊州の江南4郡を平定し、雷緒らの数万人の兵を得た劉備が包囲に加わったことにより、守りきれなくなったのだと考えられます。